③明治9年(1876)「宮本小一外務大丞・朝鮮国京城に行く」
宮本小一は、後に「朝鮮政府接遇記略及風俗概要」なるものを提出しているが、朝鮮国の衣食住や人々の風俗が興味深く描写されており、更に日記録である「朝鮮理事日記」と同行した陸軍士官の報告である「朝鮮紀行」文と共に、その中から風俗に係る部分をまとめたものである。


以下、宮本小一の朝鮮見聞録である・・・
日本側一行には、朝鮮側の迎接官や槍持ちや「令」の旗持ちと楽隊など総勢七十四人が同行する。
乗り物は、宮本小一のみが「双駕馬」という2頭の馬に乗り,他の日本側随員も馬に跨って行く。
この輿は正二品以上の身分のものしか使うことが許されないものであり、これをもって格別の優遇であると言う。しかし輿の塗りは剥げ落ち、装飾は毀損していた。行進中は時々楽隊が歌い演奏をした。

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地方官が先行して、各家の戸を閉じさせて見物を禁じている。時おり官憲が、集まって見物している人々を鞭をもって追い払う。なんとも大変な喧騒である。
道が狭い上に輿を支える側人が多くて混雑するので、京城からの帰路はこの輿を辞退した。それで朝鮮政府は「手輿」を用意した。これは人間が担ぐものであったが、輿の中は狭くてやっと体が入れられるぐらいのものであった。


