




その「鷺湯」の湯船で、泳ぐ魚の群れを見たのです。
第27話 ● 火 遊 び ?(松山)5歳 昭和17年
細い三日月が西の空に浮いた、夏の宵の口であった。
細い三日月は、闇の中で悪魔が、ニヤリと口だけ見せて笑っているようで、子供心に何となく不気味な感じのする夜であった。
近所の女の子が3~4人、表の道路で遊んでいた。
男の子も僕以外に、もう一人居たと思うが、僕が一番年少であった。
琢町(みがきまち)の父の実家は、道路から約10メーター奥まった処にある、二階建で二軒長屋の西側である。
その通路の入り口には青桐の大木が一本あり、そこから玄関に向かって御影石の飛び石(市電用敷石)が並んでいた。
琢町のウチの前を西へ行くと30メーター程で、笹を束ねて作った竹垣に突き当たり、T字路になっている。
そのT字路の右側は絣を織るお婆さんの家で、左角は道路より5~60センチ低くなった5~60坪の畑になっていた。
畑の向こうは杉谷町の家並みがあり、その西側に城山の森が迫った、昼でもなお薄暗い場所であった。
(この森の中にどんぐり程の、黒くて丸い実を着ける大木があったが、この黒い実が熟して落ちると、爪で皮をむいて黒いゼリー状の果を食べるのであるが、ジャムというか羊羹のような、甘くておいしい果実であった・・・・名前も知らない、味も忘れた。)
さて、琢町のT字路より杉谷町のT字路まで、その4~5人が夜道をおそるおそるやってきた。
琢町のT字路にしか街灯は無く、付近は真っ暗闇の杉谷町の角まで来た。
先頭の女の子が言った「ここらで逃げる用意をしときよ・・・」
僕は「暗いトコは、いやじゃ、いや・・・」と言ったのだが、おんぶされて無理やり連れてこられ、そこで降ろされたので、何のことか解らなかった。
先頭の女の子は、角の家の前でしゃがみ込んだ。
家の前でこっそりと杉谷町の方を、何やら伺っているような仕草であった。
その女の子はマッチを点けた。 まさにへっぴり腰である。
マッチの灯りで、りんご箱のゴミ箱が目に映った。
他の子供たちは、ヨーイドンの格好で後ろ向きであった。
マッチの火は消えた。 女の子はまたマッチを点けた。
点けたとたんに、キャーといって全員が機敏に、来た道を走って帰ったが、僕も一生懸命走ったものの、一番年少なのでもたついていたが、暗闇のため、低くなった畑の土手で足を滑らせ、畑へ落ちてしまった。
皆に暗闇の中へ置き去りにされたのと、恐ろしさで「ギャー・・・」と声を張り上げ、泣き喚いたので、皆が引き返して畑から連れ出してくれた。
その後、このことを思い起こすにつけ、あの子達は一体何をしようとしていたのか?・・・さっぱり解らない。
強いて考えれば、ゴミ箱への放火だったのか? それとも、友達をからかっていたのだろうか?
この様なことがあって後、浦子から「夜、暗いトコへ行くと マー(魔?)が出てきて連れて行かれるョ」と脅されたものである。
第28話 ● 大根の煮しめ (松山)6歳 昭和18年
父の実家前路地の西側は、池田さん(母と子供二人)、西岡さん(母と子供二人)宅が在り、その向こうはまた路地で、ウチの西隣の小原さん(父は伊予鉄バスの整備士、母と子供三人)に通じていた。
向かい側は小倉さんとか菅さんとかの家が並び、東側角に武田八百屋店があり、戦後もこの店では、昔のままのしっかりした奥さんが営業を続けていた。
武田さん宅を更に東へ行くとラジオ体操で子供たちが集まる原田さんがあり、武田さんを南へ行くとすぐに天理教会があった。
町内の西岡さんのお父さんが、戦死されたとかで、その法要に町内の人が招待されたことがあった。
浦子も僕を連れて西岡さんの二階へ上がった。
八畳と六畳のふた間に人がビッシリ坐っている。
男の人はお年寄り、あとは婦人会のような割烹着を着たメンバーだ。
浦子と末席の方へ坐ったと思う。
読経のあと、七輪と調理してあった鍋が置かれ料理が振舞われた。
部屋中、大根を煮る匂いが立ち込め始めた。
薄味の大根が煮えるあのニオイである・・・子供には辛抱できる匂いではなかった。
