日露戦役・・203高地攻略直後の・・将校団記念写真・・(203山上にて)④

↑ 歩兵第25連隊将校団・・・203高地占領記念
【写真解説文】
我が連隊の、大連に上陸せるは、明治37年11月20日。
203高地、東北角の占領せるは、同年12月5日。
北関、松樹山を白襷隊、赤城山攻撃、
203高地の累次戦争で、失える将兵千六百、故山の出でし三千。
認誅強句、日餘にして其客を失う・・・(←判読不詳の為、意味不明はご容赦・・)
噫(あぁ)!!今日、風霞む山領にて記念撮影する、将校の胸中や如何に。


↑ 老君庸付近北軍逆襲前の光景、警備行軍 (第1大隊、第1第3中隊)

↑ 明治38年1月1日占領したる旅順、望台

↑ 旅順、望台の、最後まで我が軍を悩ませた露軍の遺砲

↑ 重砲兵第3連隊・・24cm加農砲・・・203山上より旅順港湾の艦艇を狙った

↑ 旅順、沈没した砲艦ポピエダ号、並びに我が軍が壮烈を極めたる閉塞船(遥か前方のマスト等)
● 旅順港口・閉塞作戦・・・広瀬中佐

↑ 空前の壮挙をとげし、旅順口の閉塞船沈没の光景 (向かって右が広瀬中佐の報国丸、米山丸と露砲艦)
我が軍は、旅順港入り口の狭小部(旅順口)を閉塞して、湾内のロシア艦隊の外海活動を阻止すべく旅順口の第一次閉塞作戦を明治37年(1904)2月24日に実施した。 (上写真の報国丸はその時のもの)
第二次閉塞作戦は、3月27日未明に決行された。4隻の閉塞船を投入して実行されたが、またもやロシア軍に察知されて失敗した。この作戦においては、閉塞船「福井丸」を広瀬少佐が指揮した。
広瀬武夫少佐(後に中佐に昇格)は港口に到着、「福井丸」自沈用の爆発点火に船倉に降りた杉野孫七上等兵曹が帰らず、他の乗員をカッターに移らせ、「杉野、杉野」と杉野上等兵槽を三度に渉り船内に捜したが発見できず、カッターに移乗して離船した瞬間に敵弾が命中、数片の肉片を残して戦死。
広瀬武夫少佐(後に中佐に昇格)は港口に到着、「福井丸」自沈用の爆発点火に船倉に降りた杉野孫七上等兵曹が帰らず、他の乗員をカッターに移らせ、「杉野、杉野」と杉野上等兵槽を三度に渉り船内に捜したが発見できず、カッターに移乗して離船した瞬間に敵弾が命中、数片の肉片を残して戦死。
その部下を思っての死は「軍神」として伝説化され、国民的英雄となった。
広瀬中佐は数片の肉片を残して戦死と発表されたが・・・

後日、福井丸の船首付近に浮かんでいた日本の海軍士官の遺体が、ロシア軍によって発見され、広瀬中佐と確認、栄誉礼をもって丁重な葬儀を行い、陸上の墓地に埋葬されたことが確認されました。
(コメントより小嶋日向守さんからのアドバイスにより補足)


↑ 軍神 広瀬中佐と悲愴なる最後の書簡
軍艦・浅間にて・・・八代大佐殿
指揮福井丸 再赴旅順口閉塞
七生報国 一死心堅 再期成効 含笑上船 武夫
天佑を確信し、再々旅順口閉塞の途に上り申し候。
先回御恵贈の貴影は、亡父の写真と共に収めて「ポケット」にあり、
形影相伴なっての御意に添って一層の成功を期し申し候也。 再拝。
明治三十七年三月十九日 六郎盟兄 広瀬 武夫

広瀬中佐遺墨と血染めの海図

七生報国・・・日露戦役の際、広瀬中佐らの決死隊が、旅順港口の閉塞を試みた時の様子。 松岡 寿 筆

旅順口、閉塞作戦の状況 奥瀬 英三 筆
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