泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

カテゴリ: ホンダ・ジェット機の原点・・

ホンダジェット、セスナ主力機抜き首位・・2017年納入機数 20機増の43

 ホンダの ビジネスジェット機「ホンダジェット」の2017年の世界での納入機数が前年比20機増の43機となり、米セスナの主力機「サイテーションM2」を抜いて 初めて首位となった。ビジネスジェット市場は世界的に成長が鈍化しているが、ホンダジェットが含まれる「超小型機部門」は前年と比べ需要が5割増。ホンダにとっては苦戦が続くF1に代わるブランド戦略の柱となる。将来は自動車などに続く収益源に育てる考えだ。


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                   ホンダ・ジェット


 全米航空機製造者協会(GAMA)が21日(日本時間22日未明)にまとめた集計で明らかになった。
 ビジネスジェット機全体では676機で前年比1.3%増。3年ぶりに増加に転じたが需要がピークだった2008年と比べ半減している。


 ホンダの「空飛ぶシビック」 誰がつくったのか

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米欧を中心に本格的な販売が始まったホンダの小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」。実はホンダにとって航空機参入は創業者、本田宗一郎氏からの夢だ。
 二輪車、四輪 車に次ぐ第3の収益事業となるかはまだ先の話だが、半世紀余りにわたり受け継がれた「空への夢」は、「世界のホンダ」を築いてきたリーダーたちを育成する起爆剤にもなってきた。


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ホンダエアクラフトカンパニー
  社長  藤野道格氏


 「どこまで会社が真剣に考えているのか分からなかった」――。プロジェクトを主導した「ミスター・ホンダジェット」、ホンダエアクラフトカンパニー(米ノースカロライナ州)の藤野道格社長は当時をこう振り返る。


  ホンダが航空機の研究チームを極秘裏に立ち上げたのは1986年。参加を命じられた藤野氏は「最初は疑心暗鬼だった」という。東京大学工学部で航空工学を 学んだが、入社して3年目の「若造」。社内にはジェット機を開発するための技術やノウハウ、インフラもない。しかし、杞憂(きゆう)だった。経営陣は大真面目だったからだ。
 すでに社内には「飛行機野郎」が数多くいた。創業者の本田宗一郎氏が「次は飛行機」とぶち上げたのは1962年。翌 63年(昭和38年)に四輪車事業に参入するが、もともと静岡県の浜松発祥の二輪車メーカー。3代目の社長までは同県内の学校出身だ。社内では「おやじの 大ぼら」といわれたが、若者たちは本気にした。この63年から全国の難関大学の学生が続々とホンダに入社した。


 ■創業者、航空機参入表明 「花の38組」入社
  1990年に4代目の社長に就任した川本信彦氏、後任社長の吉野浩行氏、技術担当の副社長だった入交昭一郎氏、長く販売トップだった元副社長の雨宮高一氏の4人はいずれも63年に入社した。宗一郎氏は91年に死去するが、90年代からこの4人が10年以上にわたってホンダの経営をリードした。社内では「花 の38(サンパチ)組」と呼ばれる。4人は宗一郎氏の息子と同世代なので、ホンダの第2世代にあたる。吉野、入交両氏はともに東大工学部で航空工学を学んだ親友でもある。
 東大工学部には1学年に1000人余りの学生が在籍するが、最難関の学科は今も昔も航空工学といわれる。卒業生は現在の宇宙航空研究開発機構(JAXA)など公的機関か、航空宇宙事業部門を抱える三菱重工業など大手重工メーカーに入社するのが定番だった。
  「本田さんに見事にだまされた」。かつて吉野氏は笑いながらこう語った。航空開発をやれると思って入社したが、そんな部署はどこにもない。38組だけでは ない。2009年に社長となった伊東孝紳氏も京都大学で航空工学を専攻。車体技術者となり、スポーツカー「NSX」開発などで頭角を現した。結局、飛行機 野郎たちがホンダの新車開発をリードしてきたのだ。

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   ホンダ創業者 
   本田宗一郎氏



  ホンダジェットの開発はスムーズに進んだわけではない。「挑戦企業」とのイメージが強いホンダだが、極めて慎重な会社だ。販売部門幹部からは「トヨタ自動車も手を出さないのに、何でウチがそんなリスクの高い事業をやるのか」。「そもそもビジネスジェットのニーズは限定的。米国の富裕層ぐらいしかなく、採算 の見込みがつかない」と何度もダメ出しされた。技術部門幹部からも燃費改善や安全性確保など様々な課題解決を求められた。航空機開発計画は何度も頓挫しかけたが、吉野氏らの後押しもあり、一歩一歩進んでいった。


 藤野氏は「自らスケッチした」という独創的なデザインをベースに様々な改善を加え、経営陣の厳しい要求に応えた。1997年に正式にホンダジェットの開発が米国でスタートした。目指すのはホンダらしくあくまで小型機。米国の新車市場を開拓したのは燃費効率のいい小型車「シビック」だった。現在も米国のトップブランドだ。「空飛ぶシビック」をつくろうと開発・生産体制が整えられ、200312月には初飛行を遂げた。
 現地主義を標榜するホンダは、航空機開発・生産・販売サポートの拠点をすべて米国に配置。2006年にホンダエアクラフトカンパニーを設立、10年目の15年末からホンダジェットの販売を開始した。


