第33話の⑨・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・・


昭和19年1月30日は、父泰山(34歳)の戦病死による命日です。
昨年、愛媛県内子町の母の実家で、私の昔の資料を探しておりましたところ、父の実家松山での空爆で、既に灰になってしまったであろう「軍事郵便はがきの束」が出て参りました。

     満州牡丹江省東寧県城子溝から祖母浦子宛の葉書。
     転戦先、ソロモン諸島ラバウルから祖母浦子宛の葉書。
     一緒に帰還した戦友から、傷病兵姿の父の写真が届き、問い合わせした祖母浦子の葉書。(昭和19年1月14日)
     入院先が判明して親戚から父泰山に届いた見舞い状。(昭和19年1月18日~)
     祖母浦子が陸軍病院へ看病に、27日に出向くとの父泰山宛の電文。(昭和19年1月26日)
     命日が1月30日ですので、これら葉書の内容から推測すると、私ら子供たちが、忠兵衛と共に面会に行った日は、28日か29日のどちらかだろうと推測されます。
  (父の姿は今でも思い出されますが、余命一両日の姿には、とても見えませんでした。 高熱に犯されるマラリアは日ごと周期的に、急激な容態の変化をもたらせるものですので、その犠牲になったと思われます。)
・  浦子が手元に置いていた、松山歩兵第22連隊教練、軍服姿の父の写真立て。
・  召集を受けて入隊当初の軍隊手帳等。(昭和16年7月)

私が想像するに、この葉書類が残されたのは、昭和20年7月26日夜、松山大空襲の焼夷弾爆撃により、鉄砲町に程近い琢町に在った私方の実家は全焼しまして、祖母浦子は曾祖母ヒサヨと私の弟、孝芳を連れて郊外の山越まで避難したのです。(私と弟俊光は、空襲が激化して低学年は無期休校となったため、休校していない母の実家の内子町へ20年5月に疎開していた。)

自分の写真も1枚も残していない祖母浦子(53才)が、この書状は大切なものとして避難先へ持ち込み、空爆後の食糧事情、医療事情の悪辣な中で昭和21年1月8日に逝去したのです。
葬儀に参加した母方の祖父、忠兵衛が父泰山の遺品であろう物品を預かり、持ち帰っていたものと考えられます。


 父泰山は「定期的に必ず祖母浦子に安否を知らせる葉書を出す」との、親子の約束をしていたのだと思います。
大した内容ではないのですが、手紙を通じて連絡さえしておけば「元気だと伝えられる」ということに徹していたと思われます。
そして転戦先のラバウルから届いた最後の葉書が次のものでした。

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 愛媛県松山市琢町64   福島 浦子様
拝啓、その後お変わりありませんか。  先日、便り受け取りました。
子供達も皆元気で毎日遊んでいるとの事、何より結構なことです。
お祖母さんも元気ですか。 宜しく云って下さい。
学生の人も九人も下宿しているとのことですが、何かと忙しいことと思いますが、身体を気をつけて下さい。 
(当時、浦子は松山高等商業学校生(今の松山大)の下宿屋をしていて、2階の6畳の間2部屋を使わせていた)
又、寒くなることですが、子供達に気をつけてください。

昭和18年11月中旬?南海派遣剛第6418部隊 尾形部隊 今井隊  福島 泰山


 この頃、泰山はマラリアに感染し、兵站病院で入退院をしていたのだろうと思われます。
昭和18年11月26日にラバウルを出航した病院船「ぶえのすあいれす丸」(9,626t)に乗船して、帰国するマラリア患者、傷病兵の一人だったのです。

然し、出航した翌日の27日、病院船「ぶえのすあいれす丸」(9,626t)は
ニュー・アイルランド島カピエン西方に於いて、米軍のコンソリデーテッド機によって爆撃され轟沈したのです。
父泰山らはマラリアを押して、17時間の漂流を強いられた後、救助されたとのことでした。

【参考】 ↓

第33話の⑦●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965782.html     

第33話の⑧●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図・・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965783.html

 そして昭和19年正月明け14日に、一緒に広島へ帰還した戦友梅川利夫氏から父の実家に、下記①の封書(書状ナシ、写真在中のみ)が、いきなり届いたのです。

その写真は、父の「少々やつれた傷病兵姿」の写真でした。
写真の負傷兵姿の泰山を見た祖母浦子は、仰天したものと思います。

「11月以来便りが無かったが、ニューギニア方面で、
元気にご奉公していると思っていた泰山は、負傷して白衣を着ている・・ここは何処の病院か?発信先の広島へ帰還していたのか?」

