泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2010年02月

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          ↑ 内子小学校 


第58話 ●内子国民学校へ転校(内子)8歳 昭和20年5月

 住民登録も済ませ、転校生の手続きも済んだのか、祖母ちゃんが羽織を着て僕と俊光を連れて学校へ登校した。
 学校の容姿が凄く立派で「凄い学校へ来たんじゃ・・・」という気持ちになった。
 教室内は青みがかった青磁色の塗料が塗ってあるのが、外から見ても解るほどだった。
 同じ背格好の子供二人のため、受付けてもらう時でも双子と勘違いされた。
 周辺の子供らも「双子かぁ?」と問いかけてくる。

 僕は二年竹組(クラスは松、竹、梅)に編入され、女性の乾家(かんけ)先生のクラスだった。
 乾家先生は23~4歳くらいか?紺色の服装で、頭の後ろで小さな丸髷を結っている先生だった。
 「松山から来た、福島君です」と先生が紹介すると、徳田君や東原君が
 「福島県、空襲警報発令!」などと、大声でラジオのようにかしこまった声で冷やかしていた。
 当時ラジオでは「徳島県、高知県空襲警報発令、愛媛県、警戒警報解除」などと 常時、引っ切り無しにラジオから流されていたので、語呂が似ていたのだろう。
 前から3列目の左端の席へ座ったと思う。
 乾家先生は一見おとなしそうな、内気な先生だったので、ガザマツ君が多かったこのクラスでは先生は手こずっていた感じだ。
 僕の前の辺に席があったガザマツ君は、先生にたて付くことはザラで、自分の教科書や筆箱を窓から外へ放り投げたり、教壇まで上がって黒板消しを投げたりがあり、同じ行動を真似てふざける子も居たりして「酷いトコへ来たなァ」と教室では直感していた。
 学級崩壊とまでは行かないが、一部のガザマツ君の私語で授業が中断したり、先生が窓際へ駆け寄りハンカチで涙を拭ったりが何度もあった。
 ガザマツ君は、くすくすほくそ笑んでいたが、殆んどの真面目な子達は「先生の弱虫!」と心の中で叫んでいるようだった。

 だからであろうか、半年後、秋には清水一平先生が受持ちの先生となった。
 清水先生は学徒勤労動員で、新居浜の住友系軍需工場で働いていたらしく、新居浜での色々な出来事や経験を授業に取り入れて話してくれて解かりやすかった。
 口調も身体も元気一杯なので、完全にガザマツ君を押さえ込んでしまっていた。

 内子へ来てから初めて見たのは「宙返り訓練用具」と皆が言っていたものだ。
 輪の中に大の字になって乗り、50メーターほど自走して止まる訓練機だ。
 「飛行兵に成るにはアレが出来んと成れんのじゃ・・・6年に成ったら、皆ヤラされるぞ・・・イヤじゃのう・・・」と陰口を利いていた。

 通学用教科書入れは、松山から持ってきた絣の医療袋だけだったので、登志姉ちゃんのお下がりの、縁が摺れた茶色のランドセルを使用したが、防空頭巾だけは田舎でも必携品だった。  
 俊光には泰山の軍人用腰吊鞄を、忠兵衛が背負い用に改造し、ランドセルにして使用していた。
 分厚い本皮製のしっかりした仕立てで、蓋には☆のマークが付いている立派なものだった。
 戦争が終わってからではあるが、学校からの帰り道、内子駅前にジープで乗りつけていた進駐軍兵士二、三人が、僕の前を下校していた俊光のランドセルに、指を指し目を奪われていたこともあった。
 孝芳が入学した3年後にも、お下がりとしてこのランドセルを使用して、小学校在学中使用していたと思う。

 年に一回の授業参観は、祖母ちゃんのタキノが必ず来てくれていた。
 お婆ちゃんが来ている姿は珍しいので、子供たちには人気者で「鼻メガネの婆ちゃんが来たぞ・・・」とひやかし半分で僕に知らせてくれたりしていた。

 内子で最初に覚えた歌は、子供たちが歌っていた・・・「ピストンはゴットントン、発動機はポコポコポン、ピーデル(ジーゼル)はトローン、クーイクイ、ゴーゴ鳴るのは潜水艦だー、ビー(タービン)」と「昔、昔、その昔、椎の木林の直ぐ傍に、小さなお山があったとさ、あったとさ、丸々坊主の禿山は、いつでも皆の笑いもの・・・」松山での軍国唱歌と違い、子供には新鮮だった。
 この頃、学校で習った唱歌は「但馬守(たじまもり)の歌」で「香りも高い橘を、積んだお舟が今帰る、遠い国から積んできた花橘の・・・今帰る但馬守、但馬守」で、天皇の命を受けて「たじまもり」が香りの高貴な橘を、船に乗って南方の国へ探しに行き、橘を見つけて10年後に帰国したら、天皇は亡くなられた後だった・・・という歌でした。
 2年の学芸会は合唱「うぐいす」でした。
「ケキョケキョうぐいす、ホーホケキョ。ホーホーうぐいす鳴かせましょ。山は白雪降るばかり・・・」と言うような歌でした。


 内子へ疎開して来てから、半月も経ってない時期に、浦子から便りが来たのだろう。
 祖父ちゃんが僕らに「松山の家の近所に天理教があるのか?」と問うてきた。
 僕は「50メートルのとこにあるぜ・・・」と返事すると
 「そこで一、二年生は授業するようになったから、帰って来いと祖母ちゃんが言うて来とるが、どうすりゃ?」ということだった。
 僕は「松山へ帰ってもええか・・・」という気持ちも少しあったが、内子では空襲が無いし、のんびりした生活の中、やっと友達も出来て慣れてきていた。
 俊光と相談すると、俊光は「絶対イヤ!」と一言で嫌がったので、僕も残ることに決めた。
 俊光は数ヶ月前まで、内子に居たのだから、内子が居心地が良いに決まっていることだった。
 確かに松山大空襲の前だっただけに、松山へ帰っていれば家族は、更に大混乱に巻き込まれていたことでしょう。

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第57話 ●内子へ来た翌朝(内子)8歳 昭和20年5月

 以前、母の実家森並の家は道路より約1メーター弱低くなっていたが、道路の高さまで嵩上げされていた。
 そして一階道路側に硝子戸が新設されて、表の間も明るくなっていた。

 母の実家には、伯父静夫さんの娘、節ちゃんを連れて帰っていて、僕らよりも先客の子供が居た。
 静夫さんは神戸で空爆にあい市街は壊滅、そして奥さんの香(かおる)さんが病死された為の納骨と、娘節子を忠兵衛・タキノのもとで預かってもらう為の帰省だったのだ。
 静夫さんは松山からの汽車の中でも、内子へ着いてからも「名残り尽きなーい、果てしーなーい、別れ出船のー鐘が鳴る」と「別れ船」の歌を口癖のように口ずさんでいた。
 歌を口ずさみながら飄々と、奥さんの里の天神村や町内の友人宅へ挨拶廻りされている様子で多忙そうだった。
 どうも帰省されてから、取るものも取り敢えず、僕らを迎えに松山へ出向いてくれた様子だった。
 まだ、節ちゃんは一歳半程ではなかったかと思う。
 ちぢれ毛の節ちゃんが、縫い上げの付いた、分厚い赤色のちゃんちゃんこを着て、大きな蒸し芋を両手に持って、縁側にデーンと座って、大きな目で僕らを見ていたのを思い出す。


 内子へ来た翌日は日曜日で、表の間の帳場机で俊光と二人で勉強していた。
 登志姉ちゃん(母の妹)が横から覗き込んで、色々と指導していたと思うが、近所の子供達が入れ替わり立ち替わり、珍しがってその机の周りに集まって来たので、半分恥ずかしくもあったが、子供たちの殆んどが、以前内子に居た頃の顔見知りだったので、すぐ言葉を交わしていたようだった。(一ちゃん、里ちゃん、大ちゃん、久ちゃん、ムネちゃん、隆幸ちゃん、克ちゃん、政ちゃん、頼ちゃん、繁勝ちゃん、節ちゃんなど同年代だけでもゾロゾロしていた。)

