泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2017年02月

太平洋戦争の残影 ㉘戦艦「大和」の最期・・

攻勢を強めるアメリカは、マッカーサー元帥率いる南太平洋方面軍を、フィリピンのレイテ島に上陸させた。 そんな中、大本営はレイテ島奪還に向けて日本の海軍史上最も大規模な作戦「捷(しょう)一号作戦」を発令した。

作戦の概要は小沢空母機動部隊が囮となって米艦隊を引き付ける間に、「大和」を含む戦艦部隊をレイテ湾へ突入させ、「大和」が誇る世界最大の46cm砲によって上陸中のアメリカ輸送船団を殲滅させるというものだったが、昭和19年(19441022日、栗田艦隊は「大和」「武蔵」を率いてレイテ湾へ出撃し、小沢の機動部隊は首尾よくアメリカ艦隊を引き付けることに成功はしたが、ここで「大和」の栗田長官は突撃を中止し、Uターンをしてしまう。

不思議にも、栗田長官は「大和」他をして、レイテ湾内にひしめく米船団に大打撃を挙げられる筈の、この作戦を遂行することが出来なかったのです。

 
昭和20年(194545日、「大和」に海上特攻隊としての出撃命令が下りました。目的地はアメリカ軍が上陸を始めていた沖縄でした。
連合艦隊司令長官・豊田副武は「天一号作戦」を発動する。それはアメリカ艦隊がひしめく沖縄に突入させ、敵艦隊と応戦させ、自らを沿岸に座礁し、砲台となることも辞さないという「水上特攻作戦」だった。   
航空隊の援護も無いこの作戦は、沖縄に辿り着けるか判らない無謀なものだった。
  
昭和20年47840分、「大和」は米軍の航空機の編隊を視認しました。1234分に「敵艦上機一五〇」に対し射撃を開始しました。米側の最初の急降下爆撃により「大和」は爆弾2発を受ける。
そして13時37分、魚雷3本が左舷中央部に敵中。更に2本が左舷に命中し次第に船体が傾いていった。220分、傾斜が20度となり、復元不可能となる。

そして、14時23分、傾斜が35度に達した時、「大和」は左舷から転覆し始めた。
艦体が海に没した直後、火薬庫に引火(前後部砲塔弾薬に誘爆)凄まじい大爆発が発生したのです。
海中から爆発と噴煙が立ち昇り、その高さは一千米に達したのです。

戦艦「大和」の最期の姿でした。
華やかな戦果を一つとして、挙げることの出来ない、悲運の戦艦でした。


イメージ 35
   柱島泊地に於ける戦艦「大和」  


イメージ 37


イメージ 44
戦艦「大和」Yamato, named after the ancient Japanese Yamato Province…

イメージ 45


イメージ 36

戦艦「大和」(主砲が2連式の時?)


イメージ 17
泊地での「大和」


イメージ 1


イメージ 2
昭和19年10月22日、ブルネイを出撃する栗田艦隊。右の長門の前方が武蔵で、そこから奥に向かって大和、榛名、金剛と、高雄型重巡洋艦4隻。


イメージ 4
シブヤン海で米海軍の艦載機の攻撃を受ける日本海軍の戦艦大和-1944年10月24日


イメージ 3
シブヤン海でアメリカ艦載機による攻撃を受ける戦艦『大和』 昭和19年10月24日


イメージ 5
シブヤン海で米海軍の艦載機の攻撃を受ける日本海軍の戦艦大和-1944年10月24日


イメージ 24
       日米両海軍が火花を散らした大激戦「シブヤン海戦」


イメージ 25
        そして「天一号作戦」へ向けて沖縄へ

イメージ 40

イメージ 46


イメージ 15
     坊ノ岬沖、「天1号作戦」での「大和」  昭和20年4月7日

イメージ 22
      坊ノ岬沖、「天1号作戦」での「大和」  昭和20年4月7日


イメージ 6
          グラマンの攻撃を受ける「大和」

イメージ 7


イメージ 8
傾斜した「大和」を守るべく、防空戦を続ける「冬月」の砲が火を吹いたところ

イメージ 9


イメージ 10
 相次ぐ被弾での浸水により、速力が低下した「大和」 左舷を護衛するのは雪風.


イメージ 11
           戰艦「大和 」と護衛艦とも9艦で・・・


イメージ 16
           空襲の中、回避行動を取る「大和」

イメージ 21
           敵機の攻撃に曝される「大和」

イメージ 26
         懸命に回避行動を取るも・・「大和」

イメージ 43
          米艦載機からの攻撃で瀕死の「大和」


イメージ 42

「大和」が横転し、大爆発を起こした瞬間。


イメージ 12
艦体が海に没した直後、(前後部砲塔弾薬に誘爆)凄まじい大爆発が発生した

イメージ 13
艦体が海に没した直後、火薬庫に引火・誘爆、凄まじい大爆発が発生した


イメージ 14
 直後、火薬庫に引火(前後部砲塔弾薬に誘爆)凄まじい大爆発が発生した。


イメージ 27
           鹿児島県、坊ノ岬沖にて轟沈。

イメージ 28
         昭和20年4月6日、7日、軍艦大和行動図


イメージ 29イメージ 30



















        
        ➀                 ②   

  ➀
 はこの作戦時の戦艦「大和」の戦闘詳報です。
(後の作戦指導を適切に行うために、一つの戦闘終了後にその戦闘の状況を詳しく上級指揮官に報告する)
  ② 「大和」の詳細な作戦行動が記されている。  「大和」は461520分に沖縄に向けて、帰る見込みのない最期の航海に出撃したのです。
出撃する艦艇は10隻、第二艦隊旗艦「大和」以下、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「冬月・涼月・磯風・浜風・雪風・朝霜・霞・初霜」。 


