泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2010年05月

軍隊生活をユーモラスに描いた、ユーモア溢れる小野寺秋風の軍隊漫画です。
満州事変ころ(昭和12年以降)の現地が舞台のようで、大東亜戦争にかけてよく使用された絵葉書です。
母の郷里に残っていました。

     小野寺 秋風 筆・・・匪賊撃滅
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     荒井 一寿 筆・・・陣中風呂

軍隊生活をユーモラスに描いた、ユーモア溢れる荒井一壽作の軍隊漫画です。
満州事変ころ(昭和12年以降)の現地が舞台のようで、大東亜戦争にかけてよく使用された絵葉書です。
 
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荒井一壽作の軍隊漫画です
満州事変頃が舞台のようで、大東亜戦争にかけてよく使用された絵葉書です。
軍隊生活をユーモラスに描いた漫画です。
 
「戦車隊」とありますが、今で言う「戦車」は、当時は「タンク」と云われていましたから、これは装甲車と判断すればいいと思います。
 
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            重機関銃戦車隊
 
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            河 中 入 浴



 画面設定からしても満州事変頃(昭和12年~)のものと思われますが、ユーモア溢れる荒井一壽の軍隊漫画絵葉書が沢山出回っていました。

 たった65年前、終戦直後でも石油不足で、木炭自動車しか走っていなかったのですから、軍隊でも弾薬、食料など重量物の運搬は馬車が主力の時代です。
 「軍馬」とあるのは馬車用の馬だったのです。
 
 内子の町でも、駅前の日通は馬車で荷物の配達をしており、木炭トラックを持っていたのは製材所くらいのもので、伊予鉄バスも後部に木炭燃焼タンクを背負って走っていました。
 一酸化炭素を発生させて、それをエンジンで燃焼させて動いていたのです。
 運転手さんは毎朝、車のタンクで火をおこし、ガスが出始めてから車の前で、始動ハンドルを回しエンジンをかけてました。
 石油不足で日本の国は、疲弊しきっていたにも拘わらず、強がっていたのです。
 
【参考】 http://kahuetaisyourouman.hp.infoseek.co.jp/mokutan.htmlから引用しました
 
 
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               軍馬の手入れ
 
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              陣中理髪

飛行機の型からしても、画面設定にしても「支那事変(満州事変)」時代の軍隊漫画です。
満州事変から大東亜戦争にかけて、よく使われていた絵葉書も残っておりました。
漫画作者は荒井一壽です。
 
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【第71話の① 女学生も学徒勤労動員された・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/12656121.htmlにも有るように・・

昭和202月に勤労動員先の尼崎から、卒業式を控え郷里の松山への帰還が発表され、武子さん達は大喜びしたものの、どうもぬか喜びだったようです。

 連日の大空襲の中、大勢の女学生の移動は海路、陸路共に不可能・・・という結論が出され、松山への帰郷と卒業式は延期されたのだろうと思われます。

 結局終戦の日、20年8月15日まで、勤労動員先に滞在せざるを得なかったのです。


2月に帰郷できると大喜びしたものの、下記のように6月になってからも、空襲下の尼崎市で働いていたのでした。

 一方でその2年前、昭和18年4月に、武子さんの妹宣子さんも、東雲女学校へ入学して、昭和20年になると松山市の近隣、松前町の軍需工場

 【松‐9403工場】へ勤労動員として徴用されていました。


 

 昭和20年6月10日、宣子さんは勤労動員先から休暇を貰い、家族で姉【武子さん】の勤労動員先の尼崎まで、面会に行ってきた報告の葉書です。 

   2月14日に帰郷する予定で、楽しみにしている旨のはがきが届いていましたが、頻繁な空襲のため実行されず、延期されたのです。

 そこで松山よりも強烈な空襲に晒されていた阪神間で、勤労奉仕する長女の武子さんのことを心配して、伯父、伯母は宣子さんら家族を連れて松山から尼崎へ、面会に赴いたのでしょう。

 
  その報告のはがきが、宣子さんより届いていました。

  喜多郡 内子町  森並 登志子様

  前略、可憐な浅緑の木の梢を見ていますと、何とも言えない心地がしますわね。
  永らくご無沙汰いたしましたが、其の後お変わりなく、戦の増強にお励みの事と思います。
  私も大元気で、増産増産増産に、日々いそしんで居りますから、他事ながらご休心下さいね。

