国史画帖『大和桜』62. 白雪血に染む桜田門外の変・・
幕末の安政三年(1856)四月に大老に就任した彦根藩の井伊直弼(いいなおすけ)は、その強権をもって懸案となっている将軍継嗣および条約調印を独断で進めた。この強権政治に反発した公卿や幕政批判をした志士たちに容赦のない弾圧を加えた。
この「安政の大獄」は反幕派による尊攘活動をさらに激化させていく。
内外の事情切迫を機に、直裁を待たずして開港条約に調印し、又将軍家定の命を受けて紀伊より家茂(いえもち)を迎えて後継ぎとした。
これより天下の志士、殊に尊王論者は直弼の専断を非難し世論は大いに沸騰した。
そこで直弼は水戸の斉昭(なりあき)、尾張の慶恕(よしひろ)、越前の松平慶永(よしなが)等に謹慎を命じ、一ツ橋慶喜に登城を禁じて非常手段に訴えて反対派鎮圧に務めたが、更に六年八月尊王攘夷論者の急先鋒橋本左内(はしもとさない)、吉田松陰、頼三樹三郎等を捕えて小塚原(刑場)に於いて断罪に処した。
斯くの如く攘夷党は、既に幾多の志士を失い、且つその首領と仰ぐ斉昭(なりあき)が蟄居(ちっきょ=ひきこもり)せられたので、水戸志士の激憤最も甚だしく、遂に直弼の近辺を狙うに至り、翌万延元年(1860年)三月三日、直弼は行列も物々しく、正に江戸城に登城せんと桜田門外に差し掛かった時、水戸浪士佐野竹之助等十七人、及び薩摩浪士有村治郎左衛門等、町人を装うて行列を迎え、「掛かれっ」の合図とともに俄かに白刃を閃かして襲撃し、折から降りくる雪の中に斬り結び、忽ち白雪を紅に染め、遂に直弼を暗殺したのである。
白昼大老が暗殺されたことで幕府の衰退が公然となり、幕末期政局の一つの転機となった。



そして元治元年(1864)三月に天狗党の乱が起こる。
これは一向に攘夷を決行しない幕府に対して、藤田小四郎(藤田東湖の子)ら水戸藩の過激派が筑波山で挙兵したものである。
武田耕雲斎は尊攘派ではあったが過激派ではなく、この時藤田小四郎らの挙兵に対しては批判的であった。
耕雲斎(61歳)は過激派を説得すべく水戸に向かったが、逆に説得されて天狗党の首領に祭り上げられてしまった。
尊皇攘夷の決行を掲げて挙兵した天狗党だったが、戦いは水戸藩内の保守派との内戦の様相を呈してくる。(このころ水戸を押さえた保守派は、過激派の留守宅を襲い、過激派の妻子を殺したりしたらしい)
幕府や周辺の諸藩の干渉もあり戦いは泥沼化する。
そんな中状況を打破するため、天狗党の面々は将軍後見職の一橋慶喜(徳川斉昭の子)を通じて朝廷に自分達の赤心を訴えてもらおうと、京都に行くことを決定、天狗党八百人余りが進軍を開始した。
元治元年秋のことである。幕府や諸藩の軍と戦いながらも彼らは十二月十一日に越前の新保(福井県敦賀市)に到着した。
しかし彼らはそこで、頼みの一橋慶喜自身が追討軍を率いてやってくることを知った。
もはやこれまでと観念した天狗党は十二月十七日に加賀藩に対して降伏した。
天狗党に対する加賀藩の処遇は寛大なもので、一月一日には酒なども振舞われたらしい。
また幕府に対しても寛大な処分を要請した。
しかし幕府は当初から厳罰で臨む方針であり、天狗党の身柄を福井、彦根、小浜の各藩に委ねた。
その結果彼らは敦賀の鰊倉にぶち込まれ、ろくな取調べもされないまま、首領の武田耕雲斎、藤田小四郎以下、なんと四百人近い人々が首を刎ねられた。
この処刑を担当したのが桜田門外の変で藩主を水戸浪士に殺された彦根藩であった。
この天狗党の大量処分は、血なまぐさい事件の多い幕末でも、ひときわ凄惨な事件である。
この乱で水戸藩の尊攘派は壊滅状態となり、これ以降の水戸は王政復古まで佐幕藩となるのである。


有村治郎左衛門 佐野竹之助


武田耕雲斎
水戸藩士・藤田小四郎







桜 田 門

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