中学校の卒業を、来年の春に控えた昭和二十七年秋のことでした。

担任の藤田先生が、進路指導を含めての聞き取り調査が始まって居りましたが、山間の小さな町内の事、高校進学などは家庭によほど余裕のある子息、子女の行くところじゃ・・・との風潮が残っており、子供ながらに「進学したいけど無理も云えんし・・・」と悩んで居りました。

と云うのもウチでは父は戦死、母は若くして他界した境遇のこの身、兄弟三人もが祖父母宅に居候の身だったのです。 終戦直後の当時、同級生の中でも家は空襲で壊滅し、父が戦死したという同じ境遇の子息はクラスの中にも十人近く居て、決して珍しいことではなかったのです。

祖父母の考えは、僕に就職する意思を貫かせて、精一杯に職に就く努力をさせた上で就職が叶わなければ別途方法を考える事とする・・・と心積りしていたのでしょうか、目標が潰えない様に努力させる為か、本人の意思も考えず中々「高校へ進学させる」と云ってくれませんでした。

 

戦災者扶養補助や戦死者遺族年金等も受給していたのでしょうが、中学生にその内情にまで理解できるものでもなく、祖父母の意向を尊重し就職する方向で努力をした挙句、若し叶わなければバイトしてでも高校へ進学するという道を選んだのです。

高校生の場合、日本育英会からの奨学金は千五百円/月もあり、これを申し込めば何とかなるだろうとの考えも持っておりました。 

 

そんなこんなで、中学三年生の後半は就職試験の問題集で徹底的に模擬試験に励んだのです。。

当時、中学卒で目指す先は、電電公社の傘下で社員養成施設の電気通信学園と電力会社の養成施設の電力社員養成所があり、合格すれば給与を受けながら養成終了後社員となる制度が有ったのです。

担任の藤田先生と相談して電気通信学園を数名が受検したものの、一握りの合格者を集めるのに数百人の受験者で、その上親族が勤務している縁故受検者は合格に有利との情報もあり、同僚も含めて全員不合格に終わったのです。

新聞配達も問い合わせてみたが、小さな町の事、成人の職業として成り立っており、バイトの入り込む余地など無いとのことでした。

高校の入試は周辺の山村の中学校も含めての受験だが、就職試験の問題集で訓練のお陰もあり、十数人程落伍したとの噂を聞きながらも、まずまずの成績で合格したが、仲の良い優秀な友人など数人は家業の手伝い等で定時制高校(夜間高校)にしたとの話を聞き、僕はまだ幸せな方なんだ・・・と感じ入ったものです。

 

中学校卒業式終了後に、担任の藤田先生に呼び出され『君はポスターや字を書くのがうまいが、映画館の辻ビラを書いてみないか? 本町劇場の映写技師をしとる先生の同級生が居ってな、高校へ入学する生徒で誰か辻ビラ書きのバイトを紹介してくれないかと依頼があったんじゃが・・・』とのこと。

先生は卒業した後の僕のバイト先を、何とか探してやりたいと常に気にしていてくれたのじゃなぁと先生の配慮に有難く感謝する気持ちが湧いてきました。

そう言えば三才年上の森野長一郎先輩が高校在学中にやっていた辻ビラ書きの仕事をしていて、松下電器への就職が決まったとの噂を聞いたことがあるが、それで辞めたんじゃなぁ・・・これは渡りに舟じゃ・・・と感じたのです。

『先生、僕にやらせてください。懸命に努力しますのでお願いします』と即答したのです。

『そんなら、すぐ連絡してみようわい・・・』と電話連絡してくれたのです。

先生は『明日の十時頃、本町劇場の竹崎さんを訪ねて来てくれ、社長に紹介するけん・・と言うとるけん、時間通り行ってください』

『先生、そうします。頑張ってきます』とわくわくしながら職員室を出たのです。


(●本町劇場1
内子町 本 町 劇 場

翌日、時間通りウチから五百米先の本町劇場へ竹崎さんを訪ねた。 竹崎さんは僕を社長のところへ連れて行き   『宮崎社長に話を通してあるから、社長から話を聞いてな・・・』と云って事務所から出て行った。

社長は『家の近所にも貼ってある辻ビラを書いてもらうのじゃが、見たこと有るじゃろ?』

『はい、知っています』

『いっぺんコレに【十五日、二本立 三十円 本劇】と、この筆を使って書いてみてくれるか』と筆、絵具鉢と用紙を差し出してきた。 僕はいきなり看板風の隷書文字を書くのはおこがましいと思い、習字のつもりの楷書で云われた通りに書いてみた。 

『うーん、筆慣れはしとるのぉー、じゃが看板字はこの様に書くのじゃ。 劇の字はややこしいので略してこうじゃのー』としっかりした筆使いで隷書風な看板文字を看板屋の様に上手く丁寧に書いて見せた。