  昨日はおひまを戴きまして、なつかしき尼崎の姉(武子)に会って来ましたの。
  姉はよく肥えていましたよ。
  その日は、一家皆揃って嬉しく楽しい一日を送りました。

  では、食事に行く時間が来ましたからこれにて・・・
  蔭ながら御武運をお祈り致しております。  草々

  昭和20年6月10日  
  愛媛県伊予郡松前町 松-9403工場 女子寄宿学徒隊 森岡 宣子

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     昭和20617、武子さんから、15日に勤労動員先の尼崎に大空襲があったと報告が届いています。・・・(私らが疎開のため、松山から内子へ移動した頃のことと思います)


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・・怯えた事を書いていないか?【検閲印】が目を光らせています・・


  愛媛県 喜多郡 内子町   森並 登志子様

  登志ちゃん、長らくご無沙汰致しましたが、その後お変わり御座いませんかお伺い致します。

  15日には尼崎地の方は大空襲があり、寮には被害を受けましたが、命は助かりました。
  荷物を多少は出しましたけれども、体が有りますから不幸中の幸いだと喜んでおります。

  では、今日はこれまで。皆々様にお四六四九・・・かしこ。

  昭和20年6月17日 兵庫県尼崎市潮江 青々寮15室   森岡 武子


記録を調べますと6月15日は
大阪市から尼崎市にかけて、午前中にB29による焼夷弾爆撃が行われています。


国鉄尼崎駅周辺から阪神尼崎駅南方にかけて、一面の被害を受けております。

恐らく武子さんは、7月26日の松山大空襲のことも口伝えで知り、
尼崎市で終戦を迎えたのです。


母の実家の筋向い、田中表具店の長女、田中スマ子さんは当時、
内子女学校生でしたが、同様に勤労動員先から登志姉ちゃん宛のはがきも残っておりました。

(スマちゃん・・参照)→http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8708656.html
 
 
 
 喜多郡  内子町  森並トシ子様

  トシちゃん、その後お元気で勤めて居られる事と思います。
  私も元気で米英撃滅の為に、働いて居りますから安心して下さい。
  叔母さん、叔父さん、元気でいらっしゃいますか。
  宜しく言って下さい。
  では、お身大切に、さようなら。
 
   昭和20年5月22日
       八幡浜市 松ー第9405工場 
            秋輝寮内1中隊   田中 スマ子
 

[松ー第9405工場] 八幡浜酒六工場、内子高等女学校の勤労動員生。
  おそらく、この中に田中スマちゃんが居るのです・・・←印かと思う



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      昭和20年7月26日松山大空襲直後の大街道周辺



  戦後、松山が復興し始めた頃、昭和25年に内子小学校の修学旅行12日で、私は待望の松山へ参りました。 

 旅行の費用一人当り120円、米3合持参、お小遣い一人当り40円マデ持参だったと思います。

 その時の松山の印象は、松山駅前のだだっ広い閑散とした広場と、周辺に掘立て小屋の細々とした商店が並んだ中、進駐軍のジープが軽快に走り廻っていました。

 観光バスが有る筈もなく、移動は全てチンチン電車と徒歩だけでした。

 戦前は鬱蒼と繁っていた城山の森は、焼夷弾の影響でしょう・・・あちこち禿山のあるスケスケの城山になっていました。

 県庁の丸屋根は銅版を張り直したばかりで、オレンジ色に輝いていました。


 東雲神社から城山頂上まで徒歩で登る途中「昔、兵隊ゴッコして遊んだ場所や僕らの縄張りは、この辺までだったナァ・・・ココから上はまだ知らない・・・」と考えながら、東雲神社裏手の登山道を歩いた記憶があります。

 市内と道後温泉の中間にあった、松山測候所と農事試験場を見学した時「この辺にドイツ人のチッテちゃんの家があった筈じゃが?」とキョロキョロ探した憶えもあります。


 松山駅から帰りの下り列車に乗ったときには、八幡浜、宇和島方面へ帰るシベリア抑留から帰国した軍服姿の軍人さんが大挙して乗っていて、その席へ割り込むように押し込まれました。
 席にスペースを作り坐らせたり、膝に乗せたりしていましたが、多くは久しぶりの故郷の風景に感慨深く見入っていましたね。