イメージ 31イメージ 32




















                           ③                  ④

  によれば、大和の戦果は撃墜3機、撃破20機、その被害は「沈没(戦死艦長以下2498名)」と記されています。  
  ④ は大和の被害状況を絵図としてまとめたもの



イメージ 33イメージ 34



















        

         ⑤               ⑥

 「参考事例(戦訓)」には、
戦況が行き詰まった際には、焦燥感にかられ計画準備に余裕がないということがしばしばであるが、特攻兵器を別とし て、今後残存駆逐艦等によるこの種の特攻作戦を成功させるためには、慎重に計画を進め、準備をできるだけ綿密に行う必要があり、「思ヒ付キ」作戦は精鋭部隊をも、みすみす無駄死にさせてしまう、と書かれている。
 また、「大和」を護衛した「第二水雷戦隊」の戦闘詳報では、作戦はあくまで冷静にして打算的でなければならない、いたずらに特攻隊の美名を冠して強引なる突入戦を行うのは失うところが多く、得るところは非常に少ない、と作戦そのものに対する厳しい批判が書かれている。


イメージ 41
           敗れて目覚める・・・


イメージ 18
         コルセアによる「大和」への攻撃・・


イメージ 19
 Paintingof Japanese battleship Yamato under American…


イメージ 20


イメージ 23
IJNbattleship Yamato under attack -- Okinawa, her final battle!

イメージ 39
 IJN Yamato under US air attack the afternoon of April7.1945


イメージ 38


イメージ 47




 戦艦「武蔵」の最期・・そして「大和」のUターンを語る。
   ・・・(『月刊正論』 201410月号より抜粋)・・・


イメージ 15

●深井俊之助 (元帝国海軍少佐・戦艦「大和」副砲長)
●聞き手:井上和彦 (ジャーナリスト)の対談・・・

  http://ironna.jp/article/1062?p=5

(「大和」でレイテ沖へ)

深井 19年3月1日に「大和」の副砲長になり、もう内地にいても油が足りないから南方の前進根拠地に行けと言われて、リンガ泊地に行きました。
リンガ泊地はシンガポールから南に100マイルぐらいの島で、まことにいい具合に、海には小さい島がいっぱいあって、潜水艦なんかが夜襲できない場所でした。  
ちょうど連合艦隊が入れるぐらい大きくて、出入り口が二つほどある。そこに警戒艦が監視していれば、中の船は大丈夫。そこならボルネオの油田やセレベスの油田などが近いから、いつでも油を補給できる。そのリンガ泊地におった時に、レイテ沖海戦の命令が出たんです。
 
井上 まずは、戦艦「武蔵」が沈められたシブヤン海戦がありますね。深井さんは「武蔵」の沈没を目の当たりにされたのですね。
 
深井 その時には、私はもう「大和」に乗っていて、フィリピンのレイテ沖に突入する作戦の途上でした。あれは、昭和19年10月22日ですか、その1週間ぐらい前にリンガ泊地を出て、ボルネオのブルネイで突入部隊が油を積み、レイテに向かったんです。
 ブルネイを出て、一晩過ごした23日朝、明るくなる頃には攻撃があるからと全員が戦闘配置につき、重巡洋艦「愛宕」を敵艦に見立てて砲戦訓練をやっていた。その時、急に「愛宕」と「摩耶」と「高雄」、3隻の1万トン級の巡洋艦が2隻の敵潜水艦に沈められたんです。それで彼らを置き去りにして、シブヤン海に入りました。
その攻撃がどこから来たかというと、そのときルソン島沖、太平洋への通路であるサンベルナルジノ海峡の出口、レイテ沖に、三つの敵航空母艦群が4隻ずつ、計12隻おりました。ほかにもう一つ、補給基地に帰っていく空母群4隻があって、三八任務部隊というこの4つの空母群から、栗田健男長官が指揮する我々栗田艦隊に攻撃が来たんです。
 
朝8時頃に、敵の飛行機が我々の頭上を飛んで・・・触接というのですが、こちらの進路や速度を報告したんです。それを受けて敵空母から飛行機隊が飛び立ち、昼前の11時過ぎに第一派の攻撃が来ました。
それから1時間か2時間おきに5回来ました。だいたい1回の攻撃は80機ぐらい。この80機が二つに分かれて、お目当ての「大和」と「武蔵」に攻撃を仕掛けてきました。
 
  他の艦艇への攻撃は、帰りがけの駄賃で爆弾を落とすぐらいで、ほとんど全部が「大和」と「武蔵」に来た。『男たちの大和』なんていう映画を見ましたけど、実際はあんな生やさしいものじゃない。本当に、口では表現できないほど凄まじい戦いでした。
こっちに爆弾が落ちたかと思うと、こっちにも落ちる。それで、爆弾の破片が飛んできて機銃手がやられたりして甲板に血が流れてくる。それはもうひどいものだった。
 
  1回目の空襲で「武蔵」に魚雷一本と爆弾が数発当たった。それでも「武蔵」はあまり被害を受けずに一緒に走ってました。
2回目、3回目と続けるうちに、今度は「武蔵」に集中していくようになって、最初は、「大和」と「武蔵」に五分五分に行われていた爆撃が、いつぞや「大和」に3、「武蔵」に7ぐらいの割合で行 われるようになりました。そのうちに3度ぐらいの空襲で「武蔵」は魚雷が7本も8本も当たって、爆弾も10発ぐらい命中し、もう普通に速度が出なくなった。そうして「武蔵」が落伍してしまったんです。
 
  それで空襲が終わり、途中で栗田艦隊はいっぺん、4時頃に引き返してる。こんなに被害を受けているのに、日本の航空部隊は何をしてるんだと、航空隊の成果が上がるまで水上部隊はしばらく突入を待つから、成果が上がったら電報しろという主旨の電報を航空隊に打って、東に進んでいた栗田艦隊が西に進み出した。 逃げたわけです。
 
