泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2010年09月

 絶海の真っ只中で、病院船「ぶえのすあいれす丸」撃沈直後の波のうねりに翻弄される傷病兵、看護婦、乗組員そしていかだや救命艇に浮遊物・・・
 
 ああ、この光景を父親・泰山も目の当りに見ていたのです。
 絶望に瀕していた中で、戦友や乗組員そして看護婦さんたちの協力を得ながら、互いに助け合ったのでしょう。

【参照】

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965782.html

 
 中には敵機からの機銃掃射や漂流に力尽きて、大勢の方が海の藻屑となって、沈んでしまわれたことでしょう。
 見る者にとっては、無意識に手が合わされ、先人の無念と辛苦を労い、祈ってしまう絵画ですね。

●2・・ぶえのすあいれす丸沈没後のドキュメント・・
 病院船「ぶえのすあいれす丸」は昭和18年11月27日朝、米B24の急襲を受け被弾、40分ほどで轟沈した。
 本船から流れ出た重油で黒い海原に、無数の人間が投げ出されもがきながら助けを求めていた。
 沈没するまでに時間があったので、18隻の救命ボートが下ろされ、乗組み船員は懸命に救助作業を続けた。
 だが潮の流れは思いのほか速く、海中の人はどんどん流されて行く。
 重油を飲んで声が出なくなった看護婦さんが、ボートを目の前にして、差し上げた手をヒラヒラさせながら海中へ消えていった。
 定員50名程度の救命ボートはどれも、定員の3倍くらい乗せていて、人の重さで今にも沈みそうだった。
 これ以上、海中の人を拾い上げても、乗せるすきもない。
 船員達はそれを見ると、必要なこぎ手だけ残して、黙ってボートから飛び降り、海中に居る人の為に席を譲ってやり、自分は近くを流れている漂流用いかだに向かって泳いでいった。
 いかだは畳4枚分くらいの小さなもので、かいも舵もなく、食料も水もない。
 安定が悪く、45人も乗るとすぐに傾くので、いかだの廻りに取り付けられたロープに掴まって、ともかく救助船の来るのを待つしかなかった。
 遭難現場に救助船が現れるのは、それから1週間あとである。
 その間に敵機のお見舞いは3回もあり、ボートといかだを銃撃していった。
 その度に死傷者が増えていった。

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 定員過剰の救命ボートから、傷病兵等に席を譲って、海中に飛び込もうとする「ぶえのすあいれす丸」乗組員
 
 漂流して4日目から海がシケ始めた。
 それまではなんとかまとまって行動していたボートも、いかだも、ちりぢりになり、大海の木の葉となって、おきまりの漂流地獄をさまよわなければならなかった。
 
 大久保画伯が、以上のような「ぶえのすあいれす丸」の遭難の模様を聞いたのは、年が変わって(1944)昭和192月になってからであった。
 会社へ遭難報告に来たのは船長と二等航海士で、大久保は二人から話を聞かせてもらった。
 
 がっちりした体格の片山二等航海士は、4人の仲間といかだで漂流した時の様子を、身振りを交えて語ってくれた。
 「仲間の一人は足を負傷していて、出血が止まらない。もう一人は体力が消耗していたので、二人をいかだの上に乗せ、僕らはいかだのロープに掴まっていたのです。食うものは無し、喉はかわいてヒリヒリするし、時々敵の飛行機がやってくる・・・。ところが、敵は頭の上だけじゃなかったのですよ。もっと恐ろしい奴が、いかだの廻りに集まってきて・・・」
 大久保はスケッチブックにメモしていた鉛筆を握りなおした。
 ぶえのすあいれす丸の受難と乗組員の苦闘を題材にして、大久保は4点描いた。
 その内の1枚は、漂流中にサメに襲われ、必死に闘う片山二等航海士と乗組員の姿を記録していた。
 画面には水平線も空もない。
 キャンバス一面、青みどりの海の色で塗りこめられ、画面の中央に波に洗われた、小さないかだが漂っている・・・大胆な構図である。
 いかだの上には5人の男がおり、その周りに巨大なサメの群れが、旅人を襲う荒野のおおかみのように跳ね回っている。
 銃撃を受けて負傷した仲間の、血の匂いで集まった人食いザメだ。
 ぐらぐらするいかだから海中へ滑り落ちた仲間を、別の男が懸命にひっぱり上げている。
 サメと対峙して疲れ果てたのか、四つんばいになってあえいでいる男がいる。
 後の二人が折れたかいの柄で、周りをうろつくサメと闘っている。
 半ズボン1枚の裸で、いかだの上で仁王のように立っているのが片山航海士で、振り上げたかいの柄に渾身の力をこめ、海のギャングに一撃を喰らわそうとしている。
 絶望的な状況に置かれても、生き延びるための努力を決して諦めない、海の男の典型的な姿が描かれている。   (この解説は【海に墓標を】から抜粋させてもらいました)
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   不安定な筏の上で、鮫と闘う漂流中の片山二等航海士
 

