母の弟・森並勇雄さん宛のはがきが残っていました。
戦地から遺骨と共に実家へ届けられたものと思われます。
勇雄さんが出征したのは、下のはがきから判断すると、真珠湾攻撃寸前の昭和16年11月ですね。
二十歳の成人・・・即、赤紙が来て、徴用出征です。
九州小倉の連隊で訓練を受けて、昭和17年4月にフィリピン・ルソン島の最前線へ赴いたのでしょう。
昭和18年の戦死と思っていましたが、昭和17年5月8日に戦死しているのでした。
召集され、故郷から出征して、小倉で訓練を受け・・・半年後に戦死していたのです・・・
まさか!・・・1年間違ってないか?? と我が目を疑いましたが、下記の戦友から届いた便りを見ても歴然としています。
(参考)
第69話の②●成人すると・・すぐさま②

母の弟・・森並勇雄さん(21歳で戦死)
小嶋日向守さんのご協力でカラー化して戴きました・・


上海戦跡 呉松クリーク白川橋付近

(友人の出征先から届いた葉書です)
福岡県小倉市 西部第66部隊富里隊 森並 勇雄君
元気でやっていると思う。
俺も愈々元気旺盛、大自信なる軍務を一意勉励致しおるゆえ、安心してくれ。
今は何も顧みる事はない。
只、厳命を互いに奮勉いたそう。
内地の原隊で、一層気合入れてやり、俺の体は戦地で奮進している。君もなれ。
大陸へ来る日もあるだろう。 ご健闘を祈る。 不一
(昭和16年)12月14日
中支派遣 矛第7970部隊 武藤隊 金茂 哲夫

残敵粛清・・・鶴田吾郎筆

(大洲在住の、勇雄の叔母から届いた激励の葉書)
小倉市 西部第66部隊富里隊
森並 勇雄様
初霜のさやかに見えて、秋いよいよ深くなって参りました。
勇雄さんには、過日お元気で御入隊のよし承り、お喜び申しあげます。
栄えある一員となられ、之に増す光栄は之なく、益々お元気でご精励の程お祈り致します。
私方一同も元気に過ごしておりま故、御安心下さいませ。
風邪など引かぬよう、御用心の程お祈りいたします。
秋の更けゆくままに、野山の景色も淋しく、加屋のもみじも赤みました。
昭和16年11月21日
愛媛県喜多郡大洲町 木本 薫 (忠兵衛の妹)
愛媛県喜多郡大洲町 木本 薫 (忠兵衛の妹)
菊池氏は、台湾の陸軍病院から郵便を出しているので、ルソン島で負傷して台湾で入院中の様子ですね。
祖父ちゃんが言っていた「勇雄のダビから、遺骨拾いまでやってくれた、伊予長浜近辺の出海村出身の戦友」と云うのは、この菊池徳馬さんだったのでしょう。
但し、この便りが「昭和18年8月」に出されており、勇雄さんは1年前に戦死したとすれば「昭和17年5月8日に戦死」だったのです・・・
母・芳子が4月20日に逝去して直ぐに、母の弟が戦死という訃報が祖父ちゃん、祖母ちゃんの許に届いた訳で、この両親にとって打ちのめされた思いだったのは確かだったでしょう。
祖父ちゃんにとって、国を責めるつもりは無いにしても、酒に紛れて忘れたい、つい愚痴を言ってみたいことも有ったのでしょう。
菊池氏の報告により、勇雄さんの最期を祖父ちゃんは聞いていました。
「マニラ北部での戦闘中、戦友の被弾負傷により、衛生兵の叔父は果敢にその応急処置の対処中に頭部に被弾して即死だったそうじゃ」とのことだった。
菊池氏の報告により、勇雄さんの最期を祖父ちゃんは聞いていました。
「マニラ北部での戦闘中、戦友の被弾負傷により、衛生兵の叔父は果敢にその応急処置の対処中に頭部に被弾して即死だったそうじゃ」とのことだった。
『死にに行かせた、ようなもんじゃ・・・』と酒に紛れて、膝を叩きながら愚痴っていたのは『まさか、半年で・・・ヤラレルとは?』の、期待していた我が子への想いがあったのです。


(勇雄さんの戦友から・・(勇雄の父親)忠兵衛への書状)
愛媛県喜多郡内子町 森並忠兵衛様
拝啓、毎日暑さ厳しく成りましたが、ご一家様にはその後、お変わりは御座いませんか。
長らくご無沙汰致しまして済みませんでした。
何卒お許し下さいませ。
前方は、度々のご親切なるお手紙を頂きまして、有難う御座いました。
森並君が御戦死致されました日より、1ケ年余りの月日は過ぎ去りました。
良き戦友を失い、何時までも忘れる事の出来ない5月8日は、病院の寝台にて懐かしく新しい思い出に、色々とふけりました。
暑さ厳しくなります故、ご一家様共にくれぐれも御身大切になさいませ。
昭和18年8月9日
台南陸軍病院 第5病棟 菊池 徳馬
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