泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

【タイトル画面の説明】
松山城の北東側、昭和8年頃の松山市の城北練兵場です。昭和20年の松山大空襲までの練兵場の姿、右端に鉄炮町付近の欅の大木が数本写っている付近に、軍事訓練用のトーチカも有りました。伊予鉄城北線に添って練兵場の南側にハゼの木の並木も写っており、秋に実が熟すとヒヨドリが群がっておりました。
中央部に黒壁に格子窓のある道場のような建物も写っておりますね。

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       「道後温泉本湯」の南側に「鷺湯」が在った。
       その「鷺湯」の湯船で、泳ぐ魚の群れを見たのです。



第27話 ● 火 遊 び ?(松山)5歳 昭和17年

 細い三日月が西の空に浮いた、夏の宵の口であった。
 細い三日月は、闇の中で悪魔が、ニヤリと口だけ見せて笑っているようで、子供心に何となく不気味な感じのする夜であった。
 近所の女の子が3~4人、表の道路で遊んでいた。
 男の子も僕以外に、もう一人居たと思うが、僕が一番年少であった。

 琢町(みがきまち)の父の実家は、道路から約10メーター奥まった処にある、二階建で二軒長屋の西側である。
 その通路の入り口には青桐の大木が一本あり、そこから玄関に向かって御影石の飛び石(市電用敷石)が並んでいた。     
 琢町のウチの前を西へ行くと30メーター程で、笹を束ねて作った竹垣に突き当たり、T字路になっている。
 そのT字路の右側は絣を織るお婆さんの家で、左角は道路より5~60センチ低くなった5~60坪の畑になっていた。
 畑の向こうは杉谷町の家並みがあり、その西側に城山の森が迫った、昼でもなお薄暗い場所であった。
(この森の中にどんぐり程の、黒くて丸い実を着ける大木があったが、この黒い実が熟して落ちると、爪で皮をむいて黒いゼリー状の果を食べるのであるが、ジャムというか羊羹のような、甘くておいしい果実であった・・・・名前も知らない、味も忘れた。)

 さて、琢町のT字路より杉谷町のT字路まで、その4~5人が夜道をおそるおそるやってきた。
 琢町のT字路にしか街灯は無く、付近は真っ暗闇の杉谷町の角まで来た。
 先頭の女の子が言った「ここらで逃げる用意をしときよ・・・」
 僕は「暗いトコは、いやじゃ、いや・・・」と言ったのだが、おんぶされて無理やり連れてこられ、そこで降ろされたので、何のことか解らなかった。
 先頭の女の子は、角の家の前でしゃがみ込んだ。
 家の前でこっそりと杉谷町の方を、何やら伺っているような仕草であった。
 その女の子はマッチを点けた。 まさにへっぴり腰である。
 マッチの灯りで、りんご箱のゴミ箱が目に映った。
 他の子供たちは、ヨーイドンの格好で後ろ向きであった。
 マッチの火は消えた。 女の子はまたマッチを点けた。
 点けたとたんに、キャーといって全員が機敏に、来た道を走って帰ったが、僕も一生懸命走ったものの、一番年少なのでもたついていたが、暗闇のため、低くなった畑の土手で足を滑らせ、畑へ落ちてしまった。
 皆に暗闇の中へ置き去りにされたのと、恐ろしさで「ギャー・・・」と声を張り上げ、泣き喚いたので、皆が引き返して畑から連れ出してくれた。

 その後、このことを思い起こすにつけ、あの子達は一体何をしようとしていたのか?・・・さっぱり解らない。  
 強いて考えれば、ゴミ箱への放火だったのか? それとも、友達をからかっていたのだろうか?
 この様なことがあって後、浦子から「夜、暗いトコへ行くと マー(魔?)が出てきて連れて行かれるョ」と脅されたものである。


第28話 ● 大根の煮しめ (松山)6歳 昭和18年

 父の実家前路地の西側は、池田さん(母と子供二人)、西岡さん(母と子供二人)宅が在り、その向こうはまた路地で、ウチの西隣の小原さん(父は伊予鉄バスの整備士、母と子供三人)に通じていた。
 向かい側は小倉さんとか菅さんとかの家が並び、東側角に武田八百屋店があり、戦後もこの店では、昔のままのしっかりした奥さんが営業を続けていた。
 武田さん宅を更に東へ行くとラジオ体操で子供たちが集まる原田さんがあり、武田さんを南へ行くとすぐに天理教会があった。
 
 町内の西岡さんのお父さんが、戦死されたとかで、その法要に町内の人が招待されたことがあった。
 浦子も僕を連れて西岡さんの二階へ上がった。
 八畳と六畳のふた間に人がビッシリ坐っている。
 男の人はお年寄り、あとは婦人会のような割烹着を着たメンバーだ。
 浦子と末席の方へ坐ったと思う。
 読経のあと、七輪と調理してあった鍋が置かれ料理が振舞われた。
 部屋中、大根を煮る匂いが立ち込め始めた。
 薄味の大根が煮えるあのニオイである・・・子供には辛抱できる匂いではなかった。
 どちらを向いても大人たちは「ウマイ・・・」「おいしい・・・」と声をあげている。
 浦子から勧められても、僕は一口も受け付けなかった。
 大根を炊く匂いは、法事の時の匂いとして印象付けられた一瞬だった。

 法事の接待が、大根だけの煮しめだけだったので、今思えば、この頃から米飯は勿論のこと、食糧事情が徐々に逼迫しつつあったのかなあと思われる。


第29話 ● 温泉に棲む魚 (松山)6歳 昭和18年

 「あれは夢の中だったのか・・・?」とは思いたくない。    
 道後温泉の湯船の中に泳いでいた、めだかほどの大きさの黒っぽい細い魚。
 両手を皿のようにして、魚の下からすくうようにして、あれほど眺めたのに・・・

 温泉の湯船の中に、魚が棲める訳がないのに・・・と、人は思うだろうが、少なくとも私が高校生になってからでも、温泉の湯の中に棲める魚が居るものだと信じていたのです。
 そして今、齢七十代にして、今もって半信半疑の尾を引き乍ら悩んでいるのです。
 祖母浦子は、温泉入浴が好きで三~五日に一回、当時六歳の僕を連れて鉄砲町から伊予鉄道市電に乗り、道後温泉へ湯に浸かりに行っていました。
 昭和十八年頃のこと、戦争中とは云え日本軍は勢いよく戦局を伸ばしきっていた頃の事で、国内では安穏としたムードが漂っていた時期の事です。
 曽祖母ひさよや弟の孝芳を連れて行ったこともあったが、この二人は殆んど留守番だったと思う。

 今でこそ周辺の旅館には内湯温泉が引いてあるが、戦前の道後温泉は外湯のみで、正面の「本湯」とその南側奥の方に、砂利地道を歩いてもう一軒の「鷺湯」」があり、「本湯」の正面から西へ商店街を抜けた坂のかかりに「砂湯」がありこの三軒だけでした。
 「本湯」には一、二度行ったが遠来の観光客も多く、二階の休憩所では備え付けの「湯玉模様」の浴衣を着て、お膳を前に車座になって賑やかに飲み食いしている客が多いので、祖母はもう一軒の「鷺湯」へ行くのが殆んどだったようだ。
 
