前回に書いた、内子町の「忠魂碑」の立派さは、五十崎町との共同建立したにしても、凄く立派すぎるものを感じます。
何故あのような立派なものが、山間の小さな町に建てられたのでしょう?
・・・問い合わせも、調査もしていません。
ただ、私が思い起こしますと、小学2年生の時、内子国民学校へ疎開転校して来て以来、入学式、卒業式の時には、必ず校長先生挨拶の次に、モーニング姿、又ある時は羽織袴姿の矍鑠(かくしゃく)として、鼻ヒゲが八の字の老人が、来賓として祝辞を披露されるのが常でした。
「あの鼻ヒゲの爺さん、誰ぞ~・・?」「八幡さまの近所の爺さんじゃ・・」など、ボソボソ云っていると
『シィ~・・・重岡中将閣下さんじゃ・・・』と周辺の上級生が、小声で伝達してくるのだ。
こうして誰もが「重岡中将閣下」の名前を、自然に覚えていったようです。
頭は白髪まじりの薄毛で、八の字の長い鼻ひげ、頬のこけた小柄な老人ではあるが、声の通りは校長以上で、しかも威厳に満ちていました。
軍人あがりのためか、あの東条英機のような演説口調で、当時マイク無しの小学校講堂に響き渡るのでした。
時は既に終戦後、私が小学校在学中、ずっと「重岡中将閣下」の祝辞は、内子小学校で恒例の常識となっておりました。
「重岡中将閣下」は、内子町本町4丁目出身の「重岡信治郎氏」だったのです。
同級生で内気でシャイな女の子、重岡照子ちゃんのお爺ちゃんだったのです。

← 重岡照子さん (内子高校アルバムより)
終戦直後のことですから、重岡信治郎中将がどのような方であるのか、先生からの説明は全く無かったのです。
【重岡中将閣下】=大将の次の位じゃないか! 只者じゃないぞ。
検索してみるか?・・・ア・リ・マ・シ・タ・!
愛媛の山奥の、小さな町の周辺の者が、恐れおののいていた筈です。
【秋山真之】が艦長を務めた巡洋艦「出雲」の艦長を、重岡中将が大正12年に拝命し、更に後に海軍潜水学校の校長に赴任するなど、潜水艦に関連しての帝国海軍の権威でもあったのです。
●内子の3もぐり・・・↓参照
http://www.freeml.com/bl/8794992/6914/
大海深く海もぐり・・・「重岡信次郎(1877~1971)」海軍中将、明治38年(1905)、日本に初めて潜水艇が採用されて以来24年間、潜水艇の建造から乗員の教育に至るまであらゆる潜水艦関係の要職を歴任重岡菫五郎の甥にあたる昭和46年(1971)に内子で亡くなった。93歳
※ネット上では明治12年(1879)生まれとなっていました。
伯父、重岡菫五郎(1862~1906)は明治時代の政治家衆議院議員に7回当選、明治39年(1906)6月に死去
巡洋艦「出雲」・・参考→http://hush.gooside.com/name/i/Idzumo/Idzumo.html
【重岡 信治郎】以下は参考の為引用→http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back02.htm


↑ 重岡信治郎 中将閣下

何故あのような立派なものが、山間の小さな町に建てられたのでしょう?
・・・問い合わせも、調査もしていません。
ただ、私が思い起こしますと、小学2年生の時、内子国民学校へ疎開転校して来て以来、入学式、卒業式の時には、必ず校長先生挨拶の次に、モーニング姿、又ある時は羽織袴姿の矍鑠(かくしゃく)として、鼻ヒゲが八の字の老人が、来賓として祝辞を披露されるのが常でした。
「あの鼻ヒゲの爺さん、誰ぞ~・・?」「八幡さまの近所の爺さんじゃ・・」など、ボソボソ云っていると
『シィ~・・・重岡中将閣下さんじゃ・・・』と周辺の上級生が、小声で伝達してくるのだ。
こうして誰もが「重岡中将閣下」の名前を、自然に覚えていったようです。
頭は白髪まじりの薄毛で、八の字の長い鼻ひげ、頬のこけた小柄な老人ではあるが、声の通りは校長以上で、しかも威厳に満ちていました。
軍人あがりのためか、あの東条英機のような演説口調で、当時マイク無しの小学校講堂に響き渡るのでした。
時は既に終戦後、私が小学校在学中、ずっと「重岡中将閣下」の祝辞は、内子小学校で恒例の常識となっておりました。
「重岡中将閣下」は、内子町本町4丁目出身の「重岡信治郎氏」だったのです。
同級生で内気でシャイな女の子、重岡照子ちゃんのお爺ちゃんだったのです。