どちらを向いても大人たちは「ウマイ・・・」「おいしい・・・」と声をあげている。
浦子から勧められても、僕は一口も受け付けなかった。
大根を炊く匂いは、法事の時の匂いとして印象付けられた一瞬だった。
法事の接待が、大根だけの煮しめだけだったので、今思えば、この頃から米飯は勿論のこと、食糧事情が徐々に逼迫しつつあったのかなあと思われる。
第29話 ● 温泉に棲む魚 (松山)6歳 昭和18年
「あれは夢の中だったのか・・・?」とは思いたくない。
道後温泉の湯船の中に泳いでいた、めだかほどの大きさの黒っぽい細い魚。
両手を皿のようにして、魚の下からすくうようにして、あれほど眺めたのに・・・
温泉の湯船の中に、魚が棲める訳がないのに・・・と、人は思うだろうが、少なくとも私が高校生になってからでも、温泉の湯の中に棲める魚が居るものだと信じていたのです。
そして今、齢七十代にして、今もって半信半疑の尾を引き乍ら悩んでいるのです。
祖母浦子は、温泉入浴が好きで三~五日に一回、当時六歳の僕を連れて鉄砲町から伊予鉄道市電に乗り、道後温泉へ湯に浸かりに行っていました。
昭和十八年頃のこと、戦争中とは云え日本軍は勢いよく戦局を伸ばしきっていた頃の事で、国内では安穏としたムードが漂っていた時期の事です。
曽祖母ひさよや弟の孝芳を連れて行ったこともあったが、この二人は殆んど留守番だったと思う。
今でこそ周辺の旅館には内湯温泉が引いてあるが、戦前の道後温泉は外湯のみで、正面の「本湯」とその南側奥の方に、砂利地道を歩いてもう一軒の「鷺湯」」があり、「本湯」の正面から西へ商店街を抜けた坂のかかりに「砂湯」がありこの三軒だけでした。
「本湯」には一、二度行ったが遠来の観光客も多く、二階の休憩所では備え付けの「湯玉模様」の浴衣を着て、お膳を前に車座になって賑やかに飲み食いしている客が多いので、祖母はもう一軒の「鷺湯」へ行くのが殆んどだったようだ。
その「鷺湯」でその魚を見たのである。
「本湯」の湯は濁り湯だったが、「鷺湯」の湯は透明で客も比較的多く、大衆浴場の雰囲気で入浴料も五銭ほど安かったのだと思っていた。
当時ではタイル等は使用されてなく、御影石の湯船、床も御影石だった。
祖母と一緒に行っているのだから、いつも女湯である。
そこの湯船につかって直ぐのこと、祖母は僕に「ここに魚が泳いどるよ」と指さして教えてくれた。
祖母は驚いた様子も無く、ごく当たり前のものを見たように平然としていた。
祖母が指差した湯船のコーナー部分へ近付いてみると、三センチ程のモロコの稚魚に似た細い魚が一二~三尾の群れを作って泳いでいた。
その全てがコーナーの方を向いて悠々と泳いでいる。
湯船が波打って見え難いので、波を静めるようにして、更に魚を散らさないように両手を魚の下に入れ、手の白さで黒っぽい魚が眺められ魚の形がよく解るようにしてみた。
祖母は「温泉に棲む魚よ・・元気よくだいぶ・・泳いどるなぁ・・・」と教えてくれた。
僕はそんな魚を「こんなお湯の中に、初めて見たぁ、すごい、すごい!」と云っていた。
温泉の中で棲む魚がいるんだ・・・と確信してしまったのです。
湯船の他のコーナーをそれぞれ順に見てゆくと、数こそ違えコーナー毎に十尾程の群れを作って泳いでいたのだ。
「鷺湯」へはその後も何度も行ったが、「今日も魚は居るのじゃろかぁ・・」と期待しつゝもその魚を見たのは、あの時の唯一度だけでしかなかったのでした。
約二十年ほど前だったでしょうか、温泉の足湯などで人の角質層を食してフィッシュセラピーしてくれるドクターフィッシュが流行したこともありましたが、その魚とは形状も大きさも違うものでした。
僕ら子供等には西湯の「砂湯」がお気に入りでした。
子供用プールほどの浅い深さで、湯の底に黒っぽい丸い砂粒が、厚く敷き詰められている。
大人はこの湯に寝そべって浸かるのだが、子供には砂をさくさく踏みながら、湯の中を歩いたり泳いだりするのが何より楽しかった。 この砂湯も今は残されていない。



