 外は陽光の降り注ぐ、爽やかな日だった。
 表の間には、まだ下駄屋の名残りがそのまま残っており、帳場机やその周囲に置く格子、硯箱、下駄を並べる陳列台などもあり、戸棚には下駄も並んでいた。
 然し部屋の半分ほどは、長浜町の岸本問屋や友澤酒店から、備品避難のためのボール箱に詰められた荷物が積み上げられていた。
 祖母ちゃんからは「お位牌などが入っていたらいけんから、箱の上へ上がったらいけんぜ」と早々に注意を受けていた。
 登志姉ちゃんは伊豫合同銀行(伊予銀行)へ就職して、さほど期間は経ていなかったと思うが、戦時中のことなので、少々伸びたオカッパを三つ編みしていたかと思う。


 僕と俊光が肩や背中を、かゆそうにボリボリ掻いているので、蚤(ノミ)がいるかも知れないと、祖母タキノが僕らの肌着を脱がせて調べていたが・・・
 「これは虱(シラミ)じゃがぁ! コロコロしたのが、ぎょうさん這うとる。 縫い目に卵がいっぱい付いとるがぁ! 二人とも、早よう着とるもん脱いでおしまい! あーァ、ギョーが出そうじゃ・・・」と顔をしかめて言っている。
 ということで、二人とも着ているものを全て脱がされ、脱いだものは水を張ったタライに三日三晩漬けたままだった。
 黒っぽい黄金色の、虱の卵はそうしないと駆除できないようであった。
 当時は何処の家庭でも蚤(ノミ)がいるのは常識で、虱(シラミ)も女の子の頭髪の中に居ることが多かったので、学校でも休み時間に、猿が毛づくろいするように女の子同志で虱取りの毛づくろいをよく見かけたものである。
 これらは風呂屋などでよく移されるので、風呂屋で移されたのか、空襲が厳しくなる前、道後温泉へ湯につかりによく行っていたので、そこで移されたものだろうと思う。

(戦後、進駐軍から依頼を受けた保健所の係員が、米軍の持ち込んだDDT殺虫剤を、学校を巡回して全生徒の首筋から散布していたほど、蚤やシラミが居るのは常識だったのがこの時代だ。子供たちは粉まみれ状況だった。)

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第56話 ●内子へ疎開する日 (松山)8歳 昭和20年5月

 4機のB29の空襲があって後、たび重なる空襲警報サイレンのため毎日が授業にならず、さほど日数を経ないで、国民学校の低学年1,2年生には危険が伴うので「通知があるまで、低学年は臨時休暇」ということになった。
 昭和20年5月19日のことでした。(祖父ちゃんが書いた寄留届控が残っている=第57話に写真)
 遂に来るところまで来たか・・・と言うことです。
 沖縄を落とした米軍は、沖縄を拠点として中型爆撃機でも簡単に、本土爆撃に飛来できる体制になっていたのです。

 
 そこで浦子が内子へ連絡を取ったのであろう。
 最近の空襲の状況からすると、通学再開の目途も立たず、戦況は日毎に厳しくなっているばかりで、いつまでも学校を休ませておく訳にはいかないと考慮して、空襲の殆んどない内子で、通学させようとしたのだろう。

 丁度、神戸市が空襲で壊滅して、神戸の伯父、静夫が帰省しているので迎えに行かせるから・・・との連絡があり伯父の静夫さんが迎えに来てくれた。 
 休暇になって3日目くらいだったろうか。
浦子が静夫さんに神戸の空襲のことや、年齢のことを問うていた「何歳に成りなさった?」
 「32歳に成りましたわ。神戸の街も6月の空襲で丸焼けの全滅、病弱だった嫁も子供を残して死んでしまいましたわ」とのことだった。
 静夫さんが来てから、ゆっくりする間もなく、直ちに伯父と俊光と3人で、市役所へ戸籍を抜きに行った。
 鉄砲町から上一万経由の電車で行ったと思う。
 市役所は、泰山の慰霊祭が行われたところなので「なんだ、ココだったのか」という調子だったと思う。
 戸籍係のカウンターの所で少々待たされた感じだった。
 疎開のための移動が増してきているせいだったのだろう。

 それから琢町の家へ帰り、内子へ行く準備をしたのであるが、子供の持てる範囲、つまり学用品と防空頭巾くらいしか荷物は無かったと思う。
 それも、通学に使用していた医療袋の、肩から提げる絣の手縫い袋に、入る範囲のものだった。
 孝芳を抱いた浦子とヒサヨが見送ってくれた。
 僕らは「行ってくるけんな・・・」と手をあげた。
 浦子は「学校が始まったら知らせるから・・・」と言っていた。
 旅行に出る気で、はしゃぐ僕らとの、あっけない別れであった。
 世話になった祖母ちゃんらとの、あっけない、悔やまれる・・永遠の・・別れとなってしまった。

 
 伯父と俊光と三人で、また鉄砲町まで歩き、そこから電車に乗り、古町経由で松山駅へ出た。
 下り列車が入り、前の方の車両に乗った。 列車内は空いていた。
 海側の席に進行方向に向かって俊光と静夫さんが座り、その反対側に僕が座った。
 カラッと晴れた日の、午後一時か二時頃だったと思う。
 列車がまだ動き出してもいないのに、俊光が外を見ながら「あれっ?」と不思議そうに 言った。
 「どしたん?」と僕が聞くと、俊光は
 「あの山、内子の山じゃないじゃろかぁー?」と松山駅の西方にある山を指差していた。
 「内子の山が、松山にあるかいやー、似てるだけやろ」と静夫さんがニヤニヤしながら相手してくれていた。
 山の中腹に段々畑が耕され、山頂辺りに木々が茂る、ありふれた里山だからであろう・・・。
 俊光が入学のため松山へ来てから、まだ三ヶ月も経ってないので、内子の山の印象をその山に感じたのだろう。

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第55話 ●頭上のB29 (松山)8歳 昭和20年

 清水国民学校、二年生になって間もなくの新学期、或る晴れた朝、いつものように登校し授業が始まって間もない頃、空襲警報のサイレンが鳴り始めた。
 警戒警報ナシの、いきなり空襲警報である。
 教室に居るときに空襲警報が発令されると、直ちに椅子を机の上に置いて、机の下にもぐり、防空頭巾を被って伏せるように・・・と教えられていたので、直ちに全員がその動作に入った。
 二階の教室でも隣の教室でも、同様に椅子の音がゴトゴトさせていたので、相当あわただしい動きに感じていた。
 机の下へ潜り込む前だったと思うが、突然≪ゴゴー・・・ドドーン・・・≫という強烈な破裂音と地響きがした。
 窓ガラスがビリビリ震え続けて、地震のような、それはスゴイ震動だった。
 直感的に、超低空を飛行機が飛び・・・どこかが爆撃された!・・・と感じた。
(実際は頭上を低空で飛んだのではなかった様だが、≪ゴゴー≫の音は、そのような感じの音だった)
 それから、1~2分間、もの音一つしないシーンとした静寂が続いた。
 防空頭巾を被り、両手の親指で耳の穴をふさぎ、残りの4本の指で目をふさいで、全員が机の下で、指示を待っていた。

 しばらくして、運動場へ集合命令が出て、吾先に運動場へ帰宅地域別に集合し、運動場の周囲に掘られている防空壕へ、直ちに避難した。
 既に、俊光もそこへ来ていた。
 この防空壕は、深さ約1メーター、幅約2メーター、長さ約5メーター程のものだったが相当深く感じた。
 跳び下りるとき、足がガクガク震える。
 皆が西の方角を見ながら、非常に気になる気配をさせているので目をやると、校舎の屋根越しに、こげ茶色の煙が立ち昇っているのが見えた。
 最初の≪ドドーン≫という音がしてから5~6分程経過していたと思う。     
 防空壕へ避難してからも、あたりは大変静かであったが、僕らは緊張感とこれから何が始まるのかとの不安感で震えていた。

 各地区の班が、各々駆け足で帰路に付き始めた。
 運動場にある裏門(南門)より出て、松山高商(松山大学)の正門を通過する頃、かすかに飛行機の爆音(エンジン音)らしい音が聞こえてきた。
 防空頭巾を被ったまま、ズックや藁草履か下駄を履いて、砂煙をあげて走る上級生のあとを追って、息も絶え絶えに一生懸命走った。
 子供たちが走る足音と防空頭巾にかき消されて、爆音が聞こえ難かったのかもしれない。
 前方を走っていた上級生の数人が立ち止まり、後方を向いて左側の練兵場へ避難するように、大声と身振りで指示している。

 西の方角から爆音は徐々に大きくなって、その音で敵機が近づいているのが解かる。
 既に練兵場へ跳び下りている上級生もいた。
 ばたばたと皆が跳び下りて伏せている。
 道路の方が練兵場より約1メーター高い段差なのと、道路の真下は溝になっているので畦道のような段が付いている。
 僕も反動をつけて跳び下りた。 
 前のめりになるほどで、足がズボッとめり込んだ感じだ。
 直ちに数歩小走りして、皆の伏せている付近で、耳と目に指をあてがって伏せた。

