● 坂野壽男・・・満州での8月15日 ①


 私が現役の時の上司が【坂野壽男氏】です。 
横浜市出身で本日の文中にある満州・鞍山の徳井洋行商会に勤務されていたが、戦局の進行と共に満州駐留の関東軍は南方戦線への移動転進が進み、満州では現地臨時召集兵として、この【坂野壽男氏】も昭和19年に長期出張の名目で召集され、奉天(瀋陽)東部の撫順での守備隊に二等兵の籍を置いていたのです。
そして昭和20815日の終戦と同時に、ソ連機甲部隊が日ソ不可侵条約を無視して、怒涛のように侵入してきた。
撫順守備隊には全員が所持できる武器らしい武器も無く、終戦の報告も無く、只後退をするのみとなり坂野壽男氏は召集前の勤務先鞍山の徳井洋行商会に帰り着いたのです。

【その逃避行が本日の手記の内容ですが、昭和43年に書かれたモノにも拘わらず「記憶に残ってない」と言う部分が目立ちます。お許しください】

 そして、昭和23年頃、徳井社長等と引揚げ帰国、昭和28年に大阪で石油会社を設立しました。
私も、その500余名の社員の一人として定年まで勤め上げたのです。
坂野壽男氏は、昭和47年頃1974定年により退社、神奈川県、平塚市に移り住まれました。 
 
 その当時、ネットやブログが在りましたら、そのサイトで手記を発表されたのでしょうが・・・
【満州での815日】 (昭和43年、社内誌に発表)
【満州での敗戦脱出行】(昭和62年、コピー冊子を知人発送)2編が有ります。
 召集日から1年弱の除隊兵に近い兵隊ですから、華々しい戦記は何一つ有りませんが、当時の満州の様子が伺える内容となっております。
 
 以下・・【4回に分散して発表させて戴きます】


泰弘さん、お手紙どうも有難う。  
 唯、もうやたらに嬉しくて、殆んど驚愕に近い眼差しで、虫メガネのレンズ越しに見覚えのある懐かしい字体を暫く見つめていました。
〇〇社の社員は筆無精者が多い、何か書いてやっても「梨の礫」である、梨のツブテであるから痛くはないにしても、張り合いのないことおびただしい。
 だから返事など期待しない方針に切り替えてから久しい。
 こうした前例に鑑み、今回も「ナシのツブテ」に違いあるまいと多寡を括っていました。
 ところが、巨大な礫が間髪を入れずに打ち返されて来たので、びっくりするのが当り前でしょう。
さて泰弘さん、ここで一寸過去を振り返れば当然のことながら、私の怠慢だが今まで手紙らしきものを差し上げていないので、何をどの様に書いて良いのか、とんと見当がつかなくて困っているが、ご無沙汰のお詫びに何かを書かねばなるまいと思います。
 貴殿の手紙で気に懸かるところが無い訳でもない、人生の先輩として「雁の乱れに伏兵あるを知る」という程ではないが、息の乱れ位は感じられます。
 だが、今回は止めときましょう、機会があったら貴殿が気にしている〇〇の件と一緒に、赤裸々に話してみたいと思います。      


 昭和四十四年一月二十二日   坂野寿男 拝


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昭和19年、召集前の坂野壽男氏

● 坂野壽男・・・満州での8月15日


 「いいか、これから先はどんなことがあっても、隊列を乱してはいかんぞ。一列縦隊で、先頭は目の高さの前方だけ見つめて前進しろ。後続の者は一歩の間隔で前列の後頭部から眼をそらすな。いいな、もう一度言う、周囲でどんな事態が起きても、隊列の誰かに何が起きても一切構うな。俺はしんがりを務める」こう言ったのは一行の中で最も軍隊経験の長い森村伍長であった。
 

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          撫順市の風光・・・撫順炭鉱露天堀の實況。

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         撫順市の風光・・・廟児溝鉄山   洗炭場。


 時は昭和20816日午前8時頃のことである。
 私達一行(といっても僅か5名であるが)、昨夜半から炭鉱で有名な撫順を出発、夜を徹して歩きようやく奉天城外に達したところである。
 
 奉天の旧城内と言えば、周囲を支那特有の厚い土と、煉瓦の城壁で囲まれた数平方キロは有ろうかと思われる中華人街で、日本の統治華やかであった頃でさえ治安の悪いことでは有名で、日本人が単身でうかうか城内に入ることは出来なかった。
 随分沢山の日本人が、この城内で行方不明になったと伝えられ、日本の警察でも手の付けられない一角とされていた。
 今、私達一行は身に寸鉄を帯びずここを通過しようとしているのである。
 ともかくこの城内を通り抜けない事には、日本人の居住区である新市街地に入ることが出来ない。
 私達は運を天に任せて、この危険な城内を強行突破しようとして、その一歩を踏み出したのである。

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         ⇧ 奉天市新市街        ⇧ 奉天城内旧市街


ここ数日来、私は心身共に疲れ果てていた。
満州東方国境数か所から一斉にソ満国境を突破したソ連機甲部隊は、まるで無人の野を行くような快進撃を続け、一週間とたたないうちに怒涛のように新京、奉天、撫順へ迫ろうとしていた。
 後で解かったことだが、精強を誇った満州派遣の関東軍の精鋭は、いつの間にか南方戦線に転出して、残されたのは召集兵を主体とする弱小兵団だけであったのだ。
 
