●忘れかけの内子町風景・・⑥ 内子町を構成する村落の歴史・・
ここに昭和24年に愛媛県喜多郡教育事務所がまとめた「私たちの郷土」という小学校上級生用、副教材が残っております。・終戦直後の打ちひしがれた状況下の、各町村落の産業や勢力、歴史が記されたものですが、小学生用としては少々程度が高く、自習用資料として使われただけと記憶しています。
・その中に、昔は無数に存在した各村落が、交通手段の発達とともに、今では集約合併されて、現在の内子町を構成している各村落とその歴史が記載されております。
(内子町、五城村、立川村、大瀬村、満穂村が合併)1955ー→内子町
・ ↑
(五十崎町、天神村、御祓村が合併)1954ーー→(2005合併)↑
(上浮穴郡小田町)---------ーー----(2005合併)↑


● 現在の「内子町」を形成する各村落の歴史・・・
【内子町】戦国時代の頃、今の五城村に曽根城を築いた曽根高昌の孫、高安が開拓した所で、当時は五城の宏麗な城下より遥かに田舎であったらしいが、旧藩時代は既に「内の子」と称して郡内における屈指の都会として県下でも聞こえた商業地となっていた。松山から上り下りする旅人も武士も、内子を通過しなければならず、格好な宿場であった。明治23年町制を敷き今日に至った。昔から大洲半紙の産地として名高く、繭糸業の興隆とともに県下有数の養蚕地の名を欲しいままにしたこともある。(明治時代の木蝋による蝋燭の一大出荷地については触れていない)【五城村】五城村は昔、五百木村(いおきむら)と云っていたらしい。今から約400年前、天文の頃に曽根高昌が周防の国から伊予の国に移り、ここに城を築いたと云われる。その後、城の廻りを城廻村と称するようになり、城廻村と五百木村の両村があり、大瀬村をはじめ近辺に勢威を揮ったが、豊臣氏に下り、後に大洲藩の所領となったことは他と同じである。明治21年自治制で両村を合併して五城村が生まれた。昭和5年、村前(むらさき)の一部を合併して現在に至っている。【大瀬村】元寇の役で名高い松山道後の河野氏が領していたと云われるが、当時は景山、日表、木菱、窪、白石の五城があった。戦国時代に入り、五城の曽我氏の領土となったが、豊臣秀吉の平定により大洲藩の所有となり加藤氏の下にあっては広瀬郷と称して藩内屈指の勢威を示した。当時、大洲城主は代々川狩地として来遊したし、庄屋屋敷は成留屋橋南の尾中山を中心とする一帯の平地全部といわれるから勢力が嶺われる。なお曽根氏が永禄11年大三島の祭神を分神して、三島神社を建立したことは名高く、奈良県人河野清平の発見した梅津鉱山も有名である【立川村】(たつかわ)徳川時代に於いては曽根郷又は伊賀崎郷と称し、大字立山は元五百木村に、大字川中は元伊予郡中山村に属していたが、明治19年頃合併して立川村となり、明治23年町村制施行で正式に立川村が誕生した。大正2年満穂村大字袋口の一部を合併、現在3区の行政区割をもつ。喜多郡の東北端に位置し伊予郡中山町に隣接、東南は五城村、西北は鎌倉山を境に満穂村にも接している。最近煙草の産出多く同村の主要産物となりつつある。【満穂村】五城村より山峡を縫って東西4km、南北10kmにまたがる満穂村は林産物の産出に頼る一山村である。五城村に築かれた曽根城の曽根氏の支配下にあったが、加藤氏に封録されてからは明治まで平穏裡に時が流れた。明治23年町村制の施行によって、論田、河内、袋口の三村を合併して満穂村と改称し、明治41年10月、更に伊予郡下瀬村の一部を編入して現在に至った。人口2,500人、面積30平方キロに及ぶが大部分は山林である。【五十崎町】(いかざき)喜多郡のほぼ中央に位置し、五十崎駅があり郡内の一要地で、北は内子町、東は小田川を隔てて天神村に、南は大川村に、西は神南山を隔てて新谷村、菅田村に続く。