 爆音は益々大きくなってきている。子供心にも1機や、2機ではなさそうだと思えるほど ブーンともゴォーンとも言える、重苦しく、腹の底に響く爆音である。
 気になるので数回空を見上げた。
 鈍い銀色のB29が4機、西から東へ飛んでいるのが見える。 相当な高空である。
 それも朝日に輝きながら、ゆっくりと悠々と、4機が一糸乱れぬ編隊を組んで不気味そのものだ。
 B29はいよいよ、我々の伏せている真上へ差しかかって来た。
 「今、爆弾を落とされたらおしまいだ!」・・・と、身を硬くして、顔を引きつらせ、息を殺して感じていた。
 それでなくとも、練兵場の我々の伏せている周辺には、訓練用の旧式戦闘機が並んで おり飛行機格納庫が四棟も建っているのだ。

 上級生の誰かが叫んだ・・・「弾倉(爆弾投下口)が開いてないから大丈夫だ!」
 僕らは何のことか解からぬまま、また見上げる。
 B29は真上から、やや通り過ぎたが、爆音はまだ全方向から響いていた。
 「まだ動くなよー、後続機が来るぞー」と上級生が、伏せたまま大声で叫んでいる。
 ブーンとも、ゴーゴーともつかぬ轟音のため、後続機が来ているかどうかも解からない。
 爆音のしてくる方角があの4機なのか、後続機の音なのか、すらも全く把握することが出来ない。

 しばらく伏せて、様子見している間に、後続機もなくB29は通り過ぎて行った。
 爆音が徐々に低くなり、後続機は来ていないと判断された頃、全員が立ち上がり「再度、来襲が有るかもしれないので・・・走って真っ直ぐ家へ帰れ!」との、班長の指示のもとに、俊光と自宅へ息せき切って走り帰った。

 帰宅してから二階へ上がり裏の窓から西方を見た。
 学校で見たあの茶色の煙が、なんとその時は、もくもくと真っ黒い煙となって、はるか北の方向へドンドン流れている。
 火災の勢いが相当強いらしく、火元付近では黒い煙がもくもくと噴き上がっている。
 浦子は「吉田浜の丸善精油所が、やられたらしいョ」と教えてくれた。
 約一昼夜燃え続けたと、浦子が話してくれたが、その煙が夜には炎に染まって、真っ赤に見えたそうだ。

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第54話 ●空襲のこと (松山)8歳 昭和20年

 昭和19年、小学1年生の時ですが大東亜戦争の戦局もニューギニア、ソロモン諸島あたりから米軍に反撃され始めた頃ですので国内では平穏そのものでした。
 しかし、昭和20年になってからは、松山にも米機の来襲が本格的な激しさを増しつつあったのです。
 松山への爆撃こそ無かったが、北九州、宇部、広島、呉など工業地帯や軍事施設攻撃への通過点でもあったからです。
 米軍爆撃機が内陸に侵入してくるコースは、紀伊水道、豊後水道が空襲銀座と云われていたほど、頻繁でしたので、敵機の接近ごとに警戒警報、空襲警報の発令は日常茶飯事となっていた。

 或る日、空襲警報が鳴って間もなく、西の方から百数十機の中型爆撃機B25、B24が飛来してきたことがある。
 飛行機の型の見分け方は、ポスター等に影絵模様で公表されていたから、爆撃機はボーイング、ダグラス、マクダネルなど、戦闘機はカーチス、グラマン、ロッキード等があり、敵機の把握は市民には小学生にまで常識になっていた。  
     
 飛行機の爆音(エンジン音)がし始めて、すぐに防空壕へ避難したが、次々と近づく余りにも多い飛行機の爆音に、その振幅で異様なウナリのような音に変っている。
 窓ガラスからもビビビビ・・・・・と振動音が出ている。
 「一体、何分続くのじゃろう・・・?」と息を殺して、通過するのを待つのみだ。
 ただ、爆音がするだけだったので、子供心に防空壕から何度も空を見上げた。
 目の前が出入り口の、首を出せばすぐ空が見える・・・浅い小さな防空壕だ。
 ウンカのように、ぶんぶん次から次へ飛んでくるとはこのことだろう。
 城山上空で機体を傾けながら、右旋回している様子が手に取るように解かる。
 低空で悠々と飛んでゆく様は、撃てるものなら撃ってみろ・・・と言わんばかりの堂々たる飛行だ。
 制空権は完全にアメリカの様相で「日本軍機は、一体どうしたんじゃ?」と子供ながらにも思っていた。
 結局、下からの反撃は何もなし。 歯がゆい思いで見上げるだけだ。     
 これらの爆撃機は順に松山上空で、南へ向きを変えて通過しただけであったが、あのような大編隊は映画でも見たことがない。
 米軍機が内陸部に進入するには、豊後水道が飛行コースであったので、おそらく北九州方面工業地帯を爆撃した帰途であったのだろうと思う。


 松山上空を日本の戦闘機が訓練飛行していても、いざ空襲警報が発せられると、何処へともなく姿を消してしまうのが常であった。
 今さっきまで飛行していた友軍機は、一体何処へ行ってしまったのだろう?と不思議に思ったものだ。
 尻尾を巻いて逃げる負け犬のように、子供の僕らにも感じられたものだが、相手に立ち向かって、空中戦でもやって欲しいと願いながら、敵機を見上げていたが、松山では空中戦など全く無かった。
 それほど勇ましい筈の日本軍は、迫撃能力に貧していたのでしょう。
 地方都市の松山には、訓連用の旧式飛行機しか配属されていなかったのだろうと思った。
 内陸部への爆撃機侵入銀座の豊後水道で、迎え撃つという軍事力も、又その知恵さえも日本軍部には無かったのだろうか?・・・今考えても疑問でたまらない。


 でも松山で、下から高射砲で撃ったのは数回見たことはある。
 一点の雲も無い日本晴れの日に、偵察機か爆撃機が飛来したとき、防空壕内でドーンドーンという鈍い音を聞いた。
 爆弾が落ちた音と違い、上空から聞こえたようなので、防空壕からおそるおそる首を出して空を見上げた。
 琢町から見ると、城山の上に白い雲のような点が一つ浮いている・・・それが徐々に膨らみ・・・周囲に白い煙の筋が飛び散ってゆく・・・一瞬、落下傘か・・・とも思えた。
 「危ないから、覗いたらいけん!」と浦子が注意をするが、僕は浦子の目を盗んでは、気になる空を見上げていた。
 白い煙は3ケも4ケも浮いていた。砲弾の破片が飛び散ったあとに、白い煙の糸が四方八方に広がってゆく。
 今で言う昼間の花火が、相当な高空で弾けたような眺めだ。
 白い煙とその糸状の煙は西風になびいて、いかにもクラゲが空に浮いているように見えたものだが、敵機を狙って撃っているような射撃ではなく、敵機からは大きく逸れていたのが子供にも確認できた。
 まさに「気休めの自己満足」状況の射撃に見えた。


 3月のある晴れたり曇ったりといった天候の日であった。
 空襲警報の後、防空壕の中から、やはり気になる空を眺めていた。
 この頃は空襲警報の後、直ぐに敵機の爆音がしてくるのが常であった。
 複数の戦闘機の爆音がしてきた。
 城山越しに南から、雲間を縫うようにしてグラマン(米、艦載機)10数機が2列編隊で飛来してきたのが見える。
 爆音のウナリが急に変化して、方向を変え始めたのが判る。
 その豆粒のような機体は、上空で左に旋回しながら急降下してきた。
 雲の後ろに太陽があったので、ちょっと眩しかったが、旋回のたびに黒い機体がキラキラ光っていた。
 急降下と同時に編隊を崩し、それぞれがあちこちで機銃掃射をしながら、ぶんぶん飛び回っている。
 浦子の目を盗んでは、防空壕から首を出して見ていたんだろうと思う。
 壕の中に居ても、急降下と上昇を繰り返しているのが、爆音を聞いているだけで解かる。
 今で言う、車がアクセルを吹かしたり緩めたりするような、プロペラの爆音の唸りが断続的に響いてくる。
 黒い機体のグラマンは、主に松山城付近で見え隠れしていたので、堀の内の連隊を中心に機銃を浴びせていたようで、入れ代わり立ち代り執拗な攻撃をかけていた。

