泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2010年10月

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これが中国海軍の侵略戦法の実体の全てです。
「先手必勝、あとは既成事実」という独善的な常套手段の中国。
無人島「尖閣諸島」に於いても、上陸されれば既成事実!・・・心しておきましょう。

赤瓜礁海戦(あかうりしょうかいせん)
越:Hải chiến Trường Sa 1988?、1988 Spratly Islands naval battle)は、中華人民共和国とベトナムの間で1988年3月14日に行われた、一方的そこのけ戦争です。

ベトナムが統治していた南沙諸島の、赤瓜礁浜辺に立って守備するベトナム兵に向かって、中華人民共和国は艦艇から、不意打ち機銃掃射攻撃をしかけ、ベトナム水兵70名以上が死亡した。
この海賊並み戦闘で、中国は赤瓜礁を武力で奪い、中国の統治下とした。

youtube参照・・中国海軍のベトナム兵惨殺・・(見るに耐えない、卑怯な機銃掃射)



21日の記事参照のこと・・・↓「南沙諸島」の実情を見て「尖閣諸島」に備えよ!
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/19559721.html#19632804 

 中国は飢えた虎の様に、無人島あさり出しております。
 ここ数十年、無人島ならたとえ岩礁でも砂丘でもと、南支那海全域をガツガツと徘徊してきました。

 中国大陸から1,500kmも離れたフィリピン沖、ボルネオ沖の南沙諸島にまで「我が領土」として、武力でくすねってきたのをいい事に、たった400kmの「尖閣諸島」に食指を伸ばして来ているのは誰が見ても明確です。

 1,500kmと言えば上海~東京間の距離にもかかわらず、南支那海周辺は温厚な弱小国ばかり、先ずは、そこへ目を付けたのです。

 「南沙諸島の布石は打てた・・・次は尖閣諸島に唾を付けるぞ」と虎視眈々なのです。
 
 日本政府及び外務省は「南沙諸島陣取り合戦」の実態を、把握しているのでしょうか? いやまったく、能天気な風貌なのです。

 我々、多少なりとも事情を知って居る者だけが、泥棒国家中国の動きにはらはらしているだけなのでしょうか?
 在ベトナム、マレーシア、インドネシア、フィリピンの各大使館から、正確な情報を徹底収受しているのでしょうか? 
 各大使館の収集能力が疑問なのです。外務省の目の届かない遠い外地で、遊び呆けて居るとしか見えませんね。

 外務省は中国に、何か弱みを握られていて何も出来ない能無しですね!
 外務省が一言も発信しないから、メディアもマスコミも南シナ海の状況を全く報道していません。
 いきなり尖閣列島へ飛火して只うろたえるばかりです。遠い南シナ海でのこと・・とタカを括っていたからでしょう。

 
  その実態を外務省が把握していたのなら
【尖閣事件での、日本政府のあのうろたえ振り】
は何だったのでしょう。

 素人目にも政府の無策ぶり、腰抜けぶりは「何しとる!」と見え見えだったですね。
 頼りない日本政府!・・と、世界に赤っ恥を、晒け出していたのです。  外務省には、その恥に気が付いていないのですね。 

 有無を言わせず、たたみ掛けるような中国の態度は、この65年変わらぬ共産中国の常套手段なのだと、政治家を何年もやっていれば判る筈なのです。
 尖閣諸島に関して中国は、恐らく【遭難もどき漁民の上陸】【漁業監視船の接岸】【海軍艦艇の接岸】【建造物の設置】【海底資源掘削基地設置】などと、エスカレートさせて来るのは必至でしょう。

それほどまでにして「領土に関して貪欲な国である」ことを理解すべきなのです。

●これが南沙諸島陣取り合戦図です・・・
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1970年代後半・・に海底油田の存在が確認され、広大な排他的経済水域内の海底資源や漁業権の獲得のため、各国が相次いで領有を宣言している。また広大な地域に広がる島々は軍事的にも価値がある。中華人民共和国を含めたASEANでの会議で軍事介入はせず現状維持の取り決めが結ばれたが最近中華人民共和国の人民解放軍が建物を勝手に建設しマレーシアなどから非難を浴びている。

