泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2010年06月

 父・泰山は昭和5年3月、松山の北豫中学校(現・松山北高校)を卒業して、愛媛県警察練習所で研修の後(研修終了、昭和8年)に、警察官として内子警察署に赴任したのです。
 北豫中学校卒業とは、祖母浦子も教えてくれていませんでしたが、記憶を辿ってみますと、私が中学生の頃、内子町の母の実家に残っていた「北豫中学校発行の機関誌」(厚さ5mm)に、柔道部の対外試合結果が掲載されており、北豫中学校代表の一人に父の名が載っていたのです。
 同校の柔道部員だったのです。

 松山中学校との対外試合で、○と×で一本勝負の結果が掲載されていましたが、北豫中学校は2対3で敗退していました。
当時の印象では、「松山中学校」は漱石の小説「坊ちゃん」で有名でしたから、知っていましたが「北豫中学校・・なんか聞いたこと無い学校じゃなァ・・・」という感じでした。
後に調べましたら、鉄砲町に在る「愛媛県立松山北高校」の前身で、戦時中の昭和18年頃に城北練兵場で軍事教練を実施しているところを見た、あの中学校だったのです。

 
 今ではあの、誰もが知っている・・【秋山好古大将】が、退役後に校長に就任した北豫中学校で、秋山校長の在任期間中(大正13/4就任~昭和5/4離任に泰山は在学していたのでした

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 松山、北豫中学校校長 秋山好古から直接手渡された父泰山の卒業証書
(卒業者名も秋山校長の筆跡と判断できる)

 入学時から卒業するまで、秋山好古校長の訓話を聞いていた事になります。
 『秋山好古・校長就任』→ http://www.sakanouenokumo.com/yosihuru_denki7_3.htm

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 ↑ 秋山好古 大将閣下
 
下記より参考として使用しました。

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 北豫中学校々章
 
 
  泰山は北豫中学出身という確証を得ていた私は、昭和50年頃、松山市鉄砲町の松山北高校へ足を運び、昭和初期の卒業名簿を閲覧させてもらいました。
 「なにしろ昭和20年7月26日の空襲で資料は焼失してしまっているので・・・同窓生名簿は、後にまとめたのが在ります」とのことでしたが、そこで得た写しがコレでした。
 

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      北豫中学校卒業名簿抜粋 昭和5年3月卒業(第27回)

 
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  松山北豫中学校卒業を控えて、同僚と写した写真
H.YAMAMOTO写真館 matsuyama とある。(昭和5年1月)
バンカラのモサ揃いの風貌です・・・恐らく、日本手拭いをハンカチ代わりに腰にぶら下げ、
白い鼻緒の高下駄を履いていたものと思われます。 
(私らの昭和30年、内子高校時代でもそうでしたから・・・)

(陸軍への出征の時に 同窓生からお餞別 が届けられ、その名簿が残っております)
岡本長一(松山市志津川町)      山本末見(松山市河原町)
香川一雄(松山市昭和町68)       三好退二(松山市道後湯之町)
石川 廉(松山市南味酒町)      森本利徳(温泉郡小野村字平井)
隅田寿男(温泉郡南吉井村字北野田)  池内 修(松山市道後湯之町南町)
樋口恒徳(松山市府中町)       石丸英隆(松山市桑原町)
高橋泰夫(温泉郡浅海村)


昭和5年3月 第27回卒業記念帖 北豫中学校 
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雪の松山・北豫中学校正門付近 (昭和5年1930)

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北豫中学校 秋山好古校長 (昭和5年)

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北豫中学校教職員(昭和5年)と名簿▼

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北豫中学校・昭和5年卒業生131名の内、第17クラスとその名簿▼

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この「第27回卒業記念帖」は岡本和夫様のご協力を得ました。

       

松山・北豫中学校全景          松山・北豫中学校 正門 (鉄砲町)
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((●●s北豫中学校1928
           
 父・泰山が学んでいた頃の松山・北豫中学校全景

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 内子警察署・・赴任早々の頃の父(後列右から2人目)
 
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 内子警察署前での記念写真
(この手の写真は多いので、署長の交代か行事の度に写したのか)
 