 そんな日だったと思うが、町内の天理教会の前で、機銃掃射の跡が残っているとかの話を聞いたので、警報解除の後に見に行ってみた。
 浦子は「危ないから行ったら駄目!・・・」と言ったが、こっそり見に行った。
 見物の人垣の中、地道道路の石ころが弾けとんだ跡があって、他に何もなかった。
 これが銃弾の跡?・・・という風に感じただけのものだった。

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第53話 ●女の子用ゆかた(松山)8歳 昭和20年

 俊光を迎えに行く前から、浦子は僕と俊光に着せる寝巻を準備していた。
 それまで着ていた僕の白っぽい絣の寝巻は、あちこちほころびたり、破れたりでそろそろ 着替える時期が来ていたのと、俊光を松山へ呼び寄せたとき着せる寝巻の準備でもある。
 浦子は二着の浴衣を出してきた。
 浦子が最近縫った様子はなかったと思うし、初めて見る柄模様だ。
 白い生地に赤トンボの柄が並んでいる。
 赤と橙色のトンボの並んだ間に、緑色の草の模様があちこちに付いている女の子用の 浴衣である。
 浦子は「縫い上げの寸法取りをするから、この浴衣を着てみなさい・・・」と浴衣を広げて 着せようとしたが「女の浴衣なんか、着とうない!」と逃げ回った。
 何というか、「これを着たら、押し付けられる・・・」という意識があったように思う。
 結局僕は浴衣を着ようとせず、浦子は僕の背中に浴衣を当てて寸法取りしていた。
 「やっぱり、ちょっと大きななァ」と言いながら、縫い上げは約10センチ程度していた。
3ツか、4ツ年上の女の子に着せて、ちょうど良い寸法である。
 僕は浦子に聞いてみた「なんで、女のゆかたを作ったん?女の子なんかおらんのに・・・」 
 浦子は「まえーに、祖母ちゃんが縫うとったんよ、泰弘らができる時(生まれる時)女の子ができると思うて・・・」という返事をしていた。
 今考えてみると、子供が生まれる前から、小学三、四年生の着る浴衣を準備する親など居ないのである。

 俊光が来た日から、その浴衣を寝巻として使用した。
 俊光は女もの浴衣を気に入ったとみえ、何の抵抗も無く着こなした。
 かえって嬉しそうに楽しそうに着て、女の子が踊る仕草をして見せたり、何となく華やいだムードが部屋に漂っていた。
 僕は最後まで「女の子の着物なんか・・・イヤ!」と嫌がった。
 浦子に「晩、寝る時に着るだけで、だれーも見て笑う人なんか、おらんから・・・」と言い含められ、いやいや乍らその日以来、寝巻として使用した。

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第51話 ●大街道のこと(松山)7歳 昭和19年

 大街道の森岡光月堂(伯母の嫁ぎ先)へは時々歩いて遊びに行った。
 杉谷町の自動車学校(東雲神社の北側の崖下に1000坪程の舗装の無いデコボコ道の練習所があった)の横を通り、東雲神社前から東雲女学校前を経て、一番町へ抜けるコースで行き来していた。
 琢町付近の子供らが兵隊ごっこ等してよく遊ぶ場所は、主に東雲神社辺りである。
 誰かが「東雲(小学校)の奴等が兵隊ゴッコしとるから、やっつけに行こう」とかの情報を持ってくると町内の子供らが10数人集まって、自動車学校を横切り崖を上ってゆくのである。
 境内の昼なお暗い、うっそうとした林の中で、遊び廻ったものだ。
 この周辺には(モチの木)の大木もあり、木の皮を剥いできて、水を加えながら石でたたくと蝉とり用のトリ餅ができるので、先輩たちとこの林で蝉取りもよくやっていた。
 木々にこだました子供らの声が、今でも聞こえて来そうだ。
 城山へ登るやや広くて傾斜のある道路があったが、途中までしか登った記憶しかない。

 当時の大街道、森岡光月堂は現在の児玉写真館の筋向い角に在って、東に大街道が面していた。
 店の構えも比較的大きく、正面側、側面側とも間口6~8メーター程あり、大街道でも老舗の風格であった。
 当時の主要商品はカステラとカステラ饅頭だったと思う。
 堀の内の第22連隊の方へも納入していたようで、兵隊がオートバイで注文に来ていたり、光義さんが自転車で連隊へ配達したりしていた。
 森岡へ遊びに行くのが楽しみなのは、やはりカステラ饅頭があるからでもあったろうが、同い年の従兄、功ちゃんが色んな玩具を持っていたので、それで遊ぶためでもあったと思う。
 側面道路もきれいに舗装されていたし、西方へ向かって少々下り坂だったので三輪スケートや三輪車で遊んだりしたのである。

 空襲があり始めてからは、行きたくとも行かれないため、まだ空襲が無かった頃のことだ。
 戦争中、最後に行った時、日曜日に功ちゃんと遊んでいた。
 日曜日には、吉田浜飛行場(現在、松山空港)より戦闘機が飛行して訓練をしていた。
 その日も飛行機が飛んでいたが、先ほどまでしていた爆音が聞こえなくなって、しばらくしてから「落下傘だ!」という声に、屋上の物干し台へ出てみると、東南の空に落下傘が一つ降下していた。
 光義さんは「飛行機は石手川の方へ落ちたらしいぞ・・・落下傘も石手川のほうじゃろう。
なーに空中戦もせんのに、落ちとったらイケンのー」と言っていた。
 落下傘は、僕も初めて見たものだけに、多少興奮していたようだった。


第52話 ●俊光来る (松山)8歳 昭和20年3月

 浦子は、俊光も松山の学校へ入学させて、兄弟一緒に育てたいと考えていたのだろう・・・
 それとも泰山が最期に、兄弟一緒に育てて欲しいと言い残したのかも知れない。
 浦子が内子へ俊光を迎えに行っていた。

 その日は、浦子が俊光を連れて帰ってくる日ということを、ヒサヨから聞いていたと思う。
 ヒサヨも居たと思うが、僕と孝芳が奥の部屋で遊んでいたとき、玄関のところで浦子の声がした。
 一緒に来た俊光に言い聞かせる声であった。
 「さあ着いたよ、さあお入り、今日から俊光ちゃんとこの家は、ここなんョ、泰弘ちゃんも孝ちゃんもおるんョ」
 奥の部屋で遊びを中断し、様子を伺うのに、なかなか玄関を入ってくる気配がない。
 どうも俊光が、玄関のところで、入ろうか入るまいかと躊躇していたんだろうと思う。
僕と孝ちゃんとヒサヨが小走りに、表の間へ迎えに出て玄関を見た。
 俊光は浦子に両手で後ろから促され、うなだれて玄関を入ってきた。
 玄関を一歩入ると、下を向いたまま動かなくなってしまった。
 浦子は「今まで機嫌よう、ここまで来たのに・・・恥ずかしいのじゃろか・・・?」と言った。
 と同時に、俊光は「ウワーン・・ウワーン・・・」と、下を向いたそのままの姿で泣き出した。
 声を絞り出すようにして、鼻を詰まらせて鼻水垂らして、しゃくりあげて泣いた。
 浦子は俊光がなぜ泣くのか、判らない様子で、何か持て余している感じであった。
 「兄弟に逢えて嬉しい筈じゃのに・・・おかしな子じゃなァ」と言いながら、しかめっ面というか
ここまで来て人を困らせて・・・という様な、けげんな顔をしていた。
 然し僕には、その時の俊光の心境が、痛いほど解かっていたように思える。
 内子を出て松山の家へ着くまで、泣き出せるきっかけが何処にも無かったのだ。
 内子を出る時から、じっとこらえていたものが、家に着いて初めて堰を切って流れてしまったのだろう。
 僕はその姿を見ながら、心の中ではうなずいていたように思う。

 当時から僕と俊光は、ほぼ同じ背格好の様だった。
 僕は下駄をはいて俊光の前で腰をかがめて、顔を見上げてみた。
 涙と鼻水でくしゃくしゃの顔に、青鼻水が風船をつくろうとしていた。
 その風船が、急に膨らみ始め、大きくなってはじけた。
 そのとたん、照れたのか俊光の顔の口だけが笑いはじめた。
 僕は「泣ーいたカラスが、はや笑ろた・・・なーいたカラスが、はやわろた・・・」と拍子をとると、孝ちゃん、ヒサヨも一緒になって拍子をとった。
 それを聞いてか俊光は、身をねじりながら、ゲラゲラ声を上げて笑い始めた。
 顔中、涙と鼻水でズルズルのドロドロである。
 浦子はちり紙を取り出して、後ろから涙と鼻水でどろどろの俊光の顔を数回拭ってやっていた。
 俊光は、泣きたいだけ泣いてすっきりしたのか、すぐに機嫌を取り戻していた。

