2021年01月
太平洋戦争の残影㉜ 南方最前線でのスナップ
忘れかけの内子町風景・・⑮ 実業家 高畑 誠一
晩年、神戸にお住いの高畑誠一翁は、昭和50年頃だったか大阪で行われた内子町出身者の「内子会」に老齢を押して参加されたことが有り、私もその時初めての拝顔でした。
明治20(1887)年内子町で生まれる。生家は内子町本町2丁目かなり古い家系で、高畑誠一は14代目に当たる。呉服、食料品、日用雑貨までなんでも扱う小売店をやっていた。
旧制西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)を経て (旧制)神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業。
神戸高商在学中は三井物産入社を志望していたが、尊敬する水島銕也校長の推薦ということで明治42(1909)年3月に鈴木商店に入社。
大正元(1912)年、当時は世界の政治経済の中心であったロンドン支店勤務となる。
大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発すると、鈴木商店の番頭金子直吉の指示で投機的な買付を指揮する。また本国を介さない三国間貿易を日本人として初めて手がけ、鈴木商店のビジネス拡大に大きく貢献した。更に第一次大戦中には、連合国を相手に大活躍し、連合国向け食糧注文を受け、船もろとも売り渡す「一船売り」の離れ業をやってのけ、「高畑は、カイゼル(皇帝)のような男だ」とチャーチルに言わせたほど評判になった。
合成アンモニア製造特許を取得してクロード窒素工業(現・下関三井化学)の設立、ケニアのマガディソーダの販売権を獲得太陽曹達(現・太陽鉱工)の設立に繋げた。
昭和2(1927)年に鈴木商店の経営が破綻すると、昭和3(1928)年、高畑は永井幸太郎とともに、鈴木商店の子会社だった日本商業を日商と改め再出発を図り、「Small, slow but steady」(ちっぽけで、歩みも遅くとも堅実に行こう)を社是に同社を総合商社に育て上げた。
昭和20(1945)年には日商(現、双日)の代表取締役会長に就任した。(~1963年)
「ふるさと断章」 高畑 誠一 (日商会長、日本火災社長時代の筆)
老境に近づくと、とかく昔のことは忘れがちであるが、生まれ故郷の山また山に囲まれた内子の町の印象は深い。然し僕の如く中学に入る十二、三才までしか故郷におらず、高等小学三年で郷里を相当離れている西条中学校入学以来は、夏と冬の休みだけしか両親のもとに帰る機会を持たなかった者にとっては、生まれ故郷と共に物心ついた中学時代の丸五年を過ごした西条が第二の故郷とも云える。しかも就職後には海外生活が永いし、不便な故郷を訪れるのは時たまの墓参くらいである。
郷里内子は、ちょうど京の東山を見る様な「ふとん着て寝たる姿や、神南山」とでも駄句り得る、標高二千尺足らず(710m)南北に長く走る神南山と、南にそびえる高森山を朝夕に眺め、その山間を縫う伊予第一の大河肱川の清流を近くに控えた、風光明媚とはいかないが、当時は人口三千人内外、今は周辺の諸村を併合して二万余りの田舎町、河口の海岸にはほど遠い小邑に生をうけたが、付近の山林の材木や竹材などが土産物で、日鉱のドル箱、大久喜鉱山は隣村に在位して、今なお稼働中と思う。
日銀紙幣の原料三椏(みつまた)は郷土の特産品である。
昔は櫨の実を近在の村より買い集め、これを晒す木蝋と地方の養蚕による生糸と、製紙の家内工業が盛んで、父も木蝋や生糸の製造の豆工場を経営し木蝋を神戸の喜多組と云う問屋に売っていたのを記憶する。今は木蝋の事業は全消滅し、小規模の生糸業は残っていたが、これも時代の変遷で大企業に集中されて、今では大阪の岩田商事の資本系統である内山製糸株式会社に吸収統合され、その他材木集散の中継地として、また輸出竹細工などの小工場が僅かに気焔をあげている。
このように文化から離れている内子町ではあるが、日本一と称するものが二つある。
その一つは、旧暦八月十二日に開催される五穀神社の奉納素人相撲で観客二万を越し、大賑わいを呈する年中行事である。他の一つは町民が上と下との二組に分かれて肱川の両岸の河原に対陣し、数畳敷にもわたる紙の大凧を何十となく上げて、糸に金属のガンガリを付け、凧の空中合戦を演じて敵の凧を落とすという、他には見られない珍競技である。
また田舎町にも似ず上の学校へ行く人が割合多いのは、当時、安達玄杏国師と菊池石蔵という酒造家の二先駆者と云うか、篤志家が居て自費で地方の有望な青年を都会に送って勉強させたおかげである。日本ビールの高橋竜太郎翁とか、京大出の小野田セメント技師長専務の故菊池愛太郎氏、池貝鉄工所創設者蔵前出の故池田辰和氏、海軍兵学校出の潜航艇の最高権威者重岡信治郎中将等がある。特に重岡中将は尚武会を創設して地方の青年の育英に当たり、体育と学問を大いに奨励した人格者である。今でも覚えているが、郷里には田舎にしては珍しいハイカラ先生が近所に居て、英語を少々かじっていたから、僕は小学校に入学すると、すぐこの先生に付いて It is a dog に始まるナショナルリーダーを、また加藤という漢字の先生に論語を教えて貰ったもので、今から六十年以上も昔の話です。