1988年3月・・・・・南沙諸島における領有権をめぐり中華人民共和国とベトナム両海軍が衝突(赤瓜礁海戦)し、中華人民共和国が勝利して支配する。

赤瓜礁海戦(あかうりしょうかいせん)Hải chiến Trường Sa 1988?1988 Spratly Islands naval battle)は、中華人民共和国ベトナムの間で1988年3月14日に行われた、一方的そこのけ戦争
ベトナムが統治していた
南沙諸島の、赤瓜礁浜辺に立って守備するベトナム兵に向かって、中華人民共和国は艦艇から、不意打ち機銃掃射攻撃をしかけ、ベトナム水兵70名以上が死亡した
この海賊並み戦闘で、中国は赤瓜礁を武力で奪い、中国の統治下とした。
youtube参照・・中国海軍のベトナム兵惨殺・・↓(見るに耐えない、卑怯な機銃掃射)
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/19643443.html
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1995年・・・・・中華人民共和国軍の活動が活発化し、ミスチーフ礁等フィリピン主張の島を占領して建造物を構築した。この機会主義的行動が周辺諸国に中国の軍事的膨張に対する警戒心を呼び起こしたとされる。

2007年11月・・・・・中華人民共和国の中国人民解放軍西沙諸島の海域で軍事演習を行ったことや、同月中旬に中華人民共和国が中沙諸島だけでなく、南沙、西沙の両諸島にまで行政区「三沙市」を海南省の中に指定したことをきっかけとして、同年12月にベトナムで「中華人民共和国の覇権主義反対」などと唱える反中国デモが行われた。

2008年1月・・・・・に中華民国(台湾)が実効支配する南沙諸島最大の島である太平島に軍用空港を建設完成させる。滑走路は全長1150メートル、幅30メートル。その後、中華民国総統が視察に訪れ、フィリピン政府の抗議を受けた。

2010年3月・・・・・にアメリカからスタインバーグ米国務副長官とベイダー・ホワイトハウス国家安保会議アジア上級部長が中国を訪れた際に、中国政府は南シナ海を『自国の主権および領土保全と関連した「核心的利害」地域と見なしている』との立場を、公式に通知したことが報じられた。

以上リンク先・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B2%99%E8%AB%B8%E5%B3%B6

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2010年10月22日 読売新聞(朝刊)7面で
【スプラトリー(南沙)諸島問題】がやっとやっと、マスコミで取り上げられました。

南シナ海で中国が独善的に諸島を我が物にしている状況を、我が国メディアやマスコミが報道したのは、10月22日、本日が初日なのでした。

      ↓ 紹介します・・
      拡大すれば判読できます。

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 海軍徴用船「北陸丸」(8,360総トン)は、昭和17年5月28日、第11、第12設営隊を乗せサイパンから13隻の船団でミッドウエーに向かうが6月13日トラック島に帰着。
 ガダルカナル島飛行場設営隊を輸送し、その後はシンガポール航路に廻された。
 昭和19311日にビンタン、シンガポールでボーキサイト6,700t、重油6,000t便乗者256名を乗せ11隻編成のヒ48船団で門司へ向けシンガポールを出港。

 海防艦三宅、占守、壱岐、択捉に護衛され15~16日に仏印パンファン湾に停泊し、翌日出港後に米潜に探知され、闇夜の中13ノットでカムラン湾からホンコーへ航行中の18114分、南シナ海、北緯19度24分、東経116度50分の地点において、米潜水艦Lapon(SS-260)の雷撃を受け、見張員が左舷後方からの魚雷跡4本を発見、船長は直ちに「面舵一杯、主機全速」を命じ、第1弾はかろうじて交わすことができたが、第2、第3、第4弾は避けるひまなく命中。
 1番船倉に魚雷が命中し2番船倉に搭載されていた弾薬が誘爆、3番船倉にも魚雷が命中し重油に引火、さらに機関室にも命中し被雷から沈没まで1分半の轟沈でした。戦死者55名。

