国史画帖『大和桜』55.唐入りで 清正 の雷名、猛虎に及ぶ・・
秀吉は旭日昇天の勢いを以って国内を統一し、人材を登用して経綸を行ったので天下は安定した。
国内の安定により、今度は明、朝鮮、遠くフィリピンまでも平定して我が属国としようとして、先ず朝鮮国王に明国征略の道案内を頼んだが、明王を恐れて拒絶して来たので、奏請して秀次に関白を譲り、太閤となって軍事を統括し、愈々征韓の議を諸大名に計った。
文禄元年(1592年)肥前名護屋(佐賀県唐津市)に外征を記念として百万金を費やして城を築き、太閤自ら兵三万を従えて遠征軍を指揮した。
即ち加藤清正、小西行長を先鋒として黒田、島津、小早川、毛利、浮田、浅野等十三万、九鬼、藤堂、加藤等水師九千は翌年(1593)四月軸櫓相含んで出陣した。
既に日本軍來征の報伝わるや、加藤清正、小西行長の向かう処敵無く、無人の境を行くが如く破竹の勢いであった。
当時は到る所に虎が群れを成して棲息していて、所々に出没して征韓の将士も往々その害を被り、朝鮮兵や明兵よりも、虎が我が軍を悩ました。
咸鏡道(朝鮮半島東北部)に居た清正の軍でも馬数匹を餌食にされ、上月左膳という小姓が最初の犠牲となったので清正怒り、且つは頼朝の富士の巻狩りの故事に倣い、全軍の士気を旺盛鼓舞するため、度々大虎狩を開催して、各自獲物の数に応じて恩賞を与えたという。

加藤清正の虎退治の図

↑豊臣太閤秀吉
↑加藤嘉明↑加藤清正↑黒田長政 ↑小西行長↑毛利輝元↑徳川家康
↑島津義弘↑橘 宗重↑福島正則 ↑浮田秀家↑前田利家↑小早川隆景
↑藤堂高虎 ↑石田三成




↑加藤清正↑佐藤与左衛門↑和田備中守↑寺田甚内↑天野民部


真ん中の巨船は安宅船日本丸で、九鬼嘉隆の乗艦として前後役で活躍し無事に帰還した。


↑大勇将軍 ↑加藤清正 ↑長林正道


↑森本義太夫 ↑穆々子 ↑此田正後


更に女真国境を超えオランカイを攻めた。


↑加藤清正 ↑佐藤清兵衛↑飯田半兵衛↑志村愛蔵

↑西塔文平 ↑飯田角兵衛 ↑志村勝豊 ↑堀本理太夫 ↑加藤清正




加 藤 清 正

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