昭和2054日の朝、三津浜の丸善精油所を爆撃したB29が松山市上空を4機編隊で西から東へと通過しました。
 丸善精油所は南風を受けて、黒煙を上げながら燃え続け、一昼夜燃え続けていました。

 当時、清水国民学校(小学校)2年生だった私は、空襲警報の中、全校生徒は防空壕へ退避の後、集団下校したのですが、走りながら帰る途中で、そのB29が上空を通過したのでした。
 「今、投下されたらおしまいだ・・」と恐怖を感じながら帰宅したのです。
翌日の「愛媛新聞」記事は「西南から進入したB29は815分頃、軍事施設を盲爆し、今治付近を経て東方へ逓走した」だけで被害の内容は無報道だったのです。

【その日の状況】→頭上のB29・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9477431.html


 全国の主要都市が爆撃に晒される最中でしたので、その翌日から松山市では、『危険の為小学1~2年生は無期休学』となったのです。
母の実家の内子町では「休学はしていない」とのことでしたので、5月中旬に私と弟だけ内子へ疎開転校したのです。
(6月になってから、松山では『1~2年生は町内の天理教会で、補修授業が始まった・・・』との連絡を受けたのでしたが、内子に馴染んできたので、しばらく様子見しようと内子町に留まったのです)

 
内子で・・その2ヶ月後の726日・・

夜中に祖母タキノにたたき起こされた。 12時頃か・・・1時頃か・・・
 「早よう起きて! おおごとじゃぁ! 松山が空襲で、燃えとるぜ!」と言っている。

 二階表の部屋だ・・「こりゃ、大変じゃ!」
 寝ぼけまなこで、とっさに跳び起き、寝巻のままで下駄をひっかけて外へ駆け出した。
 近所の人らが、郷の谷橋(ごんたにばし)のところで10人ほど集まって、北の方向を見上げている。
 行って見ると、新天神さんの奥の空が、真っ赤に染まっている。


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           郷の谷橋から、空爆で燃える松山の空が見えた・・・


 深々と更けた田舎の夜のこと、静寂の中に遠雷のような音がかすかに聞こえ、赤く染まった空が時間とともに、明るくなったり暗くなったりしているのが解かる。
 遥か遠くをB29の通過する爆音も微かに聞こえている。
 これから爆撃に向かうものか、爆撃を終えたものかが気になる。

 「あの下で、末の弟・孝芳、浦子(祖母)、ヒサヨ(曾祖母)らが逃げまどうているのか・・・」という気持ちが、真っ先に頭をよぎるが「こんな遠くで・・・こんなトコで、寝巻き着てボーッと立っていてエエのか?」と自問しながらも、どうすることも出来なかった。

恐らく、主な荷物(行李4個)を避難させていた山越地区へ、必死で逃避行の途中でしょう・・・無事逃げていてほしい・・・と願っていたのです。

燃焼物の少ないコース、城北練兵場~千秋寺~松田池~山越への逃避行が眼に浮かぶ。
 無意識のままに手を合わせ、頭を垂れて無事を祈っていた。
 両手を合わせたまま、赤い空がある程度収まるまで見ていた。
 松山には「焼夷弾」(しょういだん=空中で爆発すると、飛散したゼリー状燃料が火の雨となって降ってくる)が降り注いだということを、翌日になってから知った。

約半月後に「3人とも無事に、山越公民館に避難している」との連絡が届いたのです・・・が一面の焼け野原の松山のこと、食糧調達も医療体勢もままならず、ひい祖母ちゃんは12月に他界し、祖母浦子(53才)も1月に相次いで他界したのです。

2回の葬儀に参加した内子の祖父ちゃんは、この時「松山は、とてもとても子供等を連れて行ける所じゃないわい・・・ひどい、ひどいありさまじゃ」と話してくれました。

 ごく最近、当時の記憶を、弟・孝芳曰く(当時4歳)・・・『空襲の時か、逃げる途中に、あぜ道の水路に落ちてズブ濡れになった。 (火災、火傷よけに、浦子が水に漬けたのかも?とも思える)
その時、浦子はバケツに魚を入れて持っていたが、足に火傷していた』・・との事であったが、兄の私が更に聞き出そうとしても、多くを語ろうとしなかった。(火傷防止用にバケツに水だったのか・・・?)

 
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          空襲43日目の空撮、焼けただれた松山市街・・・
(杉谷町から、北へ3本目の琢町の西端突き当たりに桝形(折れ曲がり)が、くっきり見える)


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  ↑1947年頃の空撮、復興が始まった頃の松山。 城北練兵場の格納庫4棟跡も見える。


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                        これが至近の・・・松山市



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