父・泰山は昭和5年3月、松山の北豫中学校(現・松山北高校)を卒業して、愛媛県警察練習所で研修の後(研修終了、昭和8年)に、警察官として内子警察署に赴任したのです。
北豫中学校卒業とは、祖母浦子も教えてくれていませんでしたが、記憶を辿ってみますと、私が中学生の頃、内子町の母の実家に残っていた「北豫中学校発行の機関誌」(厚さ5mm)に、柔道部の対外試合結果が掲載されており、北豫中学校代表の一人に父の名が載っていたのです。
同校の柔道部員だったのです。
松山中学校との対外試合で、○と×で一本勝負の結果が掲載されていましたが、北豫中学校は2対3で敗退していました。
当時の印象では、「松山中学校」は漱石の小説「坊ちゃん」で有名でしたから、知っていましたが「北豫中学校・・なんか聞いたこと無い学校じゃなァ・・・」という感じでした。
後に調べましたら、鉄砲町に在る「愛媛県立松山北高校」の前身で、戦時中の昭和18年頃に城北練兵場で軍事教練を実施しているところを見た、あの中学校だったのです。
当時の印象では、「松山中学校」は漱石の小説「坊ちゃん」で有名でしたから、知っていましたが「北豫中学校・・なんか聞いたこと無い学校じゃなァ・・・」という感じでした。
後に調べましたら、鉄砲町に在る「愛媛県立松山北高校」の前身で、戦時中の昭和18年頃に城北練兵場で軍事教練を実施しているところを見た、あの中学校だったのです。
今ではあの、誰もが知っている・・【秋山好古大将】が、退役後に校長に就任した北豫中学校で、秋山校長の在任期間中(大正13/4就任~昭和5/4離任)に泰山は在学していたのでした。

松山、北豫中学校校長 秋山好古から直接手渡された父泰山の卒業証書
(卒業者名も秋山校長の筆跡と判断できる)
入学時から卒業するまで、秋山好古校長の訓話を聞いていた事になります。

↑ 秋山好古 大将閣下
下記より参考として使用しました。

北豫中学校々章
泰山は北豫中学出身という確証を得ていた私は、昭和50年頃、松山市鉄砲町の松山北高校へ足を運び、昭和初期の卒業名簿を閲覧させてもらいました。
「なにしろ昭和20年7月26日の空襲で資料は焼失してしまっているので・・・同窓生名簿は、後にまとめたのが在ります」とのことでしたが、そこで得た写しがコレでした。

松山北豫中学校卒業を控えて、同僚と写した写真
H.YAMAMOTO写真館 matsuyama とある。(昭和5年1月)
バンカラのモサ揃いの風貌です・・・恐らく、日本手拭いをハンカチ代わりに腰にぶら下げ、
白い鼻緒の高下駄を履いていたものと思われます。
(私らの昭和30年、内子高校時代でもそうでしたから・・・)
(陸軍への出征の時に 同窓生からお餞別 が届けられ、その名簿が残っております)
岡本長一(松山市志津川町) 山本末見(松山市河原町)
香川一雄(松山市昭和町68) 三好退二(松山市道後湯之町)
石川 廉(松山市南味酒町) 森本利徳(温泉郡小野村字平井)
隅田寿男(温泉郡南吉井村字北野田) 池内 修(松山市道後湯之町南町)
樋口恒徳(松山市府中町) 石丸英隆(松山市桑原町)
高橋泰夫(温泉郡浅海村)
昭和5年3月 第27回卒業記念帖 北豫中学校
雪の松山・北豫中学校正門付近 (昭和5年1930)
北豫中学校 秋山好古校長 (昭和5年)
北豫中学校教職員(昭和5年)と名簿▼
北豫中学校・昭和5年卒業生131名の内、第17クラスとその名簿▼
この「第27回卒業記念帖」は岡本和夫様のご協力を得ました。
松山・北豫中学校全景 松山・北豫中学校 正門 (鉄砲町)
内子警察署・・赴任早々の頃の父(後列右から2人目)
(この手の写真は多いので、署長の交代か行事の度に写したのか)
今の警察官が腰に警棒を提げるように、当時はサーベル(洋剣)を提げていましたからね。
この写真のような警官は、今では想像も出来ないくらいですね。
泰山は、この内子警察署を拠点に、大瀬駐在所、天神駐在所等を順次移動して勤務し、昭和16年に越智郡岩城島駐在所に於いて出征し、満州牡丹江周辺、岩6418部隊に配属されたのです。
祖父ちゃんが云っていましたが卯之町(宇和町)や鹿野川(大洲市)の駐在もしていたこともあるということでした。

現在の旧・内子警察署
四国の近代建築より↓
http://www2u.biglobe.ne.jp/~komichi/Home_page/shikoku/uchiko.htm
昭和8年、愛媛県警察練習所 修練誌 (同期生は35名)
警察練習所と並行して、松山歩兵第22連隊で教練を受けたようです。
・ 松山、歩兵第22連隊の教練終了時・・・
愛媛県警察官として初赴任した。
【参照】↓




【参照】↓