20歳に成ると同時、昭和16年12月に徴兵されて行った勇雄さん(母の弟)は、5月にはフィリピンの最前線に派遣されていました。
5ケ月で、ニワカ訓練のニワカ兵士に仕上げられ、前線に連れて行かれたのでしょう。
如何に軍部があたふたと準備も無しに、その場しのぎの作戦をしていたかが、ミエミエなのです。
「真珠湾攻撃して、タッタ半年でコレか??・・・」と、東条内閣と軍部のお粗末さに呆れてしまいます。
日本軍の強さなんて、タダの自己満足・・タダの強がり・・でしか、なかったのか?・・・と考えさせられます。
勇雄さんが勤務していた愛媛県長浜町「岸本本店」の、取引先から戦地に送られた激励の葉書が物語っています。
これには、戦争が始まったばかりの、昭和17年では有りながら「売る商品が皆無で、遊んでいる・・・」という状況が書かれています。


【内容】比島(フィリピン)派遣軍 渡夏9852部隊 柳瀬隊本部 森並 勇雄 様
拝啓、貴君 益々御勇健の由 奉賀候。
其の後は、ご無音且つ失礼し居り候。
御手紙に依れば、比島へ御勇軍との事。
御地は内地の真夏の気候で、中々あついでショー。
此の上は、御身体大切、軍務にシタガイ、精々御上昇の程、お祈り申し上げます。
当地方、ご存知の通り、販売致す品物・・皆無にて、ただ遊び居り候。
小生もご当地へ参りたく思い居り候。
好時期ご奉公願い度候。延引きお礼まで・・・
昭和17年5月25日
伊予国 喜多郡 長浜港
砂糖、麦粉、麺類、荒物卸商 水沼梅夫商店
●昭和12年夏に、この森並勇雄さんが長浜から、その父の忠兵衛に宛てた暑中見舞いが残っています。
勇雄さんは、昭和12年は15歳ですから、この毛筆の達筆さに私は目を奪われ、残しておきました。


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