泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2018年11月


 私の父親・泰山がラバウル従軍中にマラリアに感染し、病院船「ぶえのすあいれす丸」で内地へ帰途の2日目、B-24の空爆で撃沈され漂流の末に救助・・・昭和19年正月には広島江波陸軍病院へ帰還、数日後、善通寺陸軍病院(香川県)に収容されていたのです。


漠然と【南方海上】とされていた撃沈の場所も、下記記事により特定できました。
http://plaza.rakuten.co.jp/kaze2534/diary/?PageId=1&ctgy=0・・から引用した記事】↓ 

●『昭和18年11月27日、ニュー・アイルランド島カピエン西方チンオン島沖で、ラバウル野戦病院からの傷病兵1,129名を乗せた病院船「ブエノスアイレス丸」は米軍B24爆撃機に爆撃され沈没する。
患者、看護婦、乗組員は16隻の救命ボートと発動機艇2隻で漂流するが、12月1日、同じくB‐24に発見された。
この時、漂流中の乗員はB‐24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む158名が戦死している。』

 
 ところが、私の2/18の下記記事・・・

第33話の③・・ぶえのすあいれす丸の沈没・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9067673.html

・・・をご覧になって、当時乗務員だった片山武夫二等航海士のご子息から「ぶえのすあいれす丸、轟沈時の絵図が残っています」との連絡が有り、ご好意により見せて戴きました。

 拝見してゆくうちに、作者大久保画伯の力量もさることながら、辛苦の末に帰還、ご協力された多くの船舶関連者の事を想い、先人の崇高な精神に、止め処なく泣けてきて手を合わせていました。

・ぶえのすあいれす丸の船長と、片山二等航海士が帰国後、大阪商船の嘱託画家・大久保一郎画伯を通じて忠実に描かせた「沈没時の周辺状況絵図」が残されていたのです。

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        ↑ 船尾付近に被爆した「ぶえのすあいれす丸」


 大阪商船(大阪商船三井船舶)の嘱託画家・大久保一郎は「戦時輸送船の最期」という貴重な記録画の連作を残して、その絵が昭和57年、大阪市中之島の大阪ビル(通称大ビル)地下倉庫で発見されたのだが、その6年前(1976)に84歳でこの世を去っていた。
 亡くなる前に、大久保は次のようなことを文章に残している。
 「陸軍や海軍の御用船(軍部に徴用された商船のこと)になった社船が、敵に撃沈されますと、その生き残りの船員たちから、同社船の遭難の状況を克明に聞きとり、それを忠実に絵に描いたわけです。 かれこれ80枚くらい描きました」
 これらの絵は画家の想像で描いたものではなく、生き残った乗組員の体験と報告に基づいた、忠実な記録でした。
発見されたのは37枚だったが、実際は80枚余りもの作品を描いていたのだ。
では、残りの40枚以上の絵はどこへ消えてしまったのだろう。
 
戦時中の従軍画家となって軍部に協力し、国民の戦意を奮い立たせる目的で、勇壮な戦争画を描いた画家は大勢居ましたが、大久保の絵は「悲惨な海上輸送戦における、敗北の記録画」である。
 岡田社長の指示とは云え、憲兵隊や警察の目が厳しかった戦時中に、日本軍の負けいくさの真相を書き残すということは国賊もので、余程の覚悟か、特別の目的がなければむつかしいことだった。
 味方の輸送船や戦艦が敵に撃沈されても、軍の作戦上の秘密として、一切発表されない時代、輸送船の海の悲劇(戦争海難計2,394隻)など、多くの国民には何も知らされていなかった。
(この解説は【画集・戦時徴用船の最期】と【海に墓標を】から抜粋させてもらいました)

 
●1・・「ぶえのすあいれす丸」沈没時のドキュメント・・
 陸軍の徴用船「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)は戦時病院船として任務に就いていた。
 真っ白に塗った船体の横腹と、煙突に赤十字のマークがくっきりと書かれ、空からも判るように甲板にも、一辺の長さが36メートルもある赤十字マークが書かれていた。
 それは8千メートルの高空からでも識別できる大きさだった。
 病院船は赤十字国際条約によって、海上における中立国とみなされる。
 したがって交戦国は、その船の安全を保障し、攻撃してはならないことになっている。
 とはいっても、中には病院船を装いながら、元気な兵隊に白衣を着せて乗せたり、軍需物資をこっそり輸送させたりする指揮官もいたから、相手国としては監視を怠るわけにはゆかない。
 
