太平洋戦争の残影 ㉘戦艦「大和」の最期・・
戦艦「大和」Yamato, named after the ancient Japanese Yamato Province…
昭和19年10月22日、ブルネイを出撃する栗田艦隊。右の長門の前方が武蔵で、そこから奥に向かって大和、榛名、金剛と、高雄型重巡洋艦4隻。
シブヤン海で米海軍の艦載機の攻撃を受ける日本海軍の戦艦大和-1944年10月24日
シブヤン海でアメリカ艦載機による攻撃を受ける戦艦『大和』 昭和19年10月24日
日米両海軍が火花を散らした大激戦「シブヤン海戦」
そして「天一号作戦」へ向けて沖縄へ
坊ノ岬沖、「天1号作戦」での「大和」 昭和20年4月7日
坊ノ岬沖、「天1号作戦」での「大和」 昭和20年4月7日
グラマンの攻撃を受ける「大和」
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傾斜した「大和」を守るべく、防空戦を続ける「冬月」の砲が火を吹いたところ。
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相次ぐ被弾での浸水により、速力が低下した「大和」 左舷を護衛するのは雪風.
戰艦「大和 」と護衛艦とも9艦で・・・
空襲の中、回避行動を取る「大和」
敵機の攻撃に曝される「大和」
懸命に回避行動を取るも・・「大和」
米艦載機からの攻撃で瀕死の「大和」
艦体が海に没した直後、(前後部砲塔弾薬に誘爆)凄まじい大爆発が発生した
艦体が海に没した直後、火薬庫に引火・誘爆、凄まじい大爆発が発生した
直後、火薬庫に引火(前後部砲塔弾薬に誘爆)凄まじい大爆発が発生した。
鹿児島県、坊ノ岬沖にて轟沈。
昭和20年4月6日、7日、軍艦大和行動図
➀ ②
➀ はこの作戦時の戦艦「大和」の戦闘詳報です。
③ ④
③によれば、大和の戦果は撃墜3機、撃破20機、その被害は「沈没(戦死艦長以下2498名)」と記されています。
④ は大和の被害状況を絵図としてまとめたもの
⑤ ⑥
⑤ 「参考事例(戦訓)」には、
敗れて目覚める・・・
コルセアによる「大和」への攻撃・・
戦艦「武蔵」の最期・・そして「大和」のUターンを語る。
・・・(『月刊正論』 2014年10月号より抜粋)・・・
●深井俊之助 (元帝国海軍少佐・戦艦「大和」副砲長)●聞き手:井上和彦 (ジャーナリスト)の対談・・・http://ironna.jp/article/1062?p=5
(「大和」でレイテ沖へ)
深井 19年3月1日に「大和」の副砲長になり、もう内地にいても油が足りないから南方の前進根拠地に行けと言われて、リンガ泊地に行きました。リンガ泊地はシンガポールから南に100マイルぐらいの島で、まことにいい具合に、海には小さい島がいっぱいあって、潜水艦なんかが夜襲できない場所でした。ちょうど連合艦隊が入れるぐらい大きくて、出入り口が二つほどある。そこに警戒艦が監視していれば、中の船は大丈夫。そこならボルネオの油田やセレベスの油田などが近いから、いつでも油を補給できる。そのリンガ泊地におった時に、レイテ沖海戦の命令が出たんです。井上 まずは、戦艦「武蔵」が沈められたシブヤン海戦がありますね。深井さんは「武蔵」の沈没を目の当たりにされたのですね。深井 その時には、私はもう「大和」に乗っていて、フィリピンのレイテ沖に突入する作戦の途上でした。あれは、昭和19年10月22日ですか、その1週間ぐらい前にリンガ泊地を出て、ボルネオのブルネイで突入部隊が油を積み、レイテに向かったんです。ブルネイを出て、一晩過ごした23日朝、明るくなる頃には攻撃があるからと全員が戦闘配置につき、重巡洋艦「愛宕」を敵艦に見立てて砲戦訓練をやっていた。その時、急に「愛宕」と「摩耶」と「高雄」、3隻の1万トン級の巡洋艦が2隻の敵潜水艦に沈められたんです。それで彼らを置き去りにして、シブヤン海に入りました。その攻撃がどこから来たかというと、そのときルソン島沖、太平洋への通路であるサンベルナルジノ海峡の出口、レイテ沖に、三つの敵航空母艦群が4隻ずつ、計12隻おりました。ほかにもう一つ、補給基地に帰っていく空母群4隻があって、三八任務部隊というこの4つの空母群から、栗田健男長官が指揮する我々栗田艦隊に攻撃が来たんです。朝8時頃に、敵の飛行機が我々の頭上を飛んで・・・触接というのですが、こちらの進路や速度を報告したんです。それを受けて敵空母から飛行機隊が飛び立ち、昼前の11時過ぎに第一派の攻撃が来ました。それから1時間か2時間おきに5回来ました。だいたい1回の攻撃は80機ぐらい。この80機が二つに分かれて、お目当ての「大和」と「武蔵」に攻撃を仕掛けてきました。