人々は小井戸あるいは溜め水を用いるのみで、本年のように旱天の時にもなお手を拱いて、ただ渇水を憂えるだけで、自ら労力して水を得ようとする者が無い。かえって日本人によって良井戸を掘って教えるのは、哀れみさえ覚えられる。
全体に井戸、泉水が乏しい。井戸の深さも3、4尺に過ぎず、汚濁不潔を嫌わない風俗であるから、枯れなければそれで事足りるとするようだ。
我が水兵達は淡水を求めるのに大変な苦労をした。山に入って鉱山を拓くかの如く各所で井戸を掘り泉水を求めていた。
日本のように庶民が行商や神宮参拝旅行をするということも皆無なのであろう。もっとも、朝鮮には景色を楽しむ名所が無い。更に「この度、入京してその実情を目撃したこの国の至るところ駅亭の設けて無く、旅人らは路次の民家に投宿し一飯で飢えを癒し、僅かに雨露をの逃れるのみ。その家屋は概ね豚小屋、牛舎のそのままなり」
通津府の衙門(官庁)にて休息をしたが府使が来て慰労してくれる。彼は汗が衣を濡らすのも忘れて動き回り、お膳を出して饗応した。それは東莱府使の宴饗よりも一層丁寧なものであった。
京城は大河(漢江)の上流にあり、王城城壁は山の中腹に渡っているが、その地は狭くて人家が密集している。およそ3万戸以上はあろうか。
城郭には門が八ヶ所ある。構造が一番壮大なのは崇禮門である。方位から言う場合は南大門と称する。
門内に入れば西北に一大街路がある。幅は20m余りである。
市街は大抵瓦屋根の家である。しかしその構造は甚だ雑であり、なおかつ路の両側に狭小なる藁屋が列をなす。ゆえに街路の幅を狭くし、またその不潔なことは例え様がない。
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汚水が道路の中央に溜まり、牛馬の糞がうずたかく積もり牛骨が散乱している。しかし誰も掃除する者がない。夏であるから一層の臭気が一面に漂っている。
その他の道は、2~3間(4~5m余り)で、凸凹を修繕するということがない。道路端の溝梁はない。
京城での宿は、城郭外西にある盤松洞中軍営の清水館という所であった。(後に隣の天然亭と共に日本公使館となる)
敷地はおよそ千坪。建物は百坪ぐらいで皆瓦屋根である。館の周囲には竹垣を設けてそれに幕を張って巡らせ、外からも内からも展望できないようにしてある。館の前面には広さ千坪余りの池があって蓮の葉がまばらに生えていた。
敷地内に井戸はなく、門外の井戸を使う。ここでは水は良質多量であった。
室内の壁は新しく紙を貼り、柱や梁なども新しく青色や白色で画彩してある。
「花紋席」と称する薄いむしろが敷いてある。椅子、小さな屏風を置き、紅紗布で覆った行灯を2、3個置く。皆、朝鮮国においては善美をつくしたものと言う。
部屋は狭く、数人を収容して、机と椅子3、4個を置けばもう余地は無い。
紙障子は高く吊り上げてあって夜も下ろすことがない。そのため夜雨や朝露を防ぐことが出来ない。
寝室は壁に竈(かまど)の穴のような小窓をあけて光を入れ、それに竹の簾(すだれ)を垂らしてある。ゆえに蒸し暑いこと甚だしい。
また、便所も数箇所仮設してあった。これも日本人のために作ったと言うが粗末な藁葺きで不潔であった。日本人のためにこのように浴房を設け、数箇所の便所を作ってあるが、これは京城近傍では稀なる風景だと言う。
途中の宿には敷地の一隅に便所が設けられていたが、頗る不潔で堪え難かった。
普通、朝鮮の民家には一切便所がないとも言う。
その為か、いたる所で糞尿の臭気が甚だしく数万の蝿が飛び交い、部屋にも満ちて煩わしく、耐えられない程である。雨が降る日にだけは流されて臭気が治まる状況。
ここでは蚊および蚤はまれであった。しかし、浅間艦から士官3人が連絡のために仁川から来たときに民家に宿泊したが、おびただしい蚊と蚤のため、遂に一睡も出来なかったと言う。
清水館には、朝鮮兵が2~300人ぐらいで護衛をしている。
事務官と兵士の上官、下士官には休息所が設けられているが、他の兵卒は別に屯所もなく、館の内外のいたる所に筵(むしろ)を敷いて座ったり、あるいは樹木の下に居たりして、それで苦にしている感じではない。殆んどまるで犬や羊の扱いで、雨の日は甚だ困難であろう。
日本人のために朝鮮の護衛兵の中から使いの者を選んでいる。これを「房守」と称す。
時々、下士官が来て働きぶりを調べて指図している。その交代の時には、下士官が帳簿を持って室内にある調度品などを、紛失が無いか検査して交代するという規則になっていた。
食事は1日2回で、たいてい10種類から17~8種に至る。三尺四方ばかりの有脚盆に渦高く盛り上げて、倒れ落ちるのを恐れるばかりである。
牛豚鶏魚の肉、草餅、吸物などをみな器や皿に盛る。しかし臭気がひどく箸を下す者が少ない。
ただ桃李、林檎、瓜などは臭味がないので食べられる。沙果・・林檎に似て頗る大であるが美味ではない。マクワウリ、葡萄、西瓜、梨の類が多い。
水煮の卵、牛肉、豚肉、鶏肉、麺、カラスミ、乾し魚を削ったもの、或いは日本人のためにと焼き魚も出した。蜜を湯で溶いてミル(海草)と煮餅をあえたものなど。それらが、1人に対して実に10人前分ほどもある驚くべき量であった。
炎熱の時節でもあり、その異様な臭いに堪えきれず、胃腸も慣れないこともあって食傷を恐れて箸を置く者が少数居た。(宮本たちの食事はいわゆる宮廷料理と思われる)
なお、庶民のものは不潔で食べるべからずと言う。
胡麻を多産するので、ごま油をもって百食の調味の元とすると言ってよい。
また、大体のものは胡椒と唐辛子を加えて調理しており、この2味を用いないものは無いも同然である。それゆえに朝鮮人は咽喉への刺激により、一種の咽喉の病気を受ける者が多いと聞く。
酒はほとんどが焼酎である。王城での賜饌での酒も焼酎であった。強すぎて呑めない。(宮本小一外務大丞の言。)
焼酎は良い味で飲める。琉球の泡盛に似る。しかし、強すぎて酒杯になみなみと盛って飲む者はいない。(陸軍大尉 勝田四方蔵、陸軍少尉 益満邦の言)
米の醸造酒はあるが、酸味が甚だしくて呑めない。
盆や膳類は漆が剥げ落ち、垢がついて全て不潔さを感じた。
磁器皿の類は日本伊万里の下等品および呉洲のものが混じる。朝鮮製のもあるが質が厚くて粗雑で石のように重い。彩画はなくて青白色の上薬を用いるのみ。しかしどれも汚れたような不潔さを感じる。
酒(焼酎)は土瓶に入れている。杯は日本製もあり、朝鮮製のもある。
彩画した皿や金銀の器は無いが、国王の賜饌の時に添えたる銚子は徳利形で、杯は薄いこと葉っぱのような銀製で蝙蝠の絵が画いてあった。
また、醤が入った磁器壷には石榴の模様が淡青で描かれていた。これらは支那の品に似ていて、おそらく朝鮮製ではないだろう。
牛豚鶏魚の肉も、調理をきちんとして器や皿を清潔にすれば、もとより食べられるものとなると思う。
日本人がこの国に来た時、まず食べ物に注意すればするほど、飢渇の患いを免れられないであろう。
●茶の湯・・ 茶(緑茶)は無い。
干した生姜の粉と陳皮(蜜柑の皮を干したもの)を砕いたのを煎じたものを「茶」としている。貴人はこれに人参(朝鮮人参)を入れて人参湯と称する。つまり煎じ薬を飲むにも似ている。
菓子は、小麦粉を練って胡麻をまぶしたものであり大薬菓と称する。米を固めて作った日本の「おこし」と同じ物がある。紅白の色に分けてある。
棗(ナツメ)は極めて大きく、蜜を練って衣とし松の実を貼り付けて皿に盛ってある。
餅に豆の粉をまぶしたものもある。稀に、日本製の片栗の菓子も見る。
日本の漆塗りである春慶塗の重箱を尊んで菓子を盛って出してくれた。
頭に異様の冠を戴き、赤色の紗の大袖長裾の衣をまとい、手に割竹、数珠、太鼓を持ち、その容姿は絵画に見るところの天人の如し。
この楽は久しく支那においては絶えたものであるが、朝鮮には残っており唐の時代から伝えて今日に至ると言う。その古風を失わざるをもって誇ると言う。


