第33話の2●陸軍病院の父(松山)→(善通寺陸軍[衛戍]病院)7歳 昭和19年1月
・・・前述よりつづき・・・
それから一眠りしたのであろう、気が付いたら薄暗い灯りの点いた、寂しい駅のプラットホームに僕ら五人はいた。
後に知ったのだが「川之江駅」であった。
列車が川之江止まりであったのか? 夜行列車が川之江止めになってしまったのか?解らないが、改札口を待合室へ出てベンチに座った。
駅員は待合室に水を撒き、清掃していて「宿代わりにベンチを利用してください」と言っていた。
他に川之江で下車させられたのか、ベンチに乗客が一、二人残っていたように思う。
忠兵衛が「ここでは、子供には寒過ぎるぞ」と言っている。
改札口付近で、忠兵衛が深刻そうに駅員に何か相談している。
僕ら子供の面倒は、ベンチで登さんがみていた。
忠兵衛と登さんは二人とも外套を着ていた。
忠兵衛は「善通寺病院の父親に逢わせに行く、幼児を三人も連れている、宿を・・宿が駄目なら、にぎりめしでも作ってくれる処を紹介して貰えんか?」と言っていたが、この夜更け、どうも宿の取次ぎ時間を過ぎていたのだろう。
忠兵衛は振り返りざま「二、三軒、旅館が在るらしいので、頼みに行ってくるけに・・・」と登さんに言って表へ出て行った。
祖父ちゃんの後を追い、駅の入り口まで行き外を見ると、外は何もない広場のようになっており、対面に大きな家の板壁が見え、裸電球の街灯が二つ見えていた。

↑ 川之江駅前には板壁の大きな家があった。
やがて忠兵衛が「たべるものは無いが(終了したが)、泊まるだけなら・・・という旅館があった」と言いながら帰ってきた。
さっき祖父ちゃんが歩いて行った方向へ、暗い夜道をしばらく歩いて、細い路地を左に折れてすぐ右側、その旅館へ入った。
狭い階段を上がった廊下の、直ぐ右の小部屋だったのが記憶に残っている。
翌朝、5時頃だろうか、一番列車に乗る予定だったのだろう、真っ暗な夜明け前の道を駅に向かった。
途中、3~40メーターの橋を渡った。
堤防の裸電球の街路灯が、草が生え浅いせせらぎのような水面に写っていた。
橋付近から駅の灯りが前方に見えている。
一番列車は川之江を出て多度津へ着いた。
すっかり夜が明けた、穏やかな天候の多度津駅で、乗り替えのためプラットホームで、高知方面行き下り列車を待つ。
見通しの良いプラットホームで、遠くに走って来る列車が見える。
列車が入ってきた、今まで乗ってきた真っ黒い列車と異なり、錆色の列車で、機関車の鉄板に打ってある鋲がやたらと目立ち、如何にも汽車らしい豪快さだ。
座席は満席なので、ある車両の後部ドアーの内側に立っていた。
朝日を受けて輝くドアーの木目の琥珀色が、やたら目に焼き付く。
汽車が進むに連れて、日陰が左右に移動する様を見ていたに違いない。
外が見えないからか、車外の景色は全く記憶に残ってない。
善通寺には緑色系と白色のツートンカラーの市電が走っていた。
その市電に乗り、右てに土塀に囲まれた公園のようによく手入れされた大きな松林の 在るところ(多分、善通寺のお寺さんと思う)を通って、突き当たり付近、小山を背にした陸軍病院へ入った。
あまり大きくない二階建の木造建築で、白っぽい塗装がしてある。
古い昔の小学校を使用している雰囲気で、あちこちに渡り廊下がついている。

↑ 善通寺陸軍病院 伏見分院の正面(そてつの向うが玄関)
正面の三角屋根のところから入り、左にある受付を済ませ、反対側の右てに続く廊下を通って、泰山の病室へ向かう途中、左手に教室ほどの病室が二つ程あった。窓も教室と同様のガラス窓だ。
いが栗頭の若い負傷兵が白衣を着て、青い顔をして、あちこちから廊下を通る僕らを片肘を突いてじっと見ている視線が目に付く。 子供心にも人恋しい眼差しだと理解できた。
廊下よりせり出した突き当たりの部屋(多分、面会用の部屋と思う)、泰山のいる病室に入る。
ベッドが四つほど入る自然光の入る明るい部屋だ。
そこにベッドが二つ並んでいた。
入り口から見て奥のベッドに泰山が寝ていた。
入り口を向いてベッドに横向きに寝て、国防色(緑色)の毛布を喉もとまで掛けていた。
浦子は割烹着を着けて、腕をまくって父の足元に立っていた。
我々が入ると泰山はベッドの上で、両肘で上半身を起こそうとしたが、浦子が「冷えるから、寝てないとだめよ」とたしなめ、まくれた毛布をかけてやっていた。
「見てない間に、おおきゅう(大きく)なったのう」と言ったのだろうか・・僕が枕元へ行こうとすると、浦子が制止した。
病がマラリアだからか、近づいて手を握ることも、頬ずりすることも出来ない。

