泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2010年03月

イメージ 1

イメージ 2

        ↑小使さんの息子、田原君が居た「松山高等商業学校」


●あの子らは、今・・?(松山)7歳 昭和19年

 学校が引けて下校するには、校門を出て西へ帰る清水町方面の者と、東へ帰る鉄砲町方面の者との二手に別れる。
 僕ら、東へ帰る途中には、すぐに松山高等商業学校(現在、松山大学)の北門があり、ここで「さよなら!」と言って高商の北門の中へ、駆け込んで行く同級生が居た。
 北門を入るといちもくさんに運動場を横切り、右手の校舎の奥に消えてゆく・・・
 これが田原君だった。
 僕が田原君に話してみたことがある。
「僕トコ、去年まで高商の学生さんが二人下宿しとったけんどな、今は一人もおらんぜ・・・」
すると田原君は・・・
「ウチトコ、高商の小使さんじゃけんな・・・ウチで云うとったけんど、学生さんはだいぶ予科練や工場に行ったけん・・・予科練はエエ格好がでけるけんな、残っとる学生は今おらんョ・・・」と言うことだった。
 そんなこんなで、二度ほど松山高商の校庭で遊んだが、校内は閑散としていた。
 東側の練兵場に面した、塔のあるあのこげ茶色の建物の、講堂にも一度入れてもらったが、講堂の四隅に階段があり、2階の回廊から講堂全体が見渡され立派なものだった。
 広さは一寸狭くて、正面の議長席を向いて椅子と机が半円形に並んでいる、広い講義室のような印象だったと記憶している。

 同じ一年雪組に、脚力が無く松葉杖をいつも使用していた赤松君が居た。
 温和な目元をしていて、学校では極力人の手を借りないように努力して、松葉杖を上手に使いこなしていたが、体操の時間だけはいつも廊下に坐って見学していた。
 体操の時間は、ほとんど裸足で行進の訓練だったから、僕は「頭が痛い・・」と言って仮病を使ったことがある。
 村上先生に「どの辺が痛いの?」と問われ「この辺が痛いです」と指差したら、先生は「大丈夫、大丈夫!」と言って、僕の頭を撫でて出て行ったが、そのままサボったことがあった。
 その時、赤松君と一寸話してみた「足は怪我したん?」と言うと「生まれつきよ・・・そじゃけど、足も一緒に大きくなりよるけんな、帰ってから足の運動しとるんよ・・・」と言っていた。
 赤松君は毎朝、お母さんが乳母車で校門まで乗せてきて、校門からは松葉杖で行動し、鞄類は友人が交代で持ち運びしていた。
 
 空襲が激しくなってあの子達、野本さん、田原君、赤松君、級長の村上君はどうしたのだろう?
 空襲警報多発のために、いきなり下級生は「無期休暇」に突入したので、お別れの挨拶も何もないままに、僕らは疎開して内子へ来てしまったのだ。

 昭和20年7月26日夜の空襲・・無事、あの火の雨の中を逃げ延びたのだろうか???

イメージ 1

 
●下駄を貸してくれた・・野本さん(松山)7歳 昭和19年

 清水国民学校(小学校)一年生前期のエピソードです。

 今でこそ教室では土足が殆んどですが、昔の様式では一階廊下の横に土間が有り、土間の外側に二階の生徒分も含めて下駄箱が設置されておりました。通学に履いてきたズックや下駄を下駄箱に入れ、上履きに履き替えまたは素足で教室へ入るのです。 
 まだ、子供用ズック靴はあったが、ゴムは軍事最優先だったので、ズックを含め一般用のゴム製品は皆無状態で、或る時期から配給制になっておりました。
 
 学校が引けた時、僕の下駄がいくら探しても見当たらないことがあったのです。
 さあ帰ろう・・・と下駄箱まで来てみると、いつも僕が入れているところに僕の下駄がない・・・
                      
 廊下の前の履物入れ、僕が自分のところへ入れなかったのか、他所へ脱いで忘れてしまったのか他人が間違えて履いて帰ったのか解らないままに、一寸うろたえて、廊下でベソをかいていた。

 ベソをかく僕を気遣って、一年雪組同級の女の子の野本さんら二人が心配げに来てくれた。

 野本さんは清水町方面から通学している子で、小さな口元がキリリと締まった色白のしっかりした子だった。

 僕も要領が悪かったのだろう・・・あちこち探せば有るだろうという機転も利かせず、有るべきところに無ければ「ナイ」と判断してしまったのだろうか。
 もし探したとしても、同じような下駄が沢山並んでいる内から探すので、見ただけでもウンザリしてしまっていた。
 
 野本さんは、僕の目の前に顔を持ってきて覗き込み「下駄がナイの? ウサッタの?(紛失したの)」と心配げに声をかけてくれた。
 僕はめそめそしながら、うなずいていたのだろう。

 ところが女の子は凄い!・・・ここでどうすればいいか、即、判断してくれた。
 野本さんは直ぐに機転を利かせた口調で・・・「ウチ(私)、上ぞうり履いて帰るけん、ウチの下駄貸してあげる! さあはいて!ハイはいて!」と言って背中を押してきた。
 女の子用の指の部分が白く磨り減った、赤い鼻緒の黒塗りの下駄だった。
 男の子は、上履きのような気の利いたものを履いている子は一人もいない・・・

 ウワッ、赤い鼻緒! 恥ずかしいけど、仕方ない・・・と感じながら「ほんなら、貸してなぁ」と借りてしまった。
 下駄が無ければ「裸足で帰ろか・・」という機転さえ利かせずその知恵もない、男の子だったのです。
 誰かが「裸足で帰ったら・・」と言ってくれれば、そうしたかも知れないのです。

 僕が履いて帰った下駄を見て、浦子は「なんと、こんな可愛らしい下駄を、貸してもろたんじゃなぁ・・」と明日返せるように、雑巾で手入れして新聞にくるんでくれた。 

 翌日、登校した時に探してみたら、二メーターほど離れた場所で、僕の下駄は難なく見つかった。
 このことをきっかけに「物を置いたら、目で確認し、その場所を覚えておくこと」が身に付いていったような感じがします。
 野本さんの、しっかりした姐さん振りに対し・・・翌日から「同い年ながら女の子たちは、しっかりして大したもんじゃ!」と一目置くように成っていたように思う。 





 

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

  ↑昭和初期の松山・城北練兵場と東雲神社、杉谷町、琢町の遠望・・・
http://blog.goo.ne.jp/jr5eek/e/0a701c9646ce2af5f2b7d606f3be5b31・・より転載。



●琢町の3人のヨッちゃん(松山)7歳 昭和19年

 法事に「大根の煮しめ」が出された西岡さん宅には、二人の息子さんが居て、兄さんはよっちゃんと言って、僕より3歳年上の子でガッシリした体格で、近所の子達が遊ぶ時のガキ大将をしていた。
 弟の方は僕より1歳年下だったが、遊びはいつも一緒だった。

 武田商店を東へ行くと直ぐ右側に、板塀で囲まれた同い年の松岡のよっちゃん宅だ。
 親父さんは、学校の先生とかしていると聞いていたと思う。

 松岡のよっちゃんとこの筋向いに木田のよっちゃんとこがある。
 木田のよっちゃんは、一級上の二年生だったと思うが、一寸痩せ型の色白な、おしゃべり好きのひょうきんな子で、前歯が1本抜けていたのが印象に残っている。
 この家も玄関は格子戸であるが、玄関を入るとすぐ部屋という感じの狭い家で、彼は模型飛行機を各種作るのが得意そうだった。