 軍人さんは乾パンを配給されていたようで「皆、元気に育っとるのう・・・乾パンでも喰わんか?」と2ヶづつ配ってくれたりしていました。

 中学生に成ってからは、毎年夏休みに弟の俊光と、大街道の森岡光月堂へ遊びに行くようになりました。

 伯父、伯母、武子さん、宣子さん、京子さん、和子さん、明子さん、長男の功さん(私と同い年)と店の職人さん3名程の大所帯なのです。

 祖母ちゃんの負担を少しでも軽くしてあげようとの、文子伯母さんの配慮があったのだろうと思っておりました。

 毎年8月が来ると、1週間ほど滞在して、海水浴に梅津寺へ行ったり、大街道周辺を功ちゃんらとうろついたりした思い出があります。


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昭和初期の松山市街↑ 堀の内の第22連隊兵舎も遠望できる。


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           松山の繁華街、大街道風景

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             繁華なる大街道

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              松山市大街道

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            大正期の松山、大街道風情




● 昭和7年正月の年賀状も残っています。

 母の妹の森並政子さんから、弟・勇雄さん、妹・登志姉ちゃんに宛てたものです。

 昭和7年なら、政子叔母は18歳、勇雄叔父は10歳、登志姉ちゃんは7歳だったのです。

 政子叔母さんは女学校を出て間も無しの時ですから、姉文子の嫁ぎ先、松山大街道の森岡光月堂へ子供の世話や、年末のお手伝いに行って、新年も松山で迎えたのでしょう。

 

 年賀状が絵本のように色彩豊かで、美しい物だっただけに、大事に残されてきたものと思われます。


 政子叔母さんの、弟妹に対する思いやりの程が感じ取れる賀状です。

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 ↓ ラケットに見えるが手鏡でしょう・・・おめかししてお出かけの風情・・・
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 これは昭和11年の年賀状、登志姉ちゃんが11歳の時でしょう。

 筆のタッチからして差出人は大人の字ですから、小学校の受け持ちの先生からでしょうか?

 図柄の「ミッキーとベティさん」は、この頃より段々と可愛くなって行くのですね。




 母の妹・登志姉ちゃん宛の、従弟からの年賀状です。

 はがき全面に、筆おろしの落書きで埋められておりますが、しっかりしている文字は、忠兵衛祖父ちゃんの筆跡に間違いなしです。
 恐らく年賀状の返信をしたためる時、練習したものと思います。

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  ● 射撃演習  行軍渡河とある 
(松山第22連隊、留守隊 第1中隊 新兵 師井楢之進拝とある)

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   ● 従姉からの賀状

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 昭和10年正月に母・芳子の姉、松山の森岡光月堂の森岡文子から芳子と2歳下の政子宛に届いた年賀状が残っています。

 母・芳子はこの頃結婚前、花嫁修業中の23歳頃でした。

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松山フミ子とあるのは・・・
松山市の文子よりの意
 

 更に、全く同じ「キュウピーさん模様」の賀状が文子の長女・武子さん(7歳)から、母の妹・登志姉ちゃん(10歳)宛に届いておりました。

 登志子の姪ではありますが、年齢が近かったので文子の里帰りなどの時、お互いによく打ち解けて遊び相手となっていたのでしょう。

 参照【●女学生も学徒勤労動員された・・① http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/12656121.html】 にもあるように、以後も逐一・・武子さんと登志姉ちゃんの文通は続いていったようですね。

 
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 松山・道後公園での花見でしょう・・・昭和12年春か?