本町はその昔、矢野郷に又曽根郷に属したことがあり、藩政時代は新谷藩の所領として明治を迎えた。維新前は古田村と称したことがあり、その中に五十崎初藩があって長老職を置かれ町制を執行したことがある。明治23年町村制施行で古田村及び大久喜村を合併して五十崎村と称し、次いで大正9年町制を布いた。銅鉱石の大久喜鉱山は有名である。【天神村】五十崎町と肱川を挟んで接する天神村は、製紙の特産地として有名である。藩政時代新谷藩の所領に属し、明治23年町村制施行と共に当時の平岡村、宿間村福岡村が合併して天神村と改称された。昭和4年12月行政区画変更で旧村前村字池窪、字亀井の2部落を更に合併、現在に至った。人口4,200人、水田1,360反を持ち3,250石を産している。特殊産業製紙は、現在やや下火になったとは言え年産2万貫を擁し、三叉、こうぞを原料として優秀な日本紙は広く販路を持っている。【御祓村】(みそぎ)昔は川辺郷の一部に属し只海村と北表村に分かれていた。遠く足利時代末期の戦国時代には、地方の豪族季羽氏が丸山に居城していたが、天正年間の長曽我部元親の来寇に敗れ、豊臣秀吉が天下を掌握してからは大洲加藤氏の所領となり、その後新居藩が分封されるに及んで新谷藩の領地となって明治を迎えた。明治維新後は一時天神村と合併して、戸長役場が天神村に置かれたことがあるが、明治23年分離して御祓村が出来上がり、明治42年さらに河辺村大字山鳥坂、字オヤブ、ダラリを合併した。
● 内子町周辺町村の歴史・・
【大洲町】肱川の清流が町の中央を貫流し、伊予富士山の秀峰、妙法寺の瓦、桜花の城山と幾多の景勝を持つ大洲は、観光都市として真剣な活動を続けている。旧城下町で、戦国年間喜多郡下に号した宇都宮氏が長曽我部氏の来寇に潰して後、米子藩から移封された加藤氏の所領となって善政布かれ治蹟大いに上がった。今もなお当時をしのぶ地名が多々ある、加藤左近将監貞泰に仕えた儒者中江藤樹は有名で、城山に彼の座像が建てられ、大洲高校には至徳院として彼を欽慕する若き俊秀に日夜影響を与えている。又、幕末時代に活躍した矢野玄道、三瀬諸淵、如法寺の盤瑞禅師も忘れ得ぬ人であろう。【新谷村】(にいや)元和9年(1623)大洲城主加藤左近将監貞泰幕府に讃い、二男織部正直泰を一万石に分封した歴史は有名である。この村が創始された年代ははっきりしないが、空海が惣持寺に留錫し善守寺村と言われた時もあるというから、随分古い歴史を持っている。一万石に封ぜられた直泰の陣屋は寛永19年(1642)に竣工し、以来新谷殿と呼ばれて中々威勢が有った。明治4年7月、藩が廃止され新谷県となったが明治23年新谷村となり、大正11年には喜多山村と合併して現在に至っている。【柳沢村】柳沢村は喜多郡の西北端矢落川の上流全域にまたがる農村である。随分古くから開拓されたものらしく、藤原氏が栄華を極めた藤原時代に、既に入植した史料が有り、天正年間には戸数300と言われるから1,000人くらいの人口を持っていたらしい。地味は肥沃で民情厚く現在は農林業が盛んである。徳川時代には大洲藩に属していたが後藤縄部落は新谷藩に編入され、明治23年の町村制実施で柳沢村と田処村と分かれたが、明治42年合併して現在の柳沢村が生まれた。【肱川村】現在の肱川村は昭和18年に旧大谷村、宇和川村、河辺村と上浮穴郡浮文村の大字川上、北平を合併して生まれたものであり、大谷、宇和川、河辺共に藩政時代は大洲藩に属していた。宇和川は明治23年1月旧宇和川、名荷谷、中居谷の各村を合わせて宇和川村と改称、河辺村は明治42年山鳥坂村、奥南村を合わせて河辺村となったが、大字中津、川崎は大洲藩に加藤家の一族分家し分属していた。大谷村は旧村名を四分市村と称していたこともあったが、寛政9年現在の名に改められ合併に至るまで続いた。