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第33話 ● 陸軍病院の父(松山)→(善通寺)7歳 昭和19年1月

 泰山が、戦地から善通寺陸軍病院へ帰ってきたということで、祖母浦子が身支度を整えて善通寺へ出向いていった。(父は前線ラバウルでマラリアに感染し、病院船で撤退中に撃沈され、漂流の後に救助された)
 松山の家では、曾祖母ヒサヨと孝芳と僕の三人で留守番をしていた。
 それから数日後の或る夕方、伯父の森岡の光義さんと娘の宣ちゃん(宣子)が、それぞれ自転車に乗ってやってきた。
 二人とも相当、慌ただしく急いでいる様子だ。

 光義さんは玄関へ入ってきて、開口一番・・・
 「ばあちゃん! 大街道の森岡じゃがのー、内子の父が善通寺へ泰山の面会に行くというて、○時に内子を出発したんじゃ・・・。 子供らも面会させるけん松山駅まで連れてきてくれんかー・・・という連絡があったから、これからスグ用意してくれんかー」ということである。
 耳の遠いヒサヨに伝えるのであるから、近所へ聞こえるような大声である。
 泰山も丸二年ぶりの、子供たちの顔が見たいという、たっての願いがあったのであろう。
 ヒサヨも事の内容を、理解するまで多少時間もかかったようだ。
 ヒサヨが準備を始めたものの、年寄りのヒサヨには何が何処にあるのやら要領を得ない。
 相当モタモタしていたと思う。
 子供らを自転車に乗せて、寒さの中を松山駅まで走るので・・・ということで、光義さんや 宣ちゃんにも手伝ってもらったが、着替える時間はなく、やっと寒くないようにと着込ませてもらっただけと思う。

 光義さんが孝芳を自転車の前の子供用座席に、宣子さんが僕を自転車の後部に乗せて出発した。
 琢町を出て城山の北、清水町方面を通り松山駅へ向かった。
 途中、「足を開いときよ・・・」と何度も注意を受けた。
 あたりは、既に薄暗くなっていて街灯が灯り、あちこちの家の窓にも明りが見える。
 家は建て込んでいるが、松山でも寂しい薄暗い地区であった。
 教員を養成する師範学校があった地域である。
 汽車に間に合わんから・・というので、二人とも相当なスピードだったと思う。
 僕は自転車の後部に乗っていたので、寒さはあまり感じなかった。

 松山駅改札口で、改札が始まるのを多少待たされたが、周辺は人でごった返していた。
 渡り通路をホームに降りる頃には、既に上り列車は到着していたところだったので、プラットホームは凄い混雑でごった返していた。
 正月が終わって、帰省客の移動が始まった頃だったのでしょうか・・・
 乗降客に加えて、見送る人で芋を洗う状況である。
 その人混みを掻き分けてホームを進む・・・暗い黒っぽい服装の人混みである。

 列車の中の忠兵衛を、光義氏があちこち探しているものの、思うにまかせない。
 そのうちに、忠兵衛が列車の中から、我々の姿を見つけたのだろう、開けた窓から我々を呼んだ。 
 そして列車の窓から降りてきた。 羽織姿で山高帽子をかぶっていた。
 なにしろ、列車の乗降口は人でいっぱい、プラットホームも同じ状況だった。
 松山駅の歩道橋を南へ降りて2~30メーター行ったところであろう。
 何両目かの車両の、後ろから二つ目か三つ目の座席だった。
 俊光と森並 登さん(忠兵衛の弟)が、暗いけどその席から、こちらを見ているのが見える。
 窓から降りた忠兵衛は、人混み越しに光義さんから、孝芳の脇を両手で受け取り、窓の中の登さんに差し出して渡した。
 続いて僕を同じようにして窓から列車内に入れた。
 登さんが「おーお、来たか、来たか」とニコニコしながら迎えてくれた。
 今度は、窮屈そうに窓を這い上がる忠兵衛の姿が列車の中から見える。
 窓枠の左右に両手をかけて右足から入ろうとしている姿だ。
 後ろから光義さんが懸命に尻を押し手伝っている。
 忠兵衛は足袋のままで窓の外へ降りていたのだ。
 ほんの数分間、忠兵衛は必死の思いで行動していたようだ。
 車窓の内と外とで、忠兵衛らと光義さんらが挨拶を交わしながら列車は発車した。

 列車内では進行方向に向かって忠兵衛、孝芳、僕の順に坐っていたと思う。
 対面側は窓側から、登(みのる)さん、俊光と座っている。
 俊光の身なりは、準備万端整えたといった白いセーターの服装で、準備する時間も、ろくろく無かった僕と孝芳の身なりに、大きな差があったように子供なりに感じていた。
 内子から持ってきたのか、松山の光義さんが手渡したのか、子供用にタルトのくずを紙袋に持ってきていた。
 伊予柑もこの時初めて食べたと思う。 あの香りがこの場面に残っている。
 伊予柑はこの頃は、開発されて間がなかったので松山周辺でしか出回ってなかったのではないかと思う。
 どうも、急遽面会になったのは、看護のため馳せ参じた祖母から「マラリアは病状が時間を経て急変するので、一日でも早い方がよい」と連絡が有ったようだ。

 僕は通路側に座っていながら、全く通路の様子の記憶がない。
 車窓と座席の記憶のみである。


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 車窓から外が見えるが、雲の垂れこめた冬空で、灯火管制中の海上と民家は、どこも真っ暗である。
 忠兵衛と登さんが窓の外を気にしながら、指差しして色々と話をしている。
 よく見ると、暗い海と黒い島影のシルエットの遥か向こうに、軍艦からのであろう探照灯の灯りの筋が四、五本空に向いており左右に動いていた。
 いま思えば、軍港の呉か広島の方角だったのかなぁと思う。


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↑暗い海の黒い島影の向こうに、探照灯の光が左右に動いている・・呉軍港方面か?

 それから一眠りしたのであろう、気が付いたら薄暗い灯りの点いた、寂しい駅のプラットホームに僕ら五人はいた。
 後に成人してから知ったのだが「川之江駅」であった。・・・つづく