 ■3世代が夢つかむ
  「販売エリアは北米から欧州、南米のブラジルにも広がっている」(藤野氏)という。ホンダエアクラフトカンパニーの社員は現在1800人、国籍は30カ国 に及ぶ。「多国籍社員の工場だ。現在は月産23機のペースだが、IT(情報技術)を駆使し、極めて効率的な生産をやっている」とホンダ全体の次世代工場の先駆けにもなりそうだ。
 藤野氏らホンダジェットの開発陣は本田宗一郎氏から見ると、孫のような第3世代にあたる。半世紀余り前に創業者 が抱いた「空への夢」が、有能な人材を集める磁石となり、新車開発をリードする原動力となった。第3世代が花咲かせたホンダジェットは、「世界のホンダ」 を創ったトップ人材を育ててきた「志」そのもののようにもみえる。  (代慶達也)日経より



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つい10日前、HONDAの開発したジェット機が、初飛行したという記事が新聞を賑わしましたね。

その原点は、本田宗一郎氏が50年前に飛行機用
HONDA倒立V型8シリンダーエンジン』を開発した・・に端を発しているのです。

先日1222日の新聞に「宗一郎氏の夢のせて・・ホンダジェット初飛行。創業者本田宗一郎氏が航空機事業に参入を表明した1962年から約50年を経てようやく実現への道を踏み出した・・・」とあります。

 
 特徴は、主翼から後ろ上部に突出したウイングにエンジンが装着されている・・・(B-52爆撃機などは主翼から吊り下げ式)
 
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 【you tubeで見る↓】


 
当時HONDAは宗一郎氏の指揮のもと、飛行機用HONDA倒立空冷V型8シリンダーエンジン」を開発したことで、運輸省、通産省、朝日新聞社の協力を得るべく奔走したのでしょう。

昭和37年(1962)1月の年頭早々、朝日新聞紙上に『ホンダエンジンを載せた軽飛行機の設計募集』を打ち出したのです。

(主催)朝日新聞社 (後援)通商産業省、運輸省 (協賛)本田技術研究所
一席(1名)【賞状】通産大臣杯、運輸大臣杯、村山杯、【副賞200万円】
次席(4名)【賞状】  【副賞5万円】
佳作(10名)【賞状】【副賞1万円】

・・(新入社員就業6年目、未婚の私、給料が18,000/月の時代でしたよ)
 
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  小学2年生の頃、グラマン、カーチス等の艦載機や、B24B29の空襲に苛まれ、松山城北練兵場で身近に眺めた海軍戦闘機等の影響か、飛行機に興味を持っていたものですから「チャンス到来!応募するぞ!」とばかり、5月〆切までの間、情熱を注ぎ込んだのです。
 
当時は週休1日の時代、遊び盛りのこの時期に、友人そっちのけで日曜も春爛漫も返上で、「航空力学教程」の参考書を片手に設計に没頭したのです。

それほど迄に集中して情熱を注ぎ込んだのは、学生時代を含め始めてのことでした。

 藁半紙に下書きして構想を練り、仕上げてゆく作業の連続でした。
雲形定規や線引き用烏口を片手に、トレーシング・ペーパーに3面図と仕様書を書き写して仕上げ、〆切に間に合うよう応募しました。


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応募した作品には参加賞として「記念メタル」が送付されて来ました。
ずっしりと重い直径80mm、厚さ3mm、ビロード化粧箱入りの「燻し銀メタル」です。


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枚の写真に「メタル」の表と裏の写真・・・そうです、参加作品1点ごとに1枚届いたのです。
  「単発低翼機」「単発高翼機」「双発高翼機」「双発低翼機」の4機の図面を応募したのです。
 
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メタルの・・・
●表面には・・[DESIGN COMPETITION  LIGHT PLANE  1962]とあり「ライトの複葉機とコンパス」の絵。
 ●裏面には・・「軽飛行機設計募集 参加記念」  (主催)朝日新聞社 (後援)通商産業省・運輸省 (協賛)本田技術研究所
 
主催者側で、応募予想は450件くらいと見ていたようですが、思いのほか応募があり、用意していた参加賞を急遽追加発注しなければならなくなったと新聞報道されたりしていました。
最終応募総数は[2,289件]であったと7月14日の新聞に「入選発表記事」と共に掲載されました。
私の傑作は、佳作にも入選せず!・・・の結果でしたが、なんと多くの日本の若者達が、私と同様にこの期間、情熱の火を燃やし続けたことか・・・が伺える次第だったのです。
 

ただ、残念なことには、入選作品が何処ででも見られるようなオーソドックス過ぎる機体に終始していることと、この入選作品の試作機は作られたのでしょうが「ホンダエンジン」を搭載して空を飛んだというニュースが今日まで報道されていないことなのです。

 そういう意味で「ホンダ・ジェット機の初飛行」は50年振りの、執念の成果だと言えるでしょう。

50年も前に、この壮大な計画の一端に協力した者の一人として、感慨深いものを感じております。

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【参考】↓
 
 
 
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