 その「鷺湯」でその魚を見たのである。
 「本湯」の湯は濁り湯だったが、「鷺湯」の湯は透明で客も比較的多く、大衆浴場の雰囲気で入浴料も五銭ほど安かったのだと思っていた。
 当時ではタイル等は使用されてなく、御影石の湯船、床も御影石だった。
 祖母と一緒に行っているのだから、いつも女湯である。
 そこの湯船につかって直ぐのこと、祖母は僕に「ここに魚が泳いどるよ」と指さして教えてくれた。
 祖母は驚いた様子も無く、ごく当たり前のものを見たように平然としていた。
祖母が指差した湯船のコーナー部分へ近付いてみると、三センチ程のモロコの稚魚に似た細い魚が一二~三尾の群れを作って泳いでいた。
 その全てがコーナーの方を向いて悠々と泳いでいる。
 湯船が波打って見え難いので、波を静めるようにして、更に魚を散らさないように両手を魚の下に入れ、手の白さで黒っぽい魚が眺められ魚の形がよく解るようにしてみた。

 祖母は「温泉に棲む魚よ・・元気よくだいぶ・・泳いどるなぁ・・・」と教えてくれた。
 僕はそんな魚を「こんなお湯の中に、初めて見たぁ、すごい、すごい!」と云っていた。
 温泉の中で棲む魚がいるんだ・・・と確信してしまったのです。
湯船の他のコーナーをそれぞれ順に見てゆくと、数こそ違えコーナー毎に十尾程の群れを作って泳いでいたのだ。
 「鷺湯」へはその後も何度も行ったが、「今日も魚は居るのじゃろかぁ・・」と期待しつゝもその魚を見たのは、あの時の唯一度だけでしかなかったのでした。
 
 約二十年ほど前だったでしょうか、温泉の足湯などで人の角質層を食してフィッシュセラピーしてくれるドクターフィッシュが流行したこともありましたが、その魚とは形状も大きさも違うものでした。

 僕ら子供等には西湯の「砂湯」がお気に入りでした。
 子供用プールほどの浅い深さで、湯の底に黒っぽい丸い砂粒が、厚く敷き詰められている。
 大人はこの湯に寝そべって浸かるのだが、子供には砂をさくさく踏みながら、湯の中を歩いたり泳いだりするのが何より楽しかった。  この砂湯も今は残されていない。


 

関心を装ったものだ。

 人の死に直面したのは初めてであったが、母ちゃんが灰になるまで見てしまった。
 「もう逢えることはない・・人の死は、永遠の別れじゃ・・・」だと、何となく理解していたように感じています。
 母の病床の天井には、戦後も長い間、天照皇大神宮のお守り札が貼ってあり、病床部分の畳にも丸い凹みが改築前まで残っていたが、これは病床の母の頭部か腰部の跡だと信じていた。


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【写真上から】➀登志姉ちゃん(女学校生)と僕(4歳)
▲Ε舛らむねちゃん宅が見える
新天神山を見上げる風景
ど稱譴虜礼写真
イ椶の汽車の絵と「奉公袋」

第21話 ● ムネちゃんの夢 (内子)4歳 昭和16年

 妙な夢を見た・・・・夢の中で、お向かいの鎌村と田中の間で、鎌村さんの屋根越しに、新天神さんが見えていた。
 その新天神さんの左側あたりの段々畑の上に、ムネちゃんの首が付いており、こちらを睨んでいた・・・と言うふうな夢である。

 それ以来、その山を見るのが恐ろしくて、ウチ(森並)より田中さんの方へ遊びに行かなくなってしまった。
 かといって、吾野のムネちゃんとは遊びもするし、しゃべりもするし普段のままだったのに、誰かに手を引っ張ってもらっても、ウチより道路に沿って左方へ行くとなれば、ことごとく尻込みするようになってしまった。
 誰かに負ぶってもらっている時も、その場所に来ると必ず顔を背中に伏せて見ないようにしたものである。

 結局、数ヶ月間そのような怯えが来たような仕草が続いたと思う。     
 数ヶ月過ぎて、何かの拍子にその場所から、恐る恐るその山を見ようとしたら、鎌村さんの屋根にさえぎられて、新天神さんの山は見えなかった。


第22話 ●「奉公袋」から出てきた絵 (内子)4歳 昭和16年

 高校二年生の夏休みの頃だったと思うが、押し入れの奥の棚に保管されていた親父の従軍時代の遺品【奉公袋】が有ったことを思い出し「一度引っ張り出してみて、中を調べてみようか・・・」と思い付いた。(これは善通寺陸軍病院から浦子が引き取り、松山空襲後に内子へ送られたものと思う)
 親父の事については、僕が七歳の時に戦死したので、以後は家族らから聞き覚えした範囲でしか判っていないので、何かそれ以上に判る事でもあればと興味津々な気持ちがあったと思います。

 【奉公袋】と言うのは「召集の際に兵士が持参する袋で、軍人は常日頃からこれを用意しておくのがたしなみで、応召出征の時には、軍隊手牒(ぐんたいてちょう)、召集令状、勲章、記章、印章、適任証書、貯金通帳、財布、風呂敷包、名札、梱包用麻縄、油紙、名札などの入営に際して必要なものを入れて常に赴任地に携行持参するべき分身の様なものでした。

奉公袋を出して見たら、一、五キロくらいか、ずっしりと重く「戦死した親父の思い」が詰まっている感じの遺品です。
大切なものを扱うように丁寧に丁重に中の物を引っ張り出してみた。
軍隊手帳、親族や友人からの手紙の束、わに革の財布、お守り袋、裁縫セット、茶色の油紙、万年筆鉛筆などが出てきた。
軍隊手帳には軍人勅語が印刷され住所録や日誌風に(満州・牡丹江)へ赴任した時のコースや二年後に南方戦線(ラバウル)へ転戦したコースが(輸送船内で通達されたのであろう)緯度、経度入りで記されている。
わに革財布には十円札紙幣とラバウルでの軍票十ドル紙幣が一枚づつ入っていた。
お守り袋には大日本総鎮守・大三島神社の御札と、大切そうに軍事郵便はがきを四つ折りにして包んである幼児の絵が入っていた。 絵を開けてみるとたどたどしい文字で「フクシマヤスヒロ」と入っている。

想い出したぁ~僕、「はぁ~~ぁ、あの時の絵じゃ~~、この絵、戦地の親父に送っていたのかぁ!」
思わず涙が込みあげてきた、とめども無く涙が溢れてくる、口をゆがめて声を漏らしながら泣けてきたのです、拭っても拭っても、涙が止まりません、鼻水をすすりながら手の甲で涙を拭いていました。
親父は僕が書いた絵を、大切に大切に折りたたんで「御守り袋」に入れ肌身離さず持っていたのです。
時々眺めては自分に鞭打っていたのだろうと思ってしまいます。
暫く放心したように泣き「この奉公袋は大切なモノだから、粗末な事は出来ない、大事にせんといけんな」と元に戻して仕舞い込んだ。

僕はその絵を見た時「あの時の絵じゃ~~」と一目で判ったのは、僕がおんぶされ乍ら耳にした特異な情景を描いたものだったからです。 それは「トンネルで汽車に轢かれた女のひと」の絵だったのです。
それは今治市沖の小島の駐在所勤務だった父が、応召出征したので残った家族は母の実家へ転居して来た頃のことです。 昭和十六年秋のことで僕は四歳の時でした。
一年程の汽車の見られない離島暮らしで、汽車に飢えていた僕は内子線を走る汽車を見たがるので、誰かれとなく常時汽車を見せに連れ出してもらっていたのです。
 わがままで泣き虫だった様なので、汽車を見せるのが、僕にとって機嫌をとる一番の特効薬だったのでしょう。 おんぶされ乍ら鉄橋の方へ、踏み切りの方へと子守役も大変だったことだろうと思います。