← 重岡照子さん (内子高校アルバムより)
終戦直後のことですから、重岡信治郎中将がどのような方であるのか、先生からの説明は全く無かったのです。
【重岡中将閣下】=大将の次の位じゃないか! 只者じゃないぞ。
検索してみるか?・・・ア・リ・マ・シ・タ・!
愛媛の山奥の、小さな町の周辺の者が、恐れおののいていた筈です。
【秋山真之】が艦長を務めた巡洋艦「出雲」の艦長を、重岡中将が大正12年に拝命し、更に後に海軍潜水学校の校長に赴任するなど、潜水艦に関連しての帝国海軍の権威でもあったのです。
●内子の3もぐり・・・↓参照
http://www.freeml.com/bl/8794992/6914/

大海深く海もぐり・・・「重岡信次郎(1877~1971)」海軍中将、明治38年(1905)、日本に初めて潜水艇が採用されて以来24年間、潜水艇の建造から乗員の教育に至るまであらゆる潜水艦関係の要職を歴任重岡菫五郎の甥にあたる昭和46年(1971)に内子で亡くなった。93歳
※ネット上では明治12年(1879)生まれとなっていました。
伯父、重岡菫五郎(1862~1906)は明治時代の政治家衆議院議員に7回当選、明治39年(1906)6月に死去
巡洋艦「出雲」・・参考→http://hush.gooside.com/name/i/Idzumo/Idzumo.html

【重岡 信治郎】以下は参考の為引用→http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back02.htm


↑ 重岡信治郎 中将閣下

重岡 信治郎 | しげおか のぶじろう |
| 海兵30期
海兵を卒業したのは日露開戦の1年ほど前であり、戦争が勃発したときには最年少の少尉として第三艦隊旗艦厳島に乗組んでいた。 戦争の最初の年には旅順封鎖作戦に従事していたようだが、年が変わるころに艦隊をおりて呉工廠に勤務している。 すでにこの時には後に潜水艦勤務が予定されていたようであり、一時韓崎丸に乗組んだのち、明治38年8月に日本で初めて編成された第1潜水艇隊附として配属されている。 重岡が乗組んだのはアメリカから輸入されたホランド型潜水艇だった。 しかし当時はすでに日露戦争も講和が間近く、新兵器潜水艇の出番はなかった。 古参中尉のころには重岡は艇長として潜水艇を任されることになる。 水雷団勤務を間に挟んでいるが、少なくとも大尉時代にはほとんど潜水艇に乗っていた。 大尉の末年には水雷学校の特修科学生となっている。 普通科学生も高等科学生も経ずに特修科学生となっているのは珍しいが、当時はまだ潜水学校が開校しておらず、水雷学校特修科学生課程で潜水艇乗員の教育を行なっていたのだろう。 少佐に昇進してちょうど第一次大戦が始まろうとするころ、当時の潜水艦先進国であるフランスに出張している。ほぼ2年間滞在してヨーロッパの進んだ潜水艦技術を学んだことだろう。 帰国した重岡はまた潜水艇長をつとめ、やがて第四水雷戦隊の参謀となった。 当時の4水戦は、名称は水雷戦隊だが潜水艇で編成されており実質上最初の潜水戦隊というべき存在だった。 開校して間もない潜水学校の教頭をつとめてから巡洋艦出雲の艦長を勤めて潜水学校長に就任。 少将昇進後潜水戦隊司令官、艦本潜水艦部長を経て再度潜水学校長を勤めている。 中将昇進と同時に軍令部出仕、まもなく待命予備役編入となっている。 重岡は日本の潜水艦の始まりと共に軍歴を始め、その軍歴のほとんどを潜水艦に関わってきた正真正銘の潜水艦屋であった。 昭和46年、93歳の高齢、郷里内子町で歿。 (褒章・・四位勲二等功五級) 【重岡信治郎】の写真を探しましたら、やっと見つけました。↓より参考。 http://www.flickr.com/photos/8936205@N02/3790700843/「帝国練習艦隊バンクーバー寄港記念」(大正14年2月6日)とあります。 (人物、左から・・) ・浅間艦長海軍大佐七田今朝一 ・出雲艦長海軍大佐重岡信治郎 ・海軍中将百武三郎(百武源吾の兄) ・八雲艦長海軍大佐鹿江三郎 ![]() |