第76話 井上のおっちゃんと『火縄銃』 (内子)昭和25年頃

曾祖母のマツの弟になる「井上のおっちゃん」が近所に住んでいて、子も無く独り身のようだった。
つまり忠兵衛祖父ちゃんの叔父さんにあたる人だ。
第61話(http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9866697.html)の後半に「マツ」さんの話が出てきます。(参考)
 マツの実家だろうが、井上の家は内子町本町一丁目の福岡米穀店の裏辺りになるが、小さな2階建てで、その裏手は中町の久保製材所(久保茂十郎)の広大な敷地の、従業員休憩所付近に接していた。
 
 井上のおっちゃんの名は、井上 定(さだむ)だったと思うが、マツが元気だった終戦直後頃は青っぽい絣の着物を着て、時々、姉のマツを訪ねて森並の家へ出入りしていて、僕らにも時々「遊びに来いや」と声をかけてくれたので、久保製材の材木置場を通って、二、三回遊びに行った記憶は残っている。
 その時に、子供には持てそうに無い「ずっしりと重い火縄銃」を見せてもらった。
 「江戸時代の鉄砲で、井上に残っとったもんじゃ。 内の子騒動の時、使うたかどうか判らんが、用意しとったらしいのじゃがの・・・」と言うような説明をしてくれたと思う。

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 砲筒は直径5cm程あり、八角形で「雷筒」か「雷砲」の文字が入っていたと思う。
 銃口の穴は確か直径1.5cm弱で「大きな銃弾じゃな~」というような気がした。

 当時、マツが95歳であったから、井上 定さんは90歳前であったようだ。
 祖父ちゃんの妹、惣川村(野村町の奥)へ嫁いだ「脇田ひで」さんが身元引受人をしていたようで、ひでさんの息子の一人、晶さんが井上姓を継いでいた。

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 大洲町、内子町周辺、当時の無数の市町村名・・・

 ひでさんがマツを尋ねて里帰りした時に、息子二人を交代で連れて来たりしていた。
 弟は小学校の教員をしているようで、そんな時、私ら兄弟の相手もよくしてくれていた。
 マツとひでの話の中に「さだむさん」の名がよく出てきたので、「井上のおっちゃんの名じゃ」と僕は感じていたと思う。
祖母ちゃんのタキノが時々「井上のおっさんとこは、小金を貯め込んどいでるけん、床の下に銀貨の入った壷を、二つほど埋めといでるそうじゃ・・」と話していた。

 井上のおっちゃん所有の「松林の山林」が、植松の山頂の奥に、広さ2,000平米くらい在った。
 祖父ちゃんが時々「井上の山の下刈りをするけん、薪物(たきもの)を持って帰ってくれ」と僕らを誘って、頻繁にそこへ「負いこ」を背負わせ連れて行っていた。
 
 一人幅の植松の山へ登る細い山道を山頂まで登り、右へ稜線に沿って幅1.5mの、柳沢方面菖蒲に抜ける道を1kmほど行くと、やや登り坂で、緩やかな左折カーブの場所から右折急カーブの場所まで、雲母岩むき出しの山道に面して右側がその場所であった。
 山道周辺は赤松林で、日差しの入るところには春蘭が咲いていたり、節句の時期には「巻きバッポ(柏餅)」用のサンキラの葉を取りに行ったり、秋には鼻で嗅ぎまわり乍ら松茸を探したこともある。

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「巻きバッポ(柏餅)」用のサンキラの葉

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 森並の母屋の1階の天井板を張り替えた時は、その井上の松林から、祖父ちゃんが松材を間引きして、それに楔を打ち、ロープを引っ掛けて、祖父ちゃんと俊光と3人で、各々1本づつを引いて帰り、矢野製材で板材にしてもらう・・・これを何度も繰り返した。
 その頃、西側の大壁の補修もしたので、郷の谷川上流、古天神下辺りで、水色の粘土を掘り、バケツで何度も運んだこともある。
この粘土を、左官屋さんが漆喰に混ぜて、外壁の上塗りをしていったのでした。

 小学校6年生か中1の頃だったか、その井上のおっちゃんが亡くなった。
 学校から帰ると祖母ちゃんが「今日は井上のおっさんのお弔いじゃけん、今から(およばれ)に行っといで・・・祖父ちゃんも行っといでるけん・・・」ということで、そそくさと出向いていった。
 二階へ上がってみると、井上晶さんと祖父ちゃんの兄弟姉妹中心の「葬送の宴」の最中で、末席の木本 薫さん(祖父ちゃんの妹)の横へ坐ると、茶碗が足りなかったのか「祖父ちゃんの、食べ残しの茶碗に、ついだけんな」と、ちらし寿司が出てきて、それをおいしく戴いた。
 喉が渇いていたが、宴が終わりに近かったせいか、二階のため湯の補給が出来ないからか、お茶が出なかった。