 「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)は、昭和181126日ラバウル及びココポで運送患者1,129名、便乗者63名を乗せてパラオに向かった。
 国際条約に違反するものは何も積んでいなかった。
 だから乗船負傷兵も乗組員も、赤十字マークを信頼し、安心して祖国への航路を急いでいたのである。
 1127日、朝から快晴で風もなく、波もたたず、海は青いペンキを塗ったように輝き、船べりに砕ける波だけが白かった。
 朝食後の甲板では、白衣の傷病兵たちが看護婦に付き添われて、散歩したり、船べりにもたれて歌を歌ったりしていた。
 
 乗組員の見張りを各所に配置し、厳重警戒航行中のところ、午前810分頃、南緯240分、東経14920分の地点に於いて、米空軍の爆撃機B241機雲間から現れた。
 高度は約1,200メートル、眼下の白い船の甲板に書かれた赤十字のマークは、もちろん見えすぎるくらいよく見える高度だ。

 敵機は爆弾を投下し始めた、。
 投下された爆弾の一発が後部左舷側に吊り出した端艇を貫通し、第4、第5番艙隔壁付近の舷外付近で、轟音と共に炸裂し、船体に大破裂口を生じた。
 この為、海水はシャフトトンネルを通じて、舵機室及び機関室に侵入し、乗組員は極力排水に務めたが、浸水は急速に進み危険状態になったため、同817分船長は病院船医長に乗艇用意を通告した。
 患者達は殆んど救命艇に移乗し避難したが、その後も左舷への傾斜が激しくなり、850分同船はついに船尾より沈没していった。
 戦場には国際条約も人道主義もない。あるのはただ暴力と野蛮な殺し合いだけである。


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         ↑ 沈み行く・・・ぶえのすあいれす丸

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    ↑ 沈み行く・・・ぶえのすあいれす丸      橋本睦郎 画

 
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↑ぶえのすあいれす丸はラバウル出航2日目、チンウォン島沖の×印に於いて轟沈す
 

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ぶえのすあいれす丸沈没時実写々真?  船首を上げて沈みゆく船と救命ボート

 

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        ↑ 轟沈されてから20数日してからの新聞記事


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【ぶえのすあいれす丸撃沈事件  1943(昭和18)年11月27日 】


●乗船の看護婦、原田初枝さん(主婦・元大津赤十字病院婦長)の手記

{爆撃を受けた病院船ぶえのすあいれす丸}

 昭和18年9月、私は三度目の招集令状を受取り、宇品港より『ぶえのすあいれす丸』に乗船して出発、10月2日ラバウルに上陸した。
 ニューブリテン島のラバウル赤根岬にある第94兵站病院に勤務していたが、やがて日増しに戦が激しくなり、毎日爆撃があって、最早女性の勤務するところではなくなり、ニューアイルランド島への転属命令が下された。再び懐かしい『ぶえのすあいれす丸』に乗船した。
・・・中略・・・

 ラバウルを出港して2日目の
昭和18年11月27日のことです。
 部屋では食後のひとときをそれぞれ思いのままに楽しんでいた。
私は一人でトランプ占いをしていたが、今日は少しもついていないと言いながらトランプをめくっていた。
その瞬間ピンピンピンと、船が何かに突き当たったような、また地震のような揺れを感じた。
「やられた!」と誰かがいった。
エンジンの音が止まり、隣の将校病室からどやどやと患者が出てきた。
襲撃された瞬間に全員の荷物が放り出され、足の踏み場もない有様となった。
爆音が遠く聞こえる中、思わず救命胴衣に手が届く。

・・・中略・・・

 その時兵士に「看護婦さん、早く!何しているのだ」とせき立てられて慌てて左舷の中甲板に出た。
見ればすでにボートは全部降ろされ、海上はボートと人で一杯だ。
通路には、これまた多くの将校患者がいる。
我先にと船の手すりにつかまりながら昇ってくる。
幾本もの縄梯子がおろされた。
見るも恐ろしい。

 私は「さあ、早くしっかり縄をつかんで降りなさいね」と言いきかせつつ、患者の帯を後ろより持って一人ひとり降ろしていった。
覗き見ると、大きなギプスや飛行機材で作った副木をつけた人が、無事に海面に浮いていた。