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  いかだで漂流する乗組員を、救助する救命ボート
 

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父が、善通寺陸軍病院で、生還した戦友らと19年正月に写した写真です。

直後・・(昭和19年1月30日)マラリア急変し戦病死。


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病院船転向頃の 
ぶえのすあいれす丸


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病院船
「ぶえのすあいれす丸」(上田穀八郎・画)


イメージ 4病院船
ぶえのすあいれす丸
(香港にて実写)
http://www.sugibun.net/heiwatokusyu.htmより引用




【ぶえのすあいれす丸の沈没後・・・】従軍看護婦 原田初枝婦長の手記・・つづき
 真っ白い船体、緑の横線、船上の赤十字のマークも鮮やかに、船尾よりブクブクと船が沈んでいった。・・・略・・・
 ボートには140人か150人くらい乗っていたと思うが、そのうち看護婦は11人いた。
・・・略・・・
 19時頃、爆音が聞こえた。
友軍機か?いや、まぎれもなく米軍機コンソリー(双発飛行艇)の音だ。
イメージ 10(←コンソリデーテッド機・・私の記憶では、気だるい飛行音)

いっせいに鳴りをひそめていると、近づくこともなく遠くに去った。

 海の中の兵が元気付けに軍歌を歌っていた。
夜は潜水艦が浮上するから「静かに、静かに」の声がする。
恐ろしく、悲しい、長い夜だった。
こうして救助船を待ち続ける日々が過ぎていった。

・・・略・・・
 午前8時ころか、また爆音が聞こえた。
敵機が空から私たちを“お見舞い”にきたのだと思った。
「こしゃくな飛行機めっ」と誰が言うともなく叫ぶ声が聞こえる。
毎日のように遭難の様子を見にやってくるのか、あるいは救助船爆撃の目的か。
多い日はニ、三回偵察に来た。

・・・略・・・
 また爆音がして雲間からコンソリー機(双発飛行艇)が遭難ボート頭上を低く飛び、ボート目がけて機銃掃射、曳光弾を落とす
悔しくて、思わず「血も涙もない米機のヤツ」と叫んでいた。

 艦長以下全員海に飛び込む。
それと同時に海中目がけて30発ほどの曳光弾、ボートにも五、六発命中してしまった。海には多くの兵が潜っていた。

 大きな機体は頭上30メートルほど上にある。機体に描かれた星のマークも鮮やかに見え、双眼鏡で覗いている米兵の姿や飛行帽、笑っている顔まではっきりと見えるではないか。
超低空飛行で頭上真上を過ぎるときの恐怖は耐え難いものだった。

 私は救命胴衣を頭に載せ、船縁にピッタリ身を寄せて、南無阿弥陀仏と唱えていた。
コンソリー機は二回“旅回り”して再び向ってきた。
今度こそ駄目だと目を閉じた。
今にも機体ごと落ちてくるのではないかと思われたほどだった。
恐怖で生きた心地もしない。