他の艦艇への攻撃は、帰りがけの駄賃で爆弾を落とすぐらいで、ほとんど全部が「大和」と「武蔵」に来た。『男たちの大和』なんていう映画を見ましたけど、実際はあんな生やさしいものじゃない。本当に、口では表現できないほど凄まじい戦いでした。こっちに爆弾が落ちたかと思うと、こっちにも落ちる。それで、爆弾の破片が飛んできて機銃手がやられたりして甲板に血が流れてくる。それはもうひどいものだった。1回目の空襲で「武蔵」に魚雷一本と爆弾が数発当たった。それでも「武蔵」はあまり被害を受けずに一緒に走ってました。2回目、3回目と続けるうちに、今度は「武蔵」に集中していくようになって、最初は、「大和」と「武蔵」に五分五分に行われていた爆撃が、いつぞや「大和」に3、「武蔵」に7ぐらいの割合で行 われるようになりました。そのうちに3度ぐらいの空襲で「武蔵」は魚雷が7本も8本も当たって、爆弾も10発ぐらい命中し、もう普通に速度が出なくなった。そうして「武蔵」が落伍してしまったんです。それで空襲が終わり、途中で栗田艦隊はいっぺん、4時頃に引き返してる。こんなに被害を受けているのに、日本の航空部隊は何をしてるんだと、航空隊の成果が上がるまで水上部隊はしばらく突入を待つから、成果が上がったら電報しろという主旨の電報を航空隊に打って、東に進んでいた栗田艦隊が西に進み出した。 逃げたわけです。井上 そうだったのですか。ところで「武蔵」が集中攻撃を受けて沈んだのは、何か理由があったんでしょうか。深井 「大和」の艦長は船の操艦が上手かったんです。爆弾や魚雷を、巧みに舵を取ってよける、そういう操艦が上手だった。ところが、「武蔵」の艦長は、大艦巨砲主義の権化ともいえる海軍砲術学校の校長で、長いこと陸上で教官をやっておられたから操艦に慣れていなかった。だから爆弾が落ちてきても上手く避けられなかったんでしょう。それに「武蔵」は新しくできた艦で、乗員がまだよく訓練されてない。ところが「大和」のほうは古いから、乗員も訓練されている。その差で「武蔵」は被害を受け、「大和」は生き残ったんです。栗田艦隊は、落伍した「武蔵」を残して東に向かったんですが、さっき申し上げたように、航空隊の効果が出るまで待つということで、西に向かって引きくり返してきた。その時、「武蔵」がもう沈みかけていました。「大和」「武蔵」というのは、舳先がスッと上がってるんです。甲板よりちょっと坂になって上がっており、その上がった先に菊の御紋章がついている。御紋章から白波が立つでしょう。あの白波が御紋章の下からザーッと出て、後ろの甲板はもう水に浸かっていた。それでも「武蔵」は走っていました。僕らはその状態を見て、これはもう駄目だと思ってました。「武蔵」は、命令により台湾、中国間の群島にある馬公の海軍基地へ向けて航路を取っていたのですが、力尽きて、ついにシブヤン海に沈んだのです。(サマール沖での砲撃)
井上 その後の栗田艦隊の作戦行動について、お話しいだけますでしょうか。深井 我々が西に向かって走り続けていた午後4時頃、敵の飛行機がピタリと来なくなったんです。何が何だかわかりませんでした。味方の航空部隊から空母を沈めたという電報もない。実は24日14時、三ついたアメリカの航空母艦群と水上第七艦隊は、囮になった小沢艦隊を発見し、栗田艦隊への攻撃をやめて小沢艦隊へ行ってしまったのです。その結果、小沢艦隊は1隻を残して全部沈められましたが、囮艦隊としてはまことに立派な仕事をした。小沢治三郎長官は立派な方で、我々は尊敬していました。小沢艦隊があったから、我々がレイテの近くまで行けたんですよ。そうでなければ、サンベルナルジノ海峡の出口に待っていた敵にやられていたでしょう。(反転時の大和艦橋)
井上 最後に、今も議論が続く「謎のUターン」のお話しをお願いいします。深井 突撃命令が出たので、「大和」も「長門」も戦艦部隊はどんどん攻めてゆきました。そして水雷戦隊の駆逐艦も三十数ノットで逃げる敵艦を追いかけてゆき、もう魚雷が撃てるという5、6000メートルくらいまで近づいていったのです。一方、「大和」は被害を受けて22ノットぐらいしか出せませんでした。こうして艦隊はバラバラになってしまったので、9時11分、追撃をやめて逐次集まれという命令がかかった。それからまとまってレイテ沖に向かったんです。レイテ湾は山の陰で見えないけど、「あのへんがかすんで見える」「何か船がいるような気がするな」なんて言いながら南へ、南へと2時間ほど走った。もう1時間半走ったら「大和」の主砲弾がレイテ沖の敵の軍艦なり、商船なりに当たるぞという所まで来たところで、「大和」が5、60機の空襲を受けたのです。その弾をよけるのに、艦隊があっち向いたり、こっち向いたりして、爆撃が終わった時には、「大和」は北を向いていました。その時、13時10分、栗田長官が「レイテ突入をやめ、北上し敵機動部隊を求め決戦」という命令を出された。僕らは対空戦闘が終わってもどんどん北へ行くので、おかしいなと思って、艦橋へ降りていってどうしたんだと聞いたら、みんな黙っている。