町内のやんちゃ坊主が遊ぶ時には、10人ほどのグループで町内や東雲神社、練兵場で遊ぶのだが「よっちゃん!」と呼んでも「どの、よっちゃんじゃぁ~」の返事が返ってくるので
「西岡のよっちゃん」「松岡のよっちゃん」「木田のよっちゃん」と呼ぶのが身に付いてしまい、いつまでも覚えてしまう格好となってしまいました。
 城山から取ってきたモチの木の皮を、家の裏を流れる小さな用水路の水辺で、石で叩いたり、水で晒したりして、蝉取り用のトリモチを作ったりしたのも、彼らが教えてくれたものだ。


 木田のよっちゃん宅から東へ少々行き、路地を南へ入ったところに村田の良ちゃんとこがあった。
 浦子が良ちゃんのお母さんと道路で立ち話している時、僕が居たので良ちゃんのお母さんが「ウチの良ちゃんと遊んでやってちょうだい!」と浦子と別れ、連れて行かれたことがある。
 最近関東から転居して来たらしい、若い綺麗なお母さんだった。
 その時、初めて良ちゃんを見たのだが、僕と同じ年恰好、細形で小柄な子だったと思ったが、打ち解けて直ぐにおしゃべりもし、仲良くなって何度か遊びに行ったりしていた。
 浦子も「村田さんとこへ、遊びに行くのなら・・・」という安心感を持っていて、遊びに行くのを止めたりはしなかった。
 良ちゃんのお母さんは、浦子がしゃべったのか「お母さんが先年亡くなって・・・寂しいねえ」と僕に同情の意思をいつも伝えていたようで、大切にもてなしてもらっていた。

 なぜかは憶えていないが、しばらく時間を置いてから、何食わぬ顔で遊びに行った時である。
 良ちゃんのお母さんは、僕を茶の間に坐らせて駄菓子を握らせてくれた。
 そして、僕の正面に坐り、僕の両肩を持って「良ちゃんはね・・もう居ないのよ。天国へ行ったのよ・・亡くなったの・・死んだの・・・」という意味のことを懸命に、涙を流しながら説明してくれた。
 一人っ子を失った、お母さんの気丈さが溢れていて、僕は下を向いて戸惑っていた。
 「死んでしまった・・・と言っても、泰弘君には解からんでしょうねぇ」と言いながら、悲しい顔をして、涙を拭きながら下を向いてしまった。
(死ぬという意味は、母親が亡くなった時、心に痛いほど染み込んでいました)

 僕は神妙な顔をしてしばらく坐っていたと思うが、おばちゃんを慰める言葉も解らず、おばちゃんも黙ってしまって、気まずい空気になってきたので「ぼく、帰ります・・さようなら・・」と言って、そそくさと家を出た。
 家へ帰り「良ちゃん・・死んだんと・・」と浦子に伝えたら「あれ~・・やっぱり~・・・」と驚いていたが、良ちゃんの病気については知っていた素振りだった。
 

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

        *(上2枚) 梅津寺海水浴場   
        * 松山の「坊ちゃん列車」
        * こよりのハチマキ



 ●ちんちんに鉢巻きされとったァー    ・・(松山)6歳 昭和18年

 隣の小原さんが海水浴に行くというので、お誘いを受けた。
僕より一歳上の信幸君(七歳)が、千津子、美津子の二人の姉さんらと一緒なので「男の子が居ないから、一人で遊ばんといけん、つまらん・・・」と言って「隣のやっちゃんと一緒に行きたい・・・」と、どうも駄々をこねたらしいと浦子が説明してくれた・・・
 僕と信ちゃんは一つ違い乍ら、兵隊ごっこやらセミ取りやら気の合う近所仲間だったのです。
松山市民の行く海水浴場と言えば、市内から電車で三十分、旅客船の着く松山港へ行く伊予鉄電車の一駅手前「梅津寺(ばいしんじ)海水浴場」で、近くに小島もあり風光明媚で遠浅の五百メーター程の砂浜が続いているのです。
 
 「大きな魚に食べられるから深いところはダメよ!」「海へ入っても、ヘソより深いトコへ行ったらイケンよ!」と何度も念を押され、タオル一枚入った巾着袋を持たされて、麦わら帽子を被りそそくさと出発したのです。
 
 小原さんは伊予鉄バスの整備士なので、すべてパス券で通用している様だった。
 伊予鉄バスの車庫が、市役所前の道路を南へ下った所にあったので、一度、信幸君と小原さんの忘れ物を届けに行ったことがあるが、その時は近所の喫茶店で「みかん水」(当時、ジュースという言葉は無かった)で歓待してくれた。

電車に乗ると信ちゃんも僕も、履物を脱ぎ窓に向かって正座して、外の景色やすれ違う電車を眺めながら子供同士のおしゃべりが続きます。
 海水浴場へ行く高浜線は二両編成の電車と貨物列車が走っていて、材木を満載した貨車二両を引いて走る機関車は、電車が開通する前に使われていた明治時代の豆機関車だ。
 今でいう「松山の坊ちゃん列車」である。当時は「豆機関車」と呼んでいたように思います。
「ピー・・ピピー・・」と汽笛を鳴らし、「シュッシュ、シュッシュ・・・」と煙と蒸気を吐きながら重い貨物を引く「坊ちゃん列車」が息も絶え絶え喘ぎながらすれ違うさまは、軽快に走る電車と異なり「重い材木を運ばされ、コキ使われているなァ」と子供心にも感じたものでした。

 いよいよ松林越しに海と砂浜が見える「梅津寺駅」に到着です。 梅津寺の沖には灰色の小型の軍艦が一隻停泊しているのが見える。
 駅の横、砂浜に添って納涼屋台小屋が並んでいて、その一軒へ入った。海水浴の客が場所を借りて休憩したり、海水着に着かえたり、シャワーをする場所だ。
 信ちゃんと僕は、そこで「早く!早く!」と言いながら服を脱ぎ、待ち兼ねたようにすっぽんぽんのまんまで砂浜を走り抜けて、海へ駆け込んだが、姉ちゃんが直ぐに追いかけて来て「小屋を間違えたらイケンよ、あそこの(あめ湯)の看板のトコじゃけんなぁ!」と教えに来てくれた。よく見ると同じ様な小屋ばかりなので・・・早々に迷子になるところだった。
 この頃の幼児の海水浴はみんな、すっぽんぽんのままだ。小学上級生で黒い三角巾の(Hふんどし)が常識の時代だったのです。