 私はボートの底で友としっかり手をつないでいた。
そのとき、まさに天佑か!にわかに一天かき曇り、コンソリー機はスコールに追われて逃げていった。
嬉し涙が頬をつたって流れた。
待ちに待ったスコールだった。
「早く受けぬと駄目だぞー」の声に、我もわれもとボートの上にあがり、雨を受けた。

 以上は従軍看護婦・原田初枝婦長の手記から引用しました↓
http://vaccine.sblo.jp/article/1196804.html?reload=2010-09-18T11:18:28

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昭和18年12月20日の新聞記事・・【悲運の犠牲174名、漂流の傷病者を銃撃、晴天白昼の蛮行】


●9月20日に[ プラム ]さんから「ぶえのすあいれす丸救助作業」に付いて、
下記コメントを戴きました。
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とても詳しい内容ですね。
 別の視点からですが【私の祖父の救助作業の模様】です。
 
 「特設駆潜艇第三利丸」の船長として12月1日朝、ニューイングランド島南方沖合に別の輸送船の救助に向かっていたが、カビエンからステファン水道を通って島の南に出掛った辺りで、右航前方近距離に一隻の白塗りのボートを発見。
 それが病院船の備え付けの救助艇である事は一目で解ったが、病院船遭難の電報はキャッチしておらず、この事件は知る由も無かった。
 
 艇員を収容して初めて解ったが、五日前にやられて生存者がボートで漂流中で、被爆の際無線機が故障して通信不能となったので、船長は頑強な者を集め、決死隊を作り近くの島に向かって3日と15時間、必死に力漕ぎを続けたという。
 
 12月2日、カビエン基地で救助した30名のボート艇員を降し、食料、燃料、水などを補給の上、更に遭難現場へ急行した。
 夜明けと共に、遥か水平線に帆を上げたボート2~3隻を発見できた。
 南方の夜明けは早い、海面も全く静か、案の定次々にボートが見え始めたので、私の駆潜艇を中央に、二隻の海上トラックを左右に、扇型で手近なところから収容を開始した。
 八時過ぎ、見張員から報告「左方向に敵機の爆音」。
 デッキには今迄の収容患者でほぼいっぱい。
 近くの雲下に姿を隠し、爆音が去ってから救助を再開した。
2010/9/20(月) 午前 0:40 [ プラム ]

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救助船見ゆ

●3月30日、河野修興さんより・・
【軍医として乗船中だった父親からの話】
として下記コメントを戴きました。


小生(昭和27年生まれ、内科医)の父、河野正実(平成14年8月没)は広島の部隊の陸軍軍医少尉として、ブエノスアイレス丸に搭乗していました。

 5日目までスコールがボートや筏のところに降雨しなかったために、飲み水が無かったそうです。
 筏は臍のあたりまで水につかった状態だったようです。
 マラリア患者が多く、高熱のため精神錯乱に陥り、ボートとボート、筏の間を泳ぎまわり、疲れ切って、いつの間にやら波間に消えていった傷病兵も多かったようです。
 撃沈後6日目に米機の機銃掃射を受けたそうですが、その時幸いにも恵みのスコールがスコールが降り、父の乗ったボートは助かったと言ってました。
 その翌日、日本軍艦艇に救助されたそうです。
広島の戦友会には、元兵隊のお世話で招待され、いつも出席していました。

父・河野正実は広島出身で、実家は古い神官で江戸末期から医師も兼ねていました。
父も小生も医師であり神官でもあります。
ブエノスアイレス丸沈没後、自宅静養後、南方へ出征、ハルマヘラ島で終戦を迎え、昭和21年夏に復員しました。
昭和22年から、無医地区でもあった愛媛県の興居島、田の筋、八幡浜の真網代の3ヶ所で診療し、昭和37年から松山市三津浜で開業しました。
小生は八幡浜生まれ、愛光学園出身の内科医です。

2011/3/30(水)午後2:55 [河野修興]

河野修興さんは現在、広島大学病院教授として、ご在籍のようです。↓
http://www.hiroshima-u.ac.jp/hosp/kokyukinaika/p_368d12.html