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第48話 ●御幸寺山のこと・・(松山)7歳 昭和19年

 戦局が進むにつれて、ウチの二階には下宿する学生も居なくなったが、浦子の遠い親戚かと思うが、父娘3人が新居浜から疎開してきて住んでいた。
 その父親は40歳前後、痩せ形で黒縁の眼鏡を掛けていた。
 毎日何処へともなく勤めていたように記憶している。
 娘のうち姉の方は16~7歳で、髪は三つ編みにしており、気が強そうで近寄り難いタイプであったから、殆んど言葉は交わした覚えはない。
 妹の方は小学生の高学年というイメージで、年齢も近かったせいか時々おしゃべりもしたが、通学していた様子はなかったと思う。
 半年ほど住んでいたと思うが、その間この娘二人は、いつも行動を共にして、昼間何処へともなく早足で出入りしていた。

 父泰山が戦病死する前から浦子は、毎朝5時頃から起き出して、御幸寺山頂へお参りしていた。
 近所からもう一人お参りする連れが居るということも言っていた。
 松山市北部、千秋寺裏の尖った御幸寺山である。(みゆきじさん、僕らは みきじさん と言っていた)
 泰山の武運長久を願ってのものが、泰山が戦死してからは、自分の健康についての願掛けに変わったのだろうと思う。
 いつも、僕らが朝起き出す頃には、お参りから帰り朝食の支度は出来ていた。
 或る頃より二階に居る娘のうち、姉の方も御幸寺山へ浦子らと一緒に行くようになった。

 そんなある日、その娘だけ一人で興奮した様相で、小走りに帰ってきて、つっけんどうな態度で二階へ駆け上がっていった。
 僕が気付く時間帯だから、いつもより相当遅い時間だ。
 浦子もしばらくして息をはずませながら帰ってきた。
 浦子は腹部を押さえて相当しんどい様子であった。
 二階の娘が言ったのか、浦子が言ったのか定かでないが「祖母ちゃんのお尻から、沢山の血が出たのよ」という意味のことを、僕に言っていた。
 浦子と娘が、互いにいがみ合っているのは「他人が困っている時に、手を貸してくれない」という意識からきていたように記憶している。
 浦子は何か腹に据えかねている様子ありありで、二階から娘を呼び降ろした。
 浦子は娘に色々と、くどくどしく言っていた。
 娘は弁解がましく、たてついていたが、しまいに「何言ってるのよ、目腐り!尻腐り!」と 捨てぜりふを吐いて、泣きながら二階へ駆け上がっていった。
 女同士の喧嘩は怖い・・・喧々諤々の様相である。
 怒った浦子は、その後を追って階段を駆け上がったが、僕はただならぬ様子に逃げ出して、遠巻きに眺めていたので、二階の事は解からない。
 後で、息を弾ませながら「あんな小娘に、馬鹿にされてぇ・・・」と涙を流しながら、浦子は悔し泣きをしていた。
 浦子は以前から、目元がしょぼしょぼしていた。
 まつげの部分が、いつも赤くなっていたので、そのことを言ったものと思う。
 一方、お尻から血が出たことについて、今考えると直腸癌か子宮癌が進行していたのではないかと思われます。
 この様なことがあって後、二階に居た父娘三人は、何処へともなく移転していったが、この娘の父親のからむ話が、次の「父のピストル」と「父の長靴」である。

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(浦子は、昭和21年1月8日逝去している・・行年53歳・・場所は前述の山越公民館であったが、53歳でと死亡を早めた原因は、持病に加えて空襲による松山の全焼と、孝芳、ヒサヨを連れての逃避過程での疲労困ぱいだったと思われます。
勿論、病床に伏していたかもと思うので、食料事情の悪い中での食料確保も大変だったと考えられます。)

昭和20年 3月・・・・・・内子から俊光も浦子が引き取り清水国民学校へ入学(後述)
昭和20年 6月・・・・・・泰弘・俊光を、帰省中の伯父静夫が内子へ連れ帰る(後述)
昭和20年 7月26日・・爆撃で松山市街全滅(後述)
昭和20年 8月15日・・大東亜戦争・終結
昭和20年12月 9日・・曾祖母ヒサヨ逝去。葬儀後忠兵衛が孝芳を預かり、内子へ連れ帰った。(後述)

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第49話 ●父のピストル (松山)7歳 昭和19年

 泰山が警察官の頃、所持していた本物のピストルを、浦子が僕に見せたことがある。
 銃を入れるケースが無かったので、軍人の時に所持していたものを善通寺陸軍病院から持ち帰ったのかもしれない。
 泰山が戦死してからしばらくしてからだ。
 芳子の黒っぽいタンス、最上部右端の引き戸の中には、拳銃の弾が十発ほど裸で転がっていたのは、何度か見たことはあるが、浦子がピストルを何処から出してきたのかは判らない。
 「ええもん、見せてあげる」といって白いネル生地の包みを出してきた。
 「これは、人には見せてはいけんモノよ」と言いつつ周囲に気を配りながら、タオル生地に似た包みをそっと開けてゆく。
 「父ちゃんの、巡査の時のピストルよ」といって数分間見せてくれた。
 コルト型の黒光りしたもので、布に乗せたまま一回だけ持たせてくれた。
 ズッシリと重いモノを両手でかざしながら、筒先や弾巣を興味深く見たのを覚えている。
 「ウチにこの様な物が残っていたのか、父ちゃんが戦争に持って行ったのと違うのか。」という思いでしみじみと眺めていた。
 数ヵ月後であるが、浦子はそのピストルの包みを、二階の娘の父親に渡しているのを見たことがある。
 浦子もその男も用心深く言葉を交わし、男は大切な物を扱う仕草で内ポケットへ入れていた。
 浦子はこまごまと念を押すように、注意を与えていたように見えた。
 何処かへ処分してくれと頼んだものとも思えるが、警察へ返却してきてくれと頼んだのだろう・・・と考えることにしている。
 父が帰還して職に復帰することが無くなった今、浦子は拳銃の処遇に困ったということではなかったのだろうか?
 僕は浦子に、その後何度か「父のピストル」のことを尋ねたが
 「あれは、父ちゃんのモノだからヒトにあげたりしない、今度また返してもらうのョ、危ないから、おじさんに預けてあるんョ」という返事のみであったが、そのままになっていたように記憶している。


第50話 ● 父の長靴 (松山)7歳 昭和19年

 戦争は逼迫し、物資も不足し、一億総耐乏生活の時代である。
 学生服のボタンまで、学校から陶器のボタンが支給され真鍮製の金ボタンから取付け直して、学校へ金属のものは持って行き供出したりしていた。
 琢町の家の縁側は、L字形に曲がって便所の方へ通じていたが、その途中に岩城島から持ち帰った、泰山の故障したラジオや警察官用ゴム長靴二足、雨合羽などが吊り下げてあった。
 ゴム長靴は、一般には無い警察仕様のしっかりした製品で、新品に近いモノであり、もう 一足は使い古したモノで、大分くたばっており灰色になっている。
 南方産のゴムを使った製品など、当時は町から姿を消してしまっていた。
 雪が少々積もった日に、二階の父娘3人の親父の方が、友人等との会合が有るというので浦子に長靴を貸して欲しいと頼んでいた。
 貸す時に浦子は「今時、こんな良い品の靴はないので、他人のと替えられたりせんように」と念を押していた。
 男は「長靴など気の利いた履物を履いてくるものは、おらんじゃろう」とか言いながら出て行った。
 ところが翌日、その男が帰ってきて自分で長靴の置き場所へ、浦子に礼を言いながら戻していた時、浦子も何気なく返事をしていたが、返された長靴を見て浦子は激怒した。
 「あれほど言っておいたのに、こんなボロ靴とどこで替えられたの! こんなボロ靴、貸した覚えはナイ! これを持って行って、貸した靴を取り戻して来なさい!」という感じであった。
 返事は「二、三軒廻って飲んだので、何処で替えられたかわからん・・・」ということだったと思う。
 男も色々と思い出そうとしていたが、どうも思い出せない様子だ。
 返された長靴は泰山の古い長靴よりボロで、ゴムが白く変色しヘナヘナに朽ちて折れ曲がっている。
おまけに赤いチューブの丸い継ぎが貼ってあった。
 泰山の遺品だっただけに、浦子も諦められない様子で、その後も永い間長靴の件で、その男に当たり散らかしていた。
 その後、長靴の置き場所には、そのまま足首から折れ曲がったヘナヘナの長靴が置いてあった。

