泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2010年07月

 前回に書いた、内子町の「忠魂碑」の立派さは、五十崎町との共同建立したにしても、凄く立派すぎるものを感じます。
 何故あのような立派なものが、山間の小さな町に建てられたのでしょう?
・・・問い合わせも、調査もしていません。


 ただ、私が思い起こしますと、小学2年生の時、内子国民学校へ疎開転校して来て以来、入学式、卒業式の時には、必ず校長先生挨拶の次に、モーニング姿、又ある時は羽織袴姿の矍鑠(かくしゃく)として、鼻ヒゲが八の字の老人が、来賓として祝辞を披露されるのが常でした。

「あの鼻ヒゲの爺さん、誰ぞ~・・?」
「八幡さまの近所の爺さんじゃ・・」など、ボソボソ云っていると
『シィ~・・・
重岡中将閣下さんじゃ・・・』と周辺の上級生が、小声で伝達してくるのだ。
 こうして誰もが「重岡中将閣下」の名前を、自然に覚えていったようです。

 頭は白髪まじりの薄毛で、八の字の長い鼻ひげ、頬のこけた小柄な老人ではあるが、声の通りは校長以上で、しかも威厳に満ちていました。
 軍人あがりのためか、あの東条英機のような演説口調で、当時マイク無しの小学校講堂に響き渡るのでした。
 時は既に終戦後、私が小学校在学中、ずっと「重岡中将閣下」の祝辞は、内子小学校で恒例の常識となっておりました。

 「重岡中将閣下」は、内子町本町4丁目出身の「重岡信治郎氏」だったのです。
 同級生で内気でシャイな女の子、重岡照子ちゃんのお爺ちゃんだったのです。

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← 重岡照子さん (内子高校アルバムより)



終戦直後のことですから、重岡信治郎中将がどのような方であるのか、先生からの説明は全く無かったのです。

 
【重岡中将閣下】=大将の次の位じゃないか! 只者じゃないぞ。 
検索してみるか?・・・
ア・リ・マ・シ・タ・!



 愛媛の山奥の、小さな町の周辺の者が、恐れおののいていた筈です。
 【秋山真之】が艦長を務めた巡洋艦「出雲」の艦長を、重岡中将が大正12年に拝命し、更に後に海軍潜水学校の校長に赴任するなど、潜水艦に関連しての帝国海軍の権威でもあったのです。

●内子の3もぐり・・・↓参照
http://www.freeml.com/bl/8794992/6914/
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大海深く海もぐり・・・「重岡信次郎(1877~1971)」海軍中将、明治38年(1905)、日本に初めて潜水艇が採用されて以来24年間、潜水艇の建造から乗員の教育に至るまであらゆる潜水艦関係の要職を歴任重岡菫五郎の甥にあたる昭和46年(1971)に内子で亡くなった。93歳
※ネット上では明治12年(1879)生まれとなっていました。

伯父、重岡菫五郎(1862~1906)は明治時代の政治家衆議院議員に7回当選、明治39年(1906)6月に死去


巡洋艦「出雲」・・参考→
http://hush.gooside.com/name/i/Idzumo/Idzumo.html
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【重岡 信治郎】以下は参考の為引用→http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back02.htm
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↑ 重岡信治郎 中将閣下


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重岡 信治郎 しげおか のぶじろう



愛媛
海兵30期
海軍中将Shigeoka, Nobujiro

重岡海軍兵学校30期生の出身。  百武源吾らと同期である。
海兵を卒業したのは日露開戦の1年ほど前であり、戦争が勃発したときには最年少の少尉として第三艦隊旗艦
厳島に乗組んでいた。
戦争の最初の年には旅順封鎖作戦に従事していたようだが、年が変わるころに艦隊をおりて呉工廠に勤務している。
すでにこの時には後に潜水艦勤務が予定されていたようであり、一時
韓崎丸に乗組んだのち、明治38年8月に日本で初めて編成された第1潜水艇隊附として配属されている。
重岡が乗組んだのはアメリカから輸入されたホランド型潜水艇だった。
しかし当時はすでに日露戦争も講和が間近く、新兵器潜水艇の出番はなかった。