・・・中略・・・

 海水が膝まで覆ってきた。
40度くらいの傾斜があり、中川が足を取られて甲板上で沈み、彼女を引き上げ二人で左舷に行こうとしたが、またしても中川が今度は投身よけの網に靴を引っ掛け、なかなか抜けない。
ようやく靴が脱げ二人は船の外に泳ぎ出た。

 私は琵琶湖畔で育ったため泳ぎには自信があった。
二人で肩を組み、船に巻き込まれないように沖へと泳いだ。
「死ぬ時は二人で死のうね」と言いながら20メートルほど泳いだとき、目の前に幅5、6寸、長さ一間ぐらいの板がぽかぽか浮いているのを見つけた。
板に泳ぎついて、二人でその板につかまり泳ぎ続ける。
海面は一面浮遊物、人、ボート、ブイでいっぱいだった。
「船が・・・船が沈む!・・・」の大声に振り向くと、船は次第に船尾から水没しかけていた。

・・・中略・・・

 海水と油で顔はぬるぬるするばかりか、油が目にしみて痛い。
ブイに引き寄せられたが、すでに4、5人がつかまっていた。

 真っ白い船体、緑の横線、船上の赤十字のマークも鮮やかに、船尾よりブクブクと船が沈んでいった。・・・   (つづく・・・)

【ぶえのすあいれす丸の沈没】
http://vaccine.sblo.jp/article/1196804.html?reload=2010-09-18T11:18:28 より

(((buenos2
ケープタウン停泊中の「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)(1935年頃)

(((ブエノス
大阪商船「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)


「ぶえのすあいれす丸」の航海記録 
http://www.combinedfleet.com/Buenos_t.htm より米側記録

1943817日:

ビスマルク海。 南緯01-14S、東経148-13Eで未知のアメリカ航空機、おそらくUSA-AF B-25に攻撃された。

1943
818日:
ラバウルに到着。 ブエノスアイレス丸は、船体の周りに緑のストライプが描かれた白く塗装されています。 彼女は艦橋の近くに番号8976を持ち、漏斗と船体の側面に大きな赤い十字を表示しています。

1943
819日:ラバウルを出発。

1943
829日:マニラに到着。

1943
830日:マニラを出港します。

1943
95日:門司に到着。

1943
910日:宇品を出港。

1943
920日:ラバウルに到着。

19431011日:ラバウルを出発

1943
1021日:宇品に到着。

1943
1115日:宇品を出発して神戸へ。

1943
1122日:ニューブリテンのラバウルに到着。


19431126日:
正体不明の船団でパラオに向けてラバウルを出発。 ブエノスアイレスマルには、63人の看護師と、ラバウル海軍病院から送還された不明の数の日本人軍人と、1,129人の負傷者および病気のIJA兵士がいます。 [3]

1943
1127日:
ニューハノーバーとニューアイルランドの間のステフェン海峡、ビスマルクス。 0830分頃、B-24「解放者」重爆撃機が病院船BUENOS AIRES MARUを誤って爆撃しました。 爆弾は船体に損傷を与え、エンジンルームを水浸しにします。 ブエノスアイレスマルがリストに加わりました。 0850分に、彼女は南緯02-40S、東経149-20Eにセントマチアス島沖の船首に沈みます。 生存者は、16隻の救命ボートと2回のモーターローンチを行います。 [4]

1943
123日:
不明なIJNサブチェッカーは約1,000人の生存者を救出しますが、ブエノスアイレス丸に乗った158人の男性と看護師が沈没で死亡するか、救命ボートで死亡します。 [5]

19431215日:
日本の外務省はメッセージ467を主要な大使館に派遣し、「日本の病院船ブエノスアイレス丸は米国の航空機、連結B-24によって攻撃されました。船は港側で爆弾に襲われ、約40分沈没しました。 」 負傷した兵士、医師、休暇で帰宅する大勢の看護師などの生存者は、18人の救命ボートに押し込まれました。 メッセージは、赤い十字を形成する赤いシートが上空に保持されていたにもかかわらず、わずか約300フィートの高度で入ってくるアメリカの飛行機が救命艇を機関銃で発射したことを報告し続けています。 コミュニケはまた、ブエノスアイレスマルへの攻撃は孤立した事件ではなかったと報告し、10機の他の明確にマークされた病院船がアメリカの航空機によって攻撃されたと述べています。 [6]