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敵機と闘う北陸丸

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船尾を猛炎で包まれる北陸丸

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救命ボートで漂流中、墜落した米軍機の乗員を救助する「北陸丸」乗組員

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北陸丸轟沈地点

【尖閣諸島問題で異常反応している欲張り中国。
尖閣以上にご執心な南支那海の・・
南沙諸島、
西沙諸島、
中沙諸島など、南支那海の全諸島を自国領土として表示している地図を、敢えて使用しました。】
日本政府及びマスコミは、これら島嶼の実効支配国の実態を、把握しているのでしょうか??
疑問です!!



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これが大阪商船「北陸丸」
http://hi.baidu.com/71540476/blog/item/09e6a61ec89c35fe1bd576d2.html より引用


 海軍徴用船「ぶら志る丸」(12,752総トン)は、テニアン、サイパン、グアム、サイパンと航行し物資、部隊輸送に従事する。
 昭和1751日付けで特設運送船となり、528日サイパンで海軍第二連合特別陸戦隊を乗せ、13隻の船団で出港しMI作戦に参加。
 613日グアムに帰投、74日横須賀着、18日横須賀発、大阪、釜山に寄港し徴用軍夫4千人と航空基地建設資材を乗せ731日トラック島入港。
 8414時トラック島を出港し、17ノットで之の字航行をしながら横須賀に向かうが、2050分魚雷命中するが不発。
 8月5日0時58分トラック島北方ルッケ島沖17マイル、北緯9度51分、東経150度46分の地点で、突如、左舷中央部に一大音響と共に大爆発を生じ、続いて同一部分付近で再度、大爆発が起こった。
 米潜水艦Greenling(SS-213)の魚雷2発が左舷中央に命中したのだった。
 船体は約3分間、平衡状態を保っていたが、魚雷命中と共に浸水はなはだしく、徐々に左舷に傾斜し、船尾から沈下を始めたとみるや、7分後には45度の棒立ちとなって、瞬時のうちに海中に引き込まれた。
 
 沈没の直前、大野船長は重要書類を1等運転手に預け、船橋上部に駆け上がり「天皇陛下万歳」を叫びながら、船と運命を共にしたという。
 なお1時間後、同潜水艦に漂流中の救命艇から便乗者1名が拉致され、乗船者計389名中、大野仁助船長以下乗組員57名と兵員等131計188名が殉職し、残り200余名が遭難後20日間漂流後に、哨戒艇第十拓南丸に発見され大半が救助された。

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雷撃により棒立ちとなって沈没する「ぶら志る丸」
 

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船と運命を共にした「ぶら志る丸」の大野船長
 

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「ぶら志る丸」
 
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 国際貿易に活躍していた貨物船、客船は、大東亜戦争勃発と並行して、兵員、兵器弾薬、軍事物資、食料等の運搬手段として、ことごとく軍事徴用されていったようですね。
 然しながら、日本軍押せ押せの時期に於いて、補給線が長大に成れば成るほど、その行程の防御が散漫となり、そこを敵に付け込まれる状況が進行してゆきました。

 徴用船の撃沈被害は、(昭和16年9隻)(17年204隻)(18年426隻)(19年1,009隻)(20年746隻)(合計2,394隻の計802万総トン)に昇っています。
 
 貧弱な資源、限られた生産能力の中で、凄まじいばかりの大消耗戦が繰り広げられていたのです。
 これらの全ての輸送船には当然の事ながら兵員、乗組員が乗り、兵器、弾薬、物資、食料が積載されていたのです。
 
