国史画帖『大和桜』60. 家康が人生最大の危機と語った「神君 伊賀越え」逃走・・

 織田信長の天下統一を目前に起こった本能寺の変。
 この時、堺にいた徳川家康は身の危険を感じ、武装していない三十四人の一行で、伊賀を越え三河岡崎城まで逃げ帰りました。
 これが徳川家康が人生最大の危機と語った「神君伊賀越え」です。
 この伊賀越えの経路に、枚方市津田付近から普賢寺、草内、飯岡など京田辺を東走しています。


 【本能寺の変から逃走まで・・】

 天正年(1582)までに、織田信長は京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、天正月には武田氏を滅ぼしている。
 明智光秀は、武田征伐から帰還したのち、十五日より安土城において武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康の接待役を務めた。

 しかし乍ら、十五日に秀吉から応援の要請が届いたため、信長はその日に明智光秀・高山右近・中川清秀らに羽柴秀吉援護の出陣を命じ、十七日に光秀は接待役を途中解任されて居城坂本城(近江)に戻り、二十六日には別の居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めたとある。
 「丹波亀山城」は今の京都府亀岡市にあり「亀岡城」とも呼ばれた城だが、一旦京都から遠ざかる位置にある城に向かったのは、毛利攻めに行くと見せかける必要があったのだろうか。
 
 徳川家康
は、重臣たちを引き連れて天正十年(1582年)五月十四日に安土に到着し安土城での饗応の後信長の命により五月二十一日に安土を出て、京都や堺などを見物することとなる。
 
 また、信長は二十九日に秀吉の援軍に自ら出陣するため、小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。同日、京都・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。 同時に、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に入った。 翌六月一日、信長は本能寺で茶会を開いている。
 
 そして本能寺の変のあった六月二日には、家康とその重臣一行の三十名ほどが早朝に堺を出て、この本能寺に向かっていたことが、家康に同行していた茶屋四郎次郎の『茶屋由緒記』に記載されている。

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            徳川十六善神の図
               ↑徳川 家康公     
 ↑平岩 親吉 ↑大久保 忠世 ↑松平 忠吉↑本多 忠勝 ↑内藤 正成
  ↑鳥居 元忠 ↑渡辺 守綱    ↑榊原 康政  ↑服部 半蔵
      ↑井伊 直正    ↑鳥居 忠広 ↑高木 性順
      ↑大久保 忠佐     ↑酒井 忠次  ↑米津 浄心                           
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 武田が滅亡して日も浅い時期である。徳川家康が少数の家臣を引き連れて安土に行くだけでもリスクがあることなのに、信長に命令されて京都や堺を見物させられることになった。
 家康ほどの人物ならば、重臣たちと共にどこかで命が狙われる危険を、察知していて当然だったのでしょう。
 
 天正十年(1582年)六月二日未明、本能寺の変が起き、天下統一の直前の織田信長明智光秀の謀反で自害します。

 前日六月一日、堺で見物を終えた徳川家康一行三十四人は、朝早く信長に接見するために京都に向かい、その道中の飯盛山西麓(四条畷)で、本能寺の変による信長の死を知ることとなります。
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                飯盛山西麓(四条畷)
 
 武装しないまま、このまま京都に向かっても襲われてしまうと云うことで、家康一行は、伊賀を越えて三河岡崎城まで帰還することを決めます。
 これが「家康人生最大の危機となる、伊賀越え逃走」の始まりです。
 この伊賀越えの意外な登場人物が居りました。
 昔、テレビでも放送されていたアニメ「ハットリくん」、忍者服部半蔵です。
 このルートを決めた理由は、その当時伊賀をまとめていた忍者服部半蔵が居たからだと言われています。

イメージ 13  服部半蔵正成

 伊賀では前年に織田信長が天正伊賀の乱を起こしていたので、伊賀を通るのは不利な筈ですが、土地勘のある伊賀、甲賀の忍者二百人が逃走を手伝ったようです。
 その貢献により服部半蔵の「半蔵門」が出来て今の東京に名前が残っています。


【徳川家康が通った京田辺ルート・・】


 家康が三日間で帰還したらしいコースは多数あり、話に尾ひれがつき、謎めいているようですが、信憑性の高い史料から判断すると次のようになります。
 
 飯盛山(四条畷)➔星田➔穂谷・尊延寺➔宇頭城(うつぎ)➔普賢寺・多田羅➔興戸・草内(くさじ)➔宇治田原➔信楽➔伊賀➔白子浜➔大浜➔岡崎城・・・・・堺から岡崎まで210Km.