三角山(北漢山)と称する剣鋩の如き山あり。王城の鎮たり。有名な山のようで朝鮮人の会話によく名が出てくる。
村家や部落の地は樹木少なく、垣根なく、隠すものが無いので市街から遥かに見渡すことが出来る。
市街の一般民家は朝鮮政府の命令によって悉く門戸を閉じていた。十字路の所ははるか遠くに縄を張って一般の人の通りを禁じていた。故に王宮に参内する時に通ったときは、道路は粛然として庶民の姿を見ず、ただ建物の戸の隙間からじっと見る目が沢山あるのが分かる。
このような状態であるから、我々一行が門外に外出しようとするなら、まず朝鮮官吏らが引きとめて、外出してくれるなと乞う。学校や貧民院や病院などを見学したいと言っても、見るに足らずと言って制止する。或いは、そのような施設は無いと言って一歩も外出させようとしない。
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| 迎恩門あり。支那より勅使の来るのを国王がここで迎える。 |
市街を横切り「迎恩門」外の山麓にあった。しかし、背の低い松がまばらに生えた狭い谷があるばかりで、清水と言っても岩石の間から水が滴り出るぐらいの景況で、あたかも乞児の棲居する所の如し。
皆、裏切られた気持ちで驚いたり悔やんだり憤慨したりして、他の場所に行こうとしたが、朝鮮の護衛兵がしきりに遮り拒むので止むなく館に戻った。
京城近傍の草木は寒地であることもあって、特別に珍しいものは無かった。
檜、杉、梅が無く、竹や棕櫚も無い。しかし柏、合歓の木が所々に野生している。
また各所に多く松を見る。この国では松が多いと見えて松の実を食用によく用いる。
背が低くて横に曲がったものが多い。直立して天を指して伸びているのは稀である。
朝鮮の南部ではほとんど松は見ないが、釜山草梁公館には元禄時代の頃に松を植林したので鬱蒼と繁って風濤洋海を航するが如し。
釜山、江華府、京城、夫々の山に草木が繁るのに不適のようである。周辺は禿山が多く遠望すれば黄赤色の地面が斑々としてその観は美ならず。
家屋の建築には松材以外に無い。
草木が少ないということは、樹木を愛玩して植林する人も居ないということである。
京城に花屋というものがない。人が植えた花木というものも無い。
柑橘類の木はいよいよ無い。蜜柑を朝鮮では殊更に珍なるものとし、毎年冬至の祭りに日本から求めて国王自らこれを食するのが行事という。故にこれを尊重し、かつて黒田全権大臣が朝鮮に来たときに、冬であったから大量の蜜柑を持っていったが、朝鮮側もこれを殊のほか嘉賞したり。
朝鮮修信使が東京に来たときに初めて枇杷の実を食したが、これを甚だ賞した。
修信使らは日本のことを賞するのに、「建築が盛んであり、草木が多い」と言う。これによっても朝鮮には草木が少ないことを知るべし。
土地は痩せていないようである。丘陵は雑木ばかりであり、開墾をしたこともあるが村民が怠惰(なまけもの)だからついにそれも止めたと言う。
夏は雨が多いと言うが、本年は旱魃とのことで稲の水田がひび割れていた。畑には大豆が多く植えてある。黍(きび)、稗(ひえ)、甜瓜(マクワウリ)、ささげ(豆の一種)、胡麻、綿花、西瓜、南瓜、トウモロコシ、タバコなどを作っている。干天のために多少の損傷を受けているようである。
男は耕作をやり女は乾飯を運び、耕牛は所々につながれて、その光景たるや日本の田舎と同じである。ただ田畑の並びが日本に比べて不整列であった。
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大海から直接船が来て魚介を運ぶことは無いようである。魚蝦は海から遠いので乏しいようだ。もっとも朝鮮人は、牛豚類を重用して魚介を賞しないようで、魚類は多く見ない。
野菜などは、通常の種類がある。しかし、浅間艦が一度に多量の数(船員約250人)を求めたが、すぐに得ることが出来なかった。都外はもちろん都内でも魚市の取引は、常に閑寂たるを知るべし。
ゆえに薪柴は貴重品である。
石炭は、修信使がかつて我が国の汽船に乗ったときに初めてそれを見たと言う。後に帰国してから山中に石炭を見たという。しかし掘る方法を知らないと言う。
その家屋は石と泥をもって建設し、稲藁を葺いて屋根としている。茅は焚き火の用に使うという。窓は小さく、大人が家に入って立つことが出来ないようだ。大方の家は「床」というものが無く、土の上に藁むしろを敷いて座す。その狭さ不潔さといい殆ど穴居の類である。
そういう家が表裏の別なく密集し、路地には乱石が散乱して、ほとんど足を踏み入れることが出来ない。村の中央の家に行こうとするには、どの路地をどう曲がっていけばよいのか分からないぐらいの迷路である。
寝起きするのも容易でないような家の中にはわずかに1~2の炊具を見る。
ただ、日本人の眼に入るのは、貧家に不釣合いなほど大きな黒色の磁器甕(かめ)がどこの家にもあるということである。これは木の樽が無いゆえの水を溜める甕(かめ)であろう。質は頗る堅牢である。
村民は粗食に甘んじ閑寂に耐え、人間世界は斯くの如しと思うのみで、悠々として歳月を送る風潮がある。奔走して労働し寸陰を惜しんで急するという気性は無い。
長煙管をもって煙をくゆらしながら余念無く日本人を見つめる姿は、山静かにして日長き殆ど太古の少年の如しである。
朝鮮王(高宗)の衣服は、美絹にして桃紅色の礼服である。胸に袞龍(こんりょう)の如き金襴がある。冠は紅黄色の唐冠に似たものである。
重官は、松葉色に双鶴の刺繍模様ある礼服である。
庶民の服は木綿白色である。富貴の者は「紬(つむぎ)」を用いる。
庶民の場合、男女の服装は大して変わらないように見える。
(かつて黒田全権大臣は釜山草梁において一般男女の区別がついてない。)
染料はまだ無いようである。縞小紋の類は全くない。赤、紫、橙、黄など人の目を悦ばす色も見当たらない。
婦人などで色のある服は時々見るが、支那か日本から輸入したものである。
近来、日本から染料を輸入しているから、漸次これを用いるようになるだろう。
炎天下、日光を遮る傘の類がない。故に如何なる炎天であっても帽子なき者は天日を避ける術が無い。
雨傘は粗末なものがあり、頭だけを覆う油紙の扇のようなものがある。雨が上がれば畳んで懐中に入れる。

