日露戦役・・【日本海海戦】・・絵葉書⑦

バルチック艦隊の来襲が、当初予想していた1月よりも大幅に遅れたため、日本側には時間的な余裕ができた。バルチック艦隊が対馬海峡を通過するとみた連合艦隊は朝鮮半島の鎮海湾に集結し、訓練に明け暮れた。
1905年5月27日午前4時45分、五島列島沖で警戒にあたっていた連合艦隊の特務艦信濃丸は大艦隊を発見し、「敵艦らしき煤煙見ゆ」と無電を発信した。
予想通りバルチック艦隊が対馬海峡に向かっていることを確認した連合艦隊は、5時5分、朝鮮半島鎮海湾を出撃した。大本営に対しては、「敵艦見ゆ との警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との電文が打電された。日本海海戦の幕はここに切って落とされた。
午前10時、旧式艦からなる第3戦隊と第4駆逐隊がバルチック艦隊と接触し、砲戦が行われた。正午、第4駆逐隊がバルチック艦隊の前を横切ると、機雷を散布されたと思ったロジェストウェンスキーは隊形を変換した。しかし、経験が不足しているバルチック艦隊は混乱し、不利な2列の隊形と なってしまった。そこへ、戦艦4・装甲巡洋艦8を主力とする連合艦隊があらわれたのだった。
午後1時39分のことであった。


↑ 聨合艦隊の雄姿

↑ 日本海海戦の実景
『皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ!』
1時55分、連合艦隊旗艦三笠に、Z旗がひるがえった。「皇国の興廃この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」との信号旗である。
両軍はすれ違うような形で接近していた。午後2時5分、距離が8000mになった時点で、東郷司令官は突如取り舵(左折)一杯を命じた。のちに東郷ターンとして知られる「敵前大回頭」である。
これはきわめて危険な賭けであった。ターンの最中は砲撃が行えないため、一方的に撃ち込まれる恐れがあった。
しかし、これはバルチック艦隊と並進する形に持ち込み、できるだけ長い間戦闘を続けるための動きだったのである。


↑ 旗艦、三笠艦上の東郷元帥

↑ 日本海大海戦・・・艦砲射撃

↑ 日本海大海戦・・明治38年5月27日 午後2時過ぎ・・

↑ 日本海大海戦・・敵艦撃沈の実況

↑ 日本海大海戦・・明治38年5月27日 午後3時過ぎ、敵艦スワロフ沈没の光景


↑蔚山沖海戦 第2週記念・・・明治37年8月14日

↑ 日本海海戦の実景


東郷元帥の余香を留める軍装と長官の近辺を犯せし弾片並びに自筆の箱書き・・↑

↑ 日本海大海戦実景

↑手前より 「香取」「出雲」「盤手」「常盤」「浅間」の戦艦、巡洋艦

↑ 旅順陥落時の連合艦隊首脳部・・
13分後、回頭を完了した連合艦隊は一斉砲撃を開始した。バルチック艦隊の先頭を走っていた戦艦スワロフとオスラビアはたちまち火炎に包まれ、戦線から離脱した。
猛訓練を積んだ日本軍の砲撃の発射速度と命中率はロシア軍の3倍にのぼっており、晴天で見晴らしがよかったこともあって次々に命中弾を得た。砲弾には燃焼力が高い下瀬火薬が用いられており、ロシア艦の上部を焼きつくした。
夜になると日本側は駆逐艦と水雷艇による襲撃を行った。その結果、バルチック艦隊はさらに戦艦2隻を失い、バラバラになってしまった。
翌日、日本軍は追撃戦を行った。重傷を負い、駆逐艦に移っていたロジェストウェンスキーはこの時捕虜となった。比較的損害の少なかったネボガトフ支隊(戦艦2・海防戦艦2など)も包囲され、降伏した。
ここに、バルチック艦隊は文字通り全滅した。
ウラジヴォストークまでたどり着いたのは巡洋艦1隻、駆逐艦2隻だけだった。日本の損害は水雷艇3隻のみであり、世界史上に残る完全勝利であった。

↑ フランスで発行の・・・「日露戦争図」
次回は・・(海戦に参加した艦艇の雄姿)を予定
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