私の父親・泰山がラバウル従軍中にマラリアに感染し、病院船「ぶえのすあいれす丸」で内地へ帰途の2日目、B-24の空爆で撃沈され漂流の末に救助・・・昭和19年正月には広島江波陸軍病院へ帰還、数日後、善通寺陸軍病院(香川県)に収容されていたのです。


漠然と【南方海上】とされていた撃沈の場所も、下記記事により特定できました。
http://plaza.rakuten.co.jp/kaze2534/diary/?PageId=1&ctgy=0・・から引用した記事】↓ 

●『昭和18年11月27日、ニュー・アイルランド島カピエン西方チンオン島沖で、ラバウル野戦病院からの傷病兵1,129名を乗せた病院船「ブエノスアイレス丸」は米軍B24爆撃機に爆撃され沈没する。
患者、看護婦、乗組員は16隻の救命ボートと発動機艇2隻で漂流するが、12月1日、同じくB‐24に発見された。
この時、漂流中の乗員はB‐24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む158名が戦死している。』

 
 ところが、私の2/18の下記記事・・・

第33話の③・・ぶえのすあいれす丸の沈没・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9067673.html

・・・をご覧になって、当時乗務員だった片山武夫二等航海士のご子息から「ぶえのすあいれす丸、轟沈時の絵図が残っています」との連絡が有り、ご好意により見せて戴きました。

 拝見してゆくうちに、作者大久保画伯の力量もさることながら、辛苦の末に帰還、ご協力された多くの船舶関連者の事を想い、先人の崇高な精神に、止め処なく泣けてきて手を合わせていました。

・ぶえのすあいれす丸の船長と、片山二等航海士が帰国後、大阪商船の嘱託画家・大久保一郎画伯を通じて忠実に描かせた「沈没時の周辺状況絵図」が残されていたのです。

イメージ 1
        ↑ 船尾付近に被爆した「ぶえのすあいれす丸」


 大阪商船(大阪商船三井船舶)の嘱託画家・大久保一郎は「戦時輸送船の最期」という貴重な記録画の連作を残して、その絵が昭和57年、大阪市中之島の大阪ビル(通称大ビル)地下倉庫で発見されたのだが、その6年前(1976)に84歳でこの世を去っていた。
 亡くなる前に、大久保は次のようなことを文章に残している。
 「陸軍や海軍の御用船(軍部に徴用された商船のこと)になった社船が、敵に撃沈されますと、その生き残りの船員たちから、同社船の遭難の状況を克明に聞きとり、それを忠実に絵に描いたわけです。 かれこれ80枚くらい描きました」
 これらの絵は画家の想像で描いたものではなく、生き残った乗組員の体験と報告に基づいた、忠実な記録でした。
発見されたのは37枚だったが、実際は80枚余りもの作品を描いていたのだ。
では、残りの40枚以上の絵はどこへ消えてしまったのだろう。
 
戦時中の従軍画家となって軍部に協力し、国民の戦意を奮い立たせる目的で、勇壮な戦争画を描いた画家は大勢居ましたが、大久保の絵は「悲惨な海上輸送戦における、敗北の記録画」である。
 岡田社長の指示とは云え、憲兵隊や警察の目が厳しかった戦時中に、日本軍の負けいくさの真相を書き残すということは国賊もので、余程の覚悟か、特別の目的がなければむつかしいことだった。
 味方の輸送船や戦艦が敵に撃沈されても、軍の作戦上の秘密として、一切発表されない時代、輸送船の海の悲劇(戦争海難計2,394隻)など、多くの国民には何も知らされていなかった。
(この解説は【画集・戦時徴用船の最期】と【海に墓標を】から抜粋させてもらいました)

 
●1・・「ぶえのすあいれす丸」沈没時のドキュメント・・
 陸軍の徴用船「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)は戦時病院船として任務に就いていた。
 真っ白に塗った船体の横腹と、煙突に赤十字のマークがくっきりと書かれ、空からも判るように甲板にも、一辺の長さが36メートルもある赤十字マークが書かれていた。
 それは8千メートルの高空からでも識別できる大きさだった。
 病院船は赤十字国際条約によって、海上における中立国とみなされる。
 したがって交戦国は、その船の安全を保障し、攻撃してはならないことになっている。
 とはいっても、中には病院船を装いながら、元気な兵隊に白衣を着せて乗せたり、軍需物資をこっそり輸送させたりする指揮官もいたから、相手国としては監視を怠るわけにはゆかない。
 
