第36話● 松山 城北練兵場のこと・・ 7歳 昭和19年
昭和18年までの城北練兵場は、東は護国神社正面の道路を越えて、更に東に広がり、西は北豫中学校(松山北高校)と松山高等商業学校(松山大学)の東側道路まであり、南側は伊予鉄城北線と接していた。
城北線と接している部分には、西から東まで大きな櫨の木が植えられ、毎年鈴なりの実を付けていたので、ヒヨドリ等が実をつつきに群れていました。
練兵場はこの広さで一面の草っ原、それもよく踏み固められて牧場の風情であり、子供らの格好の遊び場所でもあった。
平日は主に北豫中学校生徒等がグライダーの飛行訓練や、軍事教練の服装(背嚢を背負いゲートルを巻いて木銃を持って)をして、軍服姿の指導官のもと、野原に腹ばいになって訓練をしているのをいつもよく見ていた。



中学生の中に3~4名、小柄な小学生のような学生が混じっていたのが目立ったものだ。
他にグライダーの教練も、主に北豫中学校の生徒だったと思うが、グライダーの後尾を杭に結び、グライダーの前で二本のロープを20人ほどで引っ張り、その反動で飛び上がるのである。
ある時、通称赤とんぼと言われていたオレンジ色二枚翼の練習機が、何処からともなく 飛来し練兵場に着陸したことがあった。
護国神社の前あたりに停止したので、それを見ていた子供たちがいちもくさんに、駆け寄って行ったが、行く途中で機首を西の方へ向け飛び去っていったこともあった。
城北線の鉄砲町停留所は練兵場南西の端に在った。
その周辺の練兵場は、こんもりと茂った欅の大木の林があったが、その横に演習用のトーチカ(土塁を盛った陣地)が造られていた。
トーチカはどちらかと言えば、防空壕のようでもあったが、こんもりと土まんじゅうの様に盛り土され、あちこちに入り口があり、射撃口がある。
中は迷路のような通路と部屋があり、子供には適当な遊び場所だった。
当時の練兵場は市民の広場、子供たちの野原というイメージの場所であった。
然しこの練兵場も、戦争が進展するにつれ、昭和19年になると徐々に変貌していった。
まず、練兵場西北隅(松山高商東側)に飛行機格納庫が一戸建ち、更に東へ一戸づつ 増えてゆき、護国神社の手前辺りまで、合計四棟の格納庫が並んだ。
それと相前後して、練兵場の西側および南側には、旧式ではあったが戦闘機や双発爆撃機が10機ほど並べられた。


城北練兵場の格納庫4棟跡がはっきり見える。
【今では考えられない景色ですが、空襲があるやも・・との気配が近付く時期に、学校の横、市電線路の横、住宅横のこの広場に、平然と戦闘機、爆撃機を並べている日本軍部の節操の無さ・・・。それにも増して、住民が苦情を申し出る時代でもなかったのです。】
当時でも、飛行中の飛行機しか見る機会がなかったので、目前で見られる本物の飛行機だけに、いつも気にしてよく見に行ったものです。
いま考えてみると、整備兵の訓連用教材ではなかったのかと思える。
整備兵がトラックでやってきて、エンジンをかけてプロペラは回すが、ここには滑走路は無かったし飛行場の広さでもなかった。
飛行場はやはり吉田浜(今の松山空港)だったが、訓練用の飛行機が標的にもなるし、置き場所の都合でここへ移動したのだろう。
時々、頭の上で耳隠しを結んだ整備兵帽をかぶり、濃緑色の整備兵つなぎ服で身を包んだ整備兵一箇連隊が、清水町の方から4列縦隊で、道路をドス声で合唱しながら行進して来て、整備訓練を受けていた。

頭の上で耳隠しを結んだ整備兵帽をかぶり、濃緑色の整備兵つなぎ服で
身を包んだ整備兵一箇連隊が、軍歌を合唱しながら行く・・
エンジン始動の場面を数回見たが、当時はスターターなど無くプロペラの先に紐のついた革袋を掛け、二、三名がそれを引っ張ってその反動でプロペラを回していた。
エンジンがバタバタという初動音を出しながら、周辺に青い煙がたなびいて、プロペラはゆっくりと廻りながら、正常回転に唸りを変えて行くのだ・・・。

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