朝鮮の馬は日本の在来種よりはるかに小型であり、時として「大馬」と称せられる馬ですら日本のものの8~9割ぐらいの背丈しかなかった。
馬具は日本古式と同じである。日本蒔絵の鞍を賞美する。
牛は肥大している。大方、野に放って随意に青草を食べさせているのでよく育っている。
浅間艦が牛1頭を買い求めたが、韓銭何貫文で値7円に相当したと言う。朝鮮人が牛を繁殖すれば貿易の一助ともなろう。


扇の要に紐を通して奇物を下げてこれに工夫を凝らしている。
筆は毛が硬いが良く出来ている。
墨の形模様は雑で銀泥などの装飾も完全ではないが、墨質はとても良い。
時として、団扇の中央に二つ巴のような紋章を画きだす。
これは、朝鮮国政府の徽章とも言うべきか。各衙門(がもん=役所)の扉やその他官府に係る物品の多くはこの紋章を画いている。
紙は楮(こうぞ)を原料にて作る。日本のものより厚くて強靭である。薄く美白色に製する方法をまだ発明していないようである。その値段は日本に比べれば高い。ただし楮での紙があるのは日本と朝鮮ぐらいと思われる。
時間を守ることをしないのは朝鮮の国風である。そのことを気にする者はいない。公務などにおいても同様である。
対談をしていても詐偽をもって答えたり、去ることを言わないまま帰ったりする。甚だしいのになると、話の途中で立ってどこかに行ってそのまま戻って来ない。皆これらは朝鮮の風習である。
一日の温度差が激しく、20度ぐらい差がある。(一行の京城滞在は7月30日~8月26日まで)
隊員に病人が多くなってきた。これは気候が不順なことと食料の粗末なことに原因があると思う。
患者の一人(金子鉄蔵)が医官の治療の甲斐なく死亡した。(高熱を発して嘔吐を繰り返し心停止に至る。赤痢の症状に似る。氷水による飲食が原因とも考えられる。又、奥義制書記官が重体となり、帰国後長崎の病院に入院して一命を取り留めている。)
この病は一種の風土病でかつて台湾で流行したものと同じ種類であろう。また朝鮮は悪性の熱病も多いという。
浅間艦に居た者も下痢や脚気になった者が多い。
今後、朝鮮国に人を派遣する場合は、予防法に注意すべきを要す。



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