 「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)は、昭和181126日ラバウル及びココポで運送患者1,129名、便乗者63名を乗せてパラオに向かった。
 国際条約に違反するものは何も積んでいなかった。
 だから乗船負傷兵も乗組員も、赤十字マークを信頼し、安心して祖国への航路を急いでいたのである。
 1127日、朝から快晴で風もなく、波もたたず、海は青いペンキを塗ったように輝き、船べりに砕ける波だけが白かった。
 朝食後の甲板では、白衣の傷病兵たちが看護婦に付き添われて、散歩したり、船べりにもたれて歌を歌ったりしていた。
 
 乗組員の見張りを各所に配置し、厳重警戒航行中のところ、午前810分頃、南緯240分、東経14920分の地点に於いて、米空軍の爆撃機B241機雲間から現れた。
 高度は約1,200メートル、眼下の白い船の甲板に書かれた赤十字のマークは、もちろん見えすぎるくらいよく見える高度だ。

 敵機は爆弾を投下し始めた、。
 投下された爆弾の一発が後部左舷側に吊り出した端艇を貫通し、第4、第5番艙隔壁付近の舷外付近で、轟音と共に炸裂し、船体に大破裂口を生じた。
 この為、海水はシャフトトンネルを通じて、舵機室及び機関室に侵入し、乗組員は極力排水に務めたが、浸水は急速に進み危険状態になったため、同817分船長は病院船医長に乗艇用意を通告した。
 患者達は殆んど救命艇に移乗し避難したが、その後も左舷への傾斜が激しくなり、850分同船はついに船尾より沈没していった。
 戦場には国際条約も人道主義もない。あるのはただ暴力と野蛮な殺し合いだけである。


イメージ 2
         ↑ 沈み行く・・・ぶえのすあいれす丸

イメージ 3
    ↑ 沈み行く・・・ぶえのすあいれす丸      橋本睦郎 画

 
イメージ 4
↑ぶえのすあいれす丸はラバウル出航2日目、チンウォン島沖の×印に於いて轟沈す
 

イメージ 5
ぶえのすあいれす丸沈没時実写々真?  船首を上げて沈みゆく船と救命ボート

 

イメージ 1
イメージ 2



イメージ 3

        ↑ 轟沈されてから20数日してからの新聞記事


イメージ 9
【ぶえのすあいれす丸撃沈事件  1943(昭和18)年11月27日 】


●乗船の看護婦、原田初枝さん(主婦・元大津赤十字病院婦長)の手記

{爆撃を受けた病院船ぶえのすあいれす丸}

 昭和18年9月、私は三度目の招集令状を受取り、宇品港より『ぶえのすあいれす丸』に乗船して出発、10月2日ラバウルに上陸した。
 ニューブリテン島のラバウル赤根岬にある第94兵站病院に勤務していたが、やがて日増しに戦が激しくなり、毎日爆撃があって、最早女性の勤務するところではなくなり、ニューアイルランド島への転属命令が下された。再び懐かしい『ぶえのすあいれす丸』に乗船した。
・・・中略・・・

 ラバウルを出港して2日目の
昭和18年11月27日のことです。
 部屋では食後のひとときをそれぞれ思いのままに楽しんでいた。
私は一人でトランプ占いをしていたが、今日は少しもついていないと言いながらトランプをめくっていた。
その瞬間ピンピンピンと、船が何かに突き当たったような、また地震のような揺れを感じた。
「やられた!」と誰かがいった。
エンジンの音が止まり、隣の将校病室からどやどやと患者が出てきた。
襲撃された瞬間に全員の荷物が放り出され、足の踏み場もない有様となった。
爆音が遠く聞こえる中、思わず救命胴衣に手が届く。

・・・中略・・・

 その時兵士に「看護婦さん、早く!何しているのだ」とせき立てられて慌てて左舷の中甲板に出た。
見ればすでにボートは全部降ろされ、海上はボートと人で一杯だ。
通路には、これまた多くの将校患者がいる。
我先にと船の手すりにつかまりながら昇ってくる。
幾本もの縄梯子がおろされた。
見るも恐ろしい。

 私は「さあ、早くしっかり縄をつかんで降りなさいね」と言いきかせつつ、患者の帯を後ろより持って一人ひとり降ろしていった。
覗き見ると、大きなギプスや飛行機材で作った副木をつけた人が、無事に海面に浮いていた。

・・・中略・・・

 海水が膝まで覆ってきた。
40度くらいの傾斜があり、中川が足を取られて甲板上で沈み、彼女を引き上げ二人で左舷に行こうとしたが、またしても中川が今度は投身よけの網に靴を引っ掛け、なかなか抜けない。
ようやく靴が脱げ二人は船の外に泳ぎ出た。