 いくら銃後の国民が、最前線へ届けと誠心誠意を込めて製造し、収穫した弾薬物資も食料も、海の藻屑となってしまい、最前線へ届いたのは限られていたのです。
 
 挙句の果て、前線の兵士達は届かぬ援軍や弾薬、食料を待望しながら、飢死か玉砕に追い込まれて行ったのです。
 この「戦時徴用船の最期」を見てゆきますと、救援するどころか補給線攻撃は米軍のやり放題で、我が政府や軍が、如何に制空権、制海権をおろそかにしていたかが垣間見えてきます。

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 大阪商船の岡田社長が、嘱託画家・大久保一郎画伯に、生還乗組員の話を聞いて、忠実に描かせた最期の模様です。
たまたま、ぶえのすあいれす丸の最期の状況を調べてゆく内に、ぶえのすあいれす丸の片山武夫二等航海士のご子息から拝見させて戴きました。
この画集には最前線での壮絶な、輸送船の最期を忠実に描かれた絵図が掲載されていました。
味方の船舶が轟沈される場面など、許されざる戦時に於いて、よくも残されたものと思います。

 以下 (農文協発行「海に墓標を」伊東 信著から引用しました)
 昭和18年2月(1943)の帝国議会(国会)で、海上輸送の問題に詳しい小山 亮という議員が、政府に対して、次のような重大な提案を行っていた。
 小山は船員出身の代議士だった。
 「戦局は今や決戦段階を迎えている。 そこで、海上輸送の諸問題をもっと効率よくするために、船舶の運用は軍部と民間が別々に使うのをやめ、全船舶を海運の専門家たちに任せて、一括して運用する方式にしてはどうか」
 要するに船は船屋で、専門家に任せてはどうか、そうすれば輸送船をこんなに無駄使いせず、被害を少なくして効率よく運用できる筈だ、というのが小山議員の意見であった。
 東条首相はこの提案に対して、断固反対の演説をぶった。
「我々は、いくさに勝たねばならんのである。これが本体である。
 いくさに勝つためには、陸海軍に自由にその腕を振るわさなければならんのである。
 そのために徴用船を預かってゆく。
 軍が預かったからには、それは煮ても焼いてもどうしてもよろしい。
 上陸作戦にも使おう。そんなこといちいち(民間側に)口出しをさせるわけにはいかん。
 そんな方式は民間人が軍の統帥(軍隊を統率し命令すること)に干渉し、軍の行動のさまたげになるだけである」 と一喝した。
 船は戦争の道具にすぎない、煮ようと焼こうと軍の勝手だ、というのだから、粗末に扱われるのは捺して知るべしである。
 で、その結果はどうだったか? この年に轟沈された日本の船舶は400隻を越え、前年の2倍以上となった。 

●陸軍徴用船「九州丸」の最期
 陸軍徴用船「九州丸」(8,666総トン)は昭和17年10月12日、ラバウルで兵員、兵器、弾薬、糧秣などを積んで同港を出港、同14日ガダルカナル島タサファロングに入港投錨し、翌15日午前2時、部隊、兵器などの陸揚げを完了した。
 引続き貨物を揚陸中のところ、3時40分頃から敵機の猛烈な空襲を受け、荷役作業が不可能になったため、10時20分いったん抜錨して敵襲を避けた。
 そして11時7分残存貨物を、再度揚陸するため投錨しようとしたところ、海岸から半マイルの地点で敵機の空襲を受け、船橋及び船橋下部左舷に、3発の直撃弾を受け、船橋中央部上甲板と機関室は瞬時にして猛火黒煙に包まれた。
 爆撃はその後も執拗に続き、同船は航行不能となり、11時12分南緯9度21分、東経159度52分の地点に擱座、二昼夜燃え続けた。戦死者計14名
 
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ガダルカナル島にて空爆を受け炎上する「九州丸」
ニューギニア東方海上、ソロモン諸島

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ガダルカナル島

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