 真夏の太陽の下、海での素っ裸って、こんなに清々しいのだ・・・と大いにはしゃぎ廻り走り回っていた。
 海にジャボジャボと走り込んで、まだ二人とも泳げるわけでもなく、キャーキャー云い乍ら水の掛け合いが始まった。追いかけたり追いかけ廻されたりの時間が過ぎ「腹へったー」となったのです。
二人とも遊び疲れて小屋へ帰り、おにぎりを食べている内に、知らぬ間にこっくりこっくりと舟を漕いでいたのです。
 ゴザが敷かれ海水浴客で騒々しい納涼小屋の隅で、僕たち二人は暫くまどろんだのでしょう。信ちゃんが目を覚まし僕をおちょくり始めたのです。
 裸の信ちゃんを裸の僕が手を挙げて、小屋の中を追い回す格好になったのです。
 車座になったあちこちのグループの周りを走り抜けていると、みんなが見つめて大笑いしているのです。
僕らは一瞬立ち止まり「なんで・・・?」とキョトンとしていると、よその小母ちゃんが二人のちんちんを指さして「可愛らしいリボンじゃなァ」と云って笑っていたのです。
 二人共、下を向いて確認すると、自分のちんちんに『こよりのハチマキ』がしてあったのです。
信ちゃんは恥ずかし気に「さては・・・父ちゃんじゃー! いつもじゃけん」とお父さん目がけて迫って行き、腕を上げてペンペンを始めました。僕も走り寄って腰を突きだし外してもらったのです。
 横から信ちゃんのお母さんが「子供とはいえ、おえた時(肥大した時)締め付けて痛がるけんー、だめだめ」と言っていましたが、おっちゃんは「なーに、海に入れば、すぐに外れるけん・・・」と笑っていました。

 それから再び、砂浜を駆けて海に浸かり水のかけ合いの後、水際で砂遊びとなったが、砂を掘り池を作ってゆくと、黒いキメの細かい泥のようなトロトロの砂が出てくるので、とんがり山を作ったり、トンネルを掘ったり思いのほか楽しい一時が過せました。。
 一泳ぎしてから納涼小屋へ帰り、「あめ湯」(生姜湯に水飴を溶かして温めたもの)を買ってもらい飲んでいる間に、いつの間にか知らぬ間に、またもや信ちゃんのちんちんにハチマキがしてあったのです。

 帰りの電車は、来た時と同様に窓を向いて正座して、すれ違う電車や景色を眺めていた。
 相変わらず坊ちゃん列車が、重い積み荷を引き喘ぎながらすれ違って行くのが見えていました。 




 

 どなたか記憶ありませんか?
 道後温泉の「湯船で泳いでいた細い小さな魚」

 たった一度だけ見たのです。
 今になっても不思議な光景として残っています。

 今の道後温泉は殆んど判りませんのですが、道後温泉の象徴にもなっている、あの重厚な本湯の建物の右手奥に、「鷺湯」という「大衆温泉」があったのです。
 戦時中、祖母ちゃんに同行してそこへよく行っていたのですが、そこで見たのです。
【第29話 温泉に棲む魚・・参照】↓
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8723859.html

 温泉に棲む魚としては、最近よく目にするセラピー用の「ドクターフィッシュ」(参考→http://roomrag.jugem.jp/?eid=42)が有名ですが、これとは全く形状が違うのです。

 私がその時、見たのは3cm程の「モロコ」の稚魚のような細い魚でした。
 人の身体を突っつくようなこともせず、湯船の各コーナーで群れて泳いでいたのです。

 若し、ご存知の方が居られましたら、教えていただければ有難いのですが・・・

イメージ 1

 松山市琢町の自宅で、空襲警報の直後、見ていたのです。
(第54話、空襲のこと・・参照)↓
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9422738.html

 玄関の横に掘られた小さな防空壕から・・・首を出せば、すぐ城山と空が見える・・・防空壕。
 祖母ちゃんは「危ないから覗いたらイケン!」と後ろから、防空頭巾の裾を引っ張るが、怖いもの見たさの子供の好奇心は、それは強かったですよ。

 雲間からクラマンが2列編隊で来たなと思ったら、それらが雲間を縫い順に急降下してきて、城山の向うの堀の内連隊本部付近を、食品にハエがたかり飛ぶように、城山に見え隠れしながら、執拗に攻撃しているのが、手に取るように見えるのです。
 城山の向うの事なので、窮屈な姿勢でしたが、爆音の合間、合間に壕から高見?の見物をしていました。

 あれが・・・下記の記事から推定すると
【昭和20年3月18日】だったのですね。

******************************

【敗戦前夜の松山】から参考として引用しました。↓
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/SENZEN--MATYUYAMA.html

 国民勤労動員令(勅令第94号)が公布された1945(昭和20)年3月6日直後の3月9日には,前述したように,アメリカ軍によって東京大空襲が行われたが,同日松山でも,2回にわたりアメリカ軍機が松山海軍航空隊基地を空爆している。
 また,3月14日の大阪空襲に続き,3月17日硫黄島の守備隊が全滅した。

 翌日の3月18日にも,九州方面の海上から飛来したアメリカ艦載機33機が松山市を空爆した。
 海軍航空隊基地以外の松山市街地に対する空襲は,この日が最初であった(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山市年表』290頁)。

 ただその被害の実態については,他の都市と同様に,大本営によって徹底的に隠され,市民には知らされなかった。
 前述したように,敗退を「転戦」という言葉で偽るように,どんなに重大に被害をも「軽微」という虚構で軍部・政府およぴ自治体は隠蔽し,マスコミはそれに無批判的に追従したが,もとよりそれは,愛媛新聞も例外では無かった。

 すなわち,内務省の1県1紙の方針により愛媛県においても,松山市の『海南新聞』と『伊予新報』それに宇和島市の『南予時事新報』の3社が合同し,『愛媛合同新報』として太平洋戦争開戦1週間前の1931(昭和16)年12月1日に新発足(『愛媛新聞80年史』239頁),それが1944(昭和19)年2月から『愛媛新聞』と改題された(1945年4月の新聞非常措置法で県下に配付される新聞は愛媛新聞一紙に限られたので,同紙は,大阪朝日新聞・大阪毎日新聞・大阪新聞の3紙の持分を合同した(同年10月解除)。
 その結果発行部数は5万2千から一躍13万5千になった--『愛媛新聞100年史』71~73頁)が,同紙も虚偽の報道に終始した。

 3月19日の空襲で,零戦に対抗して製造されたグラマン機により本社ビルを機銃掃射された「愛媛新聞」は,最悪の事態を予想して松山市郊外樽味の石手川に沿った撰果工場を借り受け,輪転機,平版印刷機各1台を疎開するとともに,道後グランド下のプール跡に巻き取り紙を運んで万が一に備えていたのである(『愛媛新聞80年史』250頁)。
 いうまでもなく,防空体制は全く壊滅状態,市民は戦う手段を持たず,命からがら逃げるのが精一杯であった。
****************************

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 
第55話【頭上のB29】↓の期日を検証してみた・・
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9477431.html

 あの4機編隊で、松山上空をB29が飛んだのは、何時の日だったのでしょう?

