海軍徴用船「護国丸」(10,439総トン)は、 昭和19年(1944)9月16日海南島を出帆、他の輸送船2隻と共に門司に帰る途中の20日、馬公付近で中国内陸基地発進の米機B-25の空襲を受け、4番艙左舷と左舷プロペラを損傷、右舷機のみの11ノットで高雄、基隆に寄港、基隆で仮修理の後、駆逐艦「響」に伴われて11月7日出航して11ノットで北上しました。

 そのうち「響」に赤痢患者が多数発生して護衛任務が遂行不能となり、佐世保に先航したため護国丸のみの航海となり、古志岐島灯台沖を航行中の11月10日3時40分、魚雷2本が機関室と2~3番艙に命中、大音響で炸裂しました。
本船は忽ち30度左傾、発電機、無線機が破壊されて船内は暗黒、遭難信号も打てない状態になりました。

立ち往生する護国丸の孤影を見て、大胆になった米潜水艦「ハーブ」が、3時55分、突然、右舷前方に司令塔を現しました。
船砲隊が傾いたデッキから射撃に移ると、潜水艦は直ちに姿を消したが、数分後、深手を負った船に真横から狙いを定めた魚雷1本が4番艙に打ち込まれました。

輸送指揮官・水野孝吉大佐は全員に「天皇陛下万歳」を奉唱させて退船を命じ、
乗組員は舷側より暗夜の海中へ飛び込んだ。
 4時06分、護国丸は船首を直立させて暁闇の東シナ海(北緯33度31分、東経129度19分)に海没しました。
輸送指揮官以下の兵
員47名、台湾からの特別志願兵など217名、及び乗組員60名が戦死しました。
 
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魚雷攻撃を受け水柱をあげる「護国丸」
 
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 前後部に銃座が増設されている。               迷彩色を施された護国丸の遠望。
 
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  在りし日の護国丸