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        星田周辺みちしるべ(左のざき大坂、右ひらかた道)

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     野崎観音前       「野崎まいり」の野崎・慈眼寺
 
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 伝・家康ひそみの藪 (大阪府・交野市)

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【伝・家康ひそみの藪】

天正1062日(1582年)織田信長が京都本能寺に於いて、明智光秀の反逆によって自害した。その時少数の近臣を連れて堺に滞在していた徳川家康は、いち早くその情報を入手するや身の危険を感じ即刻堺を出て、本国三河へ帰ることにした。帰途の深夜家康はこの竹やぶにひそみ、村の長、平井氏に連絡して山城方面に出るため道に精通する農民を道案内人として出すよう依頼した。平井家では沢山の握り飯を鶴の絵を描いた大皿に盛って提供し、信用の於ける二人の農民を選出し無事に道案内の大役を果たさせたと言われている。


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伝・家康ひそみの藪 (大阪府・交野市)

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穂谷方面への道(枚方市)

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穂谷周辺(枚方市)


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                普賢寺(ふげんじ)

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                  興 戸

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               草内(くさじ)の渡し場跡

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     草内の木津川(西から城陽方面を望む)左が川下

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               草内の木津川(左が川下)

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 江戸末期の木津川(草内付近)(左が川下)(1865年頃)
(当時は川下の伏見に巨椋池(おぐらいけ)が有り、大阪から淀川を上り、更に上流の木津まで帆船での荷役があった)

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            伏見、巨椋池  指月豊後橋
        ↑向い島        ↑小倉神社  ↑大久保神社
          ↑指月月橋院            ↑伊勢田神社

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      小倉双葉園保育所から旧巨椋池を望む 丘の向うが京都(1920年頃)

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                 宇治田原の山道

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多羅尾周辺

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               ▼御斎峠(おとぎとうげ)
(((4おとぎ峠


(((5おとぎ
御斎峠(おとぎとうげ)の碑

(((6伊賀徳永寺
伊賀・徳永寺

(((7徳永
伊賀・徳永寺境内

家康一行は音羽郷を経て、柘植の浄土宗平庸山徳永寺に到着、
しばし休憩(一説には宿泊)したと伝えられる。
そして徳永寺はこの時のお礼として、後年葵の紋の使用を許されたという。


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                                      鈴鹿 加太(かぶと)


 それを三日間で行ったと云うことなので、これは想像を絶する速さなのです。
逃走ですから間道や抜け道を馬で行くのですが、山賊や野伏等が襲ってきますし、知らない場所を通るので非常に苦労します。
 勿論、きらびやかな格好をしていると目立つので、なるべく目立たないように、そして何人もの影武者を用意していきます。
 家康の逃走を知った明智光秀は、要所要所を封鎖し家康を追いますが、家康側には服部半蔵が居たのと、各地の領主に半蔵の知り合いの人物がいたので何とか進行しました。

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             白 子 浜


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            三 河 大 浜

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             岡 崎 城

 京田辺には当時、地元の長領や有力者が居なかったので、土地の言い伝えではありますが、村人が家康一行を「普賢寺」から「草内の渡し」まで道案内したり、舟を準備し無事通過出来たという話もあります。
 梅雨の時期の増水した川を馬を連れて渡ったり、逃走期間の食事や水の用意などは地元民が手助けした訳ですね。
 その後、家康一行は信楽、伊賀、伊勢湾を渡り六月五日の朝に三河岡崎城に無事帰還します。
 
(明智光秀が山崎から近江坂本へ移動したルートは、本能寺から南約10kmの宇治方面を通って山科の小栗栖で刺された訳ですが、徳川家康の通過したルートは、光秀の通った道から、更に南へ約15kmの京田辺から信楽・伊賀へ通ずるルートでした。)

 
【伊賀越えの証し、京田辺市に穴山梅雪の墓あり・・】


 家康一行の後ろには、甲斐武田氏の家臣から寝返って信長側へついた穴山梅雪ら十二人が居ました。
 穴山梅雪一行は一揆(?)に追われ、飯岡の渡しで自害したとの記録があり、村人たちが葬ったと云われています。

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        ▲穴山梅雪翁の墓(京田辺市、飯岡)▼
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  穴山梅雪翁の墓地周辺と木津川(京田辺市・興戸・草内周辺)
   最寄駅=(JR片町線・同志社前駅)(近鉄京都線・三山木駅)


 一般にはあまり知られていないかもしれないが、『雍州府志』に次のような記述があります。
 「於山城普賢寺谷、梅雪従者斬郷導者奪其太刀之銀鐔、於茲土人蜂起遂殺梅雪於草内村西」

 つまり、家康とは別行動を取った穴山梅雪の従者が、家康一行に少し遅れてここ普賢寺谷にさしかかったときに、同行の道案内人
(郷導者)を斬り殺し、その太刀の銀製の鍔(つば)を奪った。

 そのため、これに怒った土着民らが蜂起し、ついに梅雪を草内村の西で襲い殺害したということである。
 なお、これと同じ話が、飯岡にある梅雪の墓の横にある立て札にも、地元の伝承として記されていた。


 丁度、梅雨の時期で木津川も増水していたことでしょう。
 追い詰められて渡河出来ず、逃げられなくなった一行は自害します。
 
 京田辺の飯岡墓地には、穴山梅雪のお墓があり、伊賀越えが行われた確たる証しとなっています。

 後に穴山梅雪の妻が甲斐から、夫と家来を葬ってくれたことに対しお礼を述べに来たそうです。


(京田辺地域生活情報誌「ぐってぃ7月号」より・・
 山城周辺郷土史研究者 伊藤文雄氏筆)

2016年9月27日(火) 「伊賀越えウォーク」 の実施!





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