『これを手本にして二、三枚書いてみてくれ』

僕は隷書を書く要領で難なく二枚仕上げました。『こがいなもんで、いいですか?』・・・

社長はそれを見て二、三度頷きながら『バイト料は高校の月謝の足しにするんか? 田舎の映画館じゃけん二本立てで三十円、四十円の入場料しか貰えんけんの~、余り出せんけどそれでも良かったら来てくれや。 高校の月謝はなんぼなんじゃ?』

『一ヶ月に七百円です』

『よっしゃ、それじゃぁ月給七百円にしょうわい、明日から毎日来れるか?』

『土、日曜以外は三時まで授業が有るので、毎日四時には来ますから・・・宜しくお願いします』という事を伝え事務所を出たのです。 永い間悩んでいた懸案のバイト先が決定したことで、やっとこさ安堵の胸を撫でおろした次第でした。  

 

町内にはこの本町劇場と旭館の二つの映画館があり、加えて内子座と云う立派な芝居小屋もある。

パチンコの普及する以前の時期でもあり、テレビの無い時代の事、おのずと娯楽は映画か、芝居しか無く芝居小屋には定期的に巡業芝居一座が興行し、本町劇場は大映、東映、新東宝系で旭館は東宝、日活、松竹系で二百席程でしょうが、夜は周辺農村からも客が来て娯楽は映画しかない時代なので、いつも満員状態で映画館だけは大賑わいをしていました。

 

 翌日からいつもの下駄ばきで歩いて行き、改札口の小母ちゃんに「バイトの福島です」と会釈して入ったら、すかさず映画ポスターを差し出してきた。


 『明日十六日の映画はコレじゃけんな、コレと同時上映【駅前旅館】の二本立て四十円となっとるけん、明日からはポスターの準備状況を見て上映予定表と料金を確認して書いてな、判らなんだら教えるけん聞いてよ』 

そして小さな片手鍋を持ってきて 『コレ、にかわ(膠)を溶かしたお湯じゃけんな、コレで粉末絵具を溶かして書くのよ、コレで絵具を溶かさんと、ビラが雨に濡れたら字が流れて消えてしまうのよ・・・』と用紙三十枚と赤、紺、黒の絵具鉢と筆を用意していた。作業は二階の映写室横の高圧線整電機のある部屋で常にブーンと云う整電機の唸り音がしている、それに加えて隣の部屋の映写機のコマ送りの音がうるさい場所でした。

 床に置いてある台の上で中腰になって書いてゆくのです。


(本町52

 『適時、休憩のつもりで映画を見てもエエから・・・』と云われていたので二階の隅でゆったりと一息入れたり、売店でアイスを買ったりと比較的自由も利くのです。

 館内のメンバーは社長の他、切符売り場、改札係、売店、清掃の小母ちゃんが四人、映写技師の竹崎さんと助手の七人でしたから、直ぐに馴染みになってゆきました。

 

 三十枚書き終わると筆を洗って道具を整理して、書き上げた三十枚を改札の小母ちゃんに渡すのです。小母ちゃんは『コレをポスターに貼って繋ぐのがウチの仕事じゃけん・・・、それとなぁココで働く人の家族は、改札はフリーパスじゃけんな、(福島の家族です・・・)と云うてくれたらエエけんな』とのことだった。

 帰宅後にそれを祖父母に伝えたら『おこがましいから、そんな事出来んわい。 漫画映画の時、弟等が行くじゃろ』との返事だった。

 

その数日後、待望の高校入学、一年一組となり京大出身の宇都宮正弘先生が担任となったが、同じクラスに当時未だ無名だった大江健三郎の妹が偶々在籍して居たのです。 


そういう事もあってか先生は、僕らが名前も顔も知らない三年先輩の大江健三郎を何かに付けて例えに出し 「大江さんの兄貴、大江健三郎君は当校へ入学したんじゃが、あんな頭脳明晰な男は、今まで見たことが無いぞ、カミュや太宰治を読んでいて只者じゃない思考力がずば抜けとった。 彼は当校に入学したんじゃが二年生から松山東校へ転校させたんじゃ、今は東大へ進学を目指しているので、いずれ大成することじゃろ」

「当校に居ったのでは大江健三郎のあの才能は伸びんわ、下衆の中ではあれだけの卓越した能力の芽が摘み取られてしまう。 東大を目指すのなら松山東高校へ転校しろと言うてな転校させたんじゃよ」 と並外れた才能を見抜いていた大江の良き理解者でもあり、名立たる大学への合格率の良い松山東高校への転校を先生主導で勧めた様でした。

(低俗な一般人に同調できない気質と内気が禍いして、級友から陰湿な虐めを受けたらしく、二年生から松山東高校へ転校したそうです・・・)

【参考】
忘れかけの内子町風景・・⑯ 作家 大江健三郎 ↓

http://y294ma.livedoor.blog/archives/26496443.html


(((●G_3342
 1年1組 宇都宮先生と大江健三郎の妹(前列左端)

 

入学後一ヶ月ほど経たホームルームの時間に担任の宇都宮先生は『この前言うとった(バイト届)を持ってきている人、提出してください」との事で提出した。 バイト先と勤務時間、作業内容を書いただけのものだが、担当教諭が情報把握だけはしておきたいとの主旨の様で、僕ともう一人が提出した。