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第46話 ●集団疎開生 (松山)7歳 昭和19年

 一年生の終わり頃だったと思うが、清水国民学校にも集団疎開(大都市が米軍の空襲に襲われ始めたので、子供の安全のため、クラスぐるみ地方の小学校へ分散して移り、親と離れて生活、学習する)してくる生徒が来始めた。
 大阪より2クラスほど集団疎開して来たのだと、学校側より発表されていたと記憶している。
 彼らの宿舎は、学校の北西側にある松田池の北側に、池に面して建っている寺(竜穏寺、来迎寺)であると聞いていた。
 寺の境内で疎開生たちが、忙しく掃除したり生活行動をしているのを何度も見た。

 松田池の土手下の小川へ、浦子が買ってくれたジョレン(魚すくい用の籠)を持って、隣の二年生、小原信幸君と魚すくいによく行っていたので、疎開生の様子は記憶に残っている。
 魚の収穫は、ただ一回だけ・・・僕がジョレンをセットしてガマを足でつついたら、10センチ程の鮒が捕れたことがある。
 然し、信幸君に言い含められて、その魚は信幸君が持ち帰った。
 それを僕が浦子に言いつけた訳でもないのに、言葉のやりとりで判ったのだろう「泰弘が捕った魚を、なぜ信幸君が取って帰ったの?」といって、僕がぐずぐずしてる間に、魚を取り戻してきて、桶に入れて泳がせていたのを覚えている。

 学校で疎開生らは中校舎の一階を利用していた。
 或る日疎開生が、その校舎の廊下を2メーター近くもある大きな筆を、3人で担いで運んでいるのを見たことがある。
 子供心に(あんな大きな筆が有る筈がない・・一体誰が使うんじゃ?)と永い間考えていたのだが、どう見ても書道用の大筆であった。



第47話 ●山越のこと (松山)7歳 昭和19年

 それらしい空襲はまだ無かったが、空襲があるやも知れん、又はあちこちの都市が空襲でやられ始めたからであろうか、浦子はタンス内の衣類などを、柳ゴウリに詰めて運び出す準備を始めていた。
 柳ゴウリは4~5個だったと思う。
 秋晴れの或る日の午後だったと思うが、浦子が乳母車にその柳ゴウリを2個づつ乗せて山越まで運んだ時、僕も車押しの手伝いのつもりで一緒に付いて行った。
 清水小学校より、更に西の道を北に向かい、当時聾唖学校だったところを通った。
 西禅寺?の登山口の広場を通り、藪の中へ入るような細い道を20メーターほど入った左側の家だ。
 崩れかけた板塀がめぐらされ、門は格子戸、それもだいぶへたばった格子戸だった。
 格子戸を入ると左側は築山のようになっており、樫の木々が茂り、右側に暗くすすけて荒れた平屋の家があった。
 浦子はそこの縁側に坐り、そこのおばさんとお茶を飲みながら、顔馴染みというか、旧友という感じの、打ち解けた話が弾んでいた。
 柳ゴウリは2個づつ2回運び、合計4個をこの家に運んだ。
 この全てに、浦子が墨と筆で福島用として、大きな文字を書き入れ、ロープで菱形結びをしていた。
 山越といえば、市内からそう遠くない場所ではあるが、当時は非常に寂れた田舎という 感じの場所であった。

 終戦後間も無く、浦子からこの柳ゴウリ一個が内子へ鉄道便で送られてきた。
泰山用の分厚いラシャ地の、警官用制服上下が数着入っていたと思う。
子供用洋服不足で、この制服を泰弘用、俊光用学生服に仕立て直して、着せてくれということであったようだ。
「こんな立派な生地は、今時、探しても無いぜ・・・」と、タキノは友人の仕立屋さん、中町の福積さんへ頼み、小学生用学生服として仕立てなおしてくれて泰弘、俊光とも永年使用していた。
ヒサヨが他界した時に、忠兵衛が孝芳を連れて、2個目の柳ゴウリを持ち帰った。

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昭和54年頃、この山越の家を捜してみたいと、墓参りのついでに山越へ行き、同じ細道を歩いてみたが、新しい家が建ち、当時の面影はまったく無く捜し出せなかった。

その翌年、福島浦子の名前を使って、2~3軒思い当たる家で問いかけたところ・・・
「小西」さんの家で白髪の60歳過ぎのご主人が・・・

 『福島浦子さんというたら、うちの婆さんの友達じゃ、二人とも堀江の出で幼馴染みじゃ言うとった。婆さんは、もう死んでおらんわい。  浦子さんは、山越の公民館へ避難して、公民館で亡くなったんよ。  松山大空襲の後、山越公民館でもう一人のお婆さん(ヒサヨ)と相前後して亡くなったんよ。
荷物も有ったと思うが、市役所から来て整理したと思うよ。 写真帖や位牌などは無かったなー。お孫さんかぁー、よー来て下さったなァー』と小西さんは、鮮烈に覚えてくれていた。

「そうでしたか、有難うございます・・・粗品ですが、お母さんにこれを「お供え」してあげてください・・」と、持参した土産物をお渡した。

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第44話 ●給食と落穂拾い (松山)7歳 昭和19年

 時々学校から芋掘りの手伝いに行ったことはあるが、稲刈り後の田んぼへ落穂拾いに 連れて行かれたことがある。
 戦時にあっては食料、特にお米の大切さを、小学生の内から教育してゆく方針の一環であろう。
 勿論、教室でも「お百姓さん達が一年掛けて、一生懸命汗水流して作られたお米です。ご飯が済むと、茶碗の中のご飯つぶは、一粒たりとも残さないように・・・」と教えていた。
 この頃は、一般での食糧不足を補うため、学校で給食を実施していた。

 コッペパン一個か蒸したさつま芋一個と味噌汁一杯である。
 毎日同じ献立であった。
 腹を空かした子供は喜んだが、腹が空いていても好き嫌いの多い一年生にとっては苦痛でもあった。
 パンやさつま芋は食べるが、味噌汁は苦手という子が多かった。
 味噌汁の具の中には、殆んど毎日刻み大根と春菊が入っていた。
 あの香りに、えづき乍ら春菊を食べる者もいた。
 僕も最初はいやいや食べていたが、そのうち噛まずに飲み込むようになり、それからは残すようになった。
 給食の時間が苦痛に感じる時さえあった程だ。

 さて落穂拾いだが、山越の西側方面で、国道のすぐ西隣の田んぼだったと覚えている。
 稲刈りが終わって、きれいに片付いた田んぼの中に入って、一列横隊になって、落ちている稲穂を拾い、籠に集めて農家に渡すのである。
 学年別に、あちこちの田んぼへ入って作業をしていたと思う。
 僕らのクラスも二、三枚の田んぼを歩いたと記憶している。


第45話 ●音楽の時間に見てしまった・・(松山)7歳 昭和19年

昭和十九年、清水国民学校一年生として入学し半年ほど経た頃のことでした。

全校生徒が運動場で朝礼、「君が代」の斉唱、ラジオ体操の後、分列行進が始まる・・・四年生~六年生が運動場の外郭を、一年生~三年生が内側を方形に四列縦隊で分列行進なのです・・・演台上で号令をする先生は、体育の小野先生で「気ヲ付ケ~! 足並ミ~始メ! 前へ~進メ!」から始まり「回レ右、前ヘ~進メ!」と気合の入った大声が次々飛んでくる。

幼児の様な一年生から見ると、真剣な顔つきの見上げる様な六年生とがズンズンとすれ違うさまには圧倒されて圧し倒されそうな光景です。

当時の先生は威厳さを彷彿させ、生徒にとっては絶対的な存在でしたから、生徒としてふざける者は誰一人居ない真剣そのものの行進なのです。

その「君が代」の斉唱のタクト振りと分列行進を指揮する先生が、後に出征された気合の入っていた小野先生でした。

 

子供たちの登校の時は近所の上級生が下級生を引率して集団登校するのですが、登校する時、上級生同志の雑談の中でその小野先生の話が出てきたことがあり「小野先生と音楽の早野先生とは仲がようて(良くて)、しょっちゅう映画を見に行きよるわい」と聞いたことがあったので、噂からのそれらしき予備知識を持っていたように思います。