井上 そうだったのですか。ところで「武蔵」が集中攻撃を受けて沈んだのは、何か理由があったんでしょうか。
 
深井  「大和」の艦長は船の操艦が上手かったんです。爆弾や魚雷を、巧みに舵を取ってよける、そういう操艦が上手だった。ところが、「武蔵」の艦長は、大艦巨砲主義の権化ともいえる海軍砲術学校の校長で、長いこと陸上で教官をやっておられたから操艦に慣れていなかった。だから爆弾が落ちてきても上手く避けられなかったんでしょう。
それに「武蔵」は新しくできた艦で、乗員がまだよく訓練されてない。ところが「大和」のほうは古いから、乗員も訓練されている。その差で「武蔵」は被害を受け、「大和」は生き残ったんです。
 
  栗田艦隊は、落伍した「武蔵」を残して東に向かったんですが、さっき申し上げたように、航空隊の効果が出るまで待つということで、西に向かって引きくり返してきた。
その時、「武蔵」がもう沈みかけていました。
「大和」「武蔵」というのは、舳先がスッと上がってるんです。甲板よりちょっと坂になって上がっており、その上がった先に菊の御紋章がついている。
御紋章から白波が立つでしょう。あの白波が御紋章の下からザーッと出て、後ろの甲板はもう水に浸かっていた。それでも「武蔵」は走っていました。
 
 僕らはその状態を見て、これはもう駄目だと思ってました。
「武蔵」は、命令により台湾、中国間の群島にある馬公の海軍基地へ向けて航路を取っていたのですが、力尽きて、ついにシブヤン海に沈んだのです。
 
(サマール沖での砲撃)

井上 その後の栗田艦隊の作戦行動について、お話しいだけますでしょうか。
 
深井  我々が西に向かって走り続けていた午後4時頃、敵の飛行機がピタリと来なくなったんです。
何が何だかわかりませんでした。味方の航空部隊から空母を沈めたという電報もない。実は24日14時、三ついたアメリカの航空母艦群と水上第七艦隊は、囮になった小沢艦隊を発見し、栗田艦隊への攻撃をやめて小沢艦隊へ行ってしまったのです。
 
  その結果、小沢艦隊は1隻を残して全部沈められましたが、囮艦隊としてはまことに立派な仕事をした。小沢治三郎長官は立派な方で、我々は尊敬していました。
小沢艦隊があったから、我々がレイテの近くまで行けたんですよ。そうでなければ、サンベルナルジノ海峡の出口に待っていた敵にやられていたでしょう。
 
イメージ 19

(反転時の大和艦橋)

井上 最後に、今も議論が続く「謎のUターン」のお話しをお願いいします。
 
深井  突撃命令が出たので、「大和」も「長門」も戦艦部隊はどんどん攻めてゆきました。
そして水雷戦隊の駆逐艦も三十数ノットで逃げる敵艦を追いかけてゆき、もう魚雷が撃てるという5、6000メートルくらいまで近づいていったのです。一方、「大和」は被害を受けて22ノットぐらいしか出せませんでした。
 
  こうして艦隊はバラバラになってしまったので、9時11分、追撃をやめて逐次集まれという命令がかかった。それからまとまってレイテ沖に向かったんです。
レイテ湾は山の陰で見えないけど、「あのへんがかすんで見える」「何か船がいるような気がするな」なんて言いながら南へ、南へと2時間ほど走った。もう1時間半走ったら「大和」の主砲弾がレイテ沖の敵の軍艦なり、商船なりに当たるぞという所まで来たところで、「大和」が5、60機の空襲を受けたのです。
その弾をよけるのに、艦隊があっち向いたり、こっち向いたりして、爆撃が終わった時には、「大和」は北を向いていました。
 
 その時、13時10分、栗田長官が「レイテ突入をやめ、北上し敵機動部隊を求め決戦」という命令を出された。僕らは対空戦闘が終わってもどんどん北へ行くので、おかしいなと思って、艦橋へ降りていってどうしたんだと聞いたら、みんな黙っている。

 艦橋には栗田長官と、「大和」「長門」を指揮する第一戦隊司令官の宇垣纏さん、そして大和艦長の3人がおられるんですけど、もう3人とも変な顔なんですよ。
 
栗田長官は黙って前を向いたまま。宇垣中将は参謀なんかに向かって、「南に行くんじゃないか!」と皆に聞こえるよう大声で言っておられる。参謀はこっちのほうに隠れて聞かないようにしている。
「大和」の艦長は、司令官が2人も乗っているからどうしようもない。黙って座っているだけ。

栗田長官は90マイル先の機動部隊を攻めに行くといい、宇垣長官は30マイル先のアメリカ(レイテ)を潰しに行くという。2人の意見が分かれて、それまでにだいぶやり合ったらしい。
 
僕らは、ここまで来てあと1時間半行けば、敵の艦隊も商船も、上陸したマッカーサーの陸軍だって、みんな潰してやれると思っていた。目の前に敵がいるのにレイテに向かわず、90マイルも北にある敵艦隊に戦いを挑むなんて考えられませんでした。
 
「大和」が速力22ノットで30マイルも走れば、レイテ湾に着く。俺達は、命令通りレイテ湾に突入してアメリカ軍を潰さなければ、日本とボルネオの油田地帯とを結ぶ交通路が遮断され、いくら船が残っていても役に立た なくなる。飛行機も飛べなくなる、だから、ここは絶対に譲れない。

そう考えた私は、後ろで作戦参謀が集まっている所に怒鳴り込んで、大ゲンカしたんです。普通なら、軍法会議にかけられてすぐ停職になるが、そんなことはもう頭にありませんでした。
 
  しかし、いくら地団駄踏んでも、参謀が長官に「南へ行きましょう」と言って方針を変えない限り、「大和」は北に向かって走り続ける。悔しくてしょうがないが、海ですから降りて歩くわけにもいかない。本当に情けない思いをしながら、昨日受けたような爆撃を何遍も受けながらブルネイの基地に戻ってきた。それが 謎の反転の真実なんです。
 
井上 その反転の理由は、一体何だったのでしょうか?
 
