●日本統治時代の台湾・・⑭ 台南と嘉義の風光・・絵葉書
明治27年(1894)、清朝は我が大日本帝国と戦った日清戦争に敗北したため、翌28年(1895)4月17日に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて、台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止され日本領土となった。
これ以降、台湾は大日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなり、昭和20年(1945)、大東亜戦争終結まで50年間の統治で、未開の地「台湾」のインフラ整備、人材育成、農業開発など、国内内地並みに完成させた。・ |
・ [台中]ーー[次高山]ー[タロコ峡谷]
・ [南投] [日月潭]
・ ホウコトウ [嘉義]ーー[阿里山]ー[新高山]
・ [澎湖島] ーー [台南]
・ [高雄]ー[屏東]
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・ [鵝鑾鼻ガランビ]
日本の財を注ぎ、未開の新領土「台湾建設」に精励した多くの日本人労働者が、台湾紹介に使用した絵葉書です。











1627年にオランダ人が造った要塞で、当時はゼーランジャ城と呼ばれました。
明の復興を掲げる鄭成功らは、このゼーランジャ城を攻め落としたことでオランダを追い出し、台湾を占領しました。
ちなみに、鄭成功は長崎の平戸で父の鄭芝竜と日本人の母の間に生まれた人物。

開山路にある「鄭成功」を祀る祠である。開山王廟ともいう。
台湾を占領していたオランダ人を駆逐した「鄭成功」の功績を賛え、鄭が39歳で死去した1662年に彼を慕う人々によって創建され、開山王廟と名づけられた。

明代末期の1642年に鄭成功が大軍を率いて台湾に渡って東寧王国を創立したが、開元寺の敷地は鄭成功の息子(鄭経)が母・薫太妃のために建てた「北園別館」で
あったのが、高官や豪商たちの社交場として使われるようになっていた。
鄭軍の敗戦で台湾が清朝に帰伏した後に廃墟になっていた。

この孔子廟は1665年に、鄭成功の参謀長であった陳永華の発議により建てられたといわれており、人材の育成を目的として、学問に精励する人格者をここに招聘したようである。




【烏山頭ダム】(うさんとうダム)
現地にある八田与一の銅像
八田与一・・・一家族の写真
現在の烏山頭貯水池 堰堤
台南の風光・・八田与一指揮により完成した烏山頭嶺隧道 放水路出口
嘉義の風光・・ 嘉義市 栄町通
嘉義の風光・・ 北港媽祖廟前参詣者の雑踏
嘉義の風光・・ 嘉義製材工場
台南市の北東約40km、嘉南平野東方の山地に、日本統治時代の1920年から10年を要して造られた巨大ダム「烏山頭ダム」。貯水池が珊瑚の形をしているため珊瑚潭とも呼ばれる。
ダムの建設を指揮したのは、明治末期に台湾に渡った日本人土木技師、八田與一である。
彼は大学卒業後、仕事に腕を振るえる場として台湾に就職の道を選んだ。
建設以来、嘉南平野に広がる水田の水がめとして大きな役割を担っている。
ダムの堰堤長1,350m、堰堤盛土高さ51m、完成当時の満水貯水量は日本の黒部ダムの75 %に相当し、ダム湖面積は6,000haにおよぶ。またこのダムから配水する15万haの灌漑地には総延長16,000km の給排水路を同時に建設している。
さらにダム工事に伴って烏山頭に集まった約2,000人の人々のために、病院や学校を建設するなど、ダム、灌漑用水の他に地元に多くのものを残した。
現在でも地元では「八田ダム」と呼ばれている。









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