 
 今の警察官が腰に警棒を提げるように、当時はサーベル(洋剣)を提げていましたからね。
 この写真のような警官は、今では想像も出来ないくらいですね。
 
 
 泰山は、この内子警察署を拠点に、大瀬駐在所、天神駐在所等を順次移動して勤務し、昭和16年に越智郡岩城島駐在所に於いて出征し、満州牡丹江周辺、岩6418部隊に配属されたのです。

 祖父ちゃんが云っていましたが卯之町(宇和町)や鹿野川(大洲市)の駐在もしていたこともあるということでした。

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現在の旧・内子警察署
 
四国の近代建築より↓
http://www2u.biglobe.ne.jp/~komichi/Home_page/shikoku/uchiko.htm





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           昭和8年、愛媛県警察練習所 修練誌 (同期生は35名)

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  警察練習所と並行して、松山歩兵第22連隊で教練を受けたようです。

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          松山、歩兵第22連隊の教練終了時・・

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             愛媛県警察官として初赴任した。

【参照】↓

第19話の②・・父、泰山の出征と満州東寧への赴任日記・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/33047396.html

第33話の⑨・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32976649.html

33話の・・父、泰山から祖母浦子への軍事郵便全記録・・・満州東寧から、ラバウルから・・

 
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 昭和20年5月まで住んでいた、 松山市 琢町(みがき町、今の 緑町 )に在った父の実家の見取図が出てきました。

 昭和20年7月26日の松山大空襲で、跡形も無くなって仕舞いましたが、家族が生活した思い入れのある家です。

 「忘れて仕舞わないうちに、せめて見取図でも残しておこう」と、昭和312月に図面に起こしておいたのがコレです。

 この図面を書いたことも忘れて、第27話の挿絵(父の実家の絵)を今年描いたのですが、資料なしで書くと「2階の窓が、こうも違うか・・」と記してから50年の隔たりを如実に感じております。

 それ以外にも「表のニワトリ小屋」「坪庭の金木犀、八つ手の木」も眼中に無かったですね。

 でも、大まかには合致していました。

 


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               松山市琢町の実家の見取り図

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              空襲前の松山市琢町の実家の様子


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            平成25年の同じ場所(現在は松山市緑町)

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       実家の在った前から西方を見た光景(松山市緑町)平成25年

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 「琢町」は東雲神社の北側にあった町で、東雲神社崖下から(杉谷町)(弓乃町)(矢矧町)(琢町)( 三春町 )( 水口町 )(鉄砲町)と在りましたが、市民が慣れ親しんできた町名は、戦後新しい「 緑町 」で一つにくくられて仕舞いました。

 「平和通り」「文京町」にしても、戦後の味気ない名前の一つと思います。

 「大手町」停留所も、戦前は「江戸町」と言っていた記憶があるのですが・・・? 

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 私ら、遠方に住む者にとっては、どうでも良い事なのですが・・・

 「愛媛人は古い呼称を、なんで大切にせんのじゃろ?」と最近、特に感じております。

 その内「熟田津(にぎたづ)」の様に、学者のお世話に成らないと、場所の特定が出来ないことになりそうですね。

 「郡中町」 が伊予市 になった時も「伊予は郡中を表す地名か?」という疑問がありましたが・・・

 「四国中央市」・・西條か、新居浜の新しい名前じゃろ?

 「西予市」・・・・ 伊方町 、 三崎町 の合併じゃな?

 「愛南町」・・・・愛媛の南、宇和島の辺りじゃろか?

 「鬼北町」・・・・鬼ケ城山の北の辺りか?

 「上島町」・・・・大崎上島は「広島県」の筈じゃが?

 ざっと、こんなもんです。




 第33話の終わりに、父・泰山の遺品の手帳を見て父の部隊が満州から、南方戦線のラバウルへ移動したルートの事を書きました・・・「手帳には毎日の輸送船の位置、つまり船内で広報されていたのだろう、緯度経度が几帳面に記されていたので、地図に記入して辿っていってみた」・・・
 私が手書きした「そのルート地図」と「泰山の手帳からの書き写し」の50年前の古ノートが出てきましたので紹介します。

 中には読みづらい字もありましたので、その字は、字の形状を正直に書き写したつもりです。  全て要訳できています。
 
 泰山が従軍していた【満州国 牡丹江省 東寧県 城子溝】の場所のことですが、牡丹江は容易に判ります、しかし「城子溝」という地名は、東寧市の周辺集落の地名らしく、情報不足で判明出来ず、苦労して検索しましたら「満州少年回想記」→(http://blog.goo.ne.jp/sadao1093/m/200606)に地図が出ていましたので参考にさせて戴きました。
 