或る日、叔母におんぶされて子守りしている姐さん同士で世間話しているのを、背中で耳にしたことがあったのです。 何気ないしぐさで、聞き耳していたのでしょう・・興味ある汽車、汽笛、踏切、鉄橋、トンネルなどの言葉に極度に反応していたのです。
「登志ちゃん、五十崎駅の向うの喜多山のトンネル知っとるじゃろ?」
「うん、あの山の向うの辺じゃろ」
「昨日、喜多山のトンネルで人が汽車にひかれて死んどったらしいのョ、頭の毛が長かったけん女の人じゃろうと言うとったぜ」
 「畑へ行ったり山に焚き付けを取りに行くときに、トンネル通ると近道になるけん、通ったんじゃろか。トンネルは危ないけん通ったらいけんと言われとるけんど、あの辺の百姓さんはよう通っとるけんなぁ」
 「年寄りはつんぼが多いけん、汽笛が鳴っても聞こえんしなぁ」
 「轢かれてバラバラになっとったんじゃろか?」「それはわからん・・・」
というような会話を背中で何気なく聞いていたのでした。

 当時、喜多山のトンネルが、およそどの辺に在ったかも僕には理解できていたので、話の中の(あの山の向こう)という話が耳に残っていたのだろうと思います。
 そのような話を聞くとはなしに聞いた僕は、それ以後汽車の絵を描く時、一つ覚えの様にことごとくトンネルとその横に轢かれて横になった人を書き加えるようになった。
 母におだてられ、一枚だけ出してもらった赤い罫線の入った公用便箋に、部屋で寝そべり鉛筆なめながら、この頃聞き覚えの「あ~あ~、あの顔で~、あのォ~声で~、手柄たの~むと妻や子が、千切れるほど~に~振った旗、遠い雲間にまた~浮か~ぶ」と鼻歌を歌いながら汽車の絵を描いていた。(この歌は母から教わったと思うが、松山でも浦子らと、よく歌った覚えがある)


 【汽車と煙と線路と山とトンネル・・そして汽車の前にひかれて横になった人・・もちろん頭には長い髪の毛を書き加えたのだ】 おんぶされ乍ら耳に入って来た話、そのままの情景の絵なのです。
「でけたヨ~」と母に駆けより手渡した。 「も~でけたん!やっちゃん何処おるん?ここへ、名前も書いとってヨ~!」とニヤニヤ。「ぼく、おらんヨ~」
 鉛筆だけで描いたその絵を見て、家族らは「汽車の前で、なんで人が寝とるんぜ?・・・こんなとこで見送る人はおらんよ」「汽車にサヨナラと云うとる人じゃろかぁ?」などと言っていたが、僕は誰にもその理由は言わなかったのです。 
この絵が家族からの見舞状に添付されて(満州・牡丹江)で従軍する父親のもとへ送られていたのでした。

今考えると「幼児と云うものは見聞するものが限定されるので、目から、耳から新しい情報が入れば、それを材料に絵の題材に取り込んでゆくものかなぁ」と思ってしまいます。    




第23話 ● 父母の婚礼写真 (内子)4歳 昭和16年

 相手は芳子だったか叔母たちだったかは忘れたが、僕に父母の婚礼写真を見せて、僕の示す反応を観察しては、ひやかされ面白がられたことが何度かあった。
 内子に置いてあった、チョコレート色の泰山のアルバムである。 
       
 泰山の警察署関連のスナップ写真が殆んどであったが、途中に父母の婚礼写真が貼ってあった。
 そこを開けて「これ、父ちゃんと母ちゃんよ」と言って僕に見せるのである。
 僕がまず感じたのは、いつもの父や母の顔と、この写真の二人の顔と、全く違っていたことである。  
 当時の僕には、全く別人に見えていた。
 僕は「ちがう!・・・ちがう!・・・」と、言って、頭を振り、足をばたつかせていた。
 僕に嘘を言って、からかっている・・・・とも感じていた。
 そのようなことが何度か有ってから「これ、本当に父ちゃんよ、母ちゃんよ、解らんの?」と
まで言われたと思う。

 今までの目通しするだけでなく、二人の顔をよく見てみた。
 男性の方は(父ちゃんだ!)と納得できた。
 しかし、女性の方は(母ちゃんじゃ・・・ない!)そこで僕は「ちがう!・・・ちがう!・・」また、かぶりを振った。
 手を振り上げて、足をばたつかせたと思う。
 (僕が写っていないのも、気に入らない)という意思表示もあったと思う。
 (母に見えない人を、母と言ってほしくない)という意思表示でもあった。
 母の高島田や化粧のせいもあってか、それが母と理解できるようになったのは、物心ついてからのことと記憶している。


 
第24話 ● 母 の 姿 (内子)4歳 昭和16年

 岩城島から内子の実家、森並の家へ帰った頃の母の姿である。
 母が二階から階段を下りてきた。
 くすんだ紫色の着物を、寝巻き代わりに着用していた。
 僕は茶の間横の土間に立っていたようだ。

 芳子は、階段下から小走りに、すり歩きしながら「風邪ひいたんじゃろかぁ・・?、ちょっと寒気がする・・」と茶の間に居たタキノに言いに来ていた。
 どうも、これが・・・母が病床に伏すきっかけ・・・ではなかったかと思われる。

 生前の母の姿の記憶はこの文と、次の文で最後である。 



第25話 ● 鯉 の 血 (内子)4歳 昭和16年

 祖父 忠兵衛が何処かへ招かれていたのか、ほろ酔い気分で帰ってきたと記憶している。
 手に持ったバケツには緋鯉が一疋入っていた。
 約15センチ程のものだったと思う。
 子供心にも、あんまり大きい奴とは思えなかった気がする。
 「一尺もある黒鯉と二疋いたが、赤い方が芳子の薬に良いと言うんで・・・」と言っていた。

 ちょうど、母 芳子が孝芳出産直後のこと、産後の肥立ちが思わしくなく、床に伏していた。    
 岩城駐在所で、召集令状により泰山が急遽出征し、直ちに5才の私を筆頭に幼児3人を連れて郷里への引越し手続きは、浦子らの加勢があったとは言え、産後の芳子には気苦労に加えて、体力的にも相当な負担だったことが推察できます。
 
 実家二階、表の間、東側に南向きに寝ていた。
 僕も時々、母の枕元で機嫌よく遊んだ。
 化粧もせずに、髪の乱れた母は、他人のような感じで、子供心にも遠慮がちにしていたように思う。
 母の声も動きも弱々しく、まったくの重病人であった。
 階下で遊んでいると、子供の声を聞きつけて、二階から母はその弱々しい声で僕らを呼んだ。
 いつも枕をはずして、仰向け加減にしてしみじみと、僕らの遊ぶ姿を眺めていた。
 枕元の果物や菓子を「これは要らんか?あれは要らんか?」と言いながら僕らに見せたものだ。
 母は僕らが枕元で遊ぶのを望んだようだが、周辺の者が極力二階へ上がらせないように配慮していたようだ。

