【第71話の① 女学生も学徒勤労動員された・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/12656121.htmlにも有るように・・

昭和202月に勤労動員先の尼崎から、卒業式を控え郷里の松山への帰還が発表され、武子さん達は大喜びしたものの、どうもぬか喜びだったようです。

 連日の大空襲の中、大勢の女学生の移動は海路、陸路共に不可能・・・という結論が出され、松山への帰郷と卒業式は延期されたのだろうと思われます。

 結局終戦の日、20年8月15日まで、勤労動員先に滞在せざるを得なかったのです。


2月に帰郷できると大喜びしたものの、下記のように6月になってからも、空襲下の尼崎市で働いていたのでした。

 一方でその2年前、昭和18年4月に、武子さんの妹宣子さんも、東雲女学校へ入学して、昭和20年になると松山市の近隣、松前町の軍需工場

 【松‐9403工場】へ勤労動員として徴用されていました。


 

 昭和20年6月10日、宣子さんは勤労動員先から休暇を貰い、家族で姉【武子さん】の勤労動員先の尼崎まで、面会に行ってきた報告の葉書です。 

   2月14日に帰郷する予定で、楽しみにしている旨のはがきが届いていましたが、頻繁な空襲のため実行されず、延期されたのです。

 そこで松山よりも強烈な空襲に晒されていた阪神間で、勤労奉仕する長女の武子さんのことを心配して、伯父、伯母は宣子さんら家族を連れて松山から尼崎へ、面会に赴いたのでしょう。

 
  その報告のはがきが、宣子さんより届いていました。

  喜多郡 内子町  森並 登志子様

  前略、可憐な浅緑の木の梢を見ていますと、何とも言えない心地がしますわね。
  永らくご無沙汰いたしましたが、其の後お変わりなく、戦の増強にお励みの事と思います。
  私も大元気で、増産増産増産に、日々いそしんで居りますから、他事ながらご休心下さいね。

  昨日はおひまを戴きまして、なつかしき尼崎の姉(武子)に会って来ましたの。
  姉はよく肥えていましたよ。
  その日は、一家皆揃って嬉しく楽しい一日を送りました。

  では、食事に行く時間が来ましたからこれにて・・・
  蔭ながら御武運をお祈り致しております。  草々

  昭和20年6月10日  
  愛媛県伊予郡松前町 松-9403工場 女子寄宿学徒隊 森岡 宣子

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     昭和20617、武子さんから、15日に勤労動員先の尼崎に大空襲があったと報告が届いています。・・・(私らが疎開のため、松山から内子へ移動した頃のことと思います)


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・・怯えた事を書いていないか?【検閲印】が目を光らせています・・


  愛媛県 喜多郡 内子町   森並 登志子様

  登志ちゃん、長らくご無沙汰致しましたが、その後お変わり御座いませんかお伺い致します。

  15日には尼崎地の方は大空襲があり、寮には被害を受けましたが、命は助かりました。
  荷物を多少は出しましたけれども、体が有りますから不幸中の幸いだと喜んでおります。

  では、今日はこれまで。皆々様にお四六四九・・・かしこ。

  昭和20年6月17日 兵庫県尼崎市潮江 青々寮15室   森岡 武子


記録を調べますと6月15日は
大阪市から尼崎市にかけて、午前中にB29による焼夷弾爆撃が行われています。


国鉄尼崎駅周辺から阪神尼崎駅南方にかけて、一面の被害を受けております。

恐らく武子さんは、7月26日の松山大空襲のことも口伝えで知り、
尼崎市で終戦を迎えたのです。


母の実家の筋向い、田中表具店の長女、田中スマ子さんは当時、
内子女学校生でしたが、同様に勤労動員先から登志姉ちゃん宛のはがきも残っておりました。

(スマちゃん・・参照)→http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8708656.html
 
 
 
 喜多郡  内子町  森並トシ子様

  トシちゃん、その後お元気で勤めて居られる事と思います。
  私も元気で米英撃滅の為に、働いて居りますから安心して下さい。
  叔母さん、叔父さん、元気でいらっしゃいますか。
  宜しく言って下さい。
  では、お身大切に、さようなら。
 
   昭和20年5月22日
       八幡浜市 松ー第9405工場 
            秋輝寮内1中隊   田中 スマ子
 

[松ー第9405工場] 八幡浜酒六工場、内子高等女学校の勤労動員生。
  おそらく、この中に田中スマちゃんが居るのです・・・←印かと思う



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      昭和20年7月26日松山大空襲直後の大街道周辺



  戦後、松山が復興し始めた頃、昭和25年に内子小学校の修学旅行12日で、私は待望の松山へ参りました。 

 旅行の費用一人当り120円、米3合持参、お小遣い一人当り40円マデ持参だったと思います。

 その時の松山の印象は、松山駅前のだだっ広い閑散とした広場と、周辺に掘立て小屋の細々とした商店が並んだ中、進駐軍のジープが軽快に走り廻っていました。

 観光バスが有る筈もなく、移動は全てチンチン電車と徒歩だけでした。

 戦前は鬱蒼と繁っていた城山の森は、焼夷弾の影響でしょう・・・あちこち禿山のあるスケスケの城山になっていました。

 県庁の丸屋根は銅版を張り直したばかりで、オレンジ色に輝いていました。


 東雲神社から城山頂上まで徒歩で登る途中「昔、兵隊ゴッコして遊んだ場所や僕らの縄張りは、この辺までだったナァ・・・ココから上はまだ知らない・・・」と考えながら、東雲神社裏手の登山道を歩いた記憶があります。

 市内と道後温泉の中間にあった、松山測候所と農事試験場を見学した時「この辺にドイツ人のチッテちゃんの家があった筈じゃが?」とキョロキョロ探した憶えもあります。


 松山駅から帰りの下り列車に乗ったときには、八幡浜、宇和島方面へ帰るシベリア抑留から帰国した軍服姿の軍人さんが大挙して乗っていて、その席へ割り込むように押し込まれました。
 席にスペースを作り坐らせたり、膝に乗せたりしていましたが、多くは久しぶりの故郷の風景に感慨深く見入っていましたね。

 軍人さんは乾パンを配給されていたようで「皆、元気に育っとるのう・・・乾パンでも喰わんか?」と2ヶづつ配ってくれたりしていました。

 中学生に成ってからは、毎年夏休みに弟の俊光と、大街道の森岡光月堂へ遊びに行くようになりました。

 伯父、伯母、武子さん、宣子さん、京子さん、和子さん、明子さん、長男の功さん(私と同い年)と店の職人さん3名程の大所帯なのです。

 祖母ちゃんの負担を少しでも軽くしてあげようとの、文子伯母さんの配慮があったのだろうと思っておりました。

 毎年8月が来ると、1週間ほど滞在して、海水浴に梅津寺へ行ったり、大街道周辺を功ちゃんらとうろついたりした思い出があります。


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昭和初期の松山市街↑ 堀の内の第22連隊兵舎も遠望できる。


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           松山の繁華街、大街道風景

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             繁華なる大街道

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              松山市大街道

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            大正期の松山、大街道風情