京城府鐘路区楽園町一九五 朝鮮旅館 ってどこ?

京城市(ソウル)で発行されていた「毎日新報」です。
ソウルでは、ほんの30年前まで漢字、ハングル混在の一般紙、スポーツ紙が普通でした。ソウルへ行った友人が、読み終えたスポーツ紙を土産代わりに持ってきたものです。
結構日本で活躍する韓国選手の記事が多く、漢字部分の拾い読みで充分理解できましたね。
あのややこしい漢字を覚えるのが嫌で放棄、遂にハングル、ひらがな表示にしてしまった国学大先生方は、近き将来国民から恨まれ続けることになりましょう。

昭和19年10月27日付と言いますと、南海の最前線「ラバウルの攻防」が始まった頃のことです。(いよいよ日本も押され始めたかの時期です。)

この「毎日新報」の広告欄「軍慰安婦急募」の広告。
広告主・・・朝鮮旅館内 (許氏) 


只でさえ「慰安婦問題再燃」を狙うあの国のことですから、この報道も追及新材料発見と見るのでしょうか?(泰弘さん補足)



あっちのWikiを見てみると
 
 
ハングルやハングルは韓国語固有の文字として、1443年 、朝鮮第4代王世宗が訓民正音(训民正音)という名前で創製し、1446年に頒布した。以降、漢文を固守するの士大夫たちには軽視されることもしたが、朝鮮王室と一部両斑層と庶民層を中心に続いて、或いは、1894年甲午改革で、韓国の公式の国の文字となり、1910年代に至って、ハングル学者の周時経が「ハングル」という名前を使用した。分岐点は、表音文字のうち、音素文字に属する。韓国ではハングル専用法が施行されている。
 

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▲ハングルと漢文が混在して使われた毎日新報 1944年の記事
 
ん?
 

毎日新報っていうのは今残ってませんから、今でこそ総督府の御用新聞と呼ばれていますが、現在のソウル新聞につながるものです。

 
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やるなぁ 工作員め

まだ韓国の人は気づいていないようです。 うひひっ



1944年10月27日の毎日新報に掲載された募集広告
44年10月末というとレイテ沖海戦で戦艦武蔵が沈没したり最初の特攻隊がフィリピンで突入したりしたころです。当時の戦況発表などでは”フィリピンの米艦隊来襲を撃退”していたころですから行き先の某部隊っていうのはフィリピンだったかもしれません。
当時の中国は北京と南京をニホン軍が占領していて大きな戦いは無いし、中国軍は重慶に引っ込んでいたりしてニホン軍の兵隊も次々に”南方”へ送られていた時期ですから行き先が中国ってこともなさそうです。
ビルマ方面っていうとインパール作戦の失敗のあとですが、これも勝ち戦じゃないことが知られ始めたころですからあっち方面じゃないような感じですね。


さて

京城府鍾路区楽園町一九五 朝鮮旅館 ってどこでしょうか 

某部隊の慰安所に行くために数十人が列をなしたところ、いわば 遠征韓国人慰安婦の聖地じゃないですか。

※電話番号が光局二六四五番 光っていうのは光化門交換所のこと、当時はダイヤル直通じゃないので受話器を手に取ってぐるぐるを回して交換が出たら3局2645番って言うと繋いでもらえるアレですよ どんなのなんだ。

地名も変わってそうですけどね。でもそこは総督府ですよ、地図なんかいっぱいあるんだから。  えへんっ

あるのか?

ハイ ありました。


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ありましたね、ふぅ~~ん、今のどのへんなんだろ あれがそこで その先だから
敦義洞のとなりかぁ  って ドコドコ??

そういえば韓国はこのあいだ住居表示が変わったでしょ  大丈夫かな

その前に鐘路区の歴史についてちょっと脱線しましょう

地名
鍾路という名称は今の鍾路1街都城の開閉の時刻を知らせてくれる大きな鐘を吊るした鐘楼から始まっている。 朝の'キン'と夜の'コン'を言うが、鐘楼があるとしてウンジョンカでも呼ばれており、1943年4月1日、旧制度を実施する時'鐘楼のある通り'という意で、鍾路区となった。

