日露戦争(1904~05年)時に日本国内に7万人以上が収容されたロシア将兵捕虜の生活や処遇が記録として残されております。
 捕虜とは言いながら彼等は丁重なもてなしと監視のもと、市内見物など比較的自由な時間を費やしていた事が見受けられます。

【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月22日      大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃

1904年8月30日      遼陽会戦

1904年10月9日      沙河会戦

1904年10月15日    バルチック艦隊出航

1904年11月26日    第二回旅順総攻撃

1904年12月5日      日本軍、旅順口203高地を占領

1904年12月31日    第三回旅順総攻撃

1905年1月2日       旅順開城

1905年1月25日      黒溝台会戦

1905年3月1日       奉天会戦

1905年5月27日      日本海海戦

1905年6月9日       セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告

1905年6月12日      ロシア、講和勧告を正式に受諾

1905年7月7日       日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)

1905年7月31日      日本軍、樺太を占領

1905年8月9日       ポーツマスで日露講和会議が始まる

1905年9月1日       日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

1905年9月5日       日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

1905年10月14日    日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]



ロ シ ア 兵 捕 虜 収 容 所
(((ロシア戦争捕虜高浜港




   松山・捕虜収容所のロシア兵捕虜 (1905年)


  松山・捕虜収容所のロシア兵捕虜 (1905年)

((●松山01
松山市の繁華街大街道を散策するロシア兵捕虜

(((ps002
旅順から松山市公会堂収容所に移送された捕虜のロシア将校

(((ps008
松山郊外の郡中(伊予市)の彩浜館で接待を受ける捕虜のロシア将校
(1904年9月25日)

(((ps005
京都・智積院収容所の庭で記念撮影するロシア将校。
智積院には日本海海戦でバルチック艦隊を率いた
ロジェストベンスキー提督等が収容された。

(((ps007
大阪の収容所敷地内のあずまやの前に立つ捕虜。天王寺周辺とみられる

(((ps003
収容所となった松山・正宗寺の中庭で記念撮影する捕虜

((●道後awps004
旅順から松山・勧善社収容所に移送された捕虜のロシア水兵

(((ps010
松山でロシア将校に返還中のサーベル(1905年10月)

((●道後ps001
松山・道後で日本人負傷兵の家族に囲まれる捕虜のロシア将校

((●道後ps009
松山で収容中に死亡した仲間の葬儀に参列する捕虜


赤 十 字 病 院
(((+日本看護婦history-006
赤十字病院の看護婦

(((plc4WJZ
当時の礼状に使われた看護婦の絵葉書

(((にほん3
パフスリーブ看護服の従軍看護婦

(((パフスリーブ
従軍看護婦

(((+日本軍病院
仁川の野戦病院内の日本負傷兵

(((+野戦病院129
仁川の野戦病院での看護婦の働き