【参照】↓

●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966282.html 

第33話の⑨・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32976649.html

第33話の⑥・・父の部隊が満州からラバウルへ移動したルート・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/14820913.html

第33話の⑤・・ラバウルって、こんなとこだった・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/11347692.html 

第33話の④・・南方戦線からのはがき・・ http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/11271003.html

第33話の⑩・・父、泰山から祖母浦子への軍事郵便全記録・・・満州東寧から、ラバウルから・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/33226918.html

第33話の①・・善通寺陸軍病院の父・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8750541.html

第33話の②・・善通寺陸軍病院の父・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8758122.html



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 閲覧注意 見るなよ 警告したからな・知らんぞ~、オェー



"キムチの表面の白い幕、カビではない酵母"

世界キムチ研究所、世界初、次世代塩基配列検査で酵母と確認
白カビの生えたキムチは捨てるべきか?に安全性を立証 
動物実験による毒性評価など、これらの追加研究も行われる予定


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[キムチミーナ]キムチの表面にできる白幕の正体は何だろうか。
結論から言えば、世間の誤解とは違って、キムチのぷわぷわはカビではなく、酵母によってできた物質であることが初めて確認された。




世界キムチ研究所微生物機能性研究団キム·テウン博士·ノ·ソンウン博士研究チームは22日、"白いもやもやが生成された白菜キムチとガッキムチ、熱中キムチ、白キムチを収集し、次世代塩基配列分析した。

次世代塩基解列分析法はDNAを幾つかに分解し、各切れを同時に読み組み合わせることで、大量の塩基配列情報を速く解読する技術だ。

今回の研究結果は、国際学術誌"ジャーナル·オブ·マイクロバイオロジー"最新号(2018年10月)オンライン版に紹介された。



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一般的に酵母は、アルコールと香り成分を生成し、発酵食品の風味に助け、パンやマッコリなどを作る時に多く使われる。

キムチの場合、酵母よりは乳酸菌による発酵が主になるが、発酵後期になると乳酸菌の活動が減少し、酵母による白幕、すなわちもやもやが生まれる。このぷわぷわは、醤油や味噌、酒、キムチなど、水気のある発酵食品の表面に主に現れる。




研究チームは微生物群集の分析を通じて,骨の髄を発生させる原因の酵母として▲ハンセニアスポラ,ウバラム,▲ピチア,リポリティカ,カザフスタニア,セルバッチーを発見した。

また、全遺伝子の塩基配列を分析した結果、これらの酵母には毒性遺伝子がいないことが確認された。

キムチのふわふわの原因の微生物に関する研究は従来にもあったが、次世代塩基序列分析法を通じて微生物群集の多様性を分析し、酵母の全長遺伝体を分析した研究は、今回が初めてだ。

世界キムチ研究所は今後,キムチのぷわぷわ誘発酵母に対する遺伝情報をキムチ微生物遺伝体のデータベースに公開し、動物実験による毒性評価など、これらの安全性および生成防止に対する追加研究も行う予定だ。

ぷわぷわは酸素と反応する酵母によって生成されるだけに、これを予防するためにキムチ表面を衛生ビニールで覆ったり、汁に浸らせ,キムチの表面が空気中に露出されることがないように保管し、保存温度は4度以下の低温で維持する。 キムチにぷわぷわができるようになったら取り除いて水に洗って加熱して食べればいい。

世界キムチ研究所のハ·ジェホ所長は "今回の研究は,これまで国民に漠然とした不安を抱かせたキムチのぷわぷわについて科学的に究明したもので、キムチ衛生安全に対する不安感を解消するのにさらに一歩近づいたという点で意味が大きい" と述べた。


(ソウル/みそっち)



これで・・白いぷわぷわが付いたキムチが夢に出てくるぞ~~オェーーッ




鬼ころ 届くかな

minaQせんせより転載 ↓
https://blogs.yahoo.co.jp/illuminann/15758592.html





第1次大戦の独墺軍(ドイツ・オーストリア)と連合軍との戦いの最中、戦場のロシアで大正7年(1918)ロシア革命が発生し革命軍とロシア軍が相戦う内戦状態とも重なり、連合軍側の日本も英国の要請によりシベリア派兵に踏み切りました。その時の派兵された「小倉第12師団」の勇壮な活躍振りが精密報道画報(下記17編)として残されております。



