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第30話 ● 下宿屋のこと (松山)6歳 昭和18年

 琢町の家では浦子が、下宿屋をしていた。
 二階に六畳二部屋があり、常時二人の学生が下宿していた。
 家から程近い、松山高等商業学校(松山商大→現、松山大学)の学生である。
 この学校は泰山が卒業した北豫中学校(現、松山北高校)の北隣に面し、正門右手には錆色のレンガ造りの校舎と講堂の塔が建っていた。
 正門の前、東側は道路を挟んで、すぐに練兵場の野原になっているので、背嚢を担いで訓連用の鉄砲らしきものをもった学生達が、たびたび軍事教練を受けていた。
 指揮者は司令官風の軍服だったので、軍人が直接指導していた感じに見えた。

 学徒動員か予科練志願したのだろうと思うが、広島から来ていた下宿生が、下宿を出て帰るというので、晴れた爽やかな日に、高浜港の桟橋まで、浦子と見送りに行ったことがある。
 やはり同じ学校から、数名の学生が同期生らにも見送られていた。
 それぞれの学生服は、白いタスキ掛けだったと記憶している。
 浦子は目頭をハンカチでおさえながら、見送っていた。

 下宿に関しての記憶は、座敷の飯台(丸座卓)で学生に食事させた後、浦子が下宿代として20円札を受け取っていた時のことである。
 奥の部屋、仏壇の前で、下宿生から差し出されたお札を見て「めずらしいなぁ・・・」といいながら新発行?された20円札を、かざすようにしながら、奉るように受け取っていた。
 また、子供ごころにも辞書の、あの薄い紙がほしくて、二階の押入れ下に転がっていた英和辞典の一枚を破り、大切に隠し持っていたこともある。
 昭和19年には、浦子が下宿屋をやめた訳でもないだろうに、勤労動員、学徒動員などで、学生は居なくなっていた。
 


第31話 ● かばってくれた孝ちゃん(松山)6歳 昭和18年

 浦子から、僕も孝芳も結構叱られることが多かった。
 浦子が叱る時は、手を振り上げてタタク振りをし、それが時々パチンと当るし、たまーに
尻もひっぱたいていた。
 尻の場合は、4~5回連続でパチン、パチンである。
 或る時、何で叱られたか? 浦子が外出から帰り、僕を連れて行かなかったので「もう
一度行け・・・」と無理なことを言って、ゴネて泣いたのだろうと思う。
 浦子は聞き分けのない僕をひどく叱り、僕の尻を剥いて手を振り上げパチンパチンとやられたことがある。
 浦子のただならぬ形相と、僕の泣き喚く声にびっくりしてか、孝ちゃんが数メーター先から
うろたえながら、べそかきながら飛んできて「アアッ、アアー・・・」言いながら、浦子と僕の間へ割り込んで来て、浦子の振り上げた手を懸命に止めようとした。
 浦子もそれを見て、振り上げた手を下ろしてしまった。
 それから数回このようなことが有ったが、その度に孝ちゃんが(いじめるな!・・)と泣きながら飛んで来るので、しまいにはそのような孝芳の仕草が可愛くてか? 浦子は面白がって僕に時々手を振り上げるまねごとをしていた。
 また、ある時は、僕の持っていた物を孝芳が欲しがり、ダダをこねたことがある。
 多分取り合いに成ったのであろうが、浦子はそれを見て孝芳をひどく叱り、尻を数回ひっぱたいて、火が点いたようにワーンワーン泣き喚いている。
 僕はその様子を見ながら「孝ちゃんはかばってくれたのに、僕にはなぜ、それが出来んのじゃろぅ・・・? ごめんよ孝ちゃん・・・」と自問自答しながら、兄としての不甲斐なさを噛み締めていた。


第32話 ● 醤 油 餅 (松山)6歳 昭和19年

 浦子はショウユ餅を作るのが得意であった。
 物資の少ない時期であったにもかかわらず、年に一、二回必ず作っていた。
 米の粉をコネ鉢に入れ、醤油、砂糖、水などを配合しながら、手でこねるのであるが、粉と醤油や水、砂糖がなかなか馴染まず、又うまく馴染んだかと思えば柔らかすぎになり苦心していた。
 うまく練りあげたものを、一つづつ長めの小判形に整えて、箸で井形の模様を入れ、せいろ(蒸篭)で蒸してゆくのである。
 紅、白と醤油色との三色をつくっていた。
 もっちりして美味しく、日が経って硬くなった時は、焼いて食べたら更においしかった。