 さて、その緋鯉であるが、忠兵衛が鯉をおろして、鯉の血を茶碗に三分の一ほど入れて枕元へ持ってきた。
 その血を見たが赤黒いものでなく、朱色に近い真紅だったようでした。
 母は付添いの者に助けられて、布団の上にやっとの思いで坐り、祖母タキノが茶碗を口に運んでやり、一口飲んだが「ウーッ」声を出して嫌がり、大変飲み辛い様子だった。
 タキノが背中をさすってやりながら「ナマ臭いからのめんのよー」と周辺の者に言った。
 母は時間をかけて何とか飲みほした後、声を上げて大きなため息を漏らしていたと思う。
 生前の母との情景はこれが最後の姿でした。


 この後のいつか、松山の祖母 浦子が見舞いがてら、僕を連れに来た。
 内子での病気の芳子と、幼児三人の世話は、大変だろうとの配慮があったのだろうと思う。
 僕は素直に二つ返事で行くことにしたんだろうと思う。(好きな汽車に乗れるから・・・)
 浦子と僕が身支度を整えて、家から出発する段になってから、浦子が何を思ってか「孝芳も連れて行く・・・」と言い出した。
 忠兵衛、タキノと浦子とが一階表の間で「引き取る・・・」「赤子が可哀そうじゃ、引き渡さん・・病人の母親から引き剥がすようなことを、頼むからせんといてくれ・・」とのことで、押し問答をしていたのが記憶に残っている。
 重病の母親から、赤子を取り上げてしまうのは、忍びないという思いからの反対だったのでしょう。
 結局、二男の俊光だけ残して、浦子は相当強情に生後8ヶ月の孝芳も連れて、僕と三人で松山へ引揚げていったのです。

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第15話 ● 岩城の火事 (岩城島)4歳 昭和16年

 駐在所前の道路の60メーター先、港へ向かうT字路の所に、二階建ての旅館があった。
 ある寒い晩に、その旅館が火事になった。                
 表の通りが、騒然としている。
 こういう時巡査は、消防団と協力して現場指揮を執らなければならない。

 ちょうど、孝ちゃんが生まれる前であったので、現場から帰った父は「生まれる子に良くないから、火事を見るなョ・・・」と言って、再びすぐさま出て行った。
 僕は火事を見たことが無かったので、何のことか解らなかったが、道路の騒ぎが大きかったので、道路まで跳び出そうとしたら、母から「寒いからいけんぜ」と引き止められた。
 おそらく、ダダをこねたのだろう、母は僕用に買っていた紺色ラシャ地の子供用オーバーを出してきて着せてくれ、道路まで連れ出してくれた。
 大きめなオーバーで足元までスッポリはいるもので、ずっしりと重かった。
 火事は消火活動にもかかわらず、煙と炎を上げて崩れ落ちるのが見えた。
 しばらく見入っている間に、知らぬ間に母は家の中へ入っていた。
 旅館は全焼し焼け落ちてしまった。





第16話 ● 酒まんじゅう(岩城島)4歳 昭和16年

 その旅館の南側に、幅2メーター程の路地が西へ通じており、古ぼけた格子窓の家が並んでいた。
 約2~30メーター行くと、北向きの小さな「酒まんじゅう屋」があった。
 その店へは誰かに連れられて、一度だけ酒まんじゅうを買いに行ったことがある。
 酒まんじゅうを蒸す湯気が立ち昇り、酒まんじゅう独特のうまそうな香りが周辺にたちこめていた。

 酒まんじゅうの香りは、その後その香りこそ覚えていたが、育った松山や、内子町には無かったので、就職して大阪へ出てきて、難波の戎橋通りの入り口の「酒まん屋」で、その香りを味わうまで味わっていなかった。 
 この香りを嗅いだ時、真っ先に岩城島を思い出したのでした。





第17話 ● 孝芳生まれる(岩城島)4歳 昭和16年7月

 芳子は和室に西向きに寝ていた。
 敷布団の上へ油紙を敷いて、その上に母は横になっていた。
 枕元に二つ折りの、低い屏風の衝立が立てられている。
 油紙は内子の祖母ちゃんが、鎌村の傘屋で褐色の和傘用の物を、工面して送ってきたものと記憶している。
 浦子らも居たと思うが、産婆さんを含め三、四人の女性が、屏風の周辺を忙しなく立ち回っていた。

 孝ちゃんが生まれてきた時、ちょうど僕は見ていた。
 チョロチョロと動き回る、4歳の子供の面倒どころではなかったのだろう。
 生まれ出た孝ちゃんを中腰で眺めた。
 握っていた赤ちゃんの手を無理に開いてみた。              
 手のひらのしわに沿って、筋のようにフェルトのような繊維状のものが付着していた。
 付き添いの者や産婆さんは、僕が居ることにやっと気付いて「泰弘ちゃんは、あっちへ行って遊んでおいで・・・」とか言って表のほうへ追いやられた。





第18話 ● 鯛  (岩城島) 4歳 昭和16年

 夏だったから、孝ちゃんの誕生祝を、漁師さんからもらったのだろう、夕方泰山が大きな鯛の尾のくびれを握って、一疋ぶらさげて帰ってきた。
 全長4~50センチもあったと思う。
 母や僕たちが座敷で、新聞紙の上に置かれた鯛を取り巻き、覗き込んで「大きいなぁ・・」とため息まじりの声をあげたと思う。
 母は台所からイカキを出してきて、その篭へ鯛を移し「ここへ吊り下げておくと大丈夫だろう」と天井の釘にそのイカキを吊り下げた。
 
 冷蔵庫の無い時代、一晩の保管用に、そのようにすればええ・・と教えてもらったのでしょう。
 鯛を入れたイカキは、都合二ケが天井にぶら下がっていた。
 その頃、夜中に目を覚ますと、カッコウの鳴き声をよく耳にした。





第19話 ● 父 の 姿 (岩城島)4歳 昭和16年

 六畳の部屋にて泰山が、頭から爪先まで白ずくめの巡査の制服を着て、サーベルを 装着していた。
 母は「父ちゃんは、兵隊さんになるんよ」と言っていた。 やや元気が無かったか。
 父は僕らに敬礼をして見せた。
 何かしゃべったと思うが全く記憶に残っていない。
 そして出て行った。 
 あっけない家庭での出征風景であった。 
 これ以降の父の記憶は、昭和一九年 善通寺の陸軍病院で面会するまで全く無い。

 出征兵士の見送りは、各市町村あげての歓呼のもとに行われるものだが、泰山の場合既に岩城村で行われていたのかも知れない。
 それとも、松山で壮行会が、別途行われたものとも考えられます。
 主だった処への挨拶廻りなども、済ませていたのだとも思います。





第20話 ● 光月堂の菓子箱 (岩城島)4歳 昭和16年

 泰山の居ない岩城の家で、引越しの準備をしていた。
 泰山が応召して出征したので、駐在所を引き払う為だったのです。      
 他にも手伝いに来てもらっていたかも知れないが、浦子が手伝いに来ていた。
 僕は自分のものを菓子箱に詰め込んでいた。