【画題】救露討独遠征軍画報

其一 皇軍浦鹽斯德(ウラジオストック)上陸各國官民熱狂的歡迎
其二 皇軍浦鹽(ウラジオ)市街行進、威風堂々意氣天を衝く
其三 西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)の戰闘許斐大尉勇戰奮闘名誉の戰死
其四 我軍の大捷、西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)原頭に獨墺軍を撃破す
其五 満州里方面第一戰我軍、敵騎逆襲を撃退す

其六 歩兵第十四聯隊第十二中隊の殊勲、敵の背後に迂廻し鐵道を破壊し装甲列車を鹵獲す
其七 勇猛果敢なる我騎兵は長驅北進敵を追撃してハバロフスクを占領す
其八 雷鳴豪風雨を冒し我鐵騎、風の如く猛進す
其九 疾風迅雷的強行軍ハバロフスク占領、黒龍艦隊降伏鹵獲品、山の如し
其十 黒龍江西進先遣部隊、壮烈なる進行中の列車戰
其十一 西伯利(シベリア)聯合軍總司令部發の光景
其十二 西伯利(シベリア)遠征軍露營の光景
其十三 豪勇無双なる許斐
(このみ)大尉の奮戰
其十四 ハバロフスク占領刹那の光景、我が騎兵敵艦を前に堂々分列式を行う
其十五 世界戰史に稀有の騎兵と艦の戰闘、遂に敵艦降伏す
其十六 ブラゴヱスチェンスク占領皇軍の武威全西伯利(シベリア)を壓す
其十七 我軍空中及水陸挟撃し西伯利(シベリア)の敵軍を掃討す

【作画・発行印刷者】東京市神田区一ツ橋通り町16番地 田中良三
【発行所】     同所               尚美堂画店


極東のロシア領が赤化(共産化)することは日本にとっては満州・朝鮮への重大脅威を意味した。

しかし、太平洋を隔てたアメリカにとっては対岸の火事でしかなかった。
朝鮮に近いウラジオストックに赤色(共産主義)政府が存在することは脅威であり、日本にとっては生死に関わる大問題だった。
日本がそれなりの兵力を派遣したのはこのためである。

アメリカ政府の中にも、ランシング国務長官のように極東赤化の危険は解かっており、日本の軍派遣に反対すべきではない、と考えていた者も居たことは確かだ。

1920
年初頭にはチェコ軍救出というシベリア出兵目的も達成しつつあり、日本は満洲、朝鮮の防衛以外は守備隊を縮小し、速やかに撤兵する方針を声明はしたが、ここにとてつもない惨劇・尼港事件(
ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスクで発生した、ロシア赤軍パルチザンによる、日本人を含む住民の半数6千人もの大規模な虐殺事件が発生した。(本編5の最終に記述した)

このため撤兵は大幅に遅れることになる。

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     其十四 ハバロフスク占領刹那の光景、我が騎兵敵艦を前に堂々分列式を行う
     (ムラビョフの銅像前)

我が騎兵はハバロフスクを占領するや、武威を示すために公園銅像前広場に於いて敵艦を眼下に見つつ堂々と分列式を行い、一方敵陣に降伏を勧告し敵司令官邸に艦長の集合を命じ、集合したる処を着剣にて追いまくり一室に監禁し有無を言わせず降伏を命じたれども、ドイツ、オーストリア捕虜等は強硬に主戦を主張し結果が付かないため、機関銃でもって捕虜30名を射殺すれば、一も二もなく降伏し一切の武器を引き渡せり。我が軍の意気、亦壮なりと云うべし。

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  ハバロフスクの公園と黒竜江
(アムール河)・・隊員からの現地報告
▲河に臨めるレストラン ▲黒竜江沿岸を支那から只で取得した偉人ムラビョフの銅像 ▲黒竜江の湾曲した所・幅員1里(4km)に及ぶ。