深井  その間に怪電報があったのです。「敵機動部隊見ユ、地点ヤキ1カ 0945」というものです。これは栗田艦隊司令部にだけあって、他のどの艦も受信した記録がない。「大和」と司令部は通信所が全然違うから「大和」にもない。発信者も分からない。「ヤキ1カ」というのは飛行機用の符号なので、飛行機が打った電報だと分かっているが、栗田さんは戦後、これはマニラの南西方面艦隊司令部にいる同期生が打ってくれた電報だと言っています。その電報のヤキ1カ、「大和」の北方地点の敵に向かって反転したんだというのが参謀の言い分です。
 
  僕があんまりしつこいから、作戦参謀がその電報を持ってきて、「この敵を叩きに行くんだ、これだ!」と示した。後から考えると、消去法でいくと、どうも作戦参謀の作文に違いないという結論に僕は達したのです。
作戦参謀は、とかく噂のある、死にたくない人でした。以降の日程を考えても、次の日には爆撃を受けないようなシブヤン海の端まで行っている。それで逃げられる、と考えていたのだろうかとまで私は疑って仕舞います。ただし証拠はありません。
 
井上 栗田長官ご自身は、どうお考えだったのでしょうか。
 
深井  あの人は下から押し上げられて偉くなった人で、そんなに器量が大きな人ではない。だから作戦は参謀任せ。参謀が言うならそれでよかろうということではないでしょうか。ミッドウェー海戦で、護送していた輸送船部隊を置いて、沖縄に逃げ帰った経歴もあるから、僕らも信用していません。
それでも戦後、あれは俺の一存だったと、全部責任を負われた。しかし実際はそうじゃないと思います。
 
井上 もし、栗田艦隊がレイテに突入していたら、どうなったと思われますか。
 
深井  レイテ湾には40隻くらい敵の輸送船がいた。空船にせよ何にせよ、輸送船がどんどん沈められたらレイテ湾は使えなくなったでしょう。
旅順閉塞みたいなもので、船で増援部隊、増援物資を送れなくなり、そうなれば6万の米兵が干上がってしまう。そして次の作戦までに3カ月や4カ月はかかってしまう。
また、「大和」と 「長門」が艦砲射撃すれば、陸軍の守備隊も少しは盛り返して、飛行場を取り返すだろうと想像できた。希望的観測をすればそんなところです。
その3カ月か4カ月の間で、有利な条件で講和ができれば、連合艦隊がつぶれてもいいじゃないか。国の為にやることだからしようがない、そういう気持ちでした。

 
● 深井俊之助氏(ふかい・しゅんのすけ) 大正3(1914)年生れ、東京都出身。 昭和5年海軍兵学校入校。以降履歴【昭和9年卒業、「八雲」】 【10年「比叡」】 【11年少尉、中尉任官】 【14年南支方面作戦、大尉任官、「夕暮」】 【15年仏印作戦】 【16年「初雪」、マレー沖海戦】 【17年エンドウ沖海戦、バタビヤ沖海戦、サボ島沖海戦、ガダルカナル作戦、第3次ソロモン海戦、「金剛」】 【19年「大和」副砲長、少佐任官、シブヤン沖海戦、サマール沖海戦、レイテ沖海戦】 【20年、第3航空艦隊参謀、終戦。「八雲」、マニラ在留邦人救出輸送任務。10月予備役】 戦後は不動産建設業を営む。(「」内は乗組艦名)
 
イメージ 16
         元「大和」副砲長 深井俊之助少佐。


【太平洋戦争の残影を見る】 ↓ ①~㉘

  大阪城周辺と陸軍造兵工廠 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36279478.html 

  大阪駅周辺の爆撃廃墟 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36295578.html 

大阪ミナミの爆撃廃墟  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36305796.html 

④神風特攻隊・・1  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36326083.html

⑤神風特攻隊・・2  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36339854.html

⑥神風特攻隊・・3  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36356342.html

⑦神風特攻隊・・4  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36373109.html

⑧神風特攻隊・・5  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36389248.html

⑨神風特攻隊・・6  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36406435.html

⑩神風特攻隊・・7  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36423117.html

⑪神風特攻隊・・8  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36439341.html

⑫神風特攻隊・・9  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36454544.html

⑬神風特攻隊・・10  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36471371.html 

⑭松山海軍航空基地 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36487149.html

⑮坂野壽男・・満州での8月15日① https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36500298.html

⑯坂野壽男・・満州での8月15日② https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36515363.html 

⑰坂野寿男・・敗戦・満州脱出行①  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36530106.html 

  坂野寿男・・敗戦・満州脱出行②  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36546313.html 

  真珠湾攻撃による日米開戦  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36557875.html

⑳真珠湾攻撃による戦艦「アリゾナ」の最期 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36578883.html 

㉑真珠湾攻撃によるダメージ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36591114.html

㉒マレー沖海戦  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36628346.html

㉓珊瑚海海戦   https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36643454.html

㉔ミッドウェー海戦  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36655630.html

㉕米西海岸奇襲とドーリットル東京空襲 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36673242.html

㉖戦艦「大和」と「武蔵」  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36699641.html 

㉗戦艦「武蔵」の最期・・  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36713029.html

㉘戦艦「大和」の最期・・  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36728399.html 

   