 私は琵琶湖畔で育ったため泳ぎには自信があった。
二人で肩を組み、船に巻き込まれないように沖へと泳いだ。
「死ぬ時は二人で死のうね」と言いながら20メートルほど泳いだとき、目の前に幅5、6寸、長さ一間ぐらいの板がぽかぽか浮いているのを見つけた。
板に泳ぎついて、二人でその板につかまり泳ぎ続ける。
海面は一面浮遊物、人、ボート、ブイでいっぱいだった。
「船が・・・船が沈む!・・・」の大声に振り向くと、船は次第に船尾から水没しかけていた。

・・・中略・・・

 海水と油で顔はぬるぬるするばかりか、油が目にしみて痛い。
ブイに引き寄せられたが、すでに4、5人がつかまっていた。

 真っ白い船体、緑の横線、船上の赤十字のマークも鮮やかに、船尾よりブクブクと船が沈んでいった。・・・   (つづく・・・)

【ぶえのすあいれす丸の沈没】
http://vaccine.sblo.jp/article/1196804.html?reload=2010-09-18T11:18:28 より

(((buenos2
ケープタウン停泊中の「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)(1935年頃)

(((ブエノス
大阪商船「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)


「ぶえのすあいれす丸」の航海記録 
http://www.combinedfleet.com/Buenos_t.htm より米側記録

1943817日:

ビスマルク海。 南緯01-14S、東経148-13Eで未知のアメリカ航空機、おそらくUSA-AF B-25に攻撃された。

1943
818日:
ラバウルに到着。 ブエノスアイレス丸は、船体の周りに緑のストライプが描かれた白く塗装されています。 彼女は艦橋の近くに番号8976を持ち、漏斗と船体の側面に大きな赤い十字を表示しています。

1943
819日:ラバウルを出発。

1943
829日:マニラに到着。

1943
830日:マニラを出港します。

1943
95日:門司に到着。

1943
910日:宇品を出港。

1943
920日:ラバウルに到着。

19431011日:ラバウルを出発

1943
1021日:宇品に到着。

1943
1115日:宇品を出発して神戸へ。

1943
1122日:ニューブリテンのラバウルに到着。


19431126日:
正体不明の船団でパラオに向けてラバウルを出発。 ブエノスアイレスマルには、63人の看護師と、ラバウル海軍病院から送還された不明の数の日本人軍人と、1,129人の負傷者および病気のIJA兵士がいます。 [3]

1943
1127日:
ニューハノーバーとニューアイルランドの間のステフェン海峡、ビスマルクス。 0830分頃、B-24「解放者」重爆撃機が病院船BUENOS AIRES MARUを誤って爆撃しました。 爆弾は船体に損傷を与え、エンジンルームを水浸しにします。 ブエノスアイレスマルがリストに加わりました。 0850分に、彼女は南緯02-40S、東経149-20Eにセントマチアス島沖の船首に沈みます。 生存者は、16隻の救命ボートと2回のモーターローンチを行います。 [4]

1943
123日:
不明なIJNサブチェッカーは約1,000人の生存者を救出しますが、ブエノスアイレス丸に乗った158人の男性と看護師が沈没で死亡するか、救命ボートで死亡します。 [5]

19431215日:
日本の外務省はメッセージ467を主要な大使館に派遣し、「日本の病院船ブエノスアイレス丸は米国の航空機、連結B-24によって攻撃されました。船は港側で爆弾に襲われ、約40分沈没しました。 」 負傷した兵士、医師、休暇で帰宅する大勢の看護師などの生存者は、18人の救命ボートに押し込まれました。 メッセージは、赤い十字を形成する赤いシートが上空に保持されていたにもかかわらず、わずか約300フィートの高度で入ってくるアメリカの飛行機が救命艇を機関銃で発射したことを報告し続けています。 コミュニケはまた、ブエノスアイレスマルへの攻撃は孤立した事件ではなかったと報告し、10機の他の明確にマークされた病院船がアメリカの航空機によって攻撃されたと述べています。 [6]




【参照】↓

●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966282.html 

第33話の⑨・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32976649.html

第33話の⑥・・父の部隊が満州からラバウルへ移動したルート・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/14820913.html

第33話の⑤・・ラバウルって、こんなとこだった・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/11347692.html 

第33話の④・・南方戦線からのはがき・・ http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/11271003.html

第33話の⑩・・父、泰山から祖母浦子への軍事郵便全記録・・・満州東寧から、ラバウルから・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/33226918.html

第33話の①・・善通寺陸軍病院の父・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8750541.html

第33話の②・・善通寺陸軍病院の父・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8758122.html



保存保存保存保存
保存