 弔いの宴はほど良く終わり、僕がほしいと狙っていた「火縄銃」を、きょろきょろと探してみたが、火縄銃は何処にも見当たらない。
 若し有れば、祖父ちゃんに頼んで「晶さんに一言、無理を言って貰おうか・・」と考えていたのだが・・・その現物が無いぞ。
 「無ければ・・しゃぁないか・・」と半分諦めて、階段を降り、下駄を履いて帰ろうとしたところ、壁際の割木(薪)置き場に、火縄銃の木製部分「銃座」が、1mほど積まれた割木に紛れて無造作に積まれていた。
 割木(薪)より長いのと、銃尻の細工で一目瞭然でした。
 「銃尻だけあった! 割木と一緒に燃料にされては大変じゃ~」と床の下辺りに、「筒先」は無いか探してみたが無かったので、その「銃座」だけを貰って持ち帰った。

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それから一、二年後、隣の森並 登さん(祖父ちゃんの弟)宅の二階へ将棋を指しに行っていたところ、二階の押入れに、見覚えのあるあの「火縄銃の砲身」が転がっているのを発見したのです。
 「ああぁ、あの時の火縄銃の砲身がここにある・・・あの時、登さんが貰って帰っていたんじゃ~」と納得した瞬間でした。
 間違いなく、見覚えの有るあの砲筒でした。

 あの「火縄銃の銃座」だけは今、私の手元にあります・・・それがこの写真です。

 祖父ちゃん宅が改築のとき「粗末には出来ない、大切な物じゃ・・・」と、この「銃尻」と、祖父ちゃんの父親、森並龍三が使用していた裃(かみしも)の端切れ、龍三自筆の銘の入った餅を収納する「もろぶた」と「江戸期古書・・数冊」を、持ち帰っておいたものだ。
 ところが家紋を見ると「まんじ」紋、徳島 蜂須賀家の家紋ではないか・・・
 「蜂須賀家から拝受した裃と袴」として大切に保管していたものと思われるのです。

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     素性の証明として、流浪の時から、大事に持ってきた物でしょう・・・
 ・・・森並 龍三の裃と袴

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            明治時代に写し、一枚残された森並龍三の像

●IMG昭和18年森並マツ他
          森並家親戚関連一同   (昭和18年)


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      ↑ 森並龍三銘の入った「餅を収納する、もろぶた」

        年末、年始の家族の労務が、染み付いている道具です。


 6年生頃に聞いた、祖父ちゃんからの話によると・・・  

「父親、森並 龍三は、阿波藩の家臣で、明治維新による家禄奉還、秩禄処理などの影響を受け、流浪の末に内子へたどり着いてのぅ、内子でマツをめとり煙草屋(刻み煙草)を営んだのじゃ・・・。祖父ちゃんが子供の頃聞いた話では、内子の町なかは高橋家、芳我家、曽根家、宇都宮家(庄屋)、浅野家、マツの実家の井上家など12軒しかなかったそうじゃ。今も残る高橋龍太郎さんとこは、ああ見えても120年(当時)経っとる家ぞ。八日市、中町、郷の谷、駄場、廿日市を通る道が街道筋じゃった。そこで忠兵衛、利兵衛、ひで、登、薫、喜兵衛の6人の子を育てたのじゃ~。発句(俳句)を詠むのが好きで、裏の家の屏風の下張りの発句は、全部龍三さんの作品じゃぁ」と言っていたことがあります。

 その頃、屏風の破れた穴から、下張りがあちこち、むき出しになっていたのです。 

  当時、読める筈も無い、筆書き草書の俳句がびっしり書き込まれておりました。

 
  如何に大事な「銃尻」であっても、銃尻だけでは何の役にもなりません。
 勿論「火縄銃」は砲身と銃座とが一体でなければ、史実の資料にもなりません。
 熟慮の末・・・砲身と銃座共が一体として保管されるべき物なので、この度、登さん宅の「砲身」の許へ、事情をお話した上で「銃座」を嫁に出す決意を致した次第です。
 本日付で、宅配、発送手配いたしました。

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発送先・森並 登さんの孫・隆幸さんから、後日、お礼状と写真が届きました。
 写真には、送付した「銃座」にあの「砲筒」が据えられております。【棒筒火縄銃】ですね。
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 砲筒は少々磨かれておりますが、これが本来の姿なのです。
 私が60数年前に、井上のおっちゃんとこで見た、ずっしりと重い鉄砲そのものの姿です。




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