国史画帖『大和桜』54.小牧山にて両雄の力比べ・・
明智を山崎に破り、織田の武将を賤ケ嶽に亡ぼした秀吉の威名は、ますます盛んになるにつれて、織田信雄(おだのぶかつ)は愈々安心が出来ず、天正十二年(1584年)徳川家康の援けを得て兵を挙げ、家康は義戦の名目で出陣したが、事実は秀吉に自分の力量を示すべき示威挑戦であった。
そこで股肱の臣本田、榊原、井伊等の三河武士、何れ劣らぬ一騎当千の粒選りを集め、東海一の名将と謳われた家康が総大将となり兵数一万八千、その勢い侮りがたく、秀吉は家康が兵を挙げたと聞き自ら十二万の大軍を率い尾張楽田(犬山市楽田)に陣し、ここに名将智将の対陣となり、まさに山雨到らんとして風堂に満ち、両将本陣に在り、互いに旗幟の動きを見て、容易に大軍を動かさず双方睨み合っていたが、秀吉の武将池田信輝自ら、間道より岡崎の虚を突かんとしたが早くも覚られ、家康は自ら水野、榊原、井伊等を率い、密かに小牧山(小牧市)を出で、池田の軍を途中長久手(長久手市)に散々破った。
この戦いに秀吉がこの大軍を挙げて攻め立てたら、流石の家康も敗北しただろうがそこは秀吉、いたずらに兵を損ずるよりはと和睦を相談すると、家康もその大度量に敬服し、実際はこの戦に自分の力量を十分示したので、渡りに舟と芽出度く和睦が成立した。
これより家康は秀吉に益々重んぜられる様になった。




↑羽柴秀吉 ↑榊原康政

↑羽柴秀吉 ↑榊原康政

↑紺田貞数 ↑加藤清正 ↑羽柴秀吉公

↑徳川家康 ↑本多忠勝 ↑加藤清正 ↑木村又蔵

↑高木原秩父太夫 ↑小田切員元 ↑福島正則 ↑羽柴秀吉公









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