太平洋戦争の残影 ㉗戦艦「武蔵」の最期・・

昭和19年(19441024日、フィリピン・レイテ島争奪をめぐって、日米両軍が全力を挙げて空前の大海戦が展開された。
 「武蔵」は“世界一被弾した軍艦”と言われている。被弾数には諸説あるが、米軍の記録によると「武蔵」には、レイテ沖海戦で爆弾44発、ロケット弾9発、魚雷25が命中したという。
だが、これだけの猛攻撃を受けても、武蔵は約時間も沈まなかった。
 

「大和」と「武蔵」には異なる点も多かったのだ。
まずは建造された場所が違う。「大和」は広島県・呉にあった「呉海軍工廠」で建造された。つまり、国が自ら製造した。一方、「武蔵」は、民間企業である「三菱重工業長崎造船所」で建造されている。

  三菱重工業の長崎造船所は、多くの軍艦を建造する一方で、日本と欧米を結ぶ客船も造っていた。 

  そのため、艦船の内装の設計にも定評があったという。「大和」を製造した呉海軍工廠は、司令官が乗り込む施設の調度品を長崎造船所に依頼したという話もあるぐらいだ。
「大和」よりも「武蔵」のほうが内装の質が上だったということだろう。
 
 「武蔵」が沈み難かった理由は、魚雷攻撃を左舷と右舷にバランスよく受けたためとも言われている。
だが、それだけではないようだ。「武蔵」の防御力や浸水に対する設計が優れていた証拠でもある。
 
 「武蔵」の壮絶な最期を「大和」の艦上から目撃した宇垣纏中将は、この時の様子をこう書き残している。
1530分、艦隊は反転す。本反転において麾下の片腕たる「武蔵」の傍らを過ぐ。損傷の姿いたましき限りなり。すべての注水可能部は満水し終わり、左舷に傾斜十度くらい、御紋章は表しいるも艦首突っ込み、砲塔前の上甲板最低線漸く水上にあり』 (「戦藻録」著・宇垣纏、原書房刊)
宇垣中将の記述は、『艦首から砲塔がある前の部分が海水に沈みかけていて、事実「武蔵」は艦首から滑るように沈んでいった。』
午後735分、日本海軍が建造した最後の戦艦でもある「武蔵」は1040人の乗組員と共に、フィリピン・シブヤン海にその巨体を没したのである。  
 (乗員2,399人中・・・生存430人)
 


 しかし、これで悲劇は終わらなかった。「武蔵」の生存者の1376名が辿った道は悲惨なもので、ある者はフィリピンの陸戦隊に編入させられ、その戦いで大半が命を落とし、ある者は日本へ帰っても拘禁状態で幽閉され、武蔵沈没の口封じの為に沖縄や硫黄島の戦場へと送られ、またある者は特攻艇に・・・という事など、戦後生き残った人々は結局、沈没時の生存者の半分に満たなかったのであった。


 満身創痍「武蔵」の防御力に驚愕した米軍は、のちに沖縄沖へ向う「大和」を攻撃した時には、魚雷攻撃を左舷に集中させて撃沈している。「大和」の最期も壮絶なものだった。
 「大和」と「武蔵」、共に猛攻撃を受けて沈んだが、特に「武蔵」のそれは世界の海戦史上で類がないものだった。



イメージ 20
         [End of IJN Musashi] - On October 24th 1944,

イメージ 1
[Musashi] was the second of the Yamato-class battleships; she shared the honor with the lead ship, as the largest battleship ever constructed in naval history.

イメージ 2
10月22日、ブルネイを出撃する栗田艦隊。右の「長門」の前方が「武蔵」で、そこから奥に向かって「大和」「榛名」「金剛」と「高雄型重巡洋艦4隻」

イメージ 3
   サマール沖で米空母艦隊を砲撃する武蔵 昭和19年10月24日

イメージ 4
   10月24日、シブヤン海でアメリカ軍艦載機の攻撃を受ける武蔵。

イメージ 5
  猛煙をあげる武蔵。魚雷による水柱が艦橋の高さを遥かに超えている。

イメージ 10
   被弾しながらも前進する武蔵。後方に「陽炎」型駆逐艦が見える。


イメージ 6
  黒煙を上げている武蔵。左に旋回行動中の大和と、妙高型重巡洋艦。
  右側に高雄型重巡洋艦金剛型戦艦が確認できる。


イメージ 21
       Yamato-class battleship, IJN Musashi
【艦尾に水上機を4機搭載しているのが確認できる
0式3座水上偵察機


イメージ 12
シブヤン海で米海軍艦載機の攻撃を受ける戦艦武蔵・・昭和19年10月24日


イメージ 7
   爆撃を受ける戦艦「武蔵」。このあとシブヤン海に巨体を沈めた。
   昭和19年10月24日

イメージ 11
  シブヤン海で雷撃を受ける「武蔵」。右舷から水中に噴き出す泡・・


イメージ 22


イメージ 8
(Sibuyan Sea, 24 October 1944)武蔵●艦首の沈み込みがハッキリと・・

イメージ 9
攻撃後、沈みつつある武蔵。第一主砲塔前の甲板は波に洗われているが、煙突の排煙から機関は無事であることが判る。(駆逐艦「磯風」の撮影)


イメージ 13
            戦艦「武蔵」の最期の姿

イメージ 14
      艦首から静かに海中へ、引き込まれていった・・・

イメージ 17

イメージ 18
         レイテ沖海戦での日米艦隊の航路図。

上記、細密図➔・・https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/09/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%86%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6%E5%9B%B3A2.pdf  



 戦艦「武蔵」の最期・・そして「大和」のUターンを語る。
   ・・・(『月刊正論』 201410月号より抜粋)・・・


イメージ 15

●深井俊之助 (元帝国海軍少佐・戦艦「大和」副砲長)
●聞き手:井上和彦 (ジャーナリスト)の対談・・・

  http://ironna.jp/article/1062?p=5

(「大和」でレイテ沖へ)

