太平洋戦争の残影 ⑭松山海軍航空基地

  その昔、松山市の西南部、伊予灘に面して「吉田浜飛行場」と市民が愛着を込めて呼んでいた飛行場が在りました。
  そこは
太平洋戦争中には「松山海軍航空基地」となり、現在は「松山空港」と呼ばれています。

  戦時に於いてここ松山は、呉軍港を中心とする広島湾要塞の防空を担うため、戦争の進捗状況に応じて日本海軍が造営していったのです。
 
太平洋戦争中にはつの航空隊および基地部隊として内海空本部が展開したほか、飛行場北側の敷地には予科練教育隊である「松山海軍航空隊」が置かれました。
「松山海軍航空隊」は、日本海軍の部隊・教育機関の一つ。一挙に増加した予科練甲飛第1314期の生徒を教育するために新設された予科練教育航空隊です。
昭和20年2月1日に偵察第4航空隊を編入し、局地戦闘機「紫電改」を配置した。
松山といえば、源田実司令率いる第三四三海軍航空隊の印象が強いが、北側の予科練「松山海軍航空隊」と南側の飛行場である「松山海軍航空基地」は完全に別個の施設で、しばしば誤って混同されている事が多い。


この「松山海軍航空基地」も戦局の進行で、米軍の空撮により壊滅状況が以下写真の通り見て取れます。

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  松山海軍航空基地・・谷暢夫1飛曹慰問の母、一枝さんが慰問の時。

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谷暢夫1飛曹 昭和19年10月25日神風特別攻撃隊「敷島隊」3番機として
マバラカット基地を出撃、突入戦死。
(松山で訓練を受けた)

神風特攻隊 1(参照)➔http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36326083.html


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          松山海軍航空隊跡地に建つ碑文

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 ➔➔は「松山海軍航空基地」 右中央部が松山市街 下は重信川(1945)

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       松山空襲の記録   〇印は松山海軍基地関連

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y吉田浜pin
前写真の左方部分の拡大


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           ➔➔は「滑走路」

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  1945年8月25日、丸善石油松山精製所。(前写真の上部付近)


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松山基地細密図  1945年1月


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掩体壕誘導路付近空襲・・1945年8月12日の空爆(南西より)
  (右は・・重信川)

y松山

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  掩体壕誘導路 (南方から)

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 戦闘機用の掩体壕付近の空爆 (西方向から)

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        8月12日、爆撃を受ける戦闘機用の掩体壕誘導路 (南方向から)

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           8月12日、爆撃を受ける戦闘機用の掩体壕誘導路 

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  最後の松山空襲・・・1945年8月12日爆撃を受ける滑走路付近。


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            松山基地跡(1947年)

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           松山基地跡(1947年)


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             1962年の松山空港。

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              至近の松山空港


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        昭和20年2月配置された局地戦闘機「紫電改」

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            今も残る戦闘機用の掩体壕

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         保存されている戦闘機用の掩体壕。


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後方背景の(右)は「興居島」(ごごしま)(中央)の「釣島」は明確な事実。
   【吉田浜海岸に、うち捨てられた戦車】
(松山基地海岸部)

戦時中、松山方面(愛媛県伊予郡砥部町)に駐留していた日本陸軍戦車部隊(独立戦車第四七連隊)が、終戦後、武装解除の為、写っている進駐軍により移動したものと思われる。

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