【大川村】大川村は大字成能、森山、蔵川の3部落からなり、藩政時代は成能村は五十崎郷、森山村は川辺郷、蔵川は川辺郷に属し、成能村は黒田氏、森山村は岡氏、蔵川村は中野氏がそれぞれ庄屋として大洲藩のもとに統治してきた。明治3年廃藩置県で大洲県に属し、神山県に合併、6年には愛媛県に含まれた。明治23年に町村制施行で大成村となり、大正10年に大成村と蔵川村とが合併して大川村が出来上がり、肱川村の大貸部落を合併して現在に至った。【菅田村】平安朝時代、既に菅田、宇津、大竹の三部落が文献に見え、戦国時代長曽我部氏来寇の時には菅田に大野、城戸氏、宇津に大野氏、大竹には矢野氏が各々居城を持っていた。その後大洲藩の封冊を受け多少の変遷はあったが、その子孫が代々庄屋として治めてきた。即ち菅田の有友氏、宇津の大野氏、大竹の有友氏等である。明治18年三村を合併し菅田村外二ケ村と呼び、同23年町村制施行と共に菅田村として発足、初代村長に有友真男(大竹庄屋)を選任した。
【平野村】
大洲を目の前に持ちながら、藩政時代は伊達10万石宇和島藩に属していたので喜多郡の大勢と豁然と区別されていた。更に明治以来西宇和郡に編入されていて、明治32年初めて喜多郡に編入された。
23年の町村制施行で平地村と野田村が合併して平野村が生まれ、喜多郡の西南端に位置し、夜昼峠を隔てて千丈に通じ、南久米村と境し日土村と出石山の険を境に相会えている。林産物、農産物の産出が多い。
【南久米村】
大洲町に隣接し大洲、宇和島線の県道が村の中央を貫通する南久米村は、大洲藩加藤氏の所領であったことは変わりなく、大洲藩の最大生産地として農耕大いに振るったものである。
明治23年町村制施行により正式に南久米村が生まれ、大正14年8月1日に大字柚木を大洲町に編入したため有名な寺も共に大洲町の一勝景に加えられた。
初代村長は久保田住長氏で大字北只、松尾、梅川、長谷、久保、正信稲積、野佐来、黒木に分かれる。
昭和18年の風水害で、田畑108町歩を埋没或いは流打したのはおしい。
【三善村】
長浜町より肱川を遡ること3里、神南山の南麓に北は粟津村、東は柳沢村、南は新谷村、大洲町、西は南久米村、上須戒村に何れも山脈をもって相接するのが三善村である。
藩政時代は新谷藩の所領であったが、明治と共に廃藩置県となり、9年同所に春賀村外二ケ村の戸長役場が置かれ、18年春賀の佐々木重左氏宅役場が移された。
明治23年町村制施行で、春賀など3ケ村を合併して三善村と改称され現在に至った。
【粟津村】
加藤候大洲5万石の領地として藩政時代は平穏な二百有余年を送ったが、明治4年の廃藩置県の改正によって、在来の庄屋は何れも里正として依然統治の責任にあったが、23年地方自治制の施行により八多喜村、米津村、旧平郷平松郷の内、手成村を合併して粟津村となった。
明治18年にはこれに戒川村(白滝村大字戒川)が合併されていたが23年に再び除かれたもの。
初代村長は篠崎哲と云い治蹟大いに挙がったといわれる。
【上須戒村】(かみすがい)
戦国時代天文年間(1532~55)の頃、土豪伺居氏が台頭し三代安芸守行之の頃には武威四隣を圧し一王国を形成したが、元和年間大洲城に加藤貞泰が入城してから伺居氏は代々庄屋となって支配してきた。
やがて新谷藩が置かれるやこの所属となり、明治維新まで250年静穏な時が流れた。
地味が大いに米作に適したことから、水田の開発に力が注がれ貞享元年には470石も産出したといわれる。
明治18年行政区制が改められ本村と豊茂村が合併し、23年政所作治郎氏が初代村長となった。
【白滝村】
白滝村は旧柴村と滝川村との合併により誕生した村であって、大正11年当時の柴村村長仙波定恵、滝川村村長清水守功の両氏の時代に双方から数名の合併委員が協議、意見の一致を見て成立したもので、初代村長には野田尾藤吉氏(大洲出身)が新任した。