 菓子箱は松山の森岡光月堂の 「かすてら饅頭」 の箱で、20センチ四方で、深さ5センチくらいの空き箱に、日頃自分が大事にしているものを収めた。
 当時のおもちゃはゼンマイで動くブリキ製の物が殆んどで、当時の型の競争自動車(F1レースカー)などが有ったが、おもちゃ類は既に荷造り済だったのだろう。
 菓子箱に詰めたものは、おもちゃらしきものを詰め込んだ記憶はなく、手帳のようなものとか、紙袋のようなものだったと思う。

(これは後に、昭和19年頃、岩城島から送った荷物が、松山市琢町の実家階段下の押入れにいれてあるのを知り、浦子に無理を言って、押入れの相当奥のほうから、その箱一つを無理やり出してもらった。)
 

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 泰山の出征後、どうも芳子は岩城島の駐在所を引き払い、子供たちを連れて 内子の実家へ帰ったのです。

 それにしても、7月の孝芳出産に加えて3ヶ月程の間に、泰山の出征、浦子が居たとは言え直後の引越し準備や、幼児3人を連れての実家への移動転居をしている状況です。
 三児(4歳、2歳、0歳)の母となり、この時芳子は29歳でした。
 孝芳出産の後、翌年4月の芳子の逝去まで9ヶ月半です。

 病床に伏した期間が約半年とすると、芳子にとっては出産後のこの3ケ月、精神的にも体力的にも、相当な負担が、のし掛かっていたものだと感じています。

 もっと方法は無かったものか?「産後の肥立ちが悪くて・・・」とは聞いていましたが、そうとは言い切れないものを感じております。

 国民に有無を言わせない国の傲慢さが、根底に有るのを感じております。


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第10話 ●ライト写真館で・・(内子)3歳頃 昭和15年

 孝芳が写っていないから、泰山が岩城島勤務になる前に、内子に居た頃のことと思う。
 ある日、母と俊光と三人で、坂町の手前にあるライト写真館へ写真を撮りに行った。
 写真屋に入り、二階の撮影室へ通された。
 建物は細い路地の中ではあるが、内子で見かけない西洋館のイメージで、階段や撮影室もニスを使っ色彩で、床もピカピカに磨いてあった。
 撮影室には、子供の背丈ほどの花台が一個置かれているのみで、撮影室の天井には天窓が開いていたように思う。
 僕らはあまりガサガサと悪さはしていなかったと思うが、母は「 足が滑るよ 」と気遣っていたが案の定、僕がつるりと滑って転んだ。
 磨かれた床は、靴下(靴タビといっていた)をはいているととても滑りやすい。
 「ハイ、こちらをジーッと向いて・・・」という声で写真に写った。
 この時着ていた僕の服装は、栗色の毛糸で編んだセーラー服上下で、襟に白い毛糸の線があり、ズボンの裾のみがボテボテと分厚くなっていた。
 一方、俊光のほうは水色のベッチンで作った服で、胸の部分に黄色い刺繍糸で菱形の刺繍を横に並べたアクセントが付いていた。
 この時の自分の服装と、俊光の服装は今でも鮮明に覚えている。





第11話 ●お で き (松山)3歳頃 昭和15年

 岩城島へ行く前、松山の父の実家(松山市琢町64番地、浦子、ヒサヨが居住)へ立ち寄った時と思う。
 表の間に、はだかで仰向けに寝かされていた。
 相当泣きわめき、ぐずっていた。
 おできに薬をつけている。 
 母と祖母浦子の二人がかりで、僕を押さえつけて膏薬を塗っていた。
 おできはヘソの上部に五、六ヶ所、横に広がっており、足には脛の皿の上に二、三ヶ所できていた。
 相当、はちこって(はびこって)いるようだ。
 遊び盛りのチョロチョロしたい年頃、擦りむいたところが化膿してはびこったものだ。
 薬を付け終わってから、身体中にテンカフを振ってもらい、下着を着せてくれた。
 その後で腹をさすってくれたが、これが気持ち良くて、腹をさすられる度に突っ張るように
身体と腕を伸ばして、伸び上がったまま寝入ってしまったものである。     
 学校へ入学してからでも、浦子はヘソの上部をいつも気にとめて点検してくれていた。





第12話 ●今治港にて 3歳頃 昭和15年

 泰山が岩城島駐在所へ転勤赴任する時であろう。
 今治港で、父母、俊光と四人で岩城村へ渡る船を待っていた。
 (今治港の沖に来島海峡を挟んで大島があり、その向うが伯方島、その向うが岩城島、生口島、因島、向島、尾道市へと航路がある)
 今治港の岸壁に建つ派出所のところだ。 
 泰山が立ち寄って中へ入ったものの、カウンターのみが目に付く。
 巡査が三人ほど居て、泰山は右奥へ入ったがすぐ出てきた。
 赴任挨拶でもしたものと思う。
 派出所の裏は海、前の道路を挟んで海産物の商店街の雰囲気であった。

 軒の日陰はあったが、やや西日の日ざしが心地よく降りそそいでいる感じの情景だ。
 四人で派出所横の岸辺で景色を眺めた。
 岸壁には、目の下に大きな丸い岩がゴロゴロ並んでいた。

 桟橋を指して「あそこから、乗るんじゃ」という意味のことを泰山は言ったと思う。
 「まだ時間があるので・・・」というので父母は俊光を真ん中にはさんで桟橋の方向へ歩いていった。
 僕は海と小汽船とに気をとられて、父母らが歩き行くのを気付かなかった。
 ふと、周辺に両親が居ないのに気付き、多少うろたえたようだ。
 キョロキョロ見廻すと、両親は20メーター先を歩いていた。
 太陽が眩しい。
 僕は慌てて後を追いかけたが、所詮幼児の足、なかなか追い付けない。
 泰山が「泰弘はついて来ているか・・・?」というふうな格好で、自分の後ろ足もとを見た。
 父母は、後ろから追う僕を見つけて立ち止まってくれた。
 子供心にも「ここで置いてけぼりになっていたら、どうなっていただろう」と思ってゾッとした。
 小学五、六年生になるまで、このことを思い起こすたびに、背筋が寒くなったものだ。

 岩城島へ渡る船の中の記憶は殆んどない。
 ただ、小さなポンポン船で、船客は10人前後、船室は畳2畳くらいで板の間になっていてゴザが敷いてあった。
 船は右舷に草色の島を見ながら、左の島をすれすれに進んで岩城港へ入った。
 陽光の差し込む緑色の舟影の下に、小魚が群れているのが強烈な印象だった。    





第13話 ● 赤 蟹 (岩城島)4歳頃 昭和16年

 岩城港から北へ、狭い道路をたどり三叉路で右折して5~60メーター先、左側に岩城派出所がある。 その手前右隣には、淡い水色のペンキで塗装した理容店があった。
 派出所と理容店の間に畦道が裏山方向へ続いており、その先山すそに小学校がある。
 あぜ道の横には、溝のような小川が流れていた。
 
 ある朝、何を思い出したのか「カニがほしい・・・」といってダダをこねたことがある。
 泰山は、僕がカニがほしいと言うのをなだめる為、その畦道へ手ぶらで出かけて行った。
 巡回勤務に入る前の、慌ただしい時間帯だったと思う。
 数分後、僕がカニのことを忘れかけた頃に、父は両手に一疋づつの赤ガニを持って帰ってきた。
 カニは赤と白の二色で表現できそうな、ハサミの大きなよく肥えた沢ガニで、子供心にも きれいな沢ガニに見えた。
 泰山は二疋のカニを小さな桶の中へ入れてくれた。
 桶の独特の匂いが鼻をついた。