沿革
1394年漢陽に遷都し、翌年6月6日には漢陽を漢城府に改め、9月、宗廟、社稷、宮殿を完成した。
1910年10月1日、漢城(ハンソン)府が京城府と改称されて、1911年4月1日には、府の行政組織を都城を基準に城の中は5部36面、城外は8面とする5部8免除を実施することによって現在の鍾路区地域は中部8部屋と東部2部屋が該当された
1914年4月1日5部の行政区域を拡張して8面のうち、都城付近地域を5部に編入するが、そのうち、今の鍾路区に該当する一部地域が東部に編入された
1943年6月10日、京畿道京城府鍾路区を設置した。
1946年10月1日、従来の~町の行政区域を~洞に一括変更した
1947年同会制度実施
1949年ソウル特別自由市→ソウル特別市改称
1955年4月18日、洞制の実施により36の行政洞が設置された[6]
1970年5月18日、名称が一致しないボプチョンドンと役場の名称を一致させ、管内の行政洞は36社から25つに統合・調整された。
1975年10月1日は西大門区のうち平倉洞などと東大門区のうち、昌信洞などが鍾路区に編入された
1977年9月1日ヌサン洞、鍾路1街洞、鍾路5、6街洞、東崇洞が廃止され、22洞になった。
1980年7月1日、鍾路3街+鍾路4、5、6街→鍾路3、4街洞、5、6街洞(忠信洞ハプソク)。(21行政洞)
1980年明倫3街洞管轄臥竜洞1番地→鍾路1、2街洞管轄臥竜洞ハプソク
1998年12月1日、世宗(セジョン)路洞を社稷洞に、鍾路1・2街洞(チュング・シンダンドン)と鍾路3・4街洞を鍾路1・2・3・4街洞に合同した(19行政洞)
2008年、社稷洞管轄世宗路(チョンノグ・セジョンノ)の一部→鍾路1、2、3、4街洞ハプソク
2008年11月1日、青雲洞や孝子洞(ヒョジャドン)を青雲孝子洞に合同した(18行政洞)
2012年8月1日、明倫3街洞とソウル恵化洞(ヘファドン)をソウル恵化洞(ヘファドン)に合同と鍾路1、2、3、4洞の管轄臥龍洞(チョンログ・ワリョンドン)の一部をこれにハプソク。(17行政洞)
地理
鍾路区の地理的な形勢は昔からの場所と注目された。 仁王山・白岳山・駱山(ナクサン)につながる高く、低い山岳や丘陵が天然のフェンスをなしていて、南側には大きな溝が垣根の役割を果たし、その中に黄土マル・ソルコゲ・ベコゲ・赤い灰・薄石首・馬頭産など、小さなドゥンドクらがあることはあるが、概ね平坦な盆地をなしていた。

まぁどうでもいいんですが、むかしソウルが京城と呼ばれる前の漢城と呼ばれていたころ4大門と城壁で囲まれていたその内側の大部分が鐘路区であるということです。
南大門、東大門、西大門と、あとどこか。(光化門は宮殿の門なので含まれません)

ニホン式の名前で呼ばれたところと朝鮮式の呼び名が混在してたみたいです。


鍾路区ってどんなところ?

イメージ 4実はニホン大使館やアメリカ大使館とか東亜免税店~ロッテホテル、ソウル市役所なんかが全部鍾路区なんですね。 

※今気づいたんだけど、が鳴るのに路区って書くみたい へぇ 知らなかったなぁ(エネオス風)  ええぇ~

あ 楽園町ね、 えとと、楽園洞でいいのかな。 ポチッ

そしたらあらまぁ
いまも地名が残ってるんですね”楽園商店街”ですって、ふむふむ

つまりそのへんなんですね

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ちょっ そこ、タプコル公園のところじゃない あのバッカスおばさんの聖地じゃないですか。

つまりそういうつながりなんだ。


◆  ◆


もうすこし調べてみましょう、番地も変わってないとすると旧番地検索で新住所と場所がわかりそうです。   ポチッ

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どうやら そこのようです 現在の番地名 ソウル鍾路区敦化門路5街36
〒03139(地番)、楽園洞195-4

それじゃ もうすこしズームイン

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どうやら間違いなさそうです、いまも朝鮮旅館って残ってるのでしょうか、

たとえば大正ロマンあふれるモダンな(どっちなんだ)純日本式旅館が残ってるとしたらこれはもう大発見ですよ。

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ええ、とても残念ですが、昔の建物ではありませんでした。バッカス公園のすぐ脇にある路地のこの場所に朝鮮旅館はあったようです。今はBARって書いてありますね。

※いつからバッカス公園なんだよ。 もうこの際バッカス公園でイイよね。


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そのとなりはMOTEL その路地の先にも左右にMOTEL 突き当たりもMOTELですよ

番地がちょっと違ってるかもしれませんから、このへんのほかのどれかかもしれません。

朝鮮旅館ってバッカス公園のすぐそばだったなんて ”聖地”つながりだったんですね


バッカス公園Ⓒって何ね?・・・バッカスおばさんとこね・・・

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