 私の父親・泰山がラバウル従軍中にマラリアに感染し、病院船「ぶえのすあいれす丸」で内地へ帰還の途中、空爆で撃沈され、漂流の末に・・・昭和19年正月には、善通寺陸軍病院に収容されていたのです。
(第33話参照)➔ 第33話の 善通寺陸軍病院の父
                第33話の 善通寺陸軍病院の父

 【南方海上】とされていた撃沈の場所も、下記記事により特定できました。
http://plaza.rakuten.co.jp/kaze2534/diary/?PageId=1&ctgy=0・・から引用した記事】↓ 

●『昭和18年11月27日、ニュー・アイルランド島カピエン西方チンオン島沖で、ラバウル野戦病院からの傷病兵1,129名を乗せた病院船「ブエノスアイレス丸」は米軍B24爆撃機に爆撃され沈没する。
患者、看護婦、乗組員は16隻の救命ボートと発動機艇2隻で漂流するが、12月1日、同じくB24に発見された。
この時、漂流中の乗員はB24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む158名が戦死している。』

 
 ところが、私の2/18の記事・・・

第33話の③・・ぶえのすあいれす丸の沈没・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9067673.html

・・・をご覧になって、当時乗務員だった片山武夫二等航海士のご子息から「ぶえのすあいれす丸、轟沈時の絵図が残っています」との連絡が有り、ご好意により見せて戴きました。

 拝見してゆくうちに、作者大久保画伯の力量もさることながら、辛苦の末に帰還、ご協力された多くの船舶関連者の事を想い、先人の崇高な精神に、止め処なく泣けてきて手を合わせていました。

ぶえのすあいれす丸の船長と、片山二等航海士が帰国後、大阪商船の嘱託画家・大久保一郎画伯を通じて忠実に描かせた「沈没時の周辺状況絵図」が残されていたのです。

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↑ 船尾付近に被爆した「ぶえのすあいれす丸」


 大阪商船(大阪商船三井船舶)の嘱託画家・大久保一郎は「戦時輸送船の最期」という貴重な記録画の連作を残して、その絵が昭和57年、大阪市中之島の大阪ビル(通称大ビル)地下倉庫で発見されたのだが、その6年前(1976)に84歳でこの世を去っていた。
 亡くなる前に、大久保は次のようなことを文章に残している。
 「陸軍や海軍の御用船(軍部に徴用された商船のこと)になった社船が、敵に撃沈されますと、その生き残りの船員たちから、同社船の遭難の状況を克明に聞きとり、それを忠実に絵に描いたわけです。 かれこれ80枚くらい描きました」
 これらの絵は画家の想像で描いたものではなく、生き残った乗組員の体験と報告に基づいた、忠実な記録でした。
発見されたのは37枚だったが、実際は80枚余りもの作品を描いていたのだ。
では、残りの40枚以上の絵はどこへ消えてしまったのだろう。
 
戦時中の従軍画家となって軍部に協力し、国民の戦意を奮い立たせる目的で、勇壮な戦争画を描いた画家は大勢居ましたが、大久保の絵は「悲惨な海上輸送戦における、敗北の記録画」である。
 岡田社長の指示とは云え、憲兵隊や警察の目が厳しかった戦時中に、日本軍の負けいくさの真相を書き残すということは国賊もので、余程の覚悟か、特別の目的がなければむつかしいことだった。
 味方の輸送船や戦艦が敵に撃沈されても、軍の作戦上の秘密として、一切発表されない時代、輸送船の海の悲劇(戦争海難計2,394隻)など、多くの国民には何も知らされていなかった。
 (この解説は【画集・戦時徴用船の最期】と【海に墓標を】から抜粋させてもらいました)

 
 ●1・・「ぶえのすあいれす丸」沈没時のドキュメント・・
  陸軍の徴用船「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)は戦時病院船として任務に就いていた。
 真っ白に塗った船体の横腹と、煙突に赤十字のマークがくっきりと書かれ、空からも判るように甲板にも、一辺の長さが36メートルもある赤十字マークが書かれていた。
 それは8千メートルの高空からでも識別できる大きさだった。
 病院船は赤十字国際条約によって、海上における中立国とみなされる。
 したがって交戦国は、その船の安全を保障し、攻撃してはならないことになっている。
 とはいっても、中には病院船を装いながら、元気な兵隊に白衣を着せて乗せたり、軍需物資をこっそり輸送させたりする指揮官もいたから、相手国としては監視を怠るわけにはゆかない。
 