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ハバロフスク市街周辺


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      其十五 世界戰史に稀有の騎兵と艦の戰闘、遂に敵艦降伏す
我が軍は、アレキセーフスクを占領するや直ちに騎兵の主力及び歩兵先発隊と共に、ゼーヤ河にある敵艦を襲撃すべく猛進し、世界戦史上に稀にみる騎兵と戦艦との戦闘は開始せらる。アレキセーフスク市東側橋梁付近に行動する7隻の敵艦を攻撃したるに、敵艦忽ち砲門を開き応戦したれば、我が軍直ちに猛射撃を浴びせるに、敵艦2隻は危うくも艦首高く白旗を揚げ我に降り、他は全て上下流へ逃走せり。

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   其十六 ブラゴヱスチェンスク占領皇軍の武威全西伯利(シベリア)を圧す
我が軍ハバロフスク出発し電光石火の勢いを以て7日間にシベリアの難路160里を踏破せる剛健無比の九州兵団及び、チチハルより黒龍河方面に猛進せる勇壮果敢なる北海師団と共にブラゴエチェンスクに侵入進んでアレキセーフスクをも占領せり。我が飛行隊は17日以来日本政府の布告文を多数搭載飛行し敵を威嚇すると共に、布告文を撒布し大きな効果を収めた。

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チェコ軍司令部前に於いて連合軍代表武官の敬礼交換式及び我が分列式の光景

シベリア派兵1914
チェコ軍司令部前に於いて連合軍代表武官の敬礼交換式及び我が陸戦隊の行進

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           チェコスロバキア軍団の救出
 
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 其十七 我軍空中及水陸挟撃し西伯利(シベリア)の敵軍を掃討す

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我が軍の鹵獲した過激派軍の車両(ボクダットスカヤ付近の第5師団)

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松山・歩兵第22連隊凱旋式(於・松山堀之内練兵場)

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【感状】
 (感謝状)

野中支隊 歩兵第22連隊・第3大隊(第9中隊
缺)、
          同・第1第2中隊、
          同・機関銃1小隊、
          同・特殊砲隊
 
大正8年(1919)12月末、兵力約1500乃至2000を算する過軍(過激派軍)「ムホルシビール」「マレータ」「クナレ」の各地に集団して所在、我が軍及び交通線を脅威するのみならず「トルバカタイ」以西「ウェルフネウジンスク」以東に於ける鉄道線路の被害殊に甚しきを以って、野中支隊に之が掃蕩を命ぜられ、大正9年1月2日支隊は「ペトロスキー」を発し各地に転戦すること十有五日、此の間「ニコリスコエ」に約400の敵を撃破したるを始めとし「ハラシビール」「ヒローク」河谷等に於いて、常に優勢にして頑強なる敵を掃蕩し、殊に1月12日早暁「ノーウォザルダミンスコエ」付近の戦闘の如きは、約3000の過軍の包囲攻撃を受け激戦数時間に昇りたるも、将卒克く堅忍持久遂に天明と共に猛烈なる逆襲を敢行して敵を潰乱に陥らしめ、敵の戦場に遺棄したる死体約530を算し真に懺滅的打撃を与えたるものと謂うべし、如此にして全討伐期間敵と交戦すること前後5回、敵の屍すこと実に730、我が損害は頗る僅少にして、而も連日連夜殆んど不眠不休零点下50度の厳寒と戦い一百余里に昇る積雪深き広野山嶺を踏破し、幾多の困苦欠乏に耐え、上下一致身命を擲って勇戦奮闘し、終始光輝ある戦勝を得て過軍を震骸せしめたるは、一に支隊長の適切にして周密なる画策と部下将卒の忠勇義烈なる赤誠の発露にして、其の功績洵に偉大成るものと認む、依って茲に感状を附与す。
(句読点なしの一文である)
  
大正9年(1920)2月20日
浦潮(ウラジオストック)派遣軍司令官 陸軍大将   
(従三位、勲一等、功三級)      
大井 成元
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 ↑ 
大井 成元(おおい しげもと)
   
(1863~1951)山口県出身

  1919年8月 浦塩派遣軍司令官。(大谷大将の後任)、11月に陸軍大将



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         緩衝国家設立構想(白系ロシア)の模索

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日本軍の将校は、極東共和国(FER・白系ロシア)の代表者と会合を持った

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朝鮮・元山港に避難してきたロシア避難民の惨状(召された幼児の葬儀)
「余りにも悲惨です。日本人としてどうして見過ごせましょう。どうぞお助け下さいませ。」
・                          東京西大久保236  希望社