藩政時代の史実は詳かにしないが、大洲藩加藤候の領地として二百余年を封建の束縛下に送ってきた。
同村の所轄「白滝」は紅葉の名所として余りにも有名で、紅葉に酒を暖める風流において県下随一の名所と称しても過言ではない。
【大和村】
養老2年(718)金山出石寺の開基が最も古く、約600年前までは上土谷、下土谷、下須戒、大越村等に分かれていた。
加藤氏が封ぜられる前の大洲城主宇都宮氏の分かれ、笠間蔵人尉清綱は笠間城を築き、下須戒には大蔭城主矢野常陸守正秀が居城していたが、何れも長曽我部氏の攻略で、夏草を血に染めて滅亡していったのは悼ましい。
大越村は上老松の名に因み、上老松村と大越村に分かれ明治維新後、下土谷村は穂積となり、明治23年穂積、下須戒、上老松が合併して相生村となり、大正11年相生村、豊茂村が合併して大和村となった。
【出海村】(いずみ)
喜多郡の最西端に位置し瀬戸内海に臨む出海村にも長曽我部氏来寇の悲劇がある。
建久年間、兵頭権守頼重なる人物が城主となり、再来代々所領して来たが、天正年間兵頭宇右衛門正家の代に長曽我部氏のため亡ぼされた。
藩政時代には同じく大洲藩の領土であり、明治元年里長が廃せられた庄屋の代わりに統治、明治12年に櫛生村外一ケ村で櫛生村に役場が置かれたが、23年の町村制実施で櫛生村と分立して出海村が生まれ設楽繁氏が初代村長となった。
【櫛生村】(くしゅう)
瀬戸内海に臨み出海村に接する櫛生村は典型的な半農半漁村であり、同村の沿革には見るべき史実は見当たらず、藩政時代に於いても忘れられた僻村の一つであった。
明治23年町村自治制の施行により櫛生村の誕生となり現在に至った。
農産物として米230石、麦800石、雑穀200石、甘蔗20万貫を産し、林産物として木材、しいたけ、水産物において年間約4万貫の水揚げが村経済を保つ唯一の産業であろう。
【長浜町】
喜多郡唯一の港である長浜町は、肱川から年々吐出される土砂のため次第に現在の地勢となった。
だから昔は港もずっと引っ込んでいたのである。
元和3年(1617)加藤左近太夫貞泰が山陰の米子から大洲藩へ移封されて来るや、現在の小学校あたりに藩邸が置かれ、舟奉行をして諸事を司さどらせた。
当時は家屋も舟も共に僅かであったが、何分海陸交通の重要地点であり、次第に移住者も増え現在の賑やかな長浜になった。
明治23年吉島と上老松の二牛を合して生まれたものである。
【喜多灘村】
瀬戸内海に臨み伊予郡に接する喜多灘村は喜多郡の北西に位置する半農半漁村であり、僅か2千人を越える小村である。
藩政時代も史実に残る何物もなく、明治23年の町村自治制施行によって村政を敷き得たが、松山に近いとの地理的条件が、同村を財政不振から救う唯一の現状である。
農産物米500石、麦510石、雑穀50石、甘蔗9万貫、喜多郡最小の農村であり、今後の発展は地勢に左右されない漁業にあろう。

【喜多郡の歴史概説】
日本には旧石器時代は人間は住んでいなかったであろうと考えられている。それは旧石器時代の遺物が出土しないからである。新石器時代になると、縄文式文化人は日本列島に住んでいたことは、土器やその他の出土によって明らかである。新石器時代の後期、弥生式文化人は農耕を行い村落も営んでいたのである。当、愛媛県喜多郡においてはどうであったか。 喜多盆地を中心としてその周辺の洪積層上の地点に土器石器が出土し、古墳も存在し、銅鏡も鉄器も出土する。これらの点により考えれば、土器の中に縄文式土器も発見されているが、層位といって弥生式土器の下位の層より出土することが確定していないので、縄文式文化人がこの土地に居住したと証明は出来ない。しかし、常識的には縄文式文化人も弥生式文化人の以前に居住してバトンタッチしたと観てよいと思う、又古墳から銅鏡や鉄器も副葬品として発掘しているので、日本列島の状態と何ら変わるところはない。喜多盆地は土器石器の種類も多く、管玉等の玉類も出土し、種々の立派なものが沢山に出土する。出土地としては、新谷村都谷、和田、伏折、大洲町徳の森、花瀬山、南久米村北只、菅田村染瀬、泉徳寺、下村嶋宮の首等であるが、喜多郡は何れの土地を歩いても一つや二つの石器土器は足元にころがり、この点弥生式文化人は郡内に広く分布していたのである。しかし原則として沖積層上には存在せずして沖積土壌上に存在するのである。次に上げなければならないのは巨石文化である。喜多盆地周辺には人工的に巨大な石をもって造営した遺跡が有る。これまた他に見られないほど沢山にある。それらは西欧諸国にあるドルメンやメンヒルと同じ発生を有するものか否か研究を要する。又ストンサークル群もある。何れも通風採光が充分で風光見晴らしの良い場所にある。この巨石文化遺跡は郡内各所にあるかも知れない。古墳は上の時代より新しい時を示すものであるが、これも喜多盆地の周辺に散在している。
ここで問題に成るのは少彦名命の伝説である。少彦名命は出雲経営を終わって常世の国に渡るとあるから、喜多盆地経営が最後であったかも知れない。所詮、出雲の氏族が喜多盆地に小国家建設をしたのではあるまいかと言うのは、出雲系統の神社が、伊予全体で268社あるが、その中喜多郡に属するものが約60社あるからである。次は少しずつではあるが段々に文書によって残る歴史時代となる。清和天皇の貞観8年(866)11月8日、宇和郡を分かちて宇和、喜多二郡となすとある。この時から郡司をおいて独立したものとなった。又和名抄によると喜多郡に矢野郷、久米郷、新谷郷が見えている。天歴4年(950)東大寺封戸荘園の租庸を検し、寺用を登記す。この中に温泉郡50戸、風早郡50戸、喜多郡100戸、新居庄田93町を裁すとある。かくして平安の時代を風雲急を告げ、元歴2年(1185)平家田内則良は大洲比志城を攻めたが四郎主に破られ讃州に逃げ帰った。元弘3年(1333)には土居得能の一族が喜多郡根来城(大洲城?)に宇都宮氏を攻めた。永禄12年(1569)6月宇津宮豊綱は吉川元春、小早川隆景に降るなど、次いで大洲城主は天正15年(1588)10月入城(7年)の戸田勝隆、文禄4年入城(9年)の藤堂高虎、慶長13年入城(8年)の脇坂安治、以上三氏の大洲在住時代は戦国の後で物情騒然たるものがあった。次いで江戸時代となり、元和3年(1617)加藤氏入城して三百余年の時代は過ぎたが、その間に中江藤樹の聖人出で、王陽明学の川田雄琴、平田流の国学者矢野玄道等の偉人出で、節婦、孝子、善行者は数限りなくこの郷土より現れた。かくて封建制度下に苦しんだ人民は、明治維新により解放されたかに見えて、昭和の無血大革命へと歩み続けたのであった。
● 忘れかけの内子町風景 ↓
① 内子小学校、中学校と新天神さま・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html② 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html③ 知清河原と龍宮淵・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html④ 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html
⑤ 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html
⑥ 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html

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