 

当時、音楽の時間はピアノを弾ける専任の先生が居て、一年生であっても音楽担当の早野先生が受け持っていました。

 早野先生は、若くてふくよかで色白、頭髪はパーマネントをかけ、最も印象深かったのは唇で上下の唇とも比較的厚めで、上唇が上にむくれている感じがあって紅も鮮やか。 二十歳くらいだったのだろう綺麗な先生でした。
 一寸ふっくら形ではあるが、セーターが身体にピチッとフィットして、モンペというかスラックスというかのズボンも、腰や足のラインがそのまま伺える様な、今で言うセクシーさを彷彿とさせた肉感的タイプの先生でした。
 当時は「銃後の世間には、パーマは不要・・・」という雰囲気があり子供ら仲間で「パーマネントに火が点いて・・・」とかいったパーマを揶揄する風刺歌が歌われていた時期で、他の女教師は若くても頭の後ろで髪を束ねて丸髷を結ったような風貌が普通でした。

 

音楽の時間は、講堂の前方にピアノが置いてあったので、講堂で行われていたのです。

簡易黒板に歌詞がひらがなで書かれ、ピアノの横に置いてあるのです。

 背の低い順に男子が一列、女子が一列の二列横隊で、ピアノの前に並ぶのですが、前席の僕は丁度先生の座るピアノの椅子が真正面に見えるのです。

「白地に赤く~日の丸染めて~、ああ美しい 日本の旗は~」は入学早々に習った歌でした。

昭和十九年半ばと言いますと、戦局が益々逼迫してきた時期、学校で教える歌も唱歌ではなくなってきていました。

唱歌風に編曲された国民唱歌しか教えて貰わなかった記憶が残っています。

『丘にはためくあの日の丸を~ 仰ぎ眺める我らの瞳、 い~つか~溢るる感謝の涙、 燃えて来る来る心の炎 我らは皆~力の限り 勝利の日まで勝利の日まで~』(曲名・勝利の日まで)

『今日増産の帰り道、みんなで摘んだ花束を、英霊室に供へたら、次は君等だわかったか、しっかりやれよたのんだと、胸にひびいた神の声』(曲名・勝ち抜く僕ら少国民)・・・などの歌であったが、黒板には先生が平仮名で「きょうぞうさんのかへりみち、みんなでつんだはなたばを・・・」と書いているので「恭三さんと云う人が、帰り道で花を摘んできて供えたのだ」というふうに解釈して、成人してからも意味不明だったので、最近になってネット検索してやっと理解出来た経緯があります。

幼少の頃に習った歌ですが、今でも節廻しが記憶に残っておりますね。

 

 或る程度歌の練習が進んだところで、後方の講堂の入り口から、スリッパの足音がして小野先生が入ってきた。

早野先生はピアノを弾きながら「ハイ、皆で歌ってー・・・」というふうにピアノの伴奏をしているが、小野先生に、視線を向けたまま気を取られている様子である。小野先生はピアノの対面側の窓のカーテンを手持ちぶたさに点検している様子だ。

 小野先生はスリッパの音をさせながら、僕らの方へ近づいてそそくさと講堂の壇上にポンと片足で跳ねて跳びのった。
早野先生はピアノを弾き僕らを歌わせながら、ずっと小野先生に視線を奪われたままだなぁと、その眼差しで一年生の僕らにも解るものがあった。 
 小野先生が早野先生に何か一言いった。
 早野先生はピアノを弾くのを止め一言二言返事していた。

 小野先生は壇上から降りてきて、ピアノの対面に近づいて来たが、それでも二人ともじっと見つめ合ったままだ。

早野先生の顔は、小野先生に向いて打ち解けた表情で、横向きに見上げている。

二人には心が通じ合っている雰囲気に満ちて和んでいる空気が漂っている。
 小野先生は僕らの前を横切り、ピアノ椅子に座った早野先生の後ろを通り抜けようとした時、通り抜けざま早野先生の脇の下から股間へ瞬間的に、右手を持ってゆき二度、三度上下させた。

早野先生はびっくりしたように「イヤッ」と言って足をすぼめ前のめりになり、もがく仕草をした。

僕は「早野先生は大事なところを(こちょこちょ)されたんじゃ・・・」と思い、二人のいやらしい関係を子供ながらに垣間見た感じがしたのです。 

「先生同士でじゃれ合っていたんじゃろ・・・」の感じだったが、先生とは尊敬すべき崇高な存在であり絶対的存在の時代でしたので、誰もが見て見ぬ振りをして、瞬間的なことで数人の子供から見えただけなので反応する空気でもなかったのです。


早野先生のポケットに入っていたものを、小野先生が無理に取ろうとした様な手の動きであったが、手には何も持っていないのだ。早野先生は怒った素振りもなく頬を赤らめ、微笑みに満ちていたのです。
 小野先生は照れ隠しのようにポンポンと両手をはたいて、早野先生の方を何度も振り返りながら前方の出入口より、そそくさと出ていった。
 早野先生は終始怒りの素振りは無く微笑みながら、小野先生の後ろ姿に視線を向けたままで見送っていたのです。
 一年雪組の一同は、この間先生より全く無視された状態が続き、ぽかーんとした顔で、みんな突っ立ったままでした。
 先生が腰掛けているピアノの椅子が見えたのは、男女生徒五~六名であったろうと思うが、皆そのまま突っ立っていたのです。
 その後、早野先生は
急に我に帰ったような仕草をして「さあ、続けて歌いましょう!」と皆の方を振り向き「きょうぞーさーんのかえりみちー、ハイ!」とピアノを弾き始めた。




 父泰山が、病院船「ぶえのすあいれす丸」で帰還の途中に撃沈されたぶえのすあいれす丸です。
 当時の情報では「敵は、南方海域○○方面で、赤十字船籍の病院船、「ぶえのすあいれす丸」を撃沈せり」だけなので、何処から出航して、何処でヤラれたか?パラオ付近か?台湾付近か?と想像するしかなかったのです。

 それが戦後、生還者の証言等により「ラバウルを出航して、カビエン西方チンオン島沖で撃沈された」ということが明確となり、下記記事となったのでしょう。
 ラバウルを出航して2日ほどの間に沈められています。
 祖母浦子から聞かされていた話の裏付けがやっと取れたという思いで、もやもやがやっと晴れた感じです。

 それにしてもニューギニア近海で撃沈され、17時間の漂流の末、救助されて約1ケ月後には、善通寺の陸軍病院に居たのですから、よくぞ帰れたものだなぁ・・・と感心しています。


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 参考●病院船「ぶえのすあいれす丸」(上田穀八郎・画)
↓から転載させて戴きました。

http://homepage2.nifty.com/i-museum/19431126buenosailes/buenosaires.htm


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南米航路就航時代の「ぶえのすあいれす丸」

(((buenos1941

ケープタウンでの「ぶえのすあいれす丸」

((rabaul_ラバウル空撮

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ラバウルはニューギニア島の東方ニューブリテン島に在る日本軍前線基地

 
●ラバウル出航から<沈没場所>までは下記の通りです。(↓から引用させて頂きました)
 地図に記すと、約2日間の航路くらいの距離ですから、ラバウルを出てその庭先ですぐに撃沈されてますね。  
 武力無用の病院船とは言え、それほど周辺の日本軍の防御は、お粗末だったのでしょう。


http://plaza.rakuten.co.jp/kaze2534/diary/?PageId=1&ctgy=0・・から引用した記事】

●『昭和18年11月27日、ニュー・アイルランド島カピエン西方チンオン島沖で、ラバウル野戦病院からの傷病兵1129名を乗せた病院船「ブエノスアイレス丸」は米軍B24爆撃機に爆撃され沈没する。

患者、看護婦、乗組員は16隻の救命ボートと発動機艇2隻で漂流するが、12月1日、同じくB24に発見された。
この時、漂流中の乗員はB24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む158名が戦死している。』

● 『1941年6月22日、笠戸丸以来約19万人に及ぶ人々を運んだ戦前のブラジル移民船は神戸港を発つ「ぶゑのすあいれす丸」を最後に33年間の歴史に幕をおろします。
 そしてアメリカとの開戦、移住者を長期にわたって収容できる構造になっていた移民船の多くは病院船として軍に徴用され、激戦の海へ派遣されます。 そして戦禍に没していくのです。

 「ぶゑのすあいれす丸」は戦時中幾度か新聞紙面を賑わせました。
 「病院船を鬼畜の爆撃-再度『ぶえのすあいれす丸』受難」(昭和18年9月2日)という見出しで「人道主義をかなぐり捨てた」米軍の度重なる病院船攻撃を難詰しています。