夏休みには進学した先輩が帰ってきて、尚武会主催のベースボールやテニスをやったり、講演会をやる、僕もこれに参加する。
僕の小学校の時代には内子の町には中学校は無く、三里を隔てた大洲町にもその頃まで中学校は無いため、少々遠隔地ではあったが、山路七里を歩き郡中へ、それより豆汽車で三里もある旧久松藩城下の松山中学へ入学を志願して試験を受けに行った。然し心臓が悪いとの理由で、体格で跳ねられてしまって、学科試験を受けさせてもらえず、笈を負うて田舎を捨てて都会に出たものの出鼻をくじかれて非常に失望した。
幼少時代に、脈が正調を欠いていたのは、父が酒を飲んだ祟りだと思う。
同郷の先輩や友人は皆、この松山中学に学んでいるのに悔しくてたまらぬ。
当時、二年の先輩で後に三高の鬼ピッチャーとならした菊池秀次郎君も松中に在学していた。
一時は途方に暮れたが致し方がない。松中を断念する他なく、松山より遠くて不便であるが、海岸が非常に遠浅で有名であった西条町の中学の門をたたくことにして、わざわざ義兄を煩わせて同校の校医に松中での体格検査の事情を打ち明けて頼み込み、ようやく幼げな体格をパスさせてもらって、入学試験を受けた次第で、幸か不幸かこれが僕の幼年時代の大きな出来事であったというのは、西条中学と云うのは凡ての点で松中に比べて一籌を輪していたと思っていたため、これがかえって刺激となり人一倍勉強した。その甲斐が有ったのか中学三年の頃には、既に英語と数学では高等学校の入学試験に満点近くでパスし得る自信を持つところまで漕ぎつけていた。
夏休みには神戸まで来て海岸の遊歩地辺りを散歩する紅毛人等をつかまえて、英会話の押売りをしたり、米人宣教師の宅へ行くのを楽しみにした。
西条中学卒業は明治三十八年の日露開戦前後の秋である。
西条の町は四国第一の海抜六千尺の石鎚山の麓で、そのなだらかな裾野が海岸まで尾を引いており石鎚に発する加茂川の水も中途で地下の伏流となって郊外の所々に掘抜き井戸として清水がこんこんと湧出する。その末端海岸辺に西条や壬生川、新居浜の町を形成している。昔、僕の中学時代には商業港今治から小さな蒸気船で西条の沖に着き、艀に乗り換え、陸に近づき更に遠浅な浜辺を春先には潮干狩りなどを眺めながら、水中を手荷物を積んで乗る人力車で、数町もの距離を運ばれて上陸するという日本では他に類例のない珍景の港であった。
西条中学は堀に囲まれた松平藩の旧城跡に建てられているから、勉強や運動には最適の地であった。運動場の塀を超すと芋畑がある。ボールが塀を超すと拾いに行き芋を掘り焼いて食べたりしたこともある。
僕の西条時代には英語の先生が三人居た。一人は坂田幸三郎氏で、当時煙草王として知られた村井吉兵衛さんの女婿と成った人。一人は国民新聞に入り、その社長となった伊達源一郎氏、今一人は英語の上手な亀野景次先生で三人共に米国帰りのペラペラ。僕がこれらの洋行帰りの先輩に師事したのは今でも感謝している。
西条生活五年も終了を遂げようとする間際に、好事魔多し、急性肺炎にかかり、卒業試験が受けられなかったが、卒業免状はもらったので、一橋入学の意図を抱き上京の途次神戸に立寄ったところ、西条中学の二年先輩、国際連盟で男を挙げた外交官、今の法学博士伊藤述史君の切なる勧めもあったし、また病後のこともあったので神戸高商に入ることに変心したのである。
松中に入ろうとして体格で跳ねられ西条中学に行き、一橋入学を希望しながら途中の道草で神戸高商の入ると云うように、全然思いも依らぬ道程を辿るのも人の運命である。
神戸高商を卒業した為、神戸の鈴木商店に入り、若いのにロンドンに行く機会を得た。
着英早々にフラットのコースであるフェルウェル・ゴルフクラブでゴルフを始めると、幼年時代からの脈の結滞していた心臓が六ヶ月で治った。ウソのようだが本当である。爾来心臓に故障が無い。
ゴルフは僕の命の助けの親であるから、ゴルフのためなら何でもする。余り名誉ではないかも知れぬが、今では日本最古のゴルファーの一人である。
● 忘れかけの内子町風景 ↓
① 内子小学校、中学校と新天神さま・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html
② 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html
③ 知清河原と龍宮淵・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html
④ 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html
⑤ 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html
⑥ 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html