父泰山が、病院船「ぶえのすあいれす丸」で帰還の途中に撃沈されたぶえのすあいれす丸です。
 当時の情報では「敵は、南方海域○○方面で、赤十字船籍の病院船、「ぶえのすあいれす丸」を撃沈せり」だけなので、何処から出航して、何処でヤラれたか?パラオ付近か?台湾付近か?と想像するしかなかったのです。

 それが戦後、生還者の証言等により「ラバウルを出航して、カビエン西方チンオン島沖で撃沈された」ということが明確となり、下記記事となったのでしょう。
 ラバウルを出航して2日ほどの間に沈められています。
 祖母浦子から聞かされていた話の裏付けがやっと取れたという思いで、もやもやがやっと晴れた感じです。

 それにしてもニューギニア近海で撃沈され、17時間の漂流の末、救助されて約1ケ月後には、善通寺の陸軍病院に居たのですから、よくぞ帰れたものだなぁ・・・と感心しています。


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 参考●病院船「ぶえのすあいれす丸」(上田穀八郎・画)
↓から転載させて戴きました。

http://homepage2.nifty.com/i-museum/19431126buenosailes/buenosaires.htm


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南米航路就航時代の「ぶえのすあいれす丸」

(((buenos1941

ケープタウンでの「ぶえのすあいれす丸」

((rabaul_ラバウル空撮

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ラバウルはニューギニア島の東方ニューブリテン島に在る日本軍前線基地

 
●ラバウル出航から<沈没場所>までは下記の通りです。(↓から引用させて頂きました)
 地図に記すと、約2日間の航路くらいの距離ですから、ラバウルを出てその庭先ですぐに撃沈されてますね。  
 武力無用の病院船とは言え、それほど周辺の日本軍の防御は、お粗末だったのでしょう。


http://plaza.rakuten.co.jp/kaze2534/diary/?PageId=1&ctgy=0・・から引用した記事】

●『昭和18年11月27日、ニュー・アイルランド島カピエン西方チンオン島沖で、ラバウル野戦病院からの傷病兵1129名を乗せた病院船「ブエノスアイレス丸」は米軍B24爆撃機に爆撃され沈没する。

患者、看護婦、乗組員は16隻の救命ボートと発動機艇2隻で漂流するが、12月1日、同じくB24に発見された。
この時、漂流中の乗員はB24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む158名が戦死している。』

● 『1941年6月22日、笠戸丸以来約19万人に及ぶ人々を運んだ戦前のブラジル移民船は神戸港を発つ「ぶゑのすあいれす丸」を最後に33年間の歴史に幕をおろします。
 そしてアメリカとの開戦、移住者を長期にわたって収容できる構造になっていた移民船の多くは病院船として軍に徴用され、激戦の海へ派遣されます。 そして戦禍に没していくのです。

 「ぶゑのすあいれす丸」は戦時中幾度か新聞紙面を賑わせました。
 「病院船を鬼畜の爆撃-再度『ぶえのすあいれす丸』受難」(昭和18年9月2日)という見出しで「人道主義をかなぐり捨てた」米軍の度重なる病院船攻撃を難詰しています。

 約3ヶ月後の11月27日、遂に一発の至近弾が「ぶゑのすあいれす丸」の船舷にダメージを与え、船は沈みます。
 「漂ふ白衣勇士を掃射」「この仇、必ず討たん」(いずれも昭和19年1月の朝日新聞)。
 新聞は太平洋上の米軍機が赤十字標識を明らかに視認していたこと、漂流中の救命艇にまで銃撃を加えたことを非難し、看護婦長の手記も掲載して「鬼畜米機」への敵愾心を煽るのでした。

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●病院船 ぶえのすあいれす丸 轟沈時の絵図・・・が残っていました。

 ぶえのすあいれす丸の船長と、片山二等航海士が帰国後、大阪商船の嘱託画家・大久保一郎画伯を通じて忠実に描かせた「沈没時の周辺状況絵図」が残されていました。
 片山二等航海士のご子息のご好意により、画集を貸して戴きましたので、その写真と記事をアップさせて戴きました。↓  
 
第33話の⑦ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・・
第33話の⑧ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図

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