第14話 ●夫婦喧嘩 (岩城島)4歳頃 昭和16年

 岩城村派出所は平屋、ガラス引き戸の中は土間の事務所、その奥に六畳の和室があり、和室の右が三畳ほどの板の間台所になっていたと思う。
 夜は和室で、板の間に近い方から父、母、俊光、僕の順に寝ていた。
 ある夜、目を覚ますと父母が口論していた。
 父は立て肘で頭を支え、横向きに寝て母の方を向き、母は布団の上に坐り、後ろ髪を両手でいじっていた。
 多分、父のどなり声で、僕が目を覚ましたのだろう。
 父は横になったまま、寝床に坐っている母を、左足かかとで二、三度蹴ったのが見えた。
 白い下着とステテコ姿であった。
 「あんまり大きな声でどなると、子供が目を覚ますじゃないですか・・・」そう言いながら母は父の方から、僕らの寝ている方へ視線を移した。
 僕は寝起きまなこで、寝床の中からそれらを見ていた。
 「ほら、泰弘が見とるじゃないですかー・・・」  母は泣き顔だった。
 この頃のある日、畳の上に置いてあったハサミを母が踏んで、足の小指を切ったのを覚えている。

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第5話 ● スマちゃん (内子)3歳頃 昭和15年?

 田中猪五郎さん(表具屋)の娘、スマちゃんに子守をしてもらっていた。      
 春先のポカポカとした陽気の日差しの中である。
 一軒先、田中唯夫さんとこの前で、ここの一ちゃんら僕と同じくらいの幼児二、三人が居たと思う。
 スマちゃんは小学4,5年生くらいであったろう。 
 その日は、オレンジ色の毛糸のセーターに紺色のスカート姿であった。
 スマちゃんが他の子供たちと、立ったままお話しをしているとき、僕は何を思ってか、セメン床に頭を擦り付けるようにして、スマちゃんのスカートの下から上を覗いてしまった。
 茶色やオレンジ色の混ぜ合わせの毛糸で編んだ、ズロースをはいているのが目に映った。
 一ちゃんのお母さんの花子さんが「あれあれ、泰弘ちゃんが覗いとるがァー」と指をさした。
 スマちゃんは「泰弘ちゃんは、ヤラシィーなぁー」とか言って、スカートの裾を押さえながら後ずさりした。
 スマちゃんは、幼児の面倒見のよいお姉さんであった。
 その後、やはりスマちゃんに僕は「ポン(大便)が ひりたい」と言ったらしい。
 スマちゃんは自分の家の便所へ連れて行って、ズボンを脱がせてくれ、スマちゃんが僕の後ろから脇の下を持って便器にまたがせてくれ、僕の便が終わるまで支えてくれていた。
 僕の用が済んでから、便所の外へ出してくれて「ちょっとここで、モーしときよ・・」と言って四つんばいにさせた。
 そしてスマちゃんは、又便所へ入り、自分の小用を済ませた。
 僕は四つんばいのままなので、頭を床の板に付けたまま、尻の下から便所の中を見た。
 スマちゃんが小用をしている姿が見えた。
スマちゃんは「見たら いけんぜ」と言いながら出てきて、僕のお尻を拭いてくれた。
 この頃だったと思うが、日めくりカレンダーの、めくり終わった紙を二枚ほど持って遊んで いた時、一ちゃん宅の表の間に「ゆうびん!」と言って投げ入れたら、裏の間から一ちゃんのお母さんが「はーい!」と返事があったので(相手に悪いことしたな・・・)と思い逃げて帰った。 





第6話 ● 石垣のもちつき(内子)3歳頃 昭和15年

 お彼岸頃だろう、芳子らと願成寺へ墓参りにでも行った時のことである。
芳子も、連れの似た年恰好の女性も、白っぽい生地に縦じまの着物を着て、パラソルを さしている。
 僕らがチョロチョロするので、のんびりとゆっくりした、散歩のような歩みだ。
 お上人様の祠の手前、右側に託児所があった。
 農繁期には託児所が開設され、忙しい親から子供を預かって面倒を見てくれる施設だ。
 僕と似た年齢の、沢山の子供たちがうろうろしている。
 またそこで、僕は子供たちに気をとられて道草をしている。       
 帰り道、天理教会の正門前までやってきた。
 僕は教会の石垣にもたれて、またぐずぐずしている。            
 石垣の上部に丸い凹みを見つけた。 凹みの周辺に草の汁の跡が付着している。
 それを見て母は、よもぎの葉や畑のこや豆の葉を二、三枚むしってきて、その凹みへ置き小石で叩く仕草をして「こうして へっぽん、ばっぽつき(もちつき)するんよ」と教えてくれた。
 僕は石垣の上へ、胸がやっと引っかかる格好で小石を持ち「へっぽん、ばっぽ、へっぽんばっぽ」と言いながら、よもぎの葉で「おもちつき」したものだ。





第7話 ● 飛 行 機 (内子)3歳頃 昭和15年

 田中の一ちゃんの家と吉田屋さん宅の間に、二階建て二軒長屋があり、この二軒が 巡査宿舎となっていた。
 当時、内子警察署勤務となった泰山は、西側は福島泰山家族が住み、東側は泰山と同期くらいの熊さんという性の巡査家族が住んでいた。
 熊さん宅には同い年の徳子ちゃんという子が居たが、早めに転勤されて行かれた。
 ここは、森並の実家から20メーターちょっとなので、母の芳子も大変居心地が良かったのではないかと思われます。
 内子女学校に通う、大瀬村や天神村の派出所勤務の時の、知り合いの子女が時々立ち寄っては、母と話したり、僕や俊光をあやしたりして帰っていったりもしていた。
 その姉ちゃんらが近付いてくると、目ざとく見つけて母に知らせたりもしていた。

 ある日、飛行機が飛んでいるのを見たのだろうか「飛行機に乗るぅー、飛行機に乗りたいー」とダダをこねたことがある。
 母がなだめて「おとなしくしていたら、今晩乗せてあげるから・・・泣いたりしたら乗せてやらんよ」とか言いながら機嫌を取り持ってくれた。
 ところが僕はその夜、10人乗りくらいの丸窓の付いた飛行機に乗った夢を見た。
絵本で知識を知っていたに違いない。
 飛行機の爆音すら聞こえていた。
 子供心に、夢であったとは全く気付かなかった。
 翌日、思い出したように母に問うた「ゆうべ僕、飛行機に乗せてくれたん?」夢だから乗ったような、乗らないような気がしたからだ。
 すると母は「あれほど乗せてあげたじゃろうー」と念を押していた。
僕は「うん、乗った」と言って、夢の中の飛行機のことを話すので、母は父に「どうも夢の中で飛行機にのったらしいのよ」というふうなことを、ヒソヒソ言ってはニヤニヤしていた。