 「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)は、昭和181126日ラバウル及びココポで運送患者1,129名、便乗者63名を乗せてパラオに向かった。
 国際条約に違反するものは何も積んでいなかった。
 だから乗船負傷兵も乗組員も、赤十字マークを信頼し、安心して祖国への航路を急いでいたのである。
 1127日、朝から快晴で風もなく、波もたたず、海は青いペンキを塗ったように輝き、船べりに砕ける波だけが白かった。
 朝食後の甲板では、白衣の傷病兵たちが看護婦に付き添われて、散歩したり、船べりにもたれて歌を歌ったりしていた。
 
 乗組員の見張りを各所に配置し、厳重警戒航行中のところ、午前810分頃、南緯240分、東経14920分の地点に於いて、米空軍の爆撃機B241機雲間から現れた。
 高度は約1,200メートル、眼下の白い船の甲板に書かれた赤十字のマークは、もちろん見えすぎるくらいよく見える高度だ。
 敵機は爆弾を投下し始めた、。
 投下された爆弾の一発が後部左舷側に吊り出した端艇を貫通し、第4、第5番艙隔壁付近の舷外付近で、轟音と共に炸裂し、船体に大破裂口を生じた。
 この為、海水はシャフトトンネルを通じて、舵機室及び機関室に侵入し、乗組員は極力排水に務めたが、浸水は急速に進み危険状態になったため、同817分船長は病院船医長に乗艇用意を通告した。
 患者達は殆んど救命艇に移乗し避難したが、その後も左舷への傾斜が激しくなり、850分同船はついに船尾より沈没していった。
 戦場には国際条約も人道主義もない。あるのはただ暴力と野蛮な殺し合いだけである。

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         ↑ 沈み行く・・・ぶえのすあいれす丸


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    ↑ 沈み行く・・・ぶえのすあいれす丸      橋本睦郎 画

 
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↑ぶえのすあいれす丸はラバウル出航2日目、チンウォン島沖の×印に於いて轟沈す
 
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ぶえのすあいれす丸沈没時実写々真?  船首を上げて沈みゆく船と救命ボート

 
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        ↑ 轟沈されてから20数日してからの新聞記事


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【ぶえのすあいれす丸撃沈事件  1943(昭和18)年11月27日 】


【ぶえのすあいれす丸の沈没】
http://vaccine.sblo.jp/article/1196804.html?reload=2010-09-18T11:18:28 より

乗船の看護婦、原田初枝さん(主婦・元大津赤十字病院婦長)の手記・・・
{爆撃を受けた病院船}

 昭和18年9月、私は三度目の招集令状を受取り、宇品港より『ぶえのすあいれす丸』に乗船して出発、10月2日ラバウルに上陸した。
 ニューブリテン島のラバウル赤根岬にある第94兵站病院に勤務していたが、やがて日増しに戦が激しくなり、毎日爆撃があって、最早女性の勤務するところではなくなり、ニューアイルランド島への転属命令が下された。再び懐かしい『ぶえのすあいれす丸』に乗船した。
・・・略・・・
 部屋では食後のひとときをそれぞれ思いのままに楽しんでいた。
私は一人でトランプ占いをしていたが、今日は少しもついていないと言いながらトランプをめくっていた。
その瞬間ピンピンピンと、船が何かに突き当たったような、また地震のような揺れを感じた。
「やられた!」と誰かがいった。
エンジンの音が止まり、隣の将校病室からどやどやと患者が出てきた。
襲撃された瞬間に全員の荷物が放り出され、足の踏み場もない有様となった。
爆音が遠く聞こえる中、思わず救命胴衣に手が届く。