 丸善製油所が爆撃され、一昼夜燃え続けながら北へ北へと、真っ黒い煙が流れた、あの日はいつだったのでしょう?
 昭和20年7月26日の「松山大空襲」の記事や体験談は容易に検索出来ますが、それ以外の空襲については意外にも情報が少なく、軍隊の情報管制等によって、当時の「愛媛新聞」さえも、何処までが本当か嘘か判らない内容の実態です。

 あの翌日、浦子がしゃべってくれた「丸善製油所がヤラレタらしいよ・・・」の言葉は、あの日松山市民がその目で見て、口伝えで一夜で広まったものだろうとは思いますが、誰が見ても「製油所」の火災だ・・・は一目瞭然の光景だったのです。
 子供の私らが見ても「油が燃えた真っ黒い煙」であるのは、明確でしたから「丸善じゃろう」と薄々感じ取っていたと思います。

 それにしても、城山からの空襲警報のサイレンが、鳴り止むと同時に、学校で聞こえたあの<<ゴゴー、ドドーン>>の音と振動は、<<ドドーン>>は確かに爆弾が2発連続炸裂した音でした。
 直前の<<ゴゴー>>の音は振動こそなかったですが、爆弾の破裂音とすれば、恐らく吉田浜の軍施設が狙われて、弁天山に遮られて轟音の音が変化して聞こえてきたのかも知れません。

 その<<ゴゴー、ドドーン>>の破裂音から、B29が僕らの頭上に飛んで来るまで、約15分は経過しています。
 僕らが爆音(エンジン音)を確認できるまでの間は、大変静かな時間が経過していました。
 一時退避してから、帰路に就いて走っている時の約10分間です。
 爆撃された丸善製油所から4kmも無い距離のところです。
 恐らく、B29編隊は南から進入し、爆弾投下のあと周防灘を左旋回して、再度爆撃効果状況を確認の上で、東方の次の目的地へ向う段階で、我々の上空を飛行したものと思われます。
 
 下記、空襲記録を検索しますと・・・
 その日は【昭和20年5月4日】と想定されますね。

 「愛媛新聞」記事として、朝8時10分にB29編隊8機が松山航空隊基地を空襲し、盲爆の後、逓走した・・・とあります。
 全く「新聞」としての体を成していないのです。
 何発被弾して、なけなしの「製油施設がヤラレタ」とは、どこにも書いてありません。
 そして、10分も立たぬ間に、別のB29の9機編隊が来襲し・・・と記事にはありますが、これもどうだか?と思います。
 これが事実とすれば、僕らが見たB29は9機のうちの4機だったのか?・・・ともなるのです。
 4機の周辺を5機編隊が並行して飛んでいたのかも知れない・・・とは考えられます。

 しかし、爆撃したB29が、爆撃効果を確認のために、目標上空を再度飛んだものとも考えられるからです。
 
*******************************

【敗戦前夜の松山】から参考として引用しました。↓
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/SENZEN--MATYUYAMA.html

 例によって「愛媛新聞」は,翌4月27日付で「26日朝、わが郷土今治上空に来襲した敵機は,少数の爆弾を投下して遁走した。
被害は極めて軽微であるが,それでも家屋や住民の各々多少の損害をみてをり」と報じたのみで,被害の実態はもとより,爆撃が行われて場所すら報道しなかった。
 それゆえ,今治市の被害の正確な実態を隣接都市の松山市民は,クチコミと噂以外知る手だてを持てなかった。
状況は5月に入り深刻になった。

 5月4日午前8時10分には、第1波8機のB-29が,同日午前8時25分には第2波9機のB-29が松山海軍航空隊基地を空襲し,それは,基地周辺の民間人7人を含む76人にのぼる多数の死者と,3人の行方不明,169人の重軽傷者がでる惨事となった(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山の歴史』281頁)。松山市における大悲劇の幕開けである。

 この事実を『愛媛新聞』は5日付けの小さい見出しで,「被害は僅少」と以下のように報じたが,もはや「でっち上げ」としかいいようがない内容の記事であった。
 『マリアナ基地のB29は4日朝またも松山市を盲爆した。
すなわち午前8時15分ごろ松山市上空へ西南から進入したB29八機は,高度約4,000メートルの低空で軍事施設を盲爆し,そのヽち今治付近上空を経て遁走したが,10分もたヽぬ間に,こんどは別行動隊のB29九機が南西方面から同市に来襲,軍事施設を狙つて投弾--被害は僅少で付近の一部民家や田畑が猛爆されたが,軍官民一丸の防空活動はめざましく,3度目の盲爆ながら県都市民の敵愾心は、いやが上にも昂まり『この仇、きつと打つぞ』と微塵の動揺も見せなかつた。』

NOBUさんのブログから引用しました↓
http://blog.livedoor.jp/ehime1945/archives/51251646.html?u=http://blog.livedoor.jp/ehime1945/archives/2009-07.html#

 【松山に対する空襲】

 松山に対する空襲については、拙著「翔べなかった少年兵」P213ほか、「愛媛の空襲」P6、P7、愛媛県警察史などにまとまったものが記されています。
3月18日、艦載機数機来襲。松山海軍航空基地銃撃を受ける
3月19日、艦載機の大編隊来襲。松山基地、松山航空隊、銃撃及びロケット弾の攻撃を受ける。地上で9機炎上ほかの損害を受ける
3月20日、雨天を艦載機数機が来襲。基地周辺に爆弾を投下。被害なし
5月 4日、マリアナ発進のB29編隊、松山基地及び航空隊を爆撃
5月10日、マリアナ発進のB29編隊、松山基地を爆撃。時限爆弾を多数投下
5月14日、午前・午後に艦載機が来襲。基地及び航空隊を攻撃
7月 2日、夜半B29、衣山に焼夷弾を投下、衣山に疎開の松山航空隊本部が被災する。
7月24日 アメリカ艦載機の大編隊、松山基地、丸善石油施設を攻撃
7月25日、アメリカ艦載機の大編隊、松山基地ほかを攻撃
7月26日、午後11時~午前1時まで、マリアナ基地のB29、128機が松山市街地を焼夷弾空襲
7月28日、アメリカ艦載機の大編隊、松山基地ほかを空襲
8月 9日、沖縄の伊江島基地発進のP47及びP51編隊、松山基地を攻撃する。P47一機が対空砲火で重信川河原に墜落。別の一機は塩屋沖の伊予灘に不時着し、救難飛行艇に救助される。
8月12日、沖縄基地発進のB24爆撃機約50機、松山基地を爆撃

 以上が確認されている空襲です。これをみると、6月には空襲を受けていないことが分かります。
戦後に愛媛県防空本部は松山の被災回数を11回と発表しています。
 このほか、アメリカ軍の史料には、8月8日、10日、11日にも松山基地が沖縄発進のB24爆撃機一機~二機による空襲を受けたとありますが(前褐「愛媛の空襲」)、日本側の資料では確認できていません。

***************************

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

第68話 ●内子のまつりごと (内子) 9歳 昭和21年

 子供の頃のお正月用餅つきは、昔ながらのしきたりか、朝五時頃から大人だけが起き出して搗いていたので、ペッタン、ポッタンの杵の音は寝床でしか聞いていなかった。
「隣じゃろうか? ウチじゃろうか?」気にしながら起き出したものです。
年の暮れも二十五日を過ぎると、早朝に近所から順番に杵の音が寝床まで聞こえてくる。
 僕らが起き出す七時頃には餅つきは終了していた。
 恐らく、餅に餡を入れたり、丸めたりは子供には無理だから、登志姉ちゃんが出勤前に終わるようにしていたのだろうと思う。

 田舎では「あんこ」も全て自家製だ・・・祖母ちゃんが、小豆を三日ほどたっぷりと水を含ませ、それを充分に小豆の粒が崩れるまで煮て、砂糖や塩を加え、こげ付かさない様に煮詰めてゆくという、手の抜けない大仕事をやっていた。
「雑煮用」とか「餡入り焼餅用」とかの他「かきもち」(スライスした餅)を作っていた。祖父ちゃんが「かきもち」をモロブタ(餅を並べる箱)の隅で四角く長い餅をつくり、一晩置いてから乾ききらない内に包丁で薄く切って、ムシロの上に並べ干して「かきもち」を作るのです。