ただ「父ちゃん、怪我したん?」と言ったかも知れないが、病気で帰還した事情は浦子から聞かされて理解していたので、黙って視線を合わせていただけのような気がする。
忠兵衛が俊光を、登さんが孝芳をベッドの足元で抱き上げていたように思う。
その右に僕と浦子が立っていた。
忠兵衛と泰山がいろいろと積もる話をしていたが、やがて泰山が
「子供たちは、みんな一緒に居るのかえ? どこかよそへ、やっとるんと違うんじゃろォ?」
恐る恐る、問いかけた感じの様子である。
「誰がよそへやるもんかえ、どんなことをしてでも三人は一緒に育てんと、いけんけんのォ」
と忠兵衛が言う。
父は「そりゃそうよ・・・そりゃそうよ・・・」と何度もうなづいていた。
俊光の服装が一寸違うのを、目ざとく察知してか、父はそのように言ったのだろうか?
今思うと、父が両手で毛布の端を持ち、首にまで掛けているさまは「今にも毛布を被って、思わず泣きたかった心境の表われ」ではなかったのかなあ・・・と考えさせられる。
ただ、当時は軍人に涙は禁物で、隣のベッドには傷病兵がもう一人居たので、なお更 無理な話だが、僕らが部屋を出た後、忍び泣いたのかもしれない。
生前の泰山の姿は、この情景で最後である。
顔色は良くなかったがやつれも無く、生命の危機にある様子は、微塵も無かったように 見えた父だが、この一日後に逝去したのです。
(命日 昭和19年1月30日 享年34歳)
父の言った「そりゃそうよ・・・そりゃそうよ」の言葉は、いつまでも耳にこびりついている。
さて面会の後、帰りの列車の中、途中のどこかの駅で、僕と俊光に薄いポケット用漫画本を、駅弁売りさんから弁当を買う時、登さんが買ってくれた。
登さんは、内容も選ばず手を出しざま2冊取った。
赤い表紙の手帳のように小さくて薄い漫画本で、紙質は悪く赤インクの絵は滲んでいた。
二人とも同じ「宮本武蔵」である。
同じ本が2冊なので「違うほうがエエ」と言ったら、登さんが「同じ本なら、喧嘩せんからええ」といって聞き入れなかった。
右側の座席だったが、途中俊光の本を孝芳が取り上げて、取り上げざま窓から外へ放り投げてしまい、俊光はベソをかいていたので「泰弘は兄ちゃんじゃから、俊光にやりなさい」と たしなめられ俊光にやった。 その本は戦後も永い間、森並の家に残っていた。
汽車の窓から、雪で全山真っ白の石鎚山系の山が、西日を受けてオレンジ色に輝いていた。(頂上から右下へ、直線的に白銀の稜線が延びている光景が残っているので、今でもそこを通れば場所の特定は出来ると思う。)
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父、泰山は関東軍に従軍し、満州の牡丹江省、東寧県、城子溝(岩6418部隊)に昭和16年秋から駐屯、任務は警察出身の身、衛兵の様だが昭和17年12月、日ソ不可侵条約締結中のため関東軍主力は南方戦線へ移動した。
第33話の⑥ 父の部隊が城子溝(満州)からラバウルへ移動したルート・・
移動の途中、輸送船は大分県佐伯湾に寄港したが、面会に浦子が行ったのか?又は移動は機密のため家族には秘密のままだったでしょう。
輸送船は台湾の基隆(キールン)にも寄らず、直行で着いたのはニューブリテン島のラバウルで、このラバウルで従軍したのです。(ラバウルについて・・後述)
浦子からはニューギニアと聞かされていたが、その東方のソロモン諸島であった。
その先、ガダルカナルが最前線だったから、その援護部隊であったのだろう。
ここでマラリアにかかり、病院船「ぶえのすあいれす丸」で帰国の途中、昭和18年11月米軍に撃沈され、17時間漂流の後救助された。
第33話の③ (参考)病院船「ぶえのすあいれす丸」の沈没・・
第33話の⑥ 父の部隊が城子溝(満州)からラバウルへ移動したルート・・
第33話の⑦ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・
第33話の⑧ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図・・・
これは浦子から聞かされたものと、森並の二階押入れにあった、泰山の遺品「奉公袋」の中の手帳から知った。
手帳には毎日の輸送船の位置、つまり船内で広報されていたのだろう、緯度経度が几帳面に記されていたので、私が高校時代に地図に記入してたどっていってみた。
それにしても戦地で戦死した軍人と異なり、泰山はマラリアの病を押しての漂流を経て帰国し、妻こそ居なかったものの家族に再会出来ただけでも、幸せだったと思うべきでしょうか?
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