深井 19年3月1日に「大和」の副砲長になり、もう内地にいても油が足りないから南方の前進根拠地に行けと言われて、リンガ泊地に行きました。
リンガ泊地はシンガポールから南に100マイルぐらいの島で、まことにいい具合に、海には小さい島がいっぱいあって、潜水艦なんかが夜襲できない場所でした。  
ちょうど連合艦隊が入れるぐらい大きくて、出入り口が二つほどある。そこに警戒艦が監視していれば、中の船は大丈夫。そこならボルネオの油田やセレベスの油田などが近いから、いつでも油を補給できる。そのリンガ泊地におった時に、レイテ沖海戦の命令が出たんです。
 
井上 まずは、戦艦「武蔵」が沈められたシブヤン海戦がありますね。深井さんは「武蔵」の沈没を目の当たりにされたのですね。
 
深井 その時には、私はもう「大和」に乗っていて、フィリピンのレイテ沖に突入する作戦の途上でした。あれは、昭和19年10月22日ですか、その1週間ぐらい前にリンガ泊地を出て、ボルネオのブルネイで突入部隊が油を積み、レイテに向かったんです。
 ブルネイを出て、一晩過ごした23日朝、明るくなる頃には攻撃があるからと全員が戦闘配置につき、重巡洋艦「愛宕」を敵艦に見立てて砲戦訓練をやっていた。その時、急に「愛宕」と「摩耶」と「高雄」、3隻の1万トン級の巡洋艦が2隻の敵潜水艦に沈められたんです。それで彼らを置き去りにして、シブヤン海に入りました。
その攻撃がどこから来たかというと、そのときルソン島沖、太平洋への通路であるサンベルナルジノ海峡の出口、レイテ沖に、三つの敵航空母艦群が4隻ずつ、計12隻おりました。ほかにもう一つ、補給基地に帰っていく空母群4隻があって、三八任務部隊というこの4つの空母群から、栗田健男長官が指揮する我々栗田艦隊に攻撃が来たんです。
 
朝8時頃に、敵の飛行機が我々の頭上を飛んで・・・触接というのですが、こちらの進路や速度を報告したんです。それを受けて敵空母から飛行機隊が飛び立ち、昼前の11時過ぎに第一派の攻撃が来ました。
それから1時間か2時間おきに5回来ました。だいたい1回の攻撃は80機ぐらい。この80機が二つに分かれて、お目当ての「大和」と「武蔵」に攻撃を仕掛けてきました。
 
  他の艦艇への攻撃は、帰りがけの駄賃で爆弾を落とすぐらいで、ほとんど全部が「大和」と「武蔵」に来た。『男たちの大和』なんていう映画を見ましたけど、実際はあんな生やさしいものじゃない。本当に、口では表現できないほど凄まじい戦いでした。
こっちに爆弾が落ちたかと思うと、こっちにも落ちる。それで、爆弾の破片が飛んできて機銃手がやられたりして甲板に血が流れてくる。それはもうひどいものだった。
 
  1回目の空襲で「武蔵」に魚雷一本と爆弾が数発当たった。それでも「武蔵」はあまり被害を受けずに一緒に走ってました。
2回目、3回目と続けるうちに、今度は「武蔵」に集中していくようになって、最初は、「大和」と「武蔵」に五分五分に行われていた爆撃が、いつぞや「大和」に3、「武蔵」に7ぐらいの割合で行 われるようになりました。そのうちに3度ぐらいの空襲で「武蔵」は魚雷が7本も8本も当たって、爆弾も10発ぐらい命中し、もう普通に速度が出なくなった。そうして「武蔵」が落伍してしまったんです。
 
  それで空襲が終わり、途中で栗田艦隊はいっぺん、4時頃に引き返してる。こんなに被害を受けているのに、日本の航空部隊は何をしてるんだと、航空隊の成果が上がるまで水上部隊はしばらく突入を待つから、成果が上がったら電報しろという主旨の電報を航空隊に打って、東に進んでいた栗田艦隊が西に進み出した。 逃げたわけです。
 
井上 そうだったのですか。ところで「武蔵」が集中攻撃を受けて沈んだのは、何か理由があったんでしょうか。
 
深井  「大和」の艦長は船の操艦が上手かったんです。爆弾や魚雷を、巧みに舵を取ってよける、そういう操艦が上手だった。ところが、「武蔵」の艦長は、大艦巨砲主義の権化ともいえる海軍砲術学校の校長で、長いこと陸上で教官をやっておられたから操艦に慣れていなかった。だから爆弾が落ちてきても上手く避けられなかったんでしょう。
それに「武蔵」は新しくできた艦で、乗員がまだよく訓練されてない。ところが「大和」のほうは古いから、乗員も訓練されている。その差で「武蔵」は被害を受け、「大和」は生き残ったんです。
 
  栗田艦隊は、落伍した「武蔵」を残して東に向かったんですが、さっき申し上げたように、航空隊の効果が出るまで待つということで、西に向かって引きくり返してきた。
その時、「武蔵」がもう沈みかけていました。
「大和」「武蔵」というのは、舳先がスッと上がってるんです。甲板よりちょっと坂になって上がっており、その上がった先に菊の御紋章がついている。
御紋章から白波が立つでしょう。あの白波が御紋章の下からザーッと出て、後ろの甲板はもう水に浸かっていた。それでも「武蔵」は走っていました。
 
 僕らはその状態を見て、これはもう駄目だと思ってました。
「武蔵」は、命令により台湾、中国間の群島にある馬公の海軍基地へ向けて航路を取っていたのですが、力尽きて、ついにシブヤン海に沈んだのです。
 
(サマール沖での砲撃)