艦橋には栗田長官と、「大和」「長門」を指揮する第一戦隊司令官の宇垣纏さん、そして大和艦長の3人がおられるんですけど、もう3人とも変な顔なんですよ。栗田長官は黙って前を向いたまま。宇垣中将は参謀なんかに向かって、「南に行くんじゃないか!」と皆に聞こえるよう大声で言っておられる。参謀はこっちのほうに隠れて聞かないようにしている。「大和」の艦長は、司令官が2人も乗っているからどうしようもない。黙って座っているだけ。
栗田長官は90マイル先の機動部隊を攻めに行くといい、宇垣長官は30マイル先のアメリカ(レイテ)を潰しに行くという。2人の意見が分かれて、それまでにだいぶやり合ったらしい。僕らは、ここまで来てあと1時間半行けば、敵の艦隊も商船も、上陸したマッカーサーの陸軍だって、みんな潰してやれると思っていた。目の前に敵がいるのにレイテに向かわず、90マイルも北にある敵艦隊に戦いを挑むなんて考えられませんでした。「大和」が速力22ノットで30マイルも走れば、レイテ湾に着く。俺達は、命令通りレイテ湾に突入してアメリカ軍を潰さなければ、日本とボルネオの油田地帯とを結ぶ交通路が遮断され、いくら船が残っていても役に立た なくなる。飛行機も飛べなくなる、だから、ここは絶対に譲れない。
そう考えた私は、後ろで作戦参謀が集まっている所に怒鳴り込んで、大ゲンカしたんです。普通なら、軍法会議にかけられてすぐ停職になるが、そんなことはもう頭にありませんでした。しかし、いくら地団駄踏んでも、参謀が長官に「南へ行きましょう」と言って方針を変えない限り、「大和」は北に向かって走り続ける。悔しくてしょうがないが、海ですから降りて歩くわけにもいかない。本当に情けない思いをしながら、昨日受けたような爆撃を何遍も受けながらブルネイの基地に戻ってきた。それが 謎の反転の真実なんです。井上 その反転の理由は、一体何だったのでしょうか?深井 その間に怪電報があったのです。「敵機動部隊見ユ、地点ヤキ1カ 0945」というものです。これは栗田艦隊司令部にだけあって、他のどの艦も受信した記録がない。「大和」と司令部は通信所が全然違うから「大和」にもない。発信者も分からない。「ヤキ1カ」というのは飛行機用の符号なので、飛行機が打った電報だと分かっているが、栗田さんは戦後、これはマニラの南西方面艦隊司令部にいる同期生が打ってくれた電報だと言っています。その電報のヤキ1カ、「大和」の北方地点の敵に向かって反転したんだというのが参謀の言い分です。僕があんまりしつこいから、作戦参謀がその電報を持ってきて、「この敵を叩きに行くんだ、これだ!」と示した。後から考えると、消去法でいくと、どうも作戦参謀の作文に違いないという結論に僕は達したのです。作戦参謀は、とかく噂のある、死にたくない人でした。以降の日程を考えても、次の日には爆撃を受けないようなシブヤン海の端まで行っている。それで逃げられる、と考えていたのだろうかとまで私は疑って仕舞います。ただし証拠はありません。井上 栗田長官ご自身は、どうお考えだったのでしょうか。深井 あの人は下から押し上げられて偉くなった人で、そんなに器量が大きな人ではない。だから作戦は参謀任せ。参謀が言うならそれでよかろうということではないでしょうか。ミッドウェー海戦で、護送していた輸送船部隊を置いて、沖縄に逃げ帰った経歴もあるから、僕らも信用していません。それでも戦後、あれは俺の一存だったと、全部責任を負われた。しかし実際はそうじゃないと思います。井上 もし、栗田艦隊がレイテに突入していたら、どうなったと思われますか。深井 レイテ湾には40隻くらい敵の輸送船がいた。空船にせよ何にせよ、輸送船がどんどん沈められたらレイテ湾は使えなくなったでしょう。旅順閉塞みたいなもので、船で増援部隊、増援物資を送れなくなり、そうなれば6万の米兵が干上がってしまう。そして次の作戦までに3カ月や4カ月はかかってしまう。また、「大和」と 「長門」が艦砲射撃すれば、陸軍の守備隊も少しは盛り返して、飛行場を取り返すだろうと想像できた。希望的観測をすればそんなところです。その3カ月か4カ月の間で、有利な条件で講和ができれば、連合艦隊がつぶれてもいいじゃないか。国の為にやることだからしようがない、そういう気持ちでした。
● 深井俊之助氏(ふかい・しゅんのすけ) 大正3(1914)年生れ、東京都出身。 昭和