(昭和11年7月16日に結婚して、祖母の話によると私を受胎中とのこと)
 左から伯母の森岡文子、従姉の武子さん、母の芳子(中央)
手前左から宣子さん、京子さん、和子さん。
 


●昭和8年・・・母の姉、森岡文子から母とその妹・政子に宛てた絵葉書。


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 慰問袋・・・岩田専太郎 画

愛媛県 喜多郡 内子町  森並芳子殿 政子殿


拝啓、皆様お変わりありませんか。
私方一同無事にいますれば、ご安心くださいませ。
夜等、カイカイ(かき餅)を焼いて子供をお守りしています。
武ちゃんや宣子も、又内子へ行くなど言って遊んで居ります。
登志ちゃんは、今度四年生になるのですね。
暖かになったから、お母様に遊びにいらっしゃいと、言って下さいませ。
姉さんの家も蓄音機を買って、かけています。
「涙の渡り鳥」も買いました。
大変良いのが沢山あります。

昭和8年3月29日  松山  森岡文子


●昭和9年 友人から母宛のはがき・・・
学校時代の友人からでしょうか、見舞い状が残っていました。

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   岡山・後楽園・唯心山







愛媛県 喜多郡 内子町 郷の谷    森並 芳子様

春暖にして、気持ちよく蝶はとび出で、花は香りだし、野に山に遊ぶ時候になりました。
其の後、*****して後、(*****の部分は、爪で削ってある)お障も致しませんですが、
貴女様には何のお障もございませんか。

次に、私も日々元気よく遊んでいるから安心して下さい。
早くお手紙を出そうと思うて居たのですけれど、出さずにいましたが許してください。

昭和9年4月15日   
喜多郡 五城村 長田   成岡 子都恵


 母が子供の頃集めていた絵はがきです・・・

 四国の田舎町ですが、戦後も昭和26~7年頃までは「越中富山の置き薬屋さん」が、年に一度は巡回して来ていました。
 3段重ねの小さな「柳ゴウリ」を、黒い風呂敷で背に担いで、置き薬のチェックと差し換えをして、戸別に歩いてゆくのです。

 子供が居ると「四角い紙風船」のノベルティを配っていましたね。
 その小父さんにでも貰ったのでしょうか、越中富山の絵葉書が残っていました。
 
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 越中 大岩山筧滝群沐の景
 
 
 
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                                                   中越線 島尾遊園地 海水場
 
 
 
 

 母が子供の頃集めていた絵はがきです・・・

 四国の田舎町ですが、戦後も昭和26~7年頃までは「越中富山の置き薬屋さん」が、年に一度は巡回して来ていました。

 3段重ねの小さな「柳ゴウリ」を、黒い風呂敷で背に担いで、置き薬のチェックと差し換えをして、戸別に歩いてゆくのです。
 子供が居る家には「四角い紙風船」のノベルティを配っていましたね。
 その小父さんにでも貰ったのでしょうか、越中富山の絵葉書が残っていました。
 
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 越中大岩山 大滝 
 
 

 
 
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 越中大岩山不動
 
 
 
 

 母が子供の頃集めていた絵はがきです・・・
 大正14年に愛媛県伊予長浜港、岸本本店(店主・喜兵衛は母の叔父)へ届いた絵葉書も母・芳子はおねだりして貰ったものと思われます。


 株式会社壽屋(現・サントリー)からの書中見舞状、キリンビール(株)と日本麦酒鉱泉(株)(現・アサヒビール)のPR絵葉書も、当時の絵葉書としては色彩豊かでエンボス加工(凹凸加工)など美しいので、岸本の叔父から戴いたものと思います。
 蜂ブドー酒絵葉書は喜兵衛から兄の忠兵衛宛に出したはがきです。

 
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    左・・汽灌室  右・・機械室  とある
 
 
 
 
 
 
   
 
 
 
 
 
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【片面】
キリンビール株式会社発行
 
 
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不思議によくきく
滋養飲料
蜂ブドー酒!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 母が子供の頃集めていた絵はがきです・
 
 大正14年に愛媛県伊予長浜港、岸本本店(店主・喜兵衛は母の叔父)へ届いた絵葉書も母・芳子はおねだりして貰ったものと思われます。
 株式会社壽屋(現・サントリー)からの書中見舞状、キリンビール(株)と日本麦酒鉱泉(株)(現・アサヒビール)のPR絵葉書も、当時の絵葉書としては色彩豊かでエンボス加工(凹凸加工)など美しいので、岸本の叔父から戴いたものと思います。
 
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    日本麦酒鉱泉株式会社東京工場全景・・・とある
 
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                    工場壜詰場・・・とある
 
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【片面】
日本麦酒鉱泉株式会社東京工場落成記念
 
秀英堂紙工印刷所印行・・・とある
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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