井上 その後の栗田艦隊の作戦行動について、お話しいだけますでしょうか。
 
深井  我々が西に向かって走り続けていた午後4時頃、敵の飛行機がピタリと来なくなったんです。
何が何だかわかりませんでした。味方の航空部隊から空母を沈めたという電報もない。実は24日14時、三ついたアメリカの航空母艦群と水上第七艦隊は、囮になった小沢艦隊を発見し、栗田艦隊への攻撃をやめて小沢艦隊へ行ってしまったのです。
 
  その結果、小沢艦隊は1隻を残して全部沈められましたが、囮艦隊としてはまことに立派な仕事をした。小沢治三郎長官は立派な方で、我々は尊敬していました。
小沢艦隊があったから、我々がレイテの近くまで行けたんですよ。そうでなければ、サンベルナルジノ海峡の出口に待っていた敵にやられていたでしょう。
 
イメージ 19

(反転時の大和艦橋)

井上 最後に、今も議論が続く「謎のUターン」のお話しをお願いいします。
 
深井  突撃命令が出たので、「大和」も「長門」も戦艦部隊はどんどん攻めてゆきました。
そして水雷戦隊の駆逐艦も三十数ノットで逃げる敵艦を追いかけてゆき、もう魚雷が撃てるという5、6000メートルくらいまで近づいていったのです。一方、「大和」は被害を受けて22ノットぐらいしか出せませんでした。
 
  こうして艦隊はバラバラになってしまったので、9時11分、追撃をやめて逐次集まれという命令がかかった。それからまとまってレイテ沖に向かったんです。
レイテ湾は山の陰で見えないけど、「あのへんがかすんで見える」「何か船がいるような気がするな」なんて言いながら南へ、南へと2時間ほど走った。もう1時間半走ったら「大和」の主砲弾がレイテ沖の敵の軍艦なり、商船なりに当たるぞという所まで来たところで、「大和」が5、60機の空襲を受けたのです。
その弾をよけるのに、艦隊があっち向いたり、こっち向いたりして、爆撃が終わった時には、「大和」は北を向いていました。
 
 その時、13時10分、栗田長官が「レイテ突入をやめ、北上し敵機動部隊を求め決戦」という命令を出された。僕らは対空戦闘が終わってもどんどん北へ行くので、おかしいなと思って、艦橋へ降りていってどうしたんだと聞いたら、みんな黙っている。
 艦橋には栗田長官と、「大和」「長門」を指揮する第一戦隊司令官の宇垣纏さん、そして大和艦長の3人がおられるんですけど、もう3人とも変な顔なんですよ。
 
栗田長官は黙って前を向いたまま。宇垣中将は参謀なんかに向かって、「南に行くんじゃないか!」と皆に聞こえるよう大声で言っておられる。参謀はこっちのほうに隠れて聞かないようにしている。
「大和」の艦長は、司令官が2人も乗っているからどうしようもない。黙って座っているだけ。
栗田長官は90マイル先の機動部隊を攻めに行くといい、宇垣長官は30マイル先のアメリカ(レイテ)を潰しに行くという。2人の意見が分かれて、それまでにだいぶやり合ったらしい。
 
僕らは、ここまで来てあと1時間半行けば、敵の艦隊も商船も、上陸したマッカーサーの陸軍だって、みんな潰してやれると思っていた。目の前に敵がいるのにレイテに向かわず、90マイルも北にある敵艦隊に戦いを挑むなんて考えられませんでした。
 
「大和」が速力22ノットで30マイルも走れば、レイテ湾に着く。俺達は、命令通りレイテ湾に突入してアメリカ軍を潰さなければ、日本とボルネオの油田地帯とを結ぶ交通路が遮断され、いくら船が残っていても役に立た なくなる。飛行機も飛べなくなる、だから、ここは絶対に譲れない。
そう考えた私は、後ろで作戦参謀が集まっている所に怒鳴り込んで、大ゲンカしたんです。普通なら、軍法会議にかけられてすぐ停職になるが、そんなことはもう頭にありませんでした。
 
  しかし、いくら地団駄踏んでも、参謀が長官に「南へ行きましょう」と言って方針を変えない限り、「大和」は北に向かって走り続ける。悔しくてしょうがないが、海ですから降りて歩くわけにもいかない。本当に情けない思いをしながら、昨日受けたような爆撃を何遍も受けながらブルネイの基地に戻ってきた。それが 謎の反転の真実なんです。
 
井上 その反転の理由は、一体何だったのでしょうか?
 
深井  その間に怪電報があったのです。「敵機動部隊見ユ、地点ヤキ1カ 0945」というものです。これは栗田艦隊司令部にだけあって、他のどの艦も受信した記録がない。「大和」と司令部は通信所が全然違うから「大和」にもない。発信者も分からない。「ヤキ1カ」というのは飛行機用の符号なので、飛行機が打った電報だと分かっているが、栗田さんは戦後、これはマニラの南西方面艦隊司令部にいる同期生が打ってくれた電報だと言っています。その電報のヤキ1カ、「大和」の北方地点の敵に向かって反転したんだというのが参謀の言い分です。
 
  僕があんまりしつこいから、作戦参謀がその電報を持ってきて、「この敵を叩きに行くんだ、これだ!」と示した。後から考えると、消去法でいくと、どうも作戦参謀の作文に違いないという結論に僕は達したのです。
作戦参謀は、とかく噂のある、死にたくない人でした。以降の日程を考えても、次の日には爆撃を受けないようなシブヤン海の端まで行っている。それで逃げられる、と考えていたのだろうかとまで私は疑って仕舞います。ただし証拠はありません。
 
井上 栗田長官ご自身は、どうお考えだったのでしょうか。
 
深井  あの人は下から押し上げられて偉くなった人で、そんなに器量が大きな人ではない。だから作戦は参謀任せ。参謀が言うならそれでよかろうということではないでしょうか。ミッドウェー海戦で、護送していた輸送船部隊を置いて、沖縄に逃げ帰った経歴もあるから、僕らも信用していません。
それでも戦後、あれは俺の一存だったと、全部責任を負われた。しかし実際はそうじゃないと思います。
 