・・・略・・・
 その時兵士に「看護婦さん、早く!何しているのだ」とせき立てられて慌てて左舷の中甲板に出た。
見ればすでにボートは全部降ろされ、海上はボートと人で一杯だ。
通路には、これまた多くの将校患者がいる。
我先にと船の手すりにつかまりながら昇ってくる。
幾本もの縄梯子がおろされた。
見るも恐ろしい。

 私は「さあ、早くしっかり縄をつかんで降りなさいね」と言いきかせつつ、患者の帯を後ろより持って一人ひとり降ろしていった。
覗き見ると、大きなギプスや飛行機材で作った副木をつけた人が、無事に海面に浮いていた。

・・・略・・・

 海水が膝まで覆ってきた。
40度くらいの傾斜があり、中川が足を取られて甲板上で沈み、彼女を引き上げ二人で左舷に行こうとしたが、またしても中川が今度は投身よけの網に靴を引っ掛け、なかなか抜けない。
ようやく靴が脱げ二人は船の外に泳ぎ出た。

 私は琵琶湖畔で育ったため泳ぎには自信があった。
二人で肩を組み、船に巻き込まれないように沖へと泳いだ。
「死ぬ時は二人で死のうね」と言いながら20メートルほど泳いだとき、目の前に幅5、6寸、長さ一間ぐらいの板がぽかぽか浮いているのを見つけた。
板に泳ぎついて、二人でその板につかまり泳ぎ続ける。
海面は一面浮遊物、人、ボート、ブイでいっぱいだった。
「船が・・・船が沈む!・・・」の大声に振り向くと、船は次第に船尾から水没しかけていた。

・・・略・・・
 海水と油で顔はぬるぬるするばかりか、油が目にしみて痛い。
ブイに引き寄せられたが、すでに4、5人がつかまっていた。

 真っ白い船体、緑の横線、船上の赤十字のマークも鮮やかに、船尾よりブクブクと船が沈んでいった。・・・   (つづく・・・)

【参照】つづく↓
第33話の③ (参考)病院船「ぶえのすあいれす丸」の沈没・・
第33話の④ 南方戦線からのはがき・・
第33話の⑤ ラバウルって、こんなトコだった・・!

第33話の⑥ 父の部隊が東寧(満州)からラバウルへ移動したルート・・

第33話の⑦ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・

第33話の⑧ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図・・・

第33話の⑨・・父泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・・

第33話の⑩・・父、泰山から祖母浦子への軍事郵便全記録・・・満州東寧から、ラバウルから・・

 手元に在る10年前に発行された「内子高校、創立80周年記念誌」を「今年は90周年か・・」と思いながら目を通していると、昭和10年「内子の忠魂碑」の写真が載せられていました。 

 内子高校の前身、実科女学校時代に卒業生が参詣に訪れた時の写真です。  こんなに古い写真を参考にしないと実像が判らない・・・嘆かわしいことです。

 小学校上級生の頃、その『忠魂碑』周辺の清掃をするため、学校から2度行った事があります。
 昭和
25
年の頃ですが、訳も判らず「ちゅうこんひんの清掃」と言っていたと思います。

 『忠魂碑』には正面に「忠魂碑」と記した青銅碑文がはめ込まれ、頂上に大砲の弾丸(38㎝砲弾か)が鎮座していました。
 正面下には鉄扉があり、中に名簿や写真が奉献できるように成っているようでした。
 普通一般の「忠魂碑」は御影石に碑文を彫り込んだだけのものですが、内子のそれは大きくて立派なものでした。

小学生時代の記憶を頼って描いた「内子の忠魂碑」と、形状は大差無かったようですが、その重厚感は想像を絶してましたね。

高さは15m程あるようですね。   碑銘は「忠魂」とあり、御影石彫りでしたね。

イメージ 4イメージ 5

 ●写真として残っていた忠魂碑   ●小学生の時の記憶で描いた忠魂碑
 
 ところが、古い写真を見たことで、気になることが二、三出て来ました。

それは、7/13付けの記事『 内子町 の忠魂碑は、今・・・?』を、ご覧になって・・ID「内子の小僧」さん(http://ameblo.jp/uchikof-kozou )が「確認してみましょう!」と確認作業を買って出て下さいました。