先生はざっと目を通しながら『福島君、本町劇場の木戸口の小母ちゃんはな、先生の姉御じゃからな、ビラ書きしに行って映画ばかり見とったらいけんぞ。 真面目にやらんと監視付きみたいなもんじゃからなぁ』とダメ押しの一言がきた。 級友の目の前で、他の生徒への牽制の意味も含めて明からざまにしたのでしょうが、一同から失笑が漏れていました。

狭い町のこと、そういえば改札の小母ちゃんは宇都宮さんだったな、知らなんだなぁ・・・と納得した次第です。

それから先生は『級長をしてくれていた岩田君が病気療養のため明日から三ヶ月間、療養所へ入るので、代行者を選任することになったんじゃ・・・、福島君、君やってくれ・・・』

 『先生、僕バイトの件も有って気分的余裕がなく責任重大過ぎです。選挙で選んでください』

 『新入生は見知らぬ者同士、選挙が出来んから入試の成績で岩田が選ばれとったんじゃ。 二番目が君だったんじゃ。 級長の打合せ会合と云うてもクラブ活動で忙しい者も居るんじゃけん、三十分ほどじゃ、何とでもなるよ・・・』と押し切られてしまった。 考えて見れば入試の成績が思わぬところで公開され判明してしまったのでした。

 

約半年が過ぎてバイトにも慣れ、洋画やあっけらかんと笑える喜劇の面白さが好きに成り、伴 淳三郎、堺 駿二、古川ロッパらが出演した笑える映画は時々見に行く様になりました。

ところが夜行くと、いつも何処かの席に必ず担任の宇都宮先生が坐っていて映画を見ているのです。

生徒が遊び呆けて映画を見に来てないか・・監視を兼ねて来ているのかな?と感じるのです。

木戸口に姉さんが坐って居るのでフリーパスは当然なのですが、娯楽と云えば映画だけの時代です、それも毎日の事、先生の夜の時間つぶしには最適だったのだと思われます。

劇場近所の友人に、その事を話したら『ワシらも睨まれたこと何度も有るぜ。木戸口の小母ちゃんが宇都宮先生の姉さんじゃけん、タダじゃから毎晩、時間つぶしに来とるんよ。そじゃけん一階で見るのは大禁物じゃ』と要領を得た反応が返ってきたのです。

 

欠勤も無く真面目に務め一年が経過した三月の給料日に、社長から『毎日、真面目に頑張ってくれとるなぁ・・・二年目の来月から月給千円にしてやるけん、頑張れよ頼むぞ』との期待と労いの言葉をかけて貰い嬉しい気持ちが湧いてきた。

月謝を払った残り、三百円の小遣いが残ることになるのか・・・と満足感に浸ったのです。

(本町104.2
 

客席が暗闇の田舎の映画館のこと、昼間の閑散とした時間帯には思い掛けない事態に遭遇することが有ります。作業が一段落して休憩しようと作業室を出ると、二階席であり正面がスクリーンで、そこに濃厚なラブシーンが写っていたのです。

朝鮮戦争を描いたハリウッド映画が映写中でした。 空軍パイロットに扮したタイロン・パワーが従軍先から郷里へ帰り恋人と再会する場面でした。二人は互いに走り寄って抱き合いながら、熱烈で激しい接吻を繰り返しているのです。二人が離れようとした時、二人の唾液が繋がったまま糸を引いてこぼれそうになったのです。それをこぼすまいとタイロン・パワーが口で瞬時に迎えに行く仕草をする場面だったのです。

僕は濃厚なその場面に見惚れてしまっていました。

暗闇に眼が慣れて来て、ふと二階席前列を見ると一組のアベックが坐っており、映画のそのラブシーンに触発されてか、互いに腕を背に絡ませ抱き合い、男性が被さりながら永い熱烈なキスを続けているのです。

田舎でもこんな場面に遭遇することもあるんじゃなぁ・・・という思いで初めて見るキスの姿に見惚れてしまいました。

更に後部席に人の気配がしたので目をやると、同級生の俵頭君が一人っきりで坐り、スクリーンそっちのけで前のアベックがキスする様をじっと目を凝らせて観察していたのです。

俵頭君と僕は眼が会ってお互いが黙して笑顔、目と目で指と指でお互いに冷やかし合いをした次第です。


以来、昼間の二階席は結構な穴場じゃなあ・・・と解かってきたようでした。

近所のバーのお姉さんとそのお客さんが、二階席の隅の暗闇で映画場面など目もくれず、昼間からいちゃいちゃしているのを偶に見ることもあり、多少なりとも眼の保養にも成っていたのかも知れません。

 

全く苦悩を感じることも無く充実した三年間でした、少々の苦労をも楽しさや明日への糧にに変えてゆく気概を持ちながら、高校三年生の夏までビラ書きバイトを続けることが出来て、夏休み以降は就職準備に専念することとしたのでした。