古参中尉のころには重岡は艇長として潜水艇を任されることになる。
水雷団勤務を間に挟んでいるが、少なくとも大尉時代にはほとんど潜水艇に乗っていた。
大尉の末年には水雷学校の特修科学生となっている。
普通科学生も高等科学生も経ずに特修科学生となっているのは珍しいが、当時はまだ潜水学校が開校しておらず、水雷学校特修科学生課程で潜水艇乗員の教育を行なっていたのだろう。
少佐に昇進してちょうど第一次大戦が始まろうとするころ、当時の潜水艦先進国であるフランスに出張している。ほぼ2年間滞在してヨーロッパの進んだ潜水艦技術を学んだことだろう。
帰国した
重岡はまた潜水艇長をつとめ、やがて第四水雷戦隊の参謀となった。
当時の4水戦は、名称は水雷戦隊だが潜水艇で編成されており実質上最初の潜水戦隊というべき存在だった。

開校して間もない潜水学校の教頭をつとめてから巡洋艦出雲の艦長を勤めて潜水学校長に就任。
少将昇進後潜水戦隊司令官、艦本潜水艦部長を経て再度潜水学校長を勤めている。
中将昇進と同時に軍令部出仕、まもなく待命予備役編入となっている。
重岡は日本の潜水艦の始まりと共に軍歴を始め、その軍歴のほとんどを潜水艦に関わってきた正真正銘の潜水艦屋であった。
昭和46年、93歳の高齢、郷里内子町で歿。
(褒章・・四位勲二等功五級)


【重岡信治郎】の写真を探しましたら、やっと見つけました。↓より参考。

http://www.flickr.com/photos/8936205@N02/3790700843/


「帝国練習艦隊バンクーバー寄港記念」(大正14年2月6日)とあります。
(人物、左から・・)
・浅間艦長海軍大佐七田今朝一 ・出雲艦長海軍大佐重岡信治郎 ・海軍中将百武三郎(百武源吾の兄) ・八雲艦長海軍大佐鹿江三郎

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保存

 愛媛県喜多郡、内子町と五十崎町の中間に、竜王城址の小高い丘があります。
 その丘の上に西向きで『戦没者慰霊碑』が、両町で建立されていました。
 高さ約10mそこそこの、石組みの白い塔は、内子町内からも良く見えておりました。

 ただ、直下に肱川が流れ周辺は崖になっていて、その「忠魂碑」へ行くには、鳥越の斎場付近を通り、西の方から1km強の遠回り細道のため、お参りされる方は殆んど居なかったようです。
 小学校上級生の頃、その『忠魂碑』周辺の清掃をするため、学校から
2度行った事があります。
 昭和
25
年の頃ですが、訳も判らず「ちゅうこんひんの清掃」と言っていたと思います。

 『忠魂碑』には正面に「忠魂碑」と記した青銅碑文がはめ込まれ、頂上に大砲の弾丸が鎮座していました。
 正面下には鉄扉があり、中に名簿や写真が奉献できるように成っているようでした。
 普通一般の「忠魂碑」は御影石に碑文を彫り込んだだけのものですが、内子のそれは大きくて立派なものでした。

 誰憚ることなく「古い町並みを守り続けている 内子町 」のことですから、この昭和初期に建立されたであろう『忠魂碑』は、今でも大切に守られ、戦没者の慰霊と、犠牲者への感謝は続けられているものと思っています。

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   【小学生の時の記憶で描いておりますので、少々の不正確ご容赦】
 
 
 最近、この「忠魂碑」に関して殆んど情報もなく、話題にもなった事もないような気がしています。
 写真も記事も見たことがありません。
  町民が我が父、我が夫、我が子を、写真を添えて奉った、この「忠魂碑」のことは、  老いも若きも、綺麗さっぱり忘れ去ってしまっているのか?・・・とは、考えたくもありません。

 昭和40年頃、ここ竜王城址に町の温泉施設が出来たころ、一度参りましたが、この『忠魂碑』のことは全く気にもしていませんでしたので、確認出来ていません。

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     ○の部分ですが、「碑」があるとの印はありますね・・・


【追記】
下の写真、グーグルの衛星地図ですが、形状からしても確かに「忠魂碑」は残っているようですね。
誰からも興味を示されず、ひっそりと立っている姿を見ると嘆かわしくなります。
周辺には、中世の城郭跡らしく、人工構築されたのであろう土塁の構造物が見え隠れしていますね。

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