泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2010年11月

 陸軍徴用船「ぼるねお丸」キスカ島での最期・・

 陸軍徴用船「ぼるねお丸」(5,864総トン)は、昭和17年9月27日小樽港で、兵員276名、兵器、弾薬、糧秣など2,100トンを積んで、単独キスカ島へ向け出港した。
 
宗谷海峡からベーリング海に出て、敵潜水艦に対し厳重な警戒を持って航行を続けていたが、10月5日午前10時25分、北緯53度40分、東経176度15分の地点で、第1回の敵機の爆撃を受けた。
 この爆撃で第3、第4船倉に浸水を生じたが、極力排水に務め、翌日6日午前4時50分、キスカ港に入港、続いて同日午後1時55分七タ港に回航して、徹夜で兵器、弾薬、油類の揚陸を完了した。
 
 しかし翌日7日午前10時、第2回目の敵機の来襲を受け、船体の損傷はなはだしく、大発2隻に曳航させて、港湾近くに擱座させた。
 その後も連日の様に、敵機の来襲が続く中を揚陸作業を続けていたが、10月16日午前4時45分、敵機が投下した魚雷の爆発により、船内に爆発が発生、更に対空砲火によって撃墜されたB-26が4番ハッチ上に落下し、ガソリン放出で瞬時に火炎に包まれ、船体放棄のやむなきに至った。
 
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空爆により炎上する「ぼるねお丸」
昭和17年10月16日、アリューシャン列島キスカ島、七夕港にて空爆により炎上。

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大阪商船 ぼるねお丸
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 大阪商船 「関西丸」(8,614総トン)は、昭和1512月の神戸発の航海を最後にニューヨーク航路から撤退し昭和169月に陸軍に徴用される。
 1112日高雄を経由して、マレー半島に上陸する第25軍団第5師団を乗せ、浅香山丸(三井船舶)と共に駆潜艇初鷹の護衛で123日海南島三亜港を出港し、127日タイ湾フコク島南方に集結して第21連隊を乗せて12月8日シンゴラ揚陸。

 1212日高雄に帰航して航空資材と部隊を搭載し、駆逐艦吹雪の護衛で昭和17127日クヮンタン、南武、エンドウに揚陸し、29日宇品に帰航。
 4月にサイゴン、5月にスラバヤを経て520日門司に帰航し、6月にマニラ往復、7月にシンガポール、8月にバタビアを廻り門司に帰航。
 12月から門司~釜山間を13往復し、昭和18673隻の船団で宇品を出港しシンガポールへ。
 84日パラオ発のフ407船団4隻で宇品に11日帰着。
 23日宇品発のオ603船団に加わり佐伯を出港、91日パラオに到着し、ラバウルへ。

 ラバウルからオ602船団を構成し38号駆逐艇の護衛でパラオに向かうが、918日ニューギニアの北、アドミラルティ諸島北方の北緯01度03分、東経146度27分で米潜ScampSS-277)の雷撃を受け航行不能となり、放棄され同潜水艦により止どめが刺された。
 敵潜水艦は急浮上後、浮遊する救命艇に向かって機銃を浴びせながら逃走した。

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船尾を上げて沈み行く「関西丸」と、潜水艦に砲火を浴びせる砲兵
昭和18年9月18日、ニューギニア方面、アドミラルティ諸島北方約700マイルの地点で雷撃により沈没

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沈みゆく本船に別れを告げる「関西丸」乗組員
 
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   漂流中、敵潜水艦の銃撃を受ける「関西丸」乗組員。
関西丸を魚雷で葬った敵潜水艦は、その後、急浮上してきて、救命ボートで漂流中の人々に機関銃の乱射を浴びせていた。
潜水艦の米兵達は甲板にずらっと並んで、逃げ場のないボートの中で、慌てふためく日本船員を、ゲームを楽しむように見物していたという。
 
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