漠然と【南方海上】とされていた撃沈の場所も、下記記事により特定できました。 ●『昭和18年11月27日、ニュー・アイルランド島カピエン西方チンオン島沖で、ラバウル野戦病院からの傷病兵1,129名を乗せた病院船「ブエノスアイレス丸」は米軍B24爆撃機に爆撃され沈没する。
患者、看護婦、乗組員は16隻の救命ボートと発動機艇2隻で漂流するが、12月1日、同じくB‐24に発見された。
この時、漂流中の乗員はB‐24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む158名が戦死している。』
第33話の③・・ぶえのすあいれす丸の沈没・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9067673.html
・・・をご覧になって、当時乗務員だった片山武夫二等航海士のご子息から「ぶえのすあいれす丸、轟沈時の絵図が残っています」との連絡が有り、ご好意により見せて戴きました。・ぶえのすあいれす丸の船長と、片山二等航海士が帰国後、大阪商船の嘱託画家・大久保一郎画伯を通じて忠実に描かせた「沈没時の周辺状況絵図」が残されていたのです。
↑ 沈み行く・・・ぶえのすあいれす丸
↑ 沈み行く・・・ぶえのすあいれす丸 橋本睦郎 画
↑ 轟沈されてから20数日してからの新聞記事
●乗船の看護婦、原田初枝さん(主婦・元大津赤十字病院婦長)の手記
{爆撃を受けた病院船ぶえのすあいれす丸}
昭和18年9月、私は三度目の招集令状を受取り、宇品港より『ぶえのすあいれす丸』に乗船して出発、10月2日ラバウルに上陸した。
ニューブリテン島のラバウル赤根岬にある第94兵站病院に勤務していたが、やがて日増しに戦が激しくなり、毎日爆撃があって、最早女性の勤務するところではなくなり、ニューアイルランド島への転属命令が下された。再び懐かしい『ぶえのすあいれす丸』に乗船した。
・・・中略・・・
ラバウルを出港して2日目の昭和18年11月27日のことです。
部屋では食後のひとときをそれぞれ思いのままに楽しんでいた。
私は一人でトランプ占いをしていたが、今日は少しもついていないと言いながらトランプをめくっていた。
その瞬間ピンピンピンと、船が何かに突き当たったような、また地震のような揺れを感じた。
「やられた!」と誰かがいった。
エンジンの音が止まり、隣の将校病室からどやどやと患者が出てきた。
襲撃された瞬間に全員の荷物が放り出され、足の踏み場もない有様となった。
爆音が遠く聞こえる中、思わず救命胴衣に手が届く。
・・・中略・・・
その時兵士に「看護婦さん、早く!何しているのだ」とせき立てられて慌てて左舷の中甲板に出た。
見ればすでにボートは全部降ろされ、海上はボートと人で一杯だ。
通路には、これまた多くの将校患者がいる。
我先にと船の手すりにつかまりながら昇ってくる。
幾本もの縄梯子がおろされた。
見るも恐ろしい。
私は「さあ、早くしっかり縄をつかんで降りなさいね」と言いきかせつつ、患者の帯を後ろより持って一人ひとり降ろしていった。
覗き見ると、大きなギプスや飛行機材で作った副木をつけた人が、無事に海面に浮いていた。
・・・中略・・・
海水が膝まで覆ってきた。
40度くらいの傾斜があり、中川が足を取られて甲板上で沈み、彼女を引き上げ二人で左舷に行こうとしたが、またしても中川が今度は投身よけの網に靴を引っ掛け、なかなか抜けない。
ようやく靴が脱げ二人は船の外に泳ぎ出た。
私は琵琶湖畔で育ったため泳ぎには自信があった。
二人で肩を組み、船に巻き込まれないように沖へと泳いだ。
「死ぬ時は二人で死のうね」と言いながら20メートルほど泳いだとき、目の前に幅5、6寸、長さ一間ぐらいの板がぽかぽか浮いているのを見つけた。
板に泳ぎついて、二人でその板につかまり泳ぎ続ける。
海面は一面浮遊物、人、ボート、ブイでいっぱいだった。
「船が・・・船が沈む!・・・」の大声に振り向くと、船は次第に船尾から水没しかけていた。
・・・中略・・・
海水と油で顔はぬるぬるするばかりか、油が目にしみて痛い。
ブイに引き寄せられたが、すでに4、5人がつかまっていた。
真っ白い船体、緑の横線、船上の赤十字のマークも鮮やかに、船尾よりブクブクと船が沈んでいった。・・・ (つづく・・・)
【ぶえのすあいれす丸の沈没】
http://vaccine.sblo.jp/article/1196804.html?reload=2010-09-18T11:18:28 より
1943年8月17日:
ビスマルク海。 南緯01-14S、東経148-13Eで未知のアメリカ航空機、おそらくUSA-AF B-25に攻撃された。
1943年8月18日:
ラバウルに到着。 ブエノスアイレス丸は、船体の周りに緑のストライプが描かれた白く塗装されています。 彼女は艦橋の近くに番号8976を持ち、漏斗と船体の側面に大きな赤い十字を表示しています。
1943年8月19日:ラバウルを出発。
1943年8月29日:マニラに到着。
1943年8月30日:マニラを出港します。
1943年9月5日:門司に到着。
1943年9月10日:宇品を出港。
1943年 9月20日:ラバウルに到着。1943年10月11日:ラバウルを出発
1943年10月21日:宇品に到着。
1943年11月15日:宇品を出発して神戸へ。
1943年11月22日:ニューブリテンのラバウルに到着。
1943年11月26日:
正体不明の船団でパラオに向けてラバウルを出発。 ブエノスアイレスマルには、63人の看護師と、ラバウル海軍病院から送還された不明の数の日本人軍人と、1,129人の負傷者および病気のIJA兵士がいます。 [3]
1943年11月27日:
ニューハノーバーとニューアイルランドの間のステフェン海峡、ビスマルクス。 08時30分頃、B-24「解放者」重爆撃機が病院船BUENOS AIRES MARUを誤って爆撃しました。 爆弾は船体に損傷を与え、エンジンルームを水浸しにします。 ブエノスアイレスマルがリストに加わりました。 08時50分に、彼女は南緯02-40S、東経149-20Eにセントマチアス島沖の船首に沈みます。 生存者は、16隻の救命ボートと2回のモーターローンチを行います。 [4]
1943年12月3日:
不明なIJNサブチェッカーは約1,000人の生存者を救出しますが、ブエノスアイレス丸に乗った158人の男性と看護師が沈没で死亡するか、救命ボートで死亡します。 [5]1943年12月15日:
日本の外務省はメッセージ467を主要な大使館に派遣し、「日本の病院船ブエノスアイレス丸は米国の航空機、連結B-24によって攻撃されました。船は港側で爆弾に襲われ、約40分沈没しました。 」 負傷した兵士、医師、休暇で帰宅する大勢の看護師などの生存者は、18人の救命ボートに押し込まれました。 メッセージは、赤い十字を形成する赤いシートが上空に保持されていたにもかかわらず、わずか約300フィートの高度で入ってくるアメリカの飛行機が救命艇を機関銃で発射したことを報告し続けています。 コミュニケはまた、ブエノスアイレスマルへの攻撃は孤立した事件ではなかったと報告し、10機の他の明確にマークされた病院船がアメリカの航空機によって攻撃されたと述べています。 [6]