天上に38センチ砲弾を頂いた、内子町竜王城址にあった忠魂碑。

 高さ10数メートル、鈴木荘六陸軍大将の揮毫による「忠魂」の文字の入った石盤が埋め込まれておりました。
昭和10年3月に「日露戦役三十周年」を記念して、周辺町村で建立されたものです。

忠魂碑の立つ丘は、内子町内から近くに見える丘に在り、忠魂碑の白い塔も町内から容易に眺められておりましたが、登山口が町外れの斎場周辺を通る道だったので、参詣者も限られておりました。

私が小学上級生の頃、内子小学校から引率されて「忠魂碑」周辺の清掃をするため、数回参詣したことがありました。
町内から遠目に見えていた、白い忠魂碑を初めて間近に見て、私はその雄大さに圧倒されたのでした。


  初めて見る大砲の砲弾が天を仰いでいるのです。
 人々が崇め奉ったこのような記念碑は、いくら時代が変わろうとも、永遠に残されるものと思っていました。
 
 江戸末期から明治初期にかけての、白壁の町並みを残す内子町が、国の「伝統的建造物群保存地区」に選定されたのが、昭和57年(1982)でした。

 内子町内ではそれまでに、古い由緒ある建造物が次々と解体されていました。
 五要旅館、平常旅館、二宮病院、乾繭倉庫などでしょうか。(一部写真掲載)
泰平旅館(3階建)も内子小学校も昭和40年頃まで残されていたでしょう。
 「忠魂碑」が改築されたのが昭和47年(1972)だったそうですから、10年早かったのですね。
 それと「大砲の砲弾が、天上に崇められている」と云うのも、問題にする人が一部有ったのかも知れません。

 町民が「古い建造物の歴史的重要性」に目覚める10年前のことだったのですね。

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      昭和47年(1952)まで竜王城址に残っていた内子の「忠魂碑」


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 正に、この姿が昭和47年まで残っていた内子の「忠魂碑」です。


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       「忠魂碑」の正面に掲げられていた碑銘石盤」
        陸軍大将 鈴木荘六の揮毫です。
 
 ②の記述にあるように、今年(平成22年)10月に同窓会が有ったものですから、参加の傍ら、調査して参りました。
白い「忠魂碑」の碑銘が、新しい「慰霊塔」の横にひっそりと残されていました。


寸法を記入しておりますが、それはそれは巨大な石盤です。
○印が私の帽子です。

横100cm、高さ250cmの石盤に、鈴木荘六 陸軍大将書の「忠魂」の文字と、帝国陸海軍の章が彫り込まれております。

  碑銘は「白御影石」、額石は「赤御影石」ですが、額石の上部以外は解体時に粉砕破棄されたものと思われます。
「忠魂」の文字も、解体時に荒っぽく扱われたものと思われます。
「忠」の字の中の部分、「魂」の字の田の部分、「鈴木」の木の部分が欠損しておりました。
 丁寧に、丁寧に取り外されたものならば、ここまでの破損はなかったであろうと思えます。
 破壊してみて瓦礫の中から、かき集めたように見えてきました。

 でも「38センチ砲弾」こそ残っておりませんが、この「忠魂」の碑銘だけでも残されたことは、有り難いと思わなければならないと感じております。
 多くの先人たちや、町民の親族が祈り・・・念じた「碑銘」なのです。

 白い「
忠魂碑」の塔は②で前述した通り、「内子の小僧さん」の調査によりましたら、昭和47年12月に立て直されたようです。

 内子町に在住の母の妹(叔母)登志姉ちゃんに問うてみると・・・
 「忠魂碑の扉の中に、ウチの勇雄さんや貴方らのお父さんの写真も全員祀ってあるよ。
 雨が染み込んで濡れとるそうじゃから、だいぶ前に造り直したのよ・・毎年、遺族は周辺の草引きや掃除に行っとるけんな」とのことでした。


 あれだけ頑丈なコンクリート造りの、永久に奉られるべき建造物・・・
 鉄扉で密閉された英霊写真・名簿収納室は、雨漏れではなく・・・ただの「結露」ではなかったのでしょうか?

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グーグルの航空写真で前回判断した内容では、在るべき所に「白い忠魂碑」が建っていると見たのですが、今回の10月の確認作業では、そこにあったのは下の写真の「休憩棟」でした。
 正に、この石垣の上に「白い忠魂碑」が建っていたのです。

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         昭和47年に建立された現在の「慰霊塔」


これも忠魂碑と同様、コンクリート造りの建造物、鉄扉で密閉ですので、中は「結露」による雨漏れ状態だろうと思います。
素人目にも、水浸しは見え見えです。
この塔の右後方に「忠魂」の石盤がひっそりと残されております。


●この「慰霊塔」内部の「英霊写真」サイトが有ります・・・
まっしゃんブログの「谷間の村」です。
http://blogs.yahoo.co.jp/stockcrusaders/archive/2012/03/26


「まっしゃん」(大瀬本町の島崎さん)は2012年9月、八幡浜港に於いて不慮の事故に遭われ、亡くなられました。心からご冥福をお祈り申し上げます
you tube・・・忠魂碑内部の様子です。 ↓ 

最終画像に・・私の父と叔父の写真も写っていました・・)
        戦場に散った英霊に捧ぐ(2)↓


戦場に散った英霊に捧ぐ(1)↓


↓ 在りし日の五要旅館
イメージ 5江戸末期から明治初期にかけての、白壁の町並みを残す内子町が、国の「伝統的建造物群保存地区」に選定されたのが、昭和57年(1982)でした。
 
内子町内ではそれまでに、古い由緒ある建造物が次々と解体されていました。
 
五要旅館、泰平旅館、平常旅館、二宮病院、内子小学校、乾繭倉庫などでしょうか。
「忠魂碑」が改築されたのが昭和47年(1972)だったそうですから、10年早かったのですね。
 町民が「古い建造物の歴史的重要性」に目覚める10年前のことだったのですね。
↓ 在りし日の平常(ひらつね)旅館(3階建て) 
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  ↓内子7区にあった二宮病院
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「内子にあった忠魂碑は今・・②」で写真等の取材に、快くご協力戴いた「内子の小僧さん」(村前在住?)に心よりお礼申し上げる次第です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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