 「東寧県城子溝」とは、牡丹江市の東、約100kmのところでソ連国境の近く、ソ連軍港ウラジオストックのすぐ後ろ側、喉首の場所になりますね。
 日本軍にとってソビエトと対峙するには、最重要地点だったのでしょう。
 河川で隔たれた、この周辺の対ソ国境は、国境沿いの丘陵地を、全て要塞化していたようで、丘陵を下った辺りに兵舎が並んでいたそうです。

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【泰山の手帳からの写し】と下の【移動記録内容】
 
昭和17年12月
1日・・・出発準備、演芸会を開催
2日・・・出発(寺戸隊見送り) 11時乗車(城子溝ヲ去ル)
3日・・・列車中、狭しす寒し
4日・・・図們(ともん)着 (豆満江を望む)、雄大なる結氷を濁水流る
5日・・・大雪あり、鉄道は続く
6日・・・釜山着(20時) 隙がない 一泊ス
7日・・・乗船(夏服に着替える) 波静かなり
8日・・・船中(関門海峡通過)
9日・・・佐伯湾着(大分県) 出航(夜間)
10日・・高射砲実射 コレラ注射 駆逐艦3
11日・・避難訓練 船内暑し 明朝(タイワン キールン(台湾基隆)の線)
12日・・暑気強し 只、海のみ 熱帯へ入る
13日・・北21度  東135度 暑し
14日・・北19度  東137度
15日・・北17度  東139度
16日・・北14度  東143度 敵潜水艦見ゆ
17日・・北10度  東144度
18日・・北7度   東144度
19日・・北4度   東145度
20日・・北1度40'  東146度 午前2時赤道通過
21日・・南1度20'  東148度 島影を見る 駆船艇3来る
22日・・朝早く島見ゆ(ニューアイルランド) 島の連続なり 
23日・・午前2:30ラボール着(ラバウル) 椰子の林を見る
    多数の船舶あり 潜水艦、戦艦、海軍基地の如し 
    カヌーに乗れる土人を見る色黒し  船中一泊

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                 前線基地・・ラバウル

24日・・午前10時頃上陸  衛兵となる
    昼食後進軍、ラバウルより1里半位あり 幕舎(テント)、夜間空襲あり
25日・・朝より各使役アリ 土人来たりて「ヤシ」を取る 日直なり
    夜間雨なり  空襲なし
26日・・一昨日の空襲、死者5名との事、夜間空襲あり
27日・・土人と知り合う 可愛いものなり 空襲あり
29日・・土人来る  幕舎の修繕、建設 夜間空襲あり パパイア、パイを持来る
30日・・大隊本部使役 午前、午後共、夜間空襲あり
31日・・大隊本部使役 夜間空襲あり

18年1月1日・・午前3時~4時頃空襲  ラッパばかりの祝いをなす(元日)(酒ビンのラッパ飲み廻しか?)
 
26日・・マラボンガへ着ス  警備
28日・・地形偵察 ウンガ➔ランギス➔チンベルト迄  土人部落へ一泊ス
31日・・・第一回 先遣隊5名出発
2月4日・・第二回 先遣隊出発
8日・・・・田之浦帰還(同僚の名か、現地の地名か)
 
3月27日・・赤根岬兵站病院 分遣 越智軍曹以下9
 
 この日本軍押せ押せの時期でも、ラバウル周辺は、毎夜のように空襲されていますね。
 昼間はラバウル航空隊が目を光らせているので、戦闘機の目が効かない夜間に爆撃機が急襲していたのでしょう。
 1月1日から26日まで空白ですので、他島へ移動したのか?とも思いましたが、記入されていた地名が、地図の何処にも見当らないので、恐らくラバウルのあるニューブリテン島内で、部隊は活動していたと思えます。

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【6418部隊の満州東寧からラバウルへの移動ルート】

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 【牡丹江 東寧市の位置図】

 
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【城子溝の位置図】

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          東寧在任中に同僚と写した写真

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勝鬨山陣地(二本の鉄塔)右は栄山陣地
(山の向うはソ連領)
(更地のところが兵舎、兵隊の行動していたところと思われます)

「牡丹江~東寧要塞の旅」(2009)より↓



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