【この頃の朝鮮史概略】1894年8月・・【日清戦争】李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく朝鮮で衝突、「日清戦争」が勃発した。
【日本の宣戦布告文】
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。 (朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず「清国」は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)
1895年4月・・日清戦争に勝利(下関条約調印・・朝鮮は独立国である)
1897年10月・・下関条約により「清の属国から開放」され「大韓帝国」として独立した。
1903年・・・・満州を拠点化したロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。
1904年2月・・日露戦争勃発
1904年8月・・第1次日韓協約・日本の保護国化への第一歩。
1905年9月・・日露戦争に勝利・露から韓国への排他的指導権が消滅。1905年11月・・第2次日韓協約(乙巳保護条約)・大韓帝国は事実上、日本の保護国となり韓国総監府が設置され伊藤博文が「韓国の富強の実を認むるに至る迄」の条件で初代総監に就任。
1909年・・・李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、欧米列強に莫大な借金、土地資源の抵当で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭して、日本への併合を望む声が高まり暴動に発展した。
1909年10月・・韓国総監・伊藤博文が満州のハルピン駅ホームで安重根に暗殺される。
1910年8月・・日韓両国併合(韓国皇帝、純宗が「請願」し、総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた。日本が自立出来ない李氏朝鮮の破綻財政を肩代わりして解決)
1911年8月・・朝鮮教育令公布・・ハングル必修科目になる(文盲率70%であった為)
1919年3月・・「3・1運動」日本統治の改革により特権を奪われた両班の一部が暴動。
第二次日韓協約(全文)1905年11月17日
- 第1条:日本国政府は、東京にある外務省により今後韓国の外国に対する関係および事務を監理指揮するものとし、日本国の外交代表者および領事は、外国における韓国の臣民および利益を保護するものとする。
- 第2条:日本国政府は、韓国と他国との間に現存する条約の実行を全うする任務に当たり、韓国政府は、今後日本国政府の仲介によらずして国際的性質を有する何らの条約もしくは約束をしないことを約する。
- 第3条:日本国政府は、その代表者として韓国皇帝陛下の下に統監(resident general)を置く。統監は、外交に関する事項を管理するため京城に駐在し親しく韓国皇帝陛下に内謁する権利を有する。日本国政府は韓国の各開港場およびその他日本国政府の必要と認める地に理事官(resident)を置く権利を有する。理事官は、統監の指揮の下で、従来在韓国日本領事に属した一切の職権を執行し、ならびに本協約の条款を完全に実行するために必要とすべき一切の事務を掌理するものとする。
- 第4条:日本国と韓国との間に現存する条約および約束は本協約の条款に抵触しないかぎり全てその効力を継続するものとする。
- 第5条:日本国政府は韓国皇室の安寧と尊厳を維持することを保証する。
- 右証據トシテ下名ハ本國政府ヲリ相當ノ委任ヲ受ケ本協約ニ記名調印スルモノナリ
- 明治三十八年十一月十七日 特命全權公使 林權助
- 光武九年十一月十七日 外部大臣 朴齊純
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