【その日の状況】→頭上のB29・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9477431.html
全国の主要都市が爆撃に晒される最中でしたので、その翌日から松山市では、『危険の為小学1~2年生は無期休学』となったのです。
夜中に祖母タキノにたたき起こされた。 12時頃か・・・1時頃か・・・
「早よう起きて! おおごとじゃぁ! 松山が空襲で、燃えとるぜ!」と言っている。
二階表の部屋だ・・「こりゃ、大変じゃ!」
寝ぼけまなこで、とっさに跳び起き、寝巻のままで下駄をひっかけて外へ駆け出した。
近所の人らが、郷の谷橋(ごんたにばし)のところで10人ほど集まって、北の方向を見上げている。
行って見ると、新天神さんの奥の空が、真っ赤に染まっている。

深々と更けた田舎の夜のこと、静寂の中に遠雷のような音がかすかに聞こえ、赤く染まった空が時間とともに、明るくなったり暗くなったりしているのが解かる。
遥か遠くをB29の通過する爆音も微かに聞こえている。
これから爆撃に向かうものか、爆撃を終えたものかが気になる。
「あの下で、末の弟・孝芳、浦子(祖母)、ヒサヨ(曾祖母)らが逃げまどうているのか・・・」という気持ちが、真っ先に頭をよぎるが「こんな遠くで・・・こんなトコで、寝巻き着てボーッと立っていてエエのか?」と自問しながらも、どうすることも出来なかった。
燃焼物の少ないコース、城北練兵場~千秋寺~松田池~山越への逃避行が眼に浮かぶ。
無意識のままに手を合わせ、頭を垂れて無事を祈っていた。
両手を合わせたまま、赤い空がある程度収まるまで見ていた。
松山には「焼夷弾」(しょういだん=空中で爆発すると、飛散したゼリー状燃料が火の雨となって降ってくる)が降り注いだということを、翌日になってから知った。
2回の葬儀に参加した内子の祖父ちゃんは、この時「松山は、とてもとても子供等を連れて行ける所じゃないわい・・・ひどい、ひどいありさまじゃ」と話してくれました。
ごく最近、当時の記憶を、弟・孝芳曰く(当時4歳)・・・『空襲の時か、逃げる途中に、あぜ道の水路に落ちてズブ濡れになった。 (火災、火傷よけに、浦子が水に漬けたのかも?とも思える)
その時、浦子はバケツに魚を入れて持っていたが、足に火傷していた』・・との事であったが、兄の私が更に聞き出そうとしても、多くを語ろうとしなかった。(火傷防止用にバケツに水だったのか・・・?)




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