 約3ヶ月後の11月27日、遂に一発の至近弾が「ぶゑのすあいれす丸」の船舷にダメージを与え、船は沈みます。
 「漂ふ白衣勇士を掃射」「この仇、必ず討たん」(いずれも昭和19年1月の朝日新聞)。
 新聞は太平洋上の米軍機が赤十字標識を明らかに視認していたこと、漂流中の救命艇にまで銃撃を加えたことを非難し、看護婦長の手記も掲載して「鬼畜米機」への敵愾心を煽るのでした。

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●病院船 ぶえのすあいれす丸 轟沈時の絵図・・・が残っていました。

 ぶえのすあいれす丸の船長と、片山二等航海士が帰国後、大阪商船の嘱託画家・大久保一郎画伯を通じて忠実に描かせた「沈没時の周辺状況絵図」が残されていました。
 片山二等航海士のご子息のご好意により、画集を貸して戴きましたので、その写真と記事をアップさせて戴きました。↓  
 
第33話の⑦ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・・
第33話の⑧ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図

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↑ 上級生の教室で、眺められたその視線に圧倒されてしまった。
 ↑ 戦時中のこと、アルミ銭は飛行機用に使用の為、すず銭に切替えられてきた。 


第41話 ● 筆代の15銭 (松山)7歳 昭和19年

 昭和十九年のこと、清水国民学校(小学校)へ入学して数日後のことだったと思う。
 昭和十九年の春は、まだ空襲も無くのどかな学校生活でした。
 当時は、一年生の時から、かきかた(習字)の授業があったので、筆や硯の準備をしなければならない。
硯は家に残っていたのを用意できたが、筆は筆先が墨で固まり使い物にならない状態だ。
 物資が逼迫する中、ゴム底のズックにしても全て軍事優先で、何でも配給だったので、文房具屋では数量が限られていたのだろうし、店頭では価格も割高だったのだろうと思います。
 ある日、担任の先生から「明日は筆の配給があるから、大筆および小筆代の十五銭を、持ってきなさい」という指示があった。 十銭や五銭硬貨はアルミ銭であったが、アルミは飛行機外装用金属として軍需優先となり、錫(すず)銭に切り替えられていた時期でもあった。
 その翌日、一年生の授業が終わってからだったと思うから、多分昼休みだったのだろう。
 「放課後一年桂組の教室で、十五銭と引き換えに大筆・小筆を渡すから・・・」とのことだったので行ってみると一年生など入って行けるスキがないほど、上級生がワンサと来ていて大変な混雑となっていたのです。
 受付の先生から一年生から順に渡していくからという説明があり、順番に並ばされたが、それでも上級生は割り込んでくるし、初めて経験する一年生は要領を得ず右往左往するばかり・・・。
 泣きべそをかく者も出てきた。 僕もその一人だったのかなという様相でした。
 その様な状況の中でオロオロしている僕に、或る上級生が僕の背をつついた。
 僕が振りかえると、見たこともない上級生であったが「ワシが買うてきてやるけん、そこで待っとき、そこで待っとき・・・」と言い乍ら手をさし出したので、僕の手に握っていた十五銭を「渡してエエもんじゃろか?」迷いながらも渡してしまったのです。
 そしてその上級生はその混雑の中へ紛れ込んで行きました。
しばらく待っていたが、その上級生は戻ってこない。 懸命に探すが見つけ出せないのです。
  僕は「天の助け!」と思う気持ちで渡したのに、大変なことになってしまった。
大切なお金を、上級生に奪われてしまった・・・という気持ちが、時間の経過と共にこみ上げてきた。
 筆の配布も進み、午後の授業の鐘も鳴って、混雑したその教室から徐々に生徒も減ってきた。
 僕は半ベソをかきながら、金を渡した上級生を無心に探していたのです。
 家の近所、、集団登校する顔見知りの上級生さえも見当たらなかったのです。
 遂にその教室には、筆を渡す女の先生だけになってしまったので、僕は不安のあまりシクシクと、両手を目に当てて泣きじゃくり始めていた。
 先生は「なんで泣いているの?」と怪訝な顔で聞いてきたので、そのいきさつを話したものの、一年生の泣きじゃくり乍らのたどたどしい言葉では、うまく伝わらない。
 先生も半信半疑の様子で、この一年生の機嫌をとるのに、てこずっている様子である。
 遂に先生は「上級生の顔を見れば、分るんじゃね? 顔を覚えているのなら、上級生の教室を一緒に廻ってみるから・・・」ということになり、僕を中校舎二階の四年生の教室へ案内してくれた。
 僕が「四年生くらいじゃった」と言ったからだ。
 四年生教室の後部のドアを開けて見せた。
 三年生以上は男女は別クラスであったので、男子生徒ばかりだ。
 案内した先生が「一寸だけ時間をください。みんな、ちょっとこちらを向いてくださ~い・・・」と授業中の四年生に言った。  授業中の生徒は、一斉に僕の方を向いた。
 四十名程の四年生の視線がこちらを向いたので、その眼圧に圧倒されてしまった。
とても見返すことが出来ない。
 おずおずと見回してみたが居ない・・・と言うより、判らないという感じが支配してしまった。
教室の上級生の視線がこちらを向く中を、自分の視線で眺め返す度胸が一年生に有ろう筈がなかった。
 一年生の僕には、その上級生を捜し出すには、ちょっと気が遠くなりそうな思いになってしまった。
 次にもう一つ隣の教室をも廻った。  僕は先生に「おらん(居ない)・・・」と返事して首を振った。
 先生は「本当に四年生じゃったのか? それともお金を落として、思い違いをしているんじゃないの?」と言っていたが「五年生かもしれん・・・」と言ってみたところで、どうにもならない感じがしたので、いい加減な返事しかしなかったと思う。 そしてうな垂れながら帰途についたのでした。
 家へ帰ってから、事情を浦子に話したら「たった十五銭のことで、大層な事をしたんじゃなァ・・・」と言って、大笑いしたので僕は安堵の胸を撫でおろしたのです。
 お金は大事なもの・・・と教えられ、買い物した経験も全くない子供のこと、結局は大げさな事になってしまったのだと考えてしまいます。


 

第42話 ● 村○恵津子さん (松山)7歳 昭和19年

 琢町の四ッ辻東北角に武田商店があり、そこから北へ2~30メーター行くと幅1メーター弱の小さな水路が、東から西へ流れていた。
 農業用とは思うが、水量も豊富で水も澄んでいた。
 この水路に並行して、幅2メーターほどの路地が東へ通じていた。
 この道路あたりで、同級生の村○さんがよく遊んでいるのを見かけた。
 入学するまでは、あまり気にもならなかったし、そんな子がいることも知らなかったと思う。
 学校で、その可愛い村○さんを見てから(うちの近所の子だなあ・・・)と、感じたように記憶している。
 或る時、浦子とこの細い道を通って、上一万まで行ったことがあるので、浦子の後ろへ付いて行きながら、道路沿いの表札を探して歩いたものだ。
 一年生とは言え、村○という漢字を知っていたのだろうと思う。
 この路地の中程を過ぎたあたりに、水路を挟んで右側に在った。
 この辺に多い板塀と格子戸付きの門構えで、踏み石を二三渡って玄関へといった風情であった。
 中学生の兄さんが居て、白っぽいベージュの学生服で数回見たことがある。
 二人兄妹であった。




第43話 ● 遠 足 (松山)7歳 昭和19年

 一年生の最初の遠足は、道後公園だったと思うがあまり記憶にないので除く。
 然し、秋の遠足風景ははっきりと残っている。
 秋もたけなわの小寒い風があった日だった。
 松山の北方、山越辺りを通って、細い田んぼ道の農具置き小屋を横に見て通り、その先の道路横の土手を右に登ってゆくと、そこには水を満々とたたえた池があった。
 大きな池というイメージでは無かったが、表面のゴミや水泡は風邪で吹き寄せられ、透き通る様な濃い緑色をした、いかにも深そうな池であった。
 空はちょっと曇っており、池にはさざ波がたっている。
 池の南側に小山があり、池の傍から細い山道が続いている。
 そこを登って林の中の草原で、池を眺めながら弁当を開いたと思う。
 大きな魚の群れが水面に見えたとか、魚が泳いで波がたつんだとかの子供なりの議論をしたのを覚えている。
 池の西側には広々と、色づいた田んぼが広がっていた。

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