 そして、先日送って頂いた写真が下記の写真です。
龍王城址の丘の上、位置こそ確認できていませんが「慰霊塔、コレがありました」との報告です。

 一瞬・・・「ガンダムでも舞い降りたか?」「戦災の廃墟の再現か?」「被弾した戦車か?」と見えてしまいました。

 碑銘は「慰霊塔」日本遺族会会長 賀屋興宣 筆

 下正面に「護国」久松定武筆(元愛媛県知事)とあります。

イメージ 1イメージ 2


 併せて「慰霊塔」の右に「忠魂」の石碑が建てられていました・・・と下の写真が「内子の小僧」さんから提供されました。

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   この「忠魂」の横に【陸軍大将 鈴木荘六書】とあります。

 更に左には「日露戦役三十周年記念 昭和十年八月建之」とありますが・・・これは 本来の「白い忠魂碑」に在るべき銘文ではないのか?

 そう思って、古い忠魂碑の塔の写真を見ると、「忠魂」の文字と左右のバランスが一致しているのを感じます。 どう見ても、古い忠魂碑の銘板そのものです。

 古い塔から碑文を剥ぎ取って、申し訳程度に、ココへ4枚並べたのでしょうか?

 戦争犠牲者に対して、ご先祖様が、その兄弟や子供達が、供養と安穏を願って、手を合わせ祀った、あの白い「忠魂碑」の成れの果てが、コレですか?・・・それなら、天上に在ったアノ砲弾もココに残しとけヨ・・・と言いたい。

 先日、 内子町に居る同級生(大下忠善氏)に、電話で問い合わせてみました。

 「竜王城址にあった、忠魂碑の白い塔は、今どうなってるん?」

 「有るじゃろぅ・・・ウチも戦没遺族じゃけんな、そんな粗末なこと、するようじゃったら、承知せんけんなぁ・・・」とのことでした。

 これで、益々訳が判らなくなりました。

 近々、この目で現地確認することに致しましょう。

【其の後の顛末】
この記事をアップした翌日、「内子の小僧」さんから下記報告がありました。

再調査:忠魂碑は昭和47年12月に(完成)、内山慰霊塔建設推進協議会によって立て直されたそうで、遺族会のメンバーが発起人となって建て替えられたようですので、なれのはてという表現は少し違うように思われます・・・
毎年、慰霊塔で内山地区の遺族会で拝礼されているようですよ。
ちなみに、小僧が生まれる前のことなので60歳ぐらいの人に聞いたところ昔は少し小さな忠魂塔があったと言うことでした。
あと、グーグルマップで示されている場所でほぼ合っておりますが、あの白い部分は慰霊塔前の広場に建っている休憩所の屋根のようです。
白い部分の右側に木の茂った場所がありますが、そのあたりが今の慰霊塔の場所だと思います。

私から「内子の小僧」さんへ下記コメント

>内子の小僧さん・・
その節はお世話になりました・・感謝しております。
昭和47年に立て直されたのでしたか。
永遠に祀るためモルタル石張りか、石造建築が建立されてから、タッタ37年で建て直しとは、普通なら考えられませんので、恐らく「頂上の砲弾が負い目になって」抹殺されたのでしょう・・・と思います。
砲弾が残されてないのはその為でしょう。
その時代、左翼が幅を利かせた時代がありましたので理解できます。

「先人の魂」が込められた「現物」が大切な物なのですから、「成れの果て・・・」と表現しました。
粗末にし過ぎです。

本来なら「忠魂」の碑文を新しい塔に埋め込むべきものなのです。

誰もが、戦争責任の負い目を感じていたのでしょうね。

● 10月16日に現地で確認して参りました・・・その報告↓  

 75話の④ 内子町(愛媛県)に在った壮大な「忠魂碑」の顛末・・・  http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965792.html

内子の「忠魂碑」【霊安室内部】you tubeで見る↓「まっしゃんのブログ」から

戦場に散った英霊に捧ぐ(2)↓


戦場に散った英霊に捧ぐ(1)↓





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