1918年のロシア革命に追われた王宮関係者か、教会関係者が、
バルチザンに追われ、はるばる逃亡してたどり着いた時のもの)

● 尼港事件(ニコラエフスク事件)の発生

1920年3月、共産党バルチザンがユダヤ人、アメリカ人、英国人、日本人などの外国人居留民の民家に徒党を組んで押し寄せ、物資の略奪を始めたことで、陸軍の駐屯する、水戸第3大隊と海軍の陸戦隊50名は、共産党武装勢力と戦火を交えて、その後降伏し全員 軍医、看護婦、戦傷者も含めて、斧で頭を叩き割られて殺害され、外務省の日本領事館の職員も、家族も皆殺しになるのですが、わずか3ヶ月の間に、人口1万2千人の都市で約半数の6千数百人が、虐殺されるという大きな事件になっていったのです。
アムール河氷結で遅れ6月に旭川の連隊が救援に駆けつけたときには、頭を叩き割られた遺体が散乱し、平和な商業都市は廃墟と化していたのです。
この当時の共産党というのは、生産と言う事を行わず、略奪を行うことで生計を立てていたようで治安など考えられない実態でした。

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             ニコラエフスクの街並み

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  食料が備蓄されていたニコラエフスクの島田商会と上部は日本軍兵営

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    1918年9月ニコラエフスクに到着・駐屯した日本海軍陸戦隊

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     共産党バルチザンにより廃墟となったニコラエフスク市街

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         廃墟となったニコラエフスクの様子

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           ニコラエフスク事件といわれる

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        アムール河岸に打ち捨てられた虐殺犠牲者

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     在ニコラエフスク外務省職員の死を知らせた新聞記事

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  在留日本人及び露国良民が黒龍江河岸に於いて虐殺されつつある光景

尼港事件の絵・・1920年の春、沿海州二コラエフスクで起きた地方パルチザンによる大虐殺事件、「尼港事件」。
700人以上の日本人軍民、そして反革命白系と疑われたロシア人市民数千人が惨殺され、歴史と由緒ある街は徹底的に破壊され焼き払われた。
当時の惨劇を再現して描かれた絵である。
黒竜江河岸で惨殺される邦人や白系露人と疑われた市民たち。


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日本人遊郭を占拠し屏風の前で写したバルチザン幹部らの写真
中央ソファーに横臥するは首領トリャビーツィン(25才)、その左ニーナ(情婦28才)、後列左が副首領ラプタ。

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           バルチザン幹部三名のモチーフ 
中央白服の男が首領ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィン。左の女が彼の情婦で、参謀長であったニーナ・レベジェワ。右の男が副首領、ラプタ。
後に逃亡中に逮捕され、赤軍の粛清裁判で死刑を宣告され銃殺に処された。


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第1次大戦の
独墺軍(ドイツ・オーストリア)と連合軍との戦いの最中、戦場のロシアで大正7年(1918)ロシア革命が発生し革命軍とロシア軍が相戦う内戦状態とも重なり、連合軍側の日本も英国の要請によりシベリア派兵に踏み切りました。その時の派兵された「小倉第12師団」の勇壮な活躍振りが精密報道画報(下記17編)として残されております。


【画題】救露討独遠征軍画報

其一 皇軍浦鹽斯德(ウラジオストック)上陸各國官民熱狂的歡迎
其二 皇軍浦鹽(ウラジオ)市街行進、威風堂々意氣天を衝く
其三 西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)の戰闘許斐大尉勇戰奮闘名誉の戰死
其四 我軍の大捷、西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)原頭に獨墺軍を撃破す
其五 満州里方面第一戰我軍、敵騎逆襲を撃退す
其六 歩兵第十四聯隊第十二中隊の殊勲、敵の背後に迂廻し鐵道を破壊し装甲列車を鹵獲す
其七 勇猛果敢なる我騎兵は長驅北進敵を追撃してハバロフスクを占領す
其八 雷鳴豪風雨を冒し我鐵騎、風の如く猛進す
其九 疾風迅雷的強行軍ハバロフスク占領、黒龍艦隊降伏鹵獲品、山の如し
其十 黒龍江西進先遣部隊、壮烈なる進行中の列車戰
其十一 西伯利(シベリア)聯合軍總司令部發の光景
其十二 西伯利(シベリア)遠征軍露營の光景
其十三 豪勇無双なる許斐
(このみ)大尉の奮戰
其十四 ハバロフスク占領刹那の光景、我が騎兵敵艦を前に堂々分列式を行う
其十五 世界戰史に稀有の騎兵と艦の戰闘、遂に敵艦降伏す
其十六 ブラゴヱスチェンスク占領皇軍の武威全西伯利(シベリア)を壓す
其十七 我軍空中及水陸挟撃し西伯利(シベリア)の敵軍を掃討す

