内子と五十崎の境界線のように竜王城址の丘陵が有ります。
この丘陵は内子町内からは、ほぼ何処からでも眺められる小山です。
その山の頂上に、周辺町村から出征した兵士の戦死者を祀った「忠魂碑」が建てられており、頭上に48cm砲弾を頂いたコンクリート造り、10数メーターもある白い塔で町内からいつも見え隠れしておりました。
ただ、直下には小田川が流れ周辺は崖になっていて、その「忠魂碑」へ行くには、鳥越の斎場付近を通り、西の方から2kmほどの遠回り細道のため、お参りされる方は殆んど居なかったようです。
小学校4年生、5年生の時、その『忠魂碑』周辺の清掃をするため、学校から引率されて2度行った事があります。
昭和25年の頃ですが、訳も判らず「ちゅうこんひん」の草引きと清掃と言っていたと思います。
山頂、龍王城址の約10mの坂を登った土塁上に忠魂碑がありました。
『忠魂碑』には正面に「忠魂」と記した銘石板が彫り込まれ、頂上には艦砲用の48cm砲弾が鎮座していました。
(頂上の砲弾は残されていません)【碑文】鈴木荘六 陸軍大将の揮毫です。
正面下には鉄扉があり、中に英霊の写真が奉献できるように成っているようでした。
普通一般の「忠魂碑」は御影石に碑文を彫り込んだだけのものですが、内子のそれは日本の何処にも無いような、大きくて立派なものでした。
調べてみますと、昭和10年(1935年)3月に「日露戦役三十周年」を記念して、周辺町村合同で建立されたものでした。
町の是として「古い町並みを守り続けている
内子町 」のことですから、この昭和10年に建立された『忠魂碑』は、戦没者の慰霊に先人が、遺族が手を合わせ祈念した大切なものとして、今でも大切に守られているものと考えていましたが、昭和47年(1972)12月に「建替え」られておりました。
【理由】は「霊安室」に雨漏りが激しくなった・・・とのこと。
永久に祀られるべく造られた、コンクリートで固めた要塞の様な頑強な建造物が建造後、たかが37年で雨漏りで使用不能は有り得ないのですが・・・当地の「戦没者遺族会」中心に進行された様でした。
●今で云う「結露」で霊安室が水浸しであったのだろうと考えられます。(当時は、結露の原理が一般的に知られていなかった・・・密閉度の高いマンションが普及した頃より問題化した)
●平和が叫ばれるその時代に、「天上の砲弾」は相応しくないという負い目もあったのでしょう。 (砲弾は残されていません)
作者「まっしゃん」(大瀬本町の島崎さん)は2012年9月、八幡浜港に於いて不慮の事故に遭われ、亡くなられました。心からご冥福をお祈り申し上げます
●戦場に散った英霊に捧ぐ(1)↓
●戦場に散った英霊に捧ぐ(2)↓
https://www.youtube.com/watch?v=jBLh-v0yJr0&t=7s
● 忘れかけの内子町風景 ↓
① 内子小学校、中学校と新天神さま・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html
② 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html
③ 知清河原と龍宮淵・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html
④ 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html
⑤ 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html
⑥ 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html