マニラからの民間人引揚げ、捕虜輸送の「鴨緑丸」の沈没・・・
昭和19年(1944)12月、米国の奪還が迫ってきたマニラ市街・・・鴨緑丸が最後の引揚船ということで、多数の在留邦人が殺到しました。引揚一般邦人、遭難船員、捕虜(1619名)など約3500余名を乗せて、12月13日18時10分マニラ岸壁を出航したが、その日は港外錨地に仮泊しました。
翌日4時40分抜錨、駆逐艦・桃、第60号駆潜艇に護衛されて北上、高雄に向かいました。
この頃、本船は海軍砲1門、7センチ高射砲2門、25ミリと13ミリ機関砲各6基という重武装が施されていました。
出航4時間後に米第38機動部隊艦載機(TBF雷撃機)が飛来、その猛襲が15日まで継続、雷撃機は6機~13機編隊で銃爆撃を繰返したが、14日は11波で延べ118機、15日は12波延べ170機が来襲したのです。
鴨緑丸はスービック湾へ退避し、更にオロンガポ港内で12月15日に轟沈したのです。
沈船からは米軍が機関砲を引き揚げオロンガポ市街に「鴨緑丸記念碑」が設置されております。
【参考】
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965797.html
神戸~大連航路時代の「鴨緑丸」
鴨緑丸はスービック湾口のスエステポイントへ一時退避す
スエステポイントでも執拗な攻撃は続いた
鴨緑丸はスエステポイントから更に湾内に移動した
スービック湾を為す術もなくさまよう鴨緑丸
鴨緑丸の沈没近し、捕虜や民間人がスービック湾で船を放棄し岸へ泳いでいる
オロンガポ海軍基地スービック湾に沈みゆく鴨緑丸
現在のオロンガポ市
(1=鴨緑丸の沈没地点) (3=「鴨緑丸記念碑」のあるところ)
鴨緑丸は1952年に水中から引き上げられました。
後ろには、キュービポイント海軍航空基地での作業が開始されていることがわかります
「鴨緑丸記念碑」オロンガポ市に同僚が設置した(1952年)
1952年11月11日、米兵同僚によって捧げられました。
1944年12月15日 「俘虜輸送船・鴨緑丸」がスービック湾で
アメリカの攻撃機により沈没した。
エドワード T. ダーリング
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