第8話 ● 生 菓 子(内子)3歳頃 昭和15年

 森並清一さんのであったろうと思うが、隣の森並家(菓子屋)の結婚式の日であった。
 祖父忠兵衛が、引き出物の折り詰めを持って帰り、タキノが「子供らには、これがええわい」と言って菓子折りを俊光と僕に見せてくれていた。          
 茶の間の横の縁側のところである。
 鶴亀一対の生菓子が入っている折箱だ。
 白い鶴が頭を持ち上げて、翼を広げている姿と、草色の亀が尾をなびかせている姿である。
 僕は鶴の頭の部分をほしがったが、タキノは「まだ皆に見せてないので、明日までのけといてあげるから、明日もらいにおいで・・・」と言っていた。
 「鶴の頭のところを、おくれよ」と念を押したものである。
 なぜ、あんなに細い部分を欲しがったのか、不思議なのだがそれを言った。
 隣の森並 登(みのる)さんは、生菓子作りの達人で、戦後もしばらくは引き出物の注文が入るたびに、赤い鯛や菊の花など、あらゆる生菓子を器用に作っていた。
 翌日、生菓子のことを思い出し、森並まで思い切り駆けていった。
 ちょうど、俊光が先に来ていて、タキノから鶴の頭の部分を包丁で切ってもらって、頬張っていたところであった。
 「鶴の頭は・・僕のじゃったのにー」という意味のことを言ったと思う。
 仕方なく亀の頭の部分を切ってもらった。
 亀の切り口には黒餡が詰まっており、鶴の切り口は白餡だったのが印象に残っている。





第9話 ● そぼろのおにぎり(内子)3歳頃 昭和15年 

 隣の國子さんだろうと思うが、おんぶしてもらっていた。
 本町の旧郵便局の方から、内子女学校(内子高校)の横の道へ出てきた。
 その道は学校の横を通り、旧内子駅へ通じている。
 (この道路の現在は、内子高校の敷地になっているが、内子高校の正門のところから旧内子駅へ真っ直ぐな道路があり、その右手に黒っぽい女学校校舎が一棟建っていた)
 学校横を通り過ぎようとした時、校舎の端の教室付近で、用事をしている登志姉ちゃんを國子さんが見つけたのだろう。  二、三言、声をかけていた。
 他の女学生も同じ窓から二、三人こちらを眺めている。 
 全員姐さんかぶりをしている。
そのうちに登志姉ちゃんが、ピンク色の そぼろ をまぶした、小さな おにぎりを窓から手を伸ばして差し出してくれた。
 國子さんはおぶった僕の差し出す手が、おにぎりに届くように、背中の僕を伸び上がらせ窓の方へ身体をねじって、そのおにぎりを受け取らせた。
 出来立ての熱いおにぎりだった。
 当日は学校のバザーか実習の日だったのだろうと思う。            

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 第1話 ● 風 の 音(天神)3歳頃 昭和15年

 2歳か3歳の時の記憶で、最も古い記憶であろうか・・
 僕の生まれた大瀬村駐在所付近のような気もするし、俊光の生まれた天神村駐在所のような気もするし・・・ 今、考えてみると夢であったかも知れないが、幅4メーターくらいの道路沿いに、数軒の家が立ち並んでいて、その家のすぐ裏に小山があり木立の林があった。
 陽が沈み、あたりが薄暗くなってきた時刻であった。
 うすら寒い、早春か晩秋の気配だったと思う。

 母とは違う中年の女性(浦子かタキノの様な気もするが・・)の背中で、ねんねこに包まれて子守をされながら戸外に出たものの、外は強風が吹きまくっていた。
 「こんなに風が強く吹くのに、早くかえりましょ」とか言って15~6メーター先のところから家の方を見せてくれた。
 家の灯りがぼんやりとオレンジ色に見えて、裏山の黒い木立が、ゴウゴウと揺れざわめいていた。





 第2話 ● 川端の宴会場(天神)3歳頃 昭和15年

 父親泰山が、天神の駐在所勤務の頃だろうと思うが、泰山に連れられて酒宴の席に行ったことがある。
 五十崎橋(豊秋橋)の五十崎側、橋のたもとの 宿間屋(しゅくまや)である。

 四月の花見か、五月の凧げんかか何かの宴席だったのだろう。
 川沿いのお座敷へ上がると、座卓の並んだ向こう突き当りが腰掛け縁側になっており、私服の父親が寛いだ姿で僕の両脇を持って縁側に座らせた。
 縁側の手すりから 見下ろすと、川端の松の枝越しに五十崎橋が見え、眼下に青い水がゆるやかに流れて川底まで透けて見えている。
 魚がちろちろと泳いでいるのを、僕に見せようと父は指をさしている。
 父らには酒宴の席だったのだろうが、その席でオレンジジュースを飲んだのを覚えている。

 オレンジジュースの味は、終戦後5~6年は味わえなかったので、戦後初めて飲んだ時は(あぁ・・あの時の味だぁ・・!)と感じたものである。





 第3話 ● 若 き 者(内子)3歳頃 昭和15年

 ある日、母 芳子に連れられて内子小学校の講堂へ学芸会を見に行った。
 女学校の学芸会らしく、どうも登志姉ちゃん(母の妹)が出るのではなかったろうか。
 母の連れも一人か二人一緒だった。 おそらくタキノも一緒じゃなかったかと思う。
 舞台に制服姿の女学生が二列に20数名並んだ。            
 母は僕に、舞台を見るように言っている。             
 どうも、この中に登志姉ちゃんが居るらしかったが、子供に一人一人見比べていくことは 容易ではなかった。
 コーラスを唄う場面である。  曲目は「若き者」であった。
 登志姉ちゃんが歌の練習をしているのを、聞き覚えたのか、この頃に覚えた歌がこの「若き者」である。
 メロディは終りまで、今でも覚えているが、歌詞は「若き者・・・我ら、大日本青少年隊・・・
いざ友よ・・・・」と、断片的にしか覚えていない。

 「若き者・・」の歌詞を「若、着物・・」という印象に覚えて「若い人の着物の歌」と勘違いしていたので、お向かいの鎌村さん(傘屋)を含めて、あちこちで色々と、とんでもない質問をして困らせたように記憶している。

 タキノは芝居好きだったので、芳子らと内子座へ芝居見物に行ったこともある。
 絢爛豪華な大奥のような場面に、着飾ったお姫様やお付きの侍女、お歯黒の奥方など喧々諤々のやりとりの後、幽霊になって出てくる場面のある芝居であった。
 「番町皿屋敷」の芝居だったのだろうか。         





 第4話 ● 下駄屋の夜なべ (内子)3歳頃 昭和15年

 寒に入って寒い晩であった。  森並の下駄屋の店頭である。
 電灯も3、4灯をつけて、タキノをはじめ芳子など女性三、四名が、火鉢を横にしてせわしく、下駄の鼻緒付けをしている。
 鼻緒を付けてない未完成の下駄の山があり、タキノが中心となり検品や指示をしていた。
 陳列台には様々の完成品が並べられ、白い布がかけられている。
 周辺の雰囲気からすると、旧暦年末の大売出しを控えての、忙しい時期だったのだろう。 
その中で、僕もウロウロしながら邪魔をしていたんだろうと思う。

 寒行の人々が御詠歌を唱えながら表へ来た。 タキノが応対している。
 道路は店頭よりも三、四段高いところにある。
 チーン・チーン・シャン、チーン・チーン・シャンと鈴の音が聞こえる。
 しばらくして、盛りのついた猫が ウァオー、ギァオーと鳴き始めた。
 夜は怖い・・猫の声と知らず、僕は一瞬 初めて聞く悪魔のような声に、ギクッとして奥の部屋へ入り布団に潜り込んでしまった。