 これも後で解かったことだが、その時の関東軍司令官山田乙造大将は、この弱小兵団なるが故に国境での抵抗を放棄して、奉天~撫順~本渓湖の山岳地帯で、この圧倒的なソ連の機甲部隊を迎え撃つ作戦であったと伝えられている。
 私達も撫順から数十キロ離れた丘陵地帯の防衛に立たされていた。
 私が召集され入隊以来、軍隊に欠くことの出来ない武器を、銃はおろか短剣すら持たされていなかった我々は一体何を武器に敵と闘えというのであろうかと、いつも疑問に思っていたが、この防衛の第一線に立たされて、始めて私達に銃剣の必要がないことが解かった。
戦慄が背筋を走るのと同時に、深い絶望感に襲われた。
 
 精強な機甲師団に対する唯一の武器、それは重さ20キロ、40センチ角くらいの木の箱がたったの一つである。
 木の箱の武器? 変に思われるかも知れないが、これは敵の戦車に体当たりする爆雷なのである。
 これをリックサックを背負うようにしてタコツボに潜むのである。

 箱の上部に小豆粒(あずきつぶ)大の穴が開いていて、その穴から細い紐が出ている。その紐の先が輪になっていて、丁度親指が入るくらいの大きさである。 指をはめて二の腕を少し曲げたくらいで、その紐は限度一杯の長さになる。 だからタコツボから躍り出る時には両の腕は使えない、右手は箱に付いている背負い紐をしっかり握って、左手一本で機敏に素早く飛び出さなければいけないのだ。
 タコツボから躍り出て、戦車のキャタピラーに抱きつくと腕を伸ばさなければならない。
 兎にも角にもその瞬間に信管が切れて爆発する、それで私の人生は一巻の終わりということになっていた。
 私のように訓練未熟で、然もこの貧弱な身体では容易な業でないことは容易に理解できた。
 せいぜいうまくやったとしても、穴からヨタヨタ這いだしたところへ、敵の好目標になるのは明らかである。私はそれでも良いと思っていた。 今思い出しても、その時どうしたら助かるかとは思い付かなかった。
むしろどうしたら楽に死ねるか、苦しまずに死ぬにはどうしたらよいかばかり考えていた。

もうその頃になると、何にも知らされていない一兵卒の私にも、日本の敗色濃厚なことは薄々感じられ解かっていたからだ。
そして『もうソ連軍が、どこそこまで侵入した』『明日あたり奉天が陥落するだろう』という噂が兵隊同士の口こみで伝わってきた。
どうせ生きて帰れないのなら一挙に身体中、蜂の巣の様に弾丸をぶち込まれて死んだ方が、一番楽な死に方だろうと、真剣に考えていた自分を思い出します。
だから恐怖心は起らなかったが、人間が死を覚悟した時の気持ちそのものは、壮烈、果敢、血沸き肉躍るなどマスコミ用の言葉とは裏腹の、暗い底知れぬ穴に引きずり込まれるような、何とも云えぬ落莫として沈鬱な気持ちになるものであることを、その時初めて知ったのである。
 
只残念なことに、戦争末期の応召は「長期出張」と言う名目で旗や幟(のぼり)楽隊などで賑やかに送られた初期のそれと違って見送る者も居ない、人知れぬ出征であったことが、より一層私の気持ちを暗くさせたのかも知れないが、それは今でもよく解からない。
そして私の脳裏に去来するものと言えば、内地に返してある妻子のことが頻りに思い出されてならなかったことだけである。
 
815日の午後、私はタコツボ堀りの作業中に負傷した戦友を、2~3人の戦友と一緒に病院へ連れて行った。 診察室で手当中に看護婦と会話を交わしたが、何を話したか全く覚えていない。 ただその時の戦局の話であったことは間違いない。
「心配しなさんな、日本が負ける筈がないよ」とたんに、2人か3人居た看護婦が一斉にわっと泣き出した。 傍にいた医師も、解かっていながらも同情の意識を示しながらも顔を背けた。
その最後の場面だけは、異様な雰囲気として覚えている。
 

怪訝な面持ちで帰営すると、本部から召集がかかっていた。
駐屯司令部が置かれていた撫順小学校の校庭に整列した。
私達に部隊長が終戦の証書を奉読して聞かせた。そしてその後で声涙下る決別の辞を、半ば放心状態で聞いていた自分を思い出します。 

 歩兵操典その他重要書類を焼却しながら、何故かあの涙に濡れた看護婦さんの顔が浮かび上がってくるのだった。
『何んだ、知らなかったのは、我々兵隊だけだったのかぁ…』
もし終戦が815日より遅れていたら、或いはソ連軍がそれ以前に我々の防衛線に到達していたら、今日の私は存在して居なかったに違いない。 結果はどうあれ、あの四角い箱と抱き合い心中していたことだけは間違いない。

 人間の運命とはこうしたものであろうかと戦後(23年)経過した今日でも、人の運、不運に思いを馳せれば新たな感慨が沸くのをどうすることも出来ない。
 
 
 斯くして、明日ソ連軍が到達するであろうという前日の16日夜半、行先を同じうする5名が撫順を脱出して、私の勤務地であった鞍山への約140Kmの道程を、先ず奉天へ向けて出発したのであった。
 今は烏合の衆と化した撫順、奉天間の日本軍防衛線兵隊の間をすり抜けて歩きながら、詔勅の中の今の言葉に訳すれば『日本国民の将来の苦難の道を思うとき、朕(天皇陛下)の五臓六腑は張り裂ける思いがする』の一節の、そこだけが何度も思い出されて来るのであった。
 



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