そして18年の夏にかけて、泰山の所属する【満州岩6418部隊】は牡丹江→釜山→佐伯(大分)→ラバウル(ニューブリテン島)へと物資を補給されながら、敵襲も受けず20日ほどかけて移動しております。(後記「満州➔ラバウルへ移動したルート」参照)
 ラバウルは、日本軍の最前線であったガダルカナル島(ソロモン諸島)のすぐ後方の最前線の基地ですから、日米決戦の補給戦力として、相当数の兵力を満州方面から集結させていったのでしょう。
 
 そのラバウルから、登志姉ちゃん(母の妹)に出した葉書が1枚だけ残っております。
これには日付が入っており、昭和18年10月16日となっております。

 勿論、このはがきだけでは「南方へ移動した・・」ことは判るが、果たして何処か?
は、判明しません。
 ただ、松山の祖母浦子が「ニューギニア」だと、私に教えてくれていたのです。

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【内容】 愛媛県喜多郡内子町 森並登志子様 昭和18年10月16日
 
拝啓、先日お便り有難うございました。
皆元気との事 何よりです。
私も相変わらず元気ですから 御安心下さい。
松山も皆元気なとの事ですが、安心しております。
隣の菓子屋の叔父さん(登さん)も元気ですか。
よろしく伝へて下さい。
皆によろしく。       
 
南海派遣 剛6418部隊 尾方隊 今井隊  福島泰山
 
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          バターン戦線猛砲撃     高沢圭一 筆
 この絵葉書の絵は、フィリピンのバターン半島戦線の絵ですから、当時は太平洋全域で過酷な戦いが繰り広げられていたものと思います。

 10月16日に葉書を書いたとすれば、病院船ブエノスアイレス丸が撃沈された11月27日の1ケ月前です。
 ラバウルに転戦して、間もなしに蚊に刺されマラリアを発症したものと考えられます。
 恐らく、泰山はマラリアの高熱に晒されながら、熱の収まりを待って、この葉書を書いたのではないでしょうか。
 当時はマラリアの特効薬は、キニーネだけだったと思いますが、軍隊は南方戦線用に調達はしていただろうと思います。

 
第33話の①~②参照・・「善通寺陸軍病院の父」

第33話の➀ 善通寺陸軍病院の父 http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965678.html 

第33話の⓶ 善通寺陸軍病院の父 http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965679.html 

第33話の⓷ (参考)病院船「ぶえのすあいれす丸」の沈没・・

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965685.html

第33話の⑤ ラバウルって、こんなトコだった・・!

第33話の⑥ 父の部隊が城子溝(満州)からラバウルへ移動したルート・・


33話の⑦●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966281.html  

33話の⑧●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図・・・

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966282.html  

33話の・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・・

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966013.html  

33話の・・父、泰山から祖母浦子への軍事郵便全記録・・・満州東寧から、ラバウルから・・

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966024.html