 お正月の準備は年末の裏白取り、ゆずり葉取りから始まるが、裏白はどこの山にもあるが、しめ飾り用の「ゆずり葉」(ゴムの木の葉に似ている)は山で探しても見付からず、結局取れず仕舞いでご近所さんから、分けてもらうしかなかった。
 それを材料にして、祖父ちゃんが縄を結い、しめ飾りが出来上がる。

 晦日に祖母ちゃんは「お正月は、みんな早う起きて【若水】を汲んでや」と注文をつけてくる。
 その家の最も若い人か、子供が【若水】を井戸から汲み上げ、台所の水がめに満杯溜めて、参ケ日の調理に使用する習わしだ。
 雑煮の朝食が終わると「床の間の、お鏡餅のところへ行って、歳を取っておいで・・・」と指示が飛んでくる。
 お鏡餅に手を合わせ「今年で九歳に成りました」と九歳の自覚をさせられ、三宝から「カチ栗」と「甘干し(干し柿)」を貰っていた。

 お正月の遊びは、こま回し、双六(すごろく)、かるた取り、羽根つき、ぱっちん(めんこ)くらいしかなかったが、夜は大人に混じって花札の相手を大いにやったものだ。
 寒い冬場に温もるのは、羽根つきとぱっちんだったので、結構相手も居たし大いにやったものだ。

 祖父ちゃんが器用に羽子板を作ってくれて、墨書きの役者絵を上手に書いて僕ら兄弟にくれた。
 そして羽根が虹色に輝く黒っぽい牡雉(おすきじ)を祖父ちゃんらと雉鍋にして食べた後、羽を残しておいてくれていたのを使い、ムクの実を探してきて、牡雉の羽を植え付け綺麗な羽根つき用、羽根が出来上がっていた。
 この牡雉は、山麓育ちの森岡の伯父さんが狩猟好きで、猟犬を連れ散弾銃を持って、立川周辺の山中で狩猟した時、土産に雉二羽を置いていったものだ。

 羽根つきは表の道路でやっていたが、一人で突く場合と、バトミントン風に二人で突くのだが「一目、二目、見よこそ嫁御、いつ夜の昔、七夜のやつし、九重の、とうお・・・」と 数え歌を歌いながら近所の女の子等と突いていた。

 この頃の小学生は冬でも半ズボン、足袋と下駄履き姿、女の子はスカートが常識の時代だ。
 寒い時でも「大人はエエなぁ・・・長ズボンがはけて・・・」と思う程度で、子供は半ズボンをはくものだと信じていたので、雪の日でも震えながらも、平気で半ズボンで過ごした。
 国防色(うす緑色)のゴワゴワした丈夫な生地の、あの感触が良きにつけ、悪しきにつけ思い出される。
 だから始めて長ズボンをはいたのは、中学の制服を着たときじゃなかったかと思う。
 冬は足袋を履いて下駄履きなので、足袋は湿るし霜焼けが足指によく出来てイジ痒いので、祖父ちゃんが硫黄を溶かして薬を作ってくれていたが、あまり効き目はなかった。


 それにしても、様々な優雅な行事が、内子町には多かったなあと感心しています。
 寒の節分には豆撒きの後、家族の年齢の数だけ、大豆をちり紙に包み、子供が四つ辻まで行き、背中越しに後ろ向きに投げてくるのである。
 家を出る時、祖母ちゃんから「後ろを振り返ったらイケンぜ!」と注意が飛んでくる。
 逃げた鬼が、そこら中にたむろしているからじゃ・・・そうである。
 だから背中に視線を感じながら、ハラハラしながら急ぎ早足で帰って来るのです。
 近所の四つ辻は、百メートル程先の天理教会横なので、翌日行って見ると近所の人も来たのだろう、周辺は節分の豆だらけであった。

 三月十五日は、内子町の春祭りで「お稚児さん」の日です。
 高昌寺に伝わる「涅槃(ねはん)まつり」で、天上天下を指差したお釈迦様に甘茶を進上
し、境内で甘茶を戴いて、大勢の参拝者で賑わうのです。
 本堂では、江戸時代に描かれたとされる涅槃図や、地獄絵図、極楽絵図が公開され、それを見て子供なりに身を諭すのです。
 選ばれた、今春小学校に入学する男児が烏帽子姿、女児は冠姿で参列し、きれいにお化粧をして、美しくお内裏様のようにあでやかな衣装をまとった、こども達が街をねり歩きます。

 この行事と並行して三月に入ると、女の子が居る家は床の間に「お雛様」が飾られます。
 「お雛様」は四月三日まで雛壇で飾られ、春休み中のこの日「雛送り」と称して子供も大人も、ご馳走持参で花見がてら川原遊びや魚とり、大人たちはちょいと一献となるのです。
「雛送り」とは云えども、男の子にも楽しい行事となっておりました。


 七月十五日は「夏祭り」です。 当時は本町一丁目から八日市まで、約一キロある商店街だったから、各商店が競って自分の販売する商品を材料として「造りもの」を夏祭りの店頭に飾り、その出来栄えを各商店が競っていた。
 「造りもの」を予定しているお店は毎年お正月が終わると、今年の「造りもの」は何にするか?を家族に相談しながら構想を練ってゆくそうです。 店主は寝ても覚めても「お題」は決まっても「材料を何で賄うか」という宿題があり、考えていたら中々商売は二の次になっているような話をしていました。
 作品には(町長賞)(町会議長賞)(商工会長賞)等があり、夏祭り当日には表彰札が「店頭掲示」されていた。
 町内では一丁目の宮西たんす店の「造りもの」が有名で、箪笥の飾り金具や蝶番をふんだんに使い、鰐や狐、鎧姿の武将など、見事な物語の場面を造っておりました。
 見物人は造りものを拝見しながら、一丁目から八日市あたりまで、約一キロ程を闊歩するのです。
 祭りには周辺町村の農家から、鍬や鎌などの農具、ナタや包丁、鋏などの日用品、種苗や靴、地下足袋、衣服類の購入にドサッと人々が出てくるので、県内外からも露天商人が来て店を出し、昼も夜も大変な混雑で大賑わいしていました。

 特にこういった紋日には、内子座で巡業田舎芝居が必ず興行されていたので、屋上の櫓から午前十二時と夕方四時に振れ太鼓(つづみ太鼓)が、軽快なバチさばきで鳴らされ「トコトン、トコトン、トコトコトントン・・・」と叩かれるので、学校の授業中にも、振れ太鼓の音が風に流されて、高くなったり、低くなったりしながら、町中に聞こえていたものです。
 拍子のリズムに併せて「馬鹿来い、馬鹿来い、土でこ(土人形)見せるぞ・・・」と鳴らしているぞと、振れ太鼓の音に合わせて、大人も子供らも言っていたものです。
 終戦直後は、どこの中学校も新設校でしたので、講堂らしき物も無く「学芸会」等の発表会は内子座を一日借り上げて実施していました。見物の父兄や町民で、内子座は溢れかえっていたものです。