井上 もし、栗田艦隊がレイテに突入していたら、どうなったと思われますか。
 
深井  レイテ湾には40隻くらい敵の輸送船がいた。空船にせよ何にせよ、輸送船がどんどん沈められたらレイテ湾は使えなくなったでしょう。
旅順閉塞みたいなもので、船で増援部隊、増援物資を送れなくなり、そうなれば6万の米兵が干上がってしまう。そして次の作戦までに3カ月や4カ月はかかってしまう。
また、「大和」と 「長門」が艦砲射撃すれば、陸軍の守備隊も少しは盛り返して、飛行場を取り返すだろうと想像できた。希望的観測をすればそんなところです。
その3カ月か4カ月の間で、有利な条件で講和ができれば、連合艦隊がつぶれてもいいじゃないか。国の為にやることだからしようがない、そういう気持ちでした。

 
● 深井俊之助氏(ふかい・しゅんのすけ) 大正3(1914)年生れ、東京都出身。 昭和5年海軍兵学校入校。以降履歴【昭和9年卒業、「八雲」】 【10年「比叡」】 【11年少尉、中尉任官】 【14年南支方面作戦、大尉任官、「夕暮」】 【15年仏印作戦】 【16年「初雪」、マレー沖海戦】 【17年エンドウ沖海戦、バタビヤ沖海戦、サボ島沖海戦、ガダルカナル作戦、第3次ソロモン海戦、「金剛」】 【19年「大和」副砲長、少佐任官、シブヤン沖海戦、サマール沖海戦、レイテ沖海戦】 【20年、第3航空艦隊参謀、終戦。「八雲」、マニラ在留邦人救出輸送任務。10月予備役】 戦後は不動産建設業を営む。(「」内は乗組艦名)
 
イメージ 16
         元「大和」副砲長 深井俊之助少佐。

保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存

太平洋戦争の残影 ㉖戦艦「大和」と「武蔵」

真珠湾攻撃、マレー沖海戦の勝利は、皮肉にも戦いの主役が、「大和」「武蔵」「長門」「陸奥」のような戦艦から、航空機へと移ったことを自ら証明することになります。 
開発当時は「不沈艦」と称された最先端の戦艦だったが、第二次大戦では戦艦同士の砲撃戦から、洋上の基地としての空母と航空機を主体とした戦いに移っており、戦艦の価値は大きく低下、自慢の46cm主砲が活躍する機会は殆んどなかったのです。
 
昭和16年(194112月の竣工後、大和は連合艦隊に編入され、昭和17年(19426月のミッドウェー 海戦で初陣を迎えます。その後、マリアナ沖海戦(米軍呼称はフィリピン海海戦、昭和19年(1944年)619日~20日)、比島沖海戦(米軍呼称はレイテ海戦、同年1023日~25日)はともに対空戦闘に終始したため、大和の主砲が威力を発揮することはありませんでした。しかし唯一、比島沖海戦中、サマール島沖で米護衛空母部隊と交戦した際に敵艦に対して砲撃が行われ、この時が「大和」が敵艦に向けてその主砲を放った最初で最後となりました。

すでに日本の敗色が濃厚となっていた昭和19年(1944)のレイテ沖海戦で、「武蔵」が集中攻撃を受けて沈没。一方「大和」は被害を受けながら帰還修復が為された。

連合艦隊が壊滅状態に陥ると、昭和20年(19454月、「大和」は沈没前提の特攻作戦として米軍の沖縄上陸阻止に向けて出動、多数の敵機の標的となり、鹿児島南西海上で47日に沈没した。

イメージ 20
           柱島泊地に於ける戦艦「大和」
  

イメージ 19
             戦 艦 「大 和」


イメージ 12

  トラック島泊地における戦艦 左『大和』 右『武蔵』 (昭和18年)


イメージ 13

              戦艦『大和』


イメージ 14

全力予行運転中の戦艦『大和』(昭和16年10月20日 宿毛標柱間)

イメージ 15
全力公試運転中の戦艦『大和』(昭和16年10月30日宿毛沖標柱間)


イメージ 16
戦艦『大和』


イメージ 17

  最終艤装中の戦艦『大和 』(昭和16年9月20日 呉海軍工廠にて)


イメージ 1



イメージ 2
停泊中の戦艦「長門」の向こうに「大和」の姿が見える(昭和19年)ブルネイ泊地

イメージ 3
中島九七式三号艦上攻撃機 (97艦攻)直下に儀式用テントを張った「大和」


イメージ 4
                戦艦「大和」

イメージ 5
左から武蔵手前最上、右大和手前鳥海  (昭和19年10月21日 ブルネイ湾)

イメージ 6
             戦艦『武蔵』 前方正面


イメージ 7
昭和天皇行幸の記念写真。対空機銃銃座前(1943年6月24日)戦艦「武蔵」
          ・・・前列中央が【昭和天皇】・・・

イメージ 8
    徳山~呉間で公試中の戦艦『武蔵』艦橋付近(昭和17年7月)


イメージ 9
 戦艦『武蔵』の艦橋より艦首を眺望

(((武蔵にトリプルガン配置
戦艦「武蔵」のトリプル砲と水兵

イメージ 18
         戦艦『武蔵』の艦橋より艦首を眺望す


イメージ 10

               戦艦『武蔵』

イメージ 11
      レイテ湾の戦艦『武蔵』 ( 1944年10月22日)



【次回は】・・・

太平洋戦争の残影 ㉗戦艦「大和」と「武蔵」の最期・・につづく





保存保存保存保存保存保存保存

このページのトップヘ