 「本来なら本人の泰山に渡される写真が、説明もなく実家に届くとはどう云うことか?」
となったのです。


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・        ①に入っていた写真・・・左二人のどちらかが梅川利夫氏 
          (帰還到着地の広島陸軍病院江波分院であった)


 【参考写真】
下の【廣島第一陸軍病院江波
(えば)分院】に帰還したようですね。
下の写真の【庭石】【松ノ木】【後方の病舎】は同一場所と判定できます。
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広島陸軍病院江波(えば)分院(池原上等兵召集解除記念に広島県沼隈郡出身の者相集いて・・昭和18年9月26日)

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広島陸軍病院江波分院・・・演芸会出演者記念撮影,俵おどりをなし好評を博す・・昭和20年4月12日

↑広島陸軍病院より・・http://www.roswitha.jp/%5B1%5Dguni@genbaku@kangofu@test.html



① 愛媛県松山市琢町64   福島 泰山殿
      【写真二枚在中】

1月6日  広島陸軍病院 第二分院四八病棟   梅川 利夫



② 広島陸軍病院 第2分院 48病棟  梅川 利夫 様
拝呈
本日、写真確かに受け取りました。
泰山に下さりましても、私方には居りませんが、貴方と同じに広島病院に入院して居るのではありませんか。 それとも、松山の病院の方へ変わりましたのでしょうか。
1月5日に検閲があるところを見ますと、未だ広島病院に居る事と思いますが、それとも松山の方へ帰ったのでしょうか、お知らせ下さい。
広島分院に居るの成れば、一度子供を連れて行きたく思いますから、お手数ながらお知らせ下さい。頼みます。

1月14日     松山市琢町64  福島 浦子  (祖母)
 

③ 広島陸軍病院 第2分院 48病棟  梅川 利夫 様
拝呈
本日、早速写真を受け取りまして、開封してしてみました所、向かって右が「泰山」でありまして驚きました。 元気でご奉公していると思っていましたのに驚きました。
その後、梅川様には、おいおいご全快ですか。 泰山も同じでしたら、子供を連れて一度面会に行ってと思うのですが、何処でしょうか。
お返事下さることは出来ないでしょうか。
子供は皆元気と伝えてください。  さよなら。

1月14日     松山市琢町64  福島 浦子


 1月14日に祖母浦子が梅川利夫様に出した2通の葉書は、「受取人不在ニ付キ、差出人戻シ」で浦子の元に返却されております。  

恐らく、受取人(梅川利夫氏)が泰山と同様に地方病院に移送されたか?
又はマラリアの進行で死亡されたか?・・・と想像されます。
(この2通とも、閉じ穴が開けられ、こより紐が付いているので2通セットで【受取人不在】返却されたものと思われる)

 そして、これを喫機として、祖母浦子は泰山の入院先を探り当て(泰山から葉書が到着した模様か?)、下記親戚縁者に知らせたのでしょう。
 親戚からは昭和19年1月18~19日に集中して、泰山宛に見舞い状が出されております。

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④ 善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室   福島 泰山様 (伏見四番)

本日便りを受け取りました。先日、写真を二枚受け取りまして驚きましたが、便りにより安心はしております。
早速面会と思いますれども、私も目が悪く、それに子供を連れては思うようになりません。
暖かくなったら早速行くつもりです。
それとも内子へも写真のことで手紙を出しましたから、当面、今日にもと言うかも判りませんが、寒いから子供に風邪でも引かしてはならぬです。
身体に気を付けなさい。 祖母も元気。

1月18日  松山市琢町64   福島 浦子 
(祖母)


⑤ 善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室   福島 泰山殿 (伏見四番)

前略、その後ご無音を謝し、本日葉書到着仕り
(つかまつり)候。
尚、昨日内子町黒田熊治様にお言付けを賜り候。
貴殿、この度ご不快にて御地へ帰国、ご療養中とのことに御座候。
何れお伺い申したいと考え居り候。
尚、寒気の節に衣類等、ご入用の事なるかなと思いおり候に付き、ご入用の物何なりとご通知下されば、早速取り揃えご送付申すべく候。
その他何なりと有れば、ご一報くだされますよう願い上げ候。
尚、私方俊光を始め皆々無事に過ごし居り候に付きご安心の程。
尚、近所も別に変わり無く、親族一同も皆元気に御座候。
寒さが加わる折から故、存分にご注意ご養生第一の事に御座候。
右の通り、如斯
(かくのごとく)に御座候。