 八月一日はお上人様の祭り、真寂上人様(一遍上人から数えて二七代目の大僧正である。天文十七年(一五四八)この地に立ち寄られ荒れ果てた寺を再建することに力を注がれたが、遂に病気になり天文十七年七月二日にこの地で亡くなられてしまった。人々は眞寂上人の死を悼み、寺の東方に遺骨を納め一基の宝塔を建てて、八月一日を供養日としている)のお祭りらしいが、願成寺前の道路に上人様の祠と宝塔が在るので願成寺を中心にして、廿日市地区の檀家の人々が、供養日としてお祭りをするしきたりの様でした。
 祖母ちゃんらは毎年、この八月一日を紋日扱いしていたのです。
 「今日は、お上人様の(おついたち)じゃから、おご馳走するよ」とか言って台所で包丁さばきをしていたですね。
 夜は、寺の境内で青年団が歌謡祭をやっていましたが、今で云うカラオケ大会なのです。
 当時マイクは通じていたものの、カラオケなど有る筈もなく、伴奏は有志のアコーデオンとかハーモニカを使っていましたが、田舎の兄ちゃん達がやること、音程の狂いやら飛ばしやらで、歌唱者は完全にマイペースで歌っていました。
 今思えば、浴衣を着た田舎の青年男女の社交の場として、利用されていたような気がします。
 六年生の時だったか、境内の松の大木に凭れて見物していると、見たことも無い可愛いい同年ほどの女の子が隣に来て、二人並んで木に凭れて見物する格好になってしまった。
真夏の夜のこと、汗ばんだ二人の二の腕が、触れ合ったり擦れ合ったりし始めてドキドキしてきた。
 女の子も近づいたり離れたりしながらの後、二人の二の腕を接触させたまま、温もりの伝わるその感触を楽しむかのようにじっとしているのです。
 一時間ほども経ったか、腕を動かすとお互いの汗で「キュ、キュッ・・」と音が出そうな感触なのだ。
 「この子も、この感触が気持ちエエので、楽しんでいるんじゃな・・・」と感じながら声をかけてみた。「夏休み、この近所の親戚へ来とるん?」しばらくじっとしていたが、女の子は僕に目配せの会釈をして帰って行ってしまった。 僕は「送ろうか?」の一言が言えなかった。あゝ追いかける勇気も、ついてゆく勇気も無かった。

 八月七日は一ケ月遅れの「七夕祭り」
 山の奥から竹竿ほどの太さの竹を、切り出してきて、前日から短冊に大人も子供も、お願い事を筆書きして、棕櫚(シュロ)の葉を細かく裂いて紐にして飾ってゆく。
 習字と違って、細字の毛筆になじむという点で、子供の僕たちにも大いに約に立っていたと思う。
 毛筆を使う時は、習字の時間に自分の名前記入の時だけなので、「毛筆を使いこなせるように慣れんといけんぜ」と祖母ちゃんがけしかけてくる。
 そして七日の朝、準備した短冊やお飾りを竹竿に取り付け、これを各戸が蚊取り線香形の旗竿固定具に絡ませて立てるので、道の両側から笹のトンネル、それは見事な眺めだった。
 七夕が終わると使った竹は、枝をそぎ落とし「もの干し竿」として使用するという習わしでした。


 八月のお盆には、十三日は祖母ちゃんが仏壇から恭しくお位牌を出して、きれいに清掃して、床の間にお盆用に用意された祭壇に並べた後、お迎え火を焚きに、墓所の見えるところまで行き「お盆じゃから、おいでなさいよ」と「麻がら」でお迎え火を焚いて、その火を蝋燭に移しちょうちんに入れ、霊はその灯明に導かれて家族のもとに帰り、祭壇に祭られるのです。
 そして十五日、お住職さんを迎えお経を挙げてもらい仏様を労うのです。
子供の私等も毎朝、朝食前に祭壇前で手を合わせていました。
 霊はお盆の間、家族と共に過ごし、十六日の送り火に送られて墓所に帰ってゆくのです。
 お迎えしたところまで、ご灯明でお導きしお見送りしていました。


 十月十二日は「秋祭り」でした。八幡神社、天神様、権現様、三嶋神社から、お神輿が出て町を練り歩き、神輿を守り先導する赤鬼、青鬼、黒鬼が二、三頭付いて、鬼は握りやすい太目の孟宗竹の先を粗めに裂いた竹を持ち、地面でジャラ、ジャラ言わせながら、お神輿とその後ろに続く氏子の幟持ちの露払いとして先頭を威張りながら進んで来るのである。
 振舞い酒を飲み干して鬼は動き廻り、走り廻るから、子供たちは遠巻きに見ながらもからかい半分で逃げざるを得ない。
 鬼は二十歳代の若衆が変身しているので、足は速いは、力は強いはで、ところ構わず縦横無尽に動き、子供たちがからかうと鬼に追い掛け廻され、その竹でジャラジャラ引きずって、バシバシしばかれるのがまた楽しくて、子供たちはキャーキャー言いながらも、鬼さんをからかい、なぶり乍ら逃げ廻り、路地の奥やら納屋の中まで追い掛け廻されていたものです。
 ウチも三嶋神社の氏子でしたので、五年生の時でしたか二十本程の内、幟持ちを申し受けたが、竿竹の太さで幟の重さが増すので、要領の良い人は軽い幟から早めに確保していて、社務所前に重そうな幟だけが三本残っていた。
 子供の肩に喰い込む重い幟を持たされて、町内一周の神輿に付いて歩いてゆく・・・
あぶら汗を流しながら、ふぅふぅ言いながら、楽しい筈の秋祭りを苦痛で過ごした一日でもあった。


***************************************

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 
第67話 ●亥の子餅つきましょか・・(内子)9歳 昭和21年

 内子町は江戸、明治時代に至り宇和島、八幡浜、大洲方面から松山へ上る宿場町として、又周辺山間部の農林業者やお百姓の農工具、種苗、衣類、履物、日用品などの買い出し場所として大変賑わっていた田舎町でした。

 町内には八幡神社、天神社、三嶋神社、恵比寿神社が在り、それぞれ春祭り、夏祭り、秋祭りの行事に合わせて農村からの買い出しの人々で賑わい、恵比寿様のお祭りは、旧暦十月の最終「亥の日」と成っていました。旧暦なので十一月下旬になり、お百姓さんにとっては刈入れ脱穀が一段落し、換金も一段落の時期になります。
 それを見込んでの恵比寿神社のお祭りは、商店街挙げての大売り出しの大盛況で、買い物客には引換券や抽選券が配られ、それを持って町外れの恵比寿神社の狭い境内で景品と交換するので、神社界隈は子供らが近寄り難い凄い大混雑と成っていたものです。
 二百坪ほどの狭い境内で、地下足袋などを履いた農家のおっさん達が、良い景品をもらおうと、芋を洗う状態でうねっている様は、そりゃ凄いものでした。
 
