国史画帖『大和桜』59. 家康の奸策(悪だくみ)に大阪城遂に落城す・・
関ヶ原の一戦に豊臣を破った徳川家康は、豊臣秀頼の所領を摂津、河内、和泉の三国に削り、その勢力を牽制したが、なお大阪城内の豊富な軍資金を消費させるべく、京都の方広寺の再建を勧めた。
この時、新たに鋳造の大釣鐘の銘に「国家安泰」の文字を見た家康は、無理難題を吹きかけ、家康の望み通り大坂方は兵を挙げた。
得たりとばかり家康は息子秀忠と共に、大軍を以って一挙に大阪城を陥すべく攻め立てたが、海内一の名城と智勇兼備の諸将が立て籠もり容易に陥らず、只,徒に兵を損するのみと察した家康は、使いを城中に送り和睦を勧め、外濠を埋めることをその条件の一つとした。
城中の諸将は反対したが、大野治長の一派と淀君が砲弾を恐れて遂に和睦となった。
然るに条約を無視して家康は、内堀までも埋めにかかったので、和議も破れ兵を挙げるに至った。
家康は金城鉄壁の大阪城といえども、外堀を埋めた以上、何程の事やあらんと大軍を率い攻めかかれば、城兵も豊臣家存亡の時と力戦苦闘を続けたが、外堀を埋められた悲しさ、流石の名城も遂に守り切れず、豊臣秀頼自ら火を放ち逆巻く紅蓮の中に淀君と共に自害し、豊臣氏は遂に滅びた。


↑徳川家康公 ↑岩淵主税
慶長十九年十一月二十一日の闇夜、徳川公前内裏、嶋巡見の時、真田幸村伏兵発り、ご勢散乱せし折から、竹腰山城守小栗大六等三十余り取って返し力戦せし内、徳川公は彦左衛門一人付き添い逃れあう折から、芦原の中より幸村ただ一人突然と現れ出た。危なしう岩淵主税、阿部惣兵衛両人御跡と慕い来たり真田と戦い、その間に家康公と忠教○島う別入りこびも、岩淵伊栗を幸村とみて取って葦の有りたる中を数度鎗さした,残念にも出丸の城人引取りたる。

幸村芦叢からの偵察の図











↑真田幸村 ↑徳川家康
大坂・夏の陣において、幸村に三里(12Km)も追いまくられた徳川家康の、生涯における二番目の危機を描いた明治期の錦絵。
【家康の生涯における一番目の危機は
「神君、伊賀越え・・」で次回掲載予定】


徳川公・豊臣諸侯饗應図,
↑徳川家康 ↑浅野幸長↑福島正則 ↑池田輝政 ↑片桐且元
↑加藤清正 ↑板倉四郎左衛門 ↑黒田甲斐守


↑木村重成 ↑後藤又兵衛

關阪摂戦畧記, 大坂夏の陣
慶長十九寅年(1614年)十一月から、関兵百余万の大軍を率いて攻め寄り、城を取り囲む真田を黄泉の国処の英傑真忠を尽くし数度の戦いに関兵を謄し、殊更大御所を奇計に振舞い、敗走せしむる事の数を知長大利、豊臣秀頼の悲運ほしく新しき勇士の花と維も惜しい。報告三年五月八日貢は落城して豊臣の塘落し亡城す。
慶長十九寅年(1614年)十一月から、関兵百余万の大軍を率いて攻め寄り、城を取り囲む真田を黄泉の国処の英傑真忠を尽くし数度の戦いに関兵を謄し、殊更大御所を奇計に振舞い、敗走せしむる事の数を知長大利、豊臣秀頼の悲運ほしく新しき勇士の花と維も惜しい。報告三年五月八日貢は落城して豊臣の塘落し亡城す。
↑遠藤定之 ↑真田幸安 ↑木村重成 ↑後藤又兵衛 ↑真田幸村


大坂夏の陣で討ち死にした、後藤又兵衛最期の記録
豊臣秀頼から贈られた脇差し「行光」で、介錯を受けた経緯が記されており、専門家は「秀頼への忠誠心が読み取れる貴重な史料だ」としている。
又兵衛は槍の名手として知られ、大坂夏の陣に豊臣方として参戦して「道明寺合戦」で深手を負い、配下に介錯を命じたとされる。この書付は、同じ内容の写し1通と共に、又兵衛の配下で戦った備前国出身の武将・金万平右衛門(こんまへいえもん)の子孫が保管していた。
「後藤又兵衛討死之時」とする13行の文面には、脇差の「行光」で首を打ち、秀頼に又兵衛の折れた「指物」(旗か刀の意味)を渡して報告したことが記されており、金万平右衛門か、その子孫が残した記録とみられる。
大阪城天守閣の北川央館長は「介錯した人物は特定できないが、経緯が非常に具体的に書かれた史料はこれまで無かった、豊臣家や秀頼への忠誠心や、又兵衛の武将としてのプライドが読み取れる」と語っている。

↑大久保彦左衛門↑新将軍秀忠公 ↑兼松又造 ↑真田大輔




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