【作画・発行印刷者】 東京市神田区一ツ橋通り町16番地 田中良三
【発行所     】    同所            尚美堂画店


1920年(大正9年)1月、アメリカ派遣軍は、チェコ軍救出という目的も達成しないうちに、政府通告なしに突如撤兵を行なった。
これは日本での自由主義者と親米勢力に大打撃を与えてしまった。

極東のロシア領が赤化(共産化)することは日本にとっては満州・朝鮮への重大脅威を意味した。

しかし、太平洋を隔てたアメリカにとっては対岸の火事でしかなかった。
朝鮮に近いウラジオストックに赤色(共産主義)政府が存在することは脅威であり、日本にとっては生死に関わる大問題だった。
日本がそれなりの兵力を派遣したのはこのためである。

アメリカ政府の中にも、ランシング国務長官のように極東赤化の危険は解かっており、日本の軍派遣に反対すべきではない、と考えていた者も居たことは確かだ。

1920
年初頭にはチェコ軍救出というシベリア出兵目的も達成しつつあり、日本は満洲、朝鮮の防衛以外は守備隊を縮小し、速やかに撤兵する方針を声明はしたが、ここにとてつもない惨劇・尼港事件(
ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスクで発生した、ロシア赤軍パルチザンによる、日本人を含む住民の半数6千人もの大規模な虐殺事件が発生した。
このため撤兵は大幅に遅れることになる。


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  シベリア出兵各国軍の司令官、参謀長の作戦会議 (1918年12月)
ウラジオストクで撮影されたシベリア出兵各国軍の司令官、参謀長クラスの集合写真。正面前列中央に日本軍(浦塩派遣軍)司令官の大谷大将の姿が見える。
その左隣が米国の派遣軍司令官グレーブス少将。後列左に英国ノックス将軍


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          浦塩派遣軍総司令部  (1922年)



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       其十一 西伯利(シベリア)聯合軍總司令部進發の光景

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        我がウラジオ派遣軍司令部に於ける将校たち
浦塩派遣軍司令部(191812ごろ)前列左から2人目より、植田謙吉中佐、天野邦太郎大佐、由比光衛中将、大谷喜久蔵大将、稲垣三郎少将、坂部十寸穂大佐、糸山静一一等主計正。

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        ウラジオに於ける参謀長会議 (1918年)
            (前列中央に大谷大将)


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               連合軍の耐寒装備
 (英)  (加)  (米)  (支那)  (伊)  (チェコ) (日本)


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         其十二 西伯利(シベリア)遠征軍露營の光景

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       戦闘後の露営(ボクダットスカヤ〈バイカル南部〉付近の第5師団)
               

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                行軍の休息

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    機関銃及び特殊砲射撃(ボクダットスカヤ付近の第5師団)

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    戦場に放置された敵の死体(ボクダットスカヤ付近の第5師団)

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     某支隊の歩行前進(ボクダットスカヤ付近の第5師団)

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     某支隊大行李の渡河前進(ボクダットスカヤ付近の第5師団)


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     其十三 豪勇無双なる許斐(このみ)大尉の奮戰 其三図を参照)
我が小倉師団の精鋭達は大正7年8月24日黎明、ベーラヤ河付近に大攻撃を開始す。許斐中隊は実に中央部隊の第一線たり、豪遊無双なる中隊長は陣頭に立ち猛烈にも敵陣に肉迫せるに、敵は塹壕中に白旗を掲揚したれば、直ちにこれを捕えんとしたるに敵は白旗を徹して手榴弾を投げ始める。ここに於いてか許斐(このみ)中隊長は憤然激怒、塹壕に躍り込み縦横に敵を斬り捨て奮戦中、遂に敵弾が胸部に命中し名誉の戦死を遂げた。ここに於いて全員必死となり塹壕中の敵を塵殺した。




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