 恵比寿神社の祭りと連動した、夜の行事で子供のご祝儀稼ぎの為の「亥の子餅つき」というのがあったのです。
昔、田舎ではイノシシやもぐらが田畑を荒らして困っていたことから、石で土をついて固めたことが最初だと云われていました。
 今年も餅をついて福を呼び、万病を除くようにと願う、御まじないのような行事だと思うが、その日は夕食を済ませた午後六時頃から、子供たちがグループを組んで、各家の戸口へ行って「亥の子餅、搗きましょか?」とお願いしてつくのであるが、その道具が藁すぼ(藁束)である。
 藁束をバット程の太さに束ねて、縄で巻いて補強して、尚且つ取っ手を付けて地面を叩くので分解しないように細心の注意が要る。
 亥の子の神は、「一に俵をふんまえて・・」と有るので大黒様のようではあるが、田んぼの神様だと信じられ、この月の日に、神様は田んぼから春まで家へ帰られるのだそうです。その神様のために餅をつくのが、この地域の習慣になっています。また、収穫後の祝いとして、農村で行なわれる重要な年中行事でもありますし、男の子にとっては、年間を通じて一番盛んな、そして一番楽しい集団的遊びなので、今でも町内周辺に残っています。昔は、男の子のものでしたが、今は女の子も男の子のグループに入り、亥の子の歌を元気よく歌い各家を回っている様です。子供たちの一団が各家庭を訪れ『こんばんは、お亥の子餅を、搗かしてくれますか。』『ぼくら、よう来てくれたのう、元気よくついてな』の調子です

 町なかはグループが多すぎて『五組ほど、済んだぜ・・』と断られるケースが多いから、僕ら一ちゃん等のグループはもっぱら町外れ方面を廻った。
どの家庭でも、気持ちよく受けてくれていた印象で、なかなか行動も歌もスムーズに進むのだった。

 俊光らは同級生らと町なかへ出かけて行ったが、町なかはグループが多すぎて断られるケースが多いから、僕ら一ちゃん等のグループはもっぱら廿日市方面を廻った。

 どの家庭でも、気持ちよく受けてくれていた印象だった。
 戸口の前で、藁すぼを叩きつけながら・・・

『お亥の子さんという人は、
 一に 俵ふんまえて、
 二で にっこり笑うて、
 三で 酒を造って、
 四つ 世の中、良いように、
 五つ いつもの如くなり、
 六つ 無病息災に、
 七つ 難ごと無いように、
 八つ 屋敷を建て広げ、
 九つ 小蔵を建て並べ、
 十で とうとう収まった、
 ここの屋敷は良い屋敷、中が窪うて縁だかで
 大判小判が流れ込む、繁盛せい、繁盛せい!
 もう一つおまけに繁盛せい!
 芽出たし芽出たし・・・』と数え歌になっている。

これで叩き終わり、家の人から、ちり紙で包んだご祝儀を一人一人手渡しで戴くのである。
 開けてみると一〇銭紙幣三、四枚とか、五〇銭紙幣1枚とかが入っていて、一晩で合計五円くらいにはなったと思うが、子供には大変嬉しい収入源になっていたものです。
サッカリン入りのアイスキャンデー一本が、一〇銭ほどの時代でした。(昭和二十三年頃)

 ただし、戸口で藁すぼで地面を叩き廻るため、そこら中、土煙だらけになり閉口したものです。家へ帰ると「服もズボンも土埃だらけじゃ、土間で脱いで直ぐに風呂へお入り・・、直ぐうがいもしなさい!」の命令が下ったものです。


 松山でも上級生がやっていたのを見たことがあるが、松山のは地固め用の「鈴型の御影石」に鉄輪を付け、これに縄を6本ほど繋ぎ、六人ほどで引揚げては地面を叩いていた。
 石の塊だから、敷石の上やモルタルの上では、とても出来ないのだ。
 この時の歌は「亥の子、亥の子、亥の子餅ついて・・・」と数え歌であるが「かごめ」の歌に似ている旋律だったので「内子と松山とは、だいぶ違うなぁー」と感じたものだった。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

 
第66話 ●まさかり淵へ川泳ぎに(内子)9歳 昭和21年

 夏休みに入ってからでないと、川泳ぎは祖母ちゃんに禁止されていた。
 当時、何処にもプールなど在るはずが無く、大人も子供も泳ぎはもっぱら川泳ぎ専門だった。
 それも何時も午後からで、近所の子達と誘い合わせ、みんな木綿地の手拭を首に巻き麦藁帽にランニング・シャツ姿で出発だ。
 女の子は、シミーズ風袖なしワンピースに麦藁帽子だ。
 郷の谷川を川沿いに下って、新町の南を流れる農業用水路横の畦道を、イデゴ(農水路)の鮒子や田んぼのイナゴやトンボ、蛙をつつきながら、大岡製作所裏を通り、内子橋下の「まさかり淵」へ行くのがいつものコースだ。

 遠いから自転車で・・・と言うわけにはいかない。
 祖父ちゃんらが使っていた自転車は、タイヤは朽ち果て、車体は錆びてしまって使い物にならない。
 当時は子供用自転車など何処にも無く、写真でさえ見ることもなかった。
 子供が自転車乗りの練習する時は、大人用を持ち出して、学校などの運動場で横乗り(三角乗り)して練習していた。
 町内を自転車で走る時も、子供は平気で横乗りするのが当時の常識だった。

 さて、まさかり淵へ着くと・・・
 ここには飛び込む岩場(ま○○岩)も在り、場所によっては深さも2メーターほど有ったが、浅いところも周囲にあるから、内子の下級生には手頃だった。
 川原でシャツとズボンを脱ぎ、麦藁帽子で衣類に蓋をして、風に飛ばないように石を置く。
 周辺にある蓬の葉をむしって、小石でつぶし水中メガネの内側に塗ってメガネの曇り止めにしていた。
 まさかり淵では、目の前を、10センチ以上もある鮎やハヤやもろこが、群れて泳いでいるのがよく見える場所だが、色や容姿で容易に見分けはできる。

 まさかり淵以外には中学生らが行く「竜宮淵のかばん岩」や「小田川の畳岩」があったが、子供にはちょっと遠過ぎたし、深いので危険だと禁止されていた。
 2年生の時(終戦前の夏)は一、二度だったのでフルチンで泳いだが、3年生からは登志姉ちゃんのお下がりの、黒いワンピース型水着を、祖父ちゃんが二着出してくれたので俊光と使った。
 スカートのようなフリルが付いていたので、恥ずかしくて極力水から上がらないようにして渋々使ったように思う。
 4年生になってから「Hふんどし」を買ってもらった。
 Hふんどしは局部のみ黒い生地の三角巾で覆い、細い紐で腰に結ぶ子供用ふんどしであったが、男の子は 全員これを装着し、男はHふんどしを使うもんだと、違和感は誰一人持っていなかった。
 女の子は殆んど白いシュミーズと白いズロースだったと思う。
 いつも4時頃には、また誘い合わせて帰途に着き、水着は井戸水で(水道無し)必ず すすいで天日干ししていた。

 泳ぐのは8月12日までで、13日に仏様のお迎えがあるので「お盆は、迷い仏が飛んどるけん、泳ぎには行ったらイケン!」とタキノから硬く禁じられていた。
 13日には、祖母ちゃんが「お迎え団子」を作り、芭蕉の葉の上にピラミッド形に3段重ねに盛って、お墓の望める天理教会向こうの畦道まで行って、団子を供え灯明を灯して「皆さん、おいでなさいよ」と
灯明を提灯に移して、家までご案内していた。
 これらは、祖母ちゃんと子供らのいつもの役目でした。

