国史画帖『大和桜』㊳ 桶狭間の戦いに 今川氏滅ぶ

駿河の驍将(ぎょうしょう)今川義元は、三河、遠江を併せてその勢力東海道を圧し、野心満々として尾張を窺っていた。
 その頃、尾張には年少気鋭の織田信長が志を天下に懐(いだ)き、これまた近国の併呑を画策していたが、その勢力は到底義元に対抗できるものとも思われなかった。
 
 然しあくまで豪胆智勇の信長は今川義元に挑戦することになった。
 義元は大軍を頼んで軍を起こし、その先陣は鷲津、丸根の二砦を陥落せしめ、明日は清洲を陥すべく桶狭間(愛知県豊明市)に陣を進め、早や戦勝の酒宴に酔い警護も怠っていた、処が忽ち起こる吶喊(とっかん)の声、敵の奇襲とは知らず、裏切り者か、喧嘩かと陣中俄かに動揺していった。
 
 義元何事成らんと立ち上がれば、早や織田軍の勇士服部小兵太が、槍をひねって義元に近づき「今川治部大輔殿(じぶだゆうどの)いざ見舞」と呼ばわり、義元の脇腹目がけてざくりと突き、義元急所の負傷も「何を小癪な」と槍を斬り落とす。
 そこへ毛利新助が横合いより組付き、遂に首かき落とし太刀に貫き、信長の前に出て毛利新助が大将の首を討ち取ってござる」と申せば、信長は「天晴れ天晴れ」とその功を賞した。

 尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、日本三大奇襲(日本三大夜戦)に数えられる日本の歴史上有名な戦いである。
 この戦は織田氏が天下に名を成す動機となったもので、義元の油断が信長をして世に出でしめたのである。
 

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          今川義元 桶狭間大合戦の図

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            桶狭間合戦の図
        ↑毛利新助 ↑今川義元        ↑服部小平太

        

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          桶狭間 今川義元 血戦の図

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           尾州 桶狭間合戦の図

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             桶狭間合戦の図

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             桶狭間の戦い

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         今川治部大輔義元墓(桶狭間)

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            今川義元 佛式の墓

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桶狭弔古碑
 文化6年、津島の神官氷室豊長が建てた記念碑である。
古戦場が放置され荒れ果てていくのを嘆き、その由来を明らかにするとの趣旨が、裏面の碑陰記に記されている。
書は大阪天満宮の中西融で撰文は尾張儒官秦鼎。
石工は代々襲名している河内屋孫右衛門である。