 この晩、あまりにも窮屈で寝苦しいので夜中に目を覚ますと、横で母の妹、登志姉ちゃんが僕を羽交い絞めにして眠っていた。

 大東亜戦争が近づき、戦争が終わる頃までに私の家族や周辺の親族が歩んだ姿を、幼少の目で見た私は、繰り返し思い起こす度に、その情景が脳裏に焼き付いてしまいました。

 戦没者家庭の非常に多かった世間でしたが、私方も5歳の時に母の死、7歳の時に父の戦病死と不幸が続き、併せて地方都市の松山でも、戦時下での空襲に逃げ惑う幼児の目に映ったものは、さすがに強烈なものだったからでしょう。
 せめて私の目で捉えたものだけでも、親の顔もあまり知らない2歳年下の俊光と4歳年下の孝芳、二人の弟に忠実に伝えておいてやりたいと、私が30歳を過ぎた頃よりまとめておいたものです。
 忠実に表現したつもりですが、所詮は幼児の目を通しての記憶が原点でしかありません。
 幼児の眼が捉えた貧弱な内容とは思いますが、宜しくご理解の上、ご覧戴きますようお願い致します。

 併せてこの時代とは云え、この国は国民の命と忍耐を頼り切って戦争をしながら、何しろ兵員兵器、物資食糧などの補給線を確保しないまま、西へ南へと延びきった戦局への対応を蔑ろにして、補充兵員、食糧が海の藻屑となっていったのです。

 国民に義務だけを求めて苦悩しか与えていなかった、残酷無情な時代であったんだなぁ・・・と、しみじみ痛感している次第です。

 
 【参 考】
 父母・・・・福島 泰山(父) 芳子(母)
 父の職業・・愛媛県・警察官(内子警察署、大瀬村駐在所、天神村駐在所、岩城村駐在所)→ 昭和16年召集出征(満州牡丹江、城子溝で従軍から → ラバウルへ転戦従軍した)

 父の実家・・愛媛県松山市琢町64番地(みがきまち・今の緑町)(祖母)福島浦子(曾祖母)ヒサヨ
 母の実家・・愛媛県喜多郡内子町西栄町(祖父)森並忠兵衛 (祖母)タキノ (曾祖母)マツ (叔母)登志子
 兄弟・・・・泰弘(本人)、俊光、孝芳。


 平成22年2月   
         
   京都府京田辺市山手南1丁目         福島 泰弘   

((ライト
     
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【目 次】  

第1話・・・風の音 ------------------------第2話・・・川端の宴会場   
第3話・・・若き者 ------------------------第4話・・・夜なべ    
第5話・・・スマちゃん --------------------第6話・・・石垣のもちつき      
第7話・・・飛行機 ------------------------第8話・・・生菓子      
第9話・・・おにぎり ----------------------第10話・・ライト写真館で  
第11話・・おでき ------------------------第12話・・今治港にて        
第13話・・赤 蟹 ------------------------第14話・・夫婦喧嘩   
第15話・・岩城での火事 ------------------第16話・・酒まんじゅう   
第17話・・孝芳生まれる ------------------第18話・・鯛            
第19話・・父の姿 ------------------------第20話・・菓子箱    
第21話・・ムネちゃんの夢 ----------------第22話・・汽車の絵   
第23話・・父母の婚礼写真 ----------------第24話・・母の姿          
第25話・・鯉の血 ------------------------第26話・・母の死      
第27話・・火遊び? ----------------------第28話・・大根の煮しめ 
第29話・・温泉に棲む魚 ------------------第30話・・下宿屋のこと       

第31話・・かばってくれた孝ちゃん --------第32話・・醤油餅 
第33話・・善通寺陸軍病院の父 ------------第34話・・父の骨壷     
第35話・・合同慰霊祭 --------------------第36話・・●松山城北練兵場のこと   
第37話・・清水国民学校入学 --------------第38話・・夜の空襲警報 
第39話・・二ヶの懐中時計 ----------------第40話・・通学用かばん   
第41話・・筆代の十五銭 ------------------第42話・・村井恵津子さん
第43話・・遠足 -----------------第33話の➌・・病院船「ぶえのすあいれす丸の沈没」
第44話・・落穂拾い -------------第45話・・或る音楽の時間  
第46話・・集団疎開生 -----------第47話・・山越のこと    
第48話・・御幸寺山のこと -------第49話・・父のピストル   
第50話・・父の長靴 -------------第51話・・大街道のこと 
第52話・・俊光来る -------------第53話・・女の子用ゆかた  
第54話・・●松山での空襲 --------第55話・・●頭上のB-29 
第56話・・内子へ疎開する日 -----第57話・・内子へ来た翌朝
第58話・・内子国民学校へ転校 ---第59話・・内子での空襲  
第60話・・松山大空襲の夜    

第61話・・孝芳が来た日 ---------第62話・・夜泣きと寝ぼけ 
第63話・・蟹じんど -------------第64話・・古天神で松葉取り  
第65話・・知清川原の雛送り -----第66話・・まさかり淵で川泳ぎ 
第67話・・亥の子餅つき ---------第68話・・内子の祭りごと・・

第55話の➁ 「頭上のB-29」は、いつの日じゃったのか?
第54話の➁ あの日は、3月18日じゃったのか?
第46話の➁ 梅津寺での出来事
第28話の➁ 琢町(みがきまち)の3人のよっちゃん
第37話の➁ 下駄を貸してくれた野本さん ーー第37話の➂ あの子らは、今・・?
第13話の頃の母のはがき・・
第26話の➁ 戦地からの軍事郵便・・父から母へ
第26話の➂・・便りをすれど・・妻から返事来ず 
第26話の➃・・芳子の病状を心配する・・姑
第26話の➄ いたたまれず、戦地へ病状を知らせた・・

第69話の➀ 成人すると、すぐさま徴兵された叔父  
第33話の❹ 南方戦線からのはがき・・
第33話の❺ ラバウルって、こんなとこだった!・・
第69話の➁ ●成人すると、すぐさま徴兵された叔父
第70話の➀ 松山歩兵第22連隊凱旋式・・写真
第69話の➂ ●成人すると、すぐさま徴兵された叔父 
第71話の➀ ●女学生も学徒勤労動員された・・
第70話の➁ 昭和3年、内子町絵葉書 -------第70話の➂ 昭和3年、内子町絵葉書
第72話の➀ 昭和10年の年賀状 -----------第72話の➁ 昭和7年の年賀状
第71話の➁ ●女学生も学徒勤労動員された・・

第33話の❻ 父の部隊が城子溝(満州)からラバウルへ移動したルート
第73話・・・空襲前の「松山市琢町」の実家
第74話の➀ 父は北豫中学校卒業後、警察官に・・
第75話の➀ 内子にあった「忠魂碑」は今・・?
第75話の➁ 内子の「忠魂碑」が立派なのは、重岡中将閣下が・・?
第75話の➂ 内子町にあった「忠魂碑」は今・・?

第33話の❼ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・
第33話の❽ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈後の漂流者絵図・・
第75話の➃ 内子にあった壮大な「忠魂碑」の顛末
第74話の➁ 大瀬村から「母子共に元気・・」のはがき・・
第74話の➂ 天神村、香林寺での写真・・
第76話・・・井上のおっちゃんと『火縄銃』
第77話・・・足と足との恋路・・・

第33話の❾ 泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・
第19話の❷ 泰山の出征と満州・東寧への赴任日記・・
第33話の➓ 父、泰山から祖母浦子への軍事郵便全記録・・東寧から、ラバウルから

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