1月18日 伊予 喜多郡内子町  森並 忠兵衛  
(母方祖父)


⑥ 善通寺陸軍病院
 第33病棟 1号室 福島 泰山様 (伏見返し四番)

拝啓、厳寒のみぎりとなりまして、大層お寒いことでございます。
暫くご無沙汰いたしております中に、早1月も半ば過ぎとなって参りました。
承りますれば、お兄さんには只今は表記の所、善通寺の陸軍病院にてご療養中との事でございますね。
近頃、ちっともお便りが無いものですから心配しておりました矢先、松山のお母さんよりお葉書が参りまして、お母様方へお兄さんの白衣のお姿のお写真が来まして、如何したものかと驚き心配しております、とのことが書いてありましたので私方でもご案じ致しておりましたのですが、昨日当町の黒田さんがお見えになりまして、色々とお兄さんの事や何かを話して帰られたそうで御座いまして、私方でも幾分か安心しておりました。
また今日は久し振りにてお葉書戴き、家内一同拝見致しました。
申し遅れましたが、私方一同無事にて恙無く過ごし居りますから他事ながらご休心下さいませ。
俊光ちゃんも元気にて風邪一つ引かず成長して居りますから、何卒ご安心下さいませ。
隣の叔父さん方も皆元気で居られます。
どうかお兄さんも気を確り持って、一日も早く元のようなお元気なお体になられる様、気長くご養生なさいませ。
私たちも、それのみお祈りしております。
では今夜はこの辺にて失礼させて戴きます。
祖母、母よりもくれぐれも宜しくとのことでございます。さようなら。

1月18日  愛媛県喜多郡内子町  森並 登志子 
(母の妹)


 善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室 福島 泰山様(伏見分院四番病棟

拝啓、本日ご連絡に依れば、ご病気にて内地病院にご入院の由、
連絡受けた文意、簡単にてご容態も如何と案じております。
何れお見舞いに参上予定ですが、充分ご注意遊ばされ、ご養生が肝要と存じつつ、ご入用の品も御座いましたら、遠慮なくお申し出下され度く。
転じて当方一同無事、ご安心を乞う。

1月18日  伊予 長浜町   岸本 喜兵衛 
(忠兵衛の弟)


⑧ 
善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室   福島 泰山様 (伏見四番)

拝啓、毎度ご無沙汰のみ致し、誠に申し訳ありません、何卒お許し下さる様。
さて、お葉書に依りますと はやり病気にて鋭意養生中の由、
寒さの折から、充分注意養生遊ばさる様、先ずは病気お見舞い迄に。
詳細は後便に。

1月19日  伊予 喜多郡長浜港  友澤 利兵衛 
(忠兵衛の弟)


⑨ 善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室 福島 泰山殿 (伏見四番転送)

前略御免、私、今度の日曜日に面会に行こうと心積もり致すも、丁度其の日に
・・・候ところ、天気の都合も有之候。近日内に行く考えに御座候。
付いては目下、寒気の為衣類等ご入用に御座候。陳者
(のぶれば)持参可能。
尚、其の他ご入用品あれば、陳者何なりとご持参致すのでご返事願い度し。
尚、未だ熱の差引かず、熱が続き面会に行きても、面会することが出来ん様なる事にては、致しかた無しと思いおり候ところ、いつ面会を許して貰う事に御座候。  
貴殿よりの筆跡を見ては、大分良き方の様子と推察、面会が出来る事と願い居り候。敬具

1月21日   愛媛県喜多郡内子町  森並 忠兵衛 
(母方祖父)


1月27日朝、浦子が看病付き添いの為、急遽善通寺へ向かっております。
     1月26日午前11時発信・・・・・・午後0時59着信
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            善通寺陸軍病院 伏見分院


【参考】↓
第33話の 善通寺陸軍病院の父

第33話の 善通寺陸軍病院の父

 第33話の①にあるように、忠兵衛らに連れられて、私ら兄弟3人が面会に行った時の、あの松山駅でのあの雑踏は、昭和19年1月28日か29日で、調べると旧歴では1月3日か4日となり、正月の帰省客復帰の大混雑だったのだと想像できます。

(当時、田舎では旧正月で年越しをする風習で、郷里で正月を過ごした職人たちが、職場に復帰する混雑だったのでしょう。)




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