第58話 ●内子国民学校へ転校(内子)8歳 昭和20年5月
住民登録も済ませ、転校生の手続きも済んだのか、祖母ちゃんが羽織を着て僕と俊光を連れて学校へ登校した。
学校の容姿が凄く立派で「凄い学校へ来たんじゃ・・・」という気持ちになった。
教室内は青みがかった青磁色の塗料が塗ってあるのが、外から見ても解るほどだった。
同じ背格好の子供二人のため、受付けてもらう時でも双子と勘違いされた。
周辺の子供らも「双子かぁ?」と問いかけてくる。
僕は二年竹組(クラスは松、竹、梅)に編入され、女性の乾家(かんけ)先生のクラスだった。
乾家先生は23~4歳くらいか?紺色の服装で、頭の後ろで小さな丸髷を結っている先生だった。
「松山から来た、福島君です」と先生が紹介すると、徳田君や東原君が
「福島県、空襲警報発令!」などと、大声でラジオのようにかしこまった声で冷やかしていた。
当時ラジオでは「徳島県、高知県空襲警報発令、愛媛県、警戒警報解除」などと 常時、引っ切り無しにラジオから流されていたので、語呂が似ていたのだろう。
前から3列目の左端の席へ座ったと思う。
乾家先生は一見おとなしそうな、内気な先生だったので、ガザマツ君が多かったこのクラスでは先生は手こずっていた感じだ。
僕の前の辺に席があったガザマツ君は、先生にたて付くことはザラで、自分の教科書や筆箱を窓から外へ放り投げたり、教壇まで上がって黒板消しを投げたりがあり、同じ行動を真似てふざける子も居たりして「酷いトコへ来たなァ」と教室では直感していた。
学級崩壊とまでは行かないが、一部のガザマツ君の私語で授業が中断したり、先生が窓際へ駆け寄りハンカチで涙を拭ったりが何度もあった。
ガザマツ君は、くすくすほくそ笑んでいたが、殆んどの真面目な子達は「先生の弱虫!」と心の中で叫んでいるようだった。
だからであろうか、半年後、秋には清水一平先生が受持ちの先生となった。
清水先生は学徒勤労動員で、新居浜の住友系軍需工場で働いていたらしく、新居浜での色々な出来事や経験を授業に取り入れて話してくれて解かりやすかった。
口調も身体も元気一杯なので、完全にガザマツ君を押さえ込んでしまっていた。
内子へ来てから初めて見たのは「宙返り訓練用具」と皆が言っていたものだ。
輪の中に大の字になって乗り、50メーターほど自走して止まる訓練機だ。
「飛行兵に成るにはアレが出来んと成れんのじゃ・・・6年に成ったら、皆ヤラされるぞ・・・イヤじゃのう・・・」と陰口を利いていた。
通学用教科書入れは、松山から持ってきた絣の医療袋だけだったので、登志姉ちゃんのお下がりの、縁が摺れた茶色のランドセルを使用したが、防空頭巾だけは田舎でも必携品だった。
俊光には泰山の軍人用腰吊鞄を、忠兵衛が背負い用に改造し、ランドセルにして使用していた。
分厚い本皮製のしっかりした仕立てで、蓋には☆のマークが付いている立派なものだった。
戦争が終わってからではあるが、学校からの帰り道、内子駅前にジープで乗りつけていた進駐軍兵士二、三人が、僕の前を下校していた俊光のランドセルに、指を指し目を奪われていたこともあった。
孝芳が入学した3年後にも、お下がりとしてこのランドセルを使用して、小学校在学中使用していたと思う。
年に一回の授業参観は、祖母ちゃんのタキノが必ず来てくれていた。
お婆ちゃんが来ている姿は珍しいので、子供たちには人気者で「鼻メガネの婆ちゃんが来たぞ・・・」とひやかし半分で僕に知らせてくれたりしていた。
内子で最初に覚えた歌は、子供たちが歌っていた・・・「ピストンはゴットントン、発動機はポコポコポン、ピーデル(ジーゼル)はトローン、クーイクイ、ゴーゴ鳴るのは潜水艦だー、ビー(タービン)」と「昔、昔、その昔、椎の木林の直ぐ傍に、小さなお山があったとさ、あったとさ、丸々坊主の禿山は、いつでも皆の笑いもの・・・」松山での軍国唱歌と違い、子供には新鮮だった。
この頃、学校で習った唱歌は「但馬守(たじまもり)の歌」で「香りも高い橘を、積んだお舟が今帰る、遠い国から積んできた花橘の・・・今帰る但馬守、但馬守」で、天皇の命を受けて「たじまもり」が香りの高貴な橘を、船に乗って南方の国へ探しに行き、橘を見つけて10年後に帰国したら、天皇は亡くなられた後だった・・・という歌でした。
2年の学芸会は合唱「うぐいす」でした。
「ケキョケキョうぐいす、ホーホケキョ。ホーホーうぐいす鳴かせましょ。山は白雪降るばかり・・・」と言うような歌でした。
内子へ疎開して来てから、半月も経ってない時期に、浦子から便りが来たのだろう。
祖父ちゃんが僕らに「松山の家の近所に天理教があるのか?」と問うてきた。
僕は「50メートルのとこにあるぜ・・・」と返事すると
「そこで一、二年生は授業するようになったから、帰って来いと祖母ちゃんが言うて来とるが、どうすりゃ?」ということだった。
僕は「松山へ帰ってもええか・・・」という気持ちも少しあったが、内子では空襲が無いし、のんびりした生活の中、やっと友達も出来て慣れてきていた。
俊光と相談すると、俊光は「絶対イヤ!」と一言で嫌がったので、僕も残ることに決めた。
俊光は数ヶ月前まで、内子に居たのだから、内子が居心地が良いに決まっていることだった。
確かに松山大空襲の前だっただけに、松山へ帰っていれば家族は、更に大混乱に巻き込まれていたことでしょう。