 お盆を過ぎれば毎年の事だが、もう暑さも峠を越していて、泳ぐつもりにはなれなかった。
 田舎のお盆は、お盆トンボ(赤とんぼ)が道路を飛び交い、暑い夏も終わったなあ・・・と、思わせる風情が満ちていた。
 4年生の時か、赤痢、チフスの伝染病が流行し、内子橋の近所に避病舎(隔離病舎)が在ったり、立川で患者が出たとかで、学校から「川泳ぎ禁止令」が出た時があったが、この時は泳ぎたくとも泳げない暑い夏を過ごした。 
 ウチの近所からは患者は一人も出なかった。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 
第65話 ●知清川原で雛送り(内子)9歳 昭和21年

 内子の雛祭りは旧暦に合わせて4月3日で行われていた。
ちょうど桜満開の時期である。
 森並の家でも毎年、祖母ちゃんがお雛様を出して大切にお飾りしていた。
 勿論、母らの姉妹は4人もの娘が居たのだから、当然のことだと思う。
 お向かいの久ちゃんとこも、天井まで届く立派な雛壇で近所でも有名であった。
 普段に遊ぶお人形さんも、全員お祭りしてあげましょう・・・という、やさしい配慮があったのだろう。

 4月3日は「雛送り」と称して、内子の町中の大人も子供たちもが、近所誘い合わせて 知清川原でお花見を兼ねて、お雛様を飾って過ごした数日の終わりとして、お重箱のお開きするのである。
 ウチでも前夜から、祖母ちゃんが煮しめを炊き、フライを揚げ、登志姉ちゃんは巻寿司を巻き蒲鉾を切って、祖父ちゃんはきずしを巻き、ゆで卵を飾り切りして、重箱に丁寧に盛り 付けていました。
 10時頃、近所の子達は誘い合わせて、風呂敷に包んだ、子供用の小さな三段重ねの重箱と水筒を持って出発し、肱川通り、知清橋を渡り川原に到着です。
 あちこちにゴザが敷かれ、車座になって宴たけなわの風情が漂っている。
 橋の袂の堤防に爆弾被弾した幅15メーターの大穴が開いていたが、その周辺からスピーカーで「青い芽をふく柳の下で~、花を召しませ~、召しませ花を~」とか「赤いりんごに唇よせて~」と流行歌が大音響で流されている。
 川原に面した山裾には、桜の大木が10本ほど有ったので、花見客も大勢だった。
 桜の小枝を折って肩に担ぎ騒ぐ若衆も結構多かったが、関わり合いを恐れて咎める人も無かったようだった。
 薄くて丸い青石で覆われた、知清川原で車座になって、重箱を開き景色を見ながら、お喋りしながら食べて、水辺で水中の石をめくりながら、ドンコやカジカ(ごり)を手ですくったりして、楽しいひと時を過ごすのである。
 町内の大人も子供も、夫々が車座になって川原中で半日過ごしていた。

イメージ 1

イメージ 2

     ↑ 中間の踊り場から見上げた天神様・・昭和37年(1962)

第64話 ●古天神で松葉取り(内子)9歳 昭和21年

 釜戸や、風呂の焚き付け用に、松の落葉は油分を含み、火付きが良くて最高の素材だ。
 釜戸で薪を焚きつける素材を準備することは、主婦の重要な準備作業なのです。
 紙が貴重な時代、紙くずなんて新聞紙くらいで、その新聞紙さえも包装用が当たり前、又は寸断してもっぱらトイレ用となっていた時代なのです。

 タキノは年間を通じて2ヶ月に一回は、僕と俊光を連れてこの松葉取りに行っていた。
 「松葉がのうなったから(無くなったから)、天気も良いし明日の日曜は松葉取りに行くぜ・・・」という調子だ。
ウチから一キロ弱の、植松に在る古天神様である。
 ここは松林の森になっており、良質の松葉が林の中に敷き詰められている感じで、集め 易くて、更にお宮さん境内の清掃にもなることだ。
 森並の家には籐で編んだ、僕らが乳児の時使用したと思われる乳母車が残っていた。
 これに空の炭俵を3ケ積んで、古天神さんの下まで僕らが押してゆくのである。

 古天神さんの下まで来ると、道路の直ぐ横に鳥居と石段があり、この石段が急角度、急傾斜で45度はあったと思う。
 「内子で最も急坂の、お宮様じゃけんなぁ・・・」とタキノは言う。
 乳母車を道端に置いて、空の炭俵を抱えて、三人でこの石段を登るのである。
 石段は約50段、モンペを履いて姐さん被りの祖母ちゃんは「よいしょこらさー、どっこいしょ、よいしょこらさー」と10段くらい毎に、腰を落としては登ってくる。
 登りきると境内はほぼ平地で、松林を風が吹きぬけている。
 蝉が鳴き始める前の松虫?のジージーと鳴き騒ぐ声と、近くの内子駅からの機関車の汽笛が、今でも思い出すと耳に響いてくるようだ。

 拝殿に手を合わせ「松葉拾いをさせて下さい」とお願いしてから、三人がそれぞれ適当な場所へ分散して、 四つん這いになり、指を熊手のようにして、 地面を這いずり廻って掻いてゆけば、松葉は容易に山のよう集まる。
 手袋のような気の利いたものは、軍手さえも無い時代だ・・・とに角、素手だ。
 当時は「鍋つかみ」のような耐寒手袋を、家庭で手縫いするのが関の山だった時代だ。
 横へ炭俵を持ってきて、松葉の山を両手で抱えて俵の中へ詰込んでゆくのだ。
 その繰り返しをしながら、俵半分くらいになると祖母ちゃんは
 「松の木を持って、俵の中へ入って、上から重石になってトントンせんと、このくらいはチョビットじゃけんなー」と僕らをけしかけてくる。
 確かにそれをやると松葉は圧縮され、容積は半分以下になり、次から次へと何ぼでも 詰まってゆく。
 約一時間の孤軍奮闘の末、炭俵の形が膨らんだ状態になって満杯、仕事完了だ。
 今度は藁で編んだ、炭俵の蓋を置いて、縄で蓋を締めてゆくのである。
 ここで「祖母ちゃんは下で待っとるけんなー、合図するまで落としたらいけんぜ・・・」と石段を降りてゆく。
 その間に約25キロもある俵を3つ、石段の最上部へ並べ、合図を待つのである。
 祖母ちゃんの「はーい、降ろしてー!」の合図で、下を見ると乳母車を道路の真ん中に 置いて俵止めとしてスタンバイ、祖母ちゃんは横の方から見上げている。
 今度は「祖母ちゃん、行くぜー」と上から声をかけ、俵を1ケづつ転がすのだ。
 俵は、勢い良くもんどり打って、跳ねながら転がり落ちてゆき、道路までたどり着く。

 そして、次の合図を待つのだが、時々「人がそこまで来よいでるけん、お待ちよー!」があった。
 下で、祖母ちゃん達の「孫らと松葉拾いに来たのよー」との世間話で待たされ・・・も結構あった。
 あれだけ勢い良く跳ね転がる炭俵でも、途中で荷崩れするようなことは、一度となく無かった。

 一通り降ろし終わると、今度は乳母車に積み込み作業だ。
 乳母車の篭の中に、俵を1ケ寝かせ、残りの2つをその上に横積みにして、縄をかけて固定するのだが、重心高で不安定ではあった。
 乳母車を押しながら、祖母ちゃんの歩きに合わせて、ぼちぼちと家にたどり着くのである。
 家に到着すると、土間を転がして風呂場横へいつも据えるようにしていた。

このページのトップヘ