●あの子らは、今・・?(松山)7歳 昭和19年
学校が引けて下校するには、校門を出て西へ帰る清水町方面の者と、東へ帰る鉄砲町方面の者との二手に別れる。
僕ら、東へ帰る途中には、すぐに松山高等商業学校(現在、松山大学)の北門があり、ここで「さよなら!」と言って高商の北門の中へ、駆け込んで行く同級生が居た。
北門を入るといちもくさんに運動場を横切り、右手の校舎の奥に消えてゆく・・・
これが田原君だった。
僕が田原君に話してみたことがある。
「僕トコ、去年まで高商の学生さんが二人下宿しとったけんどな、今は一人もおらんぜ・・・」
すると田原君は・・・
「ウチトコ、高商の小使さんじゃけんな・・・ウチで云うとったけんど、学生さんはだいぶ予科練や工場に行ったけん・・・予科練はエエ格好がでけるけんな、残っとる学生は今おらんョ・・・」と言うことだった。
そんなこんなで、二度ほど松山高商の校庭で遊んだが、校内は閑散としていた。
東側の練兵場に面した、塔のあるあのこげ茶色の建物の、講堂にも一度入れてもらったが、講堂の四隅に階段があり、2階の回廊から講堂全体が見渡され立派なものだった。
広さは一寸狭くて、正面の議長席を向いて椅子と机が半円形に並んでいる、広い講義室のような印象だったと記憶している。
同じ一年雪組に、脚力が無く松葉杖をいつも使用していた赤松君が居た。
温和な目元をしていて、学校では極力人の手を借りないように努力して、松葉杖を上手に使いこなしていたが、体操の時間だけはいつも廊下に坐って見学していた。
体操の時間は、ほとんど裸足で行進の訓練だったから、僕は「頭が痛い・・」と言って仮病を使ったことがある。
村上先生に「どの辺が痛いの?」と問われ「この辺が痛いです」と指差したら、先生は「大丈夫、大丈夫!」と言って、僕の頭を撫でて出て行ったが、そのままサボったことがあった。
その時、赤松君と一寸話してみた「足は怪我したん?」と言うと「生まれつきよ・・・そじゃけど、足も一緒に大きくなりよるけんな、帰ってから足の運動しとるんよ・・・」と言っていた。
赤松君は毎朝、お母さんが乳母車で校門まで乗せてきて、校門からは松葉杖で行動し、鞄類は友人が交代で持ち運びしていた。
空襲が激しくなってあの子達、野本さん、田原君、赤松君、級長の村上君はどうしたのだろう?
空襲警報多発のために、いきなり下級生は「無期休暇」に突入したので、お別れの挨拶も何もないままに、僕らは疎開して内子へ来てしまったのだ。
昭和20年7月26日夜の空襲・・無事、あの火の雨の中を逃げ延びたのだろうか???