国史画帖『大和桜』57.関ケ原に 後藤又兵衛 奮戦・・
天下統一を達成した豊臣政権の内部に於いては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して文禄・慶長の役(三韓征伐)でも、前線で戦った「武断派」と呼ばれるグループと、内政経済兵站(へいたん)宗教管理など、戦場以外の分野で活躍していた「文治派」の対立抗争が存在したが、これらの対立は以下のような豊臣政権そのものの政治的矛盾に端を発するものであった。
東軍・西軍の諸将の多くは豊臣恩顧の武将であり、関ヶ原の戦いの性格について家康は豊臣家の家臣同士の成敗合戦(豊臣家に仇為す者を成敗する)という建前をとり、また、豊臣家も表向きは静観の立場を取った。
(慶長三年(1598年)八月、豊臣秀吉は伏見城で薨去)
(慶長三年(1598年)八月、豊臣秀吉は伏見城で薨去)
慶長五年九月十五日(1600年)に、美濃国不破郡、関ヶ原(岐阜県関ケ原町)を主戦場として行われた野戦が「関ヶ原の戦い」である。
関ヶ原の戦いに徳川勢に加わり出陣した黒田長政は、石田三成の陣を切り崩すべく押し寄せたが、石田の郎党、渡辺新之亟等の勇将豪傑が固めて、容易に攻め崩せぬを眺めた長政は、自ら槍を引っ提げて渡辺新之亟に突っ掛かる『よき敵、御参なれ』と、互いに一上一下火花を散らし戦った。
これを眺めた石田の郎党三十人余りが「それ敵の大将だ、討ち取れ」と、長政の左右より斬り込み、あわや討死の瀬戸際に、疾風のごとく駆け付けた荒武者、槍を持っては当代随一、長政自慢の後藤又兵衛基次、瞬く間に十七騎を突き殺し、主君の危急を救った。
すると新之亟「猪牙才(ちょこざい)千万、邪魔建て致す憎き奴、この槍先を受けてみよ」と突き出す穂先、実に稲妻の如く、互いに追いつ追われつ火花を散らしたが、遂に叶わずとみてか新之亟は逃げ去り、この勢いに敵は忽ち総崩れとなり、遂に徳川の勝利の因をなした。
この功により長政、筑前福岡五十二万石に封ぜられ、後藤又兵衛基次は筑前大隈三万五千石を長政より授けられたが、後に自ら浪人となり遂に大阪方に組みし、浪人組の大将として「夏の陣」に華々しき戦死を遂げた。

↑渡辺新之亟 ↑後藤又兵衛基次

『関ヶ原合戦屏風』
関ケ原合戦 東西軍の布陣

関ケ原合戦 東西軍の布陣



関ヶ原合戦・・島津勢

関ヶ原合戦

美濃霧中大合戦・・↑福島正則 ↑芳村政右衛門

美濃国 関ケ原大合戦


関ヶ原勇士 軍賞之図
↑福島丹波↑長尾隼人 ↑本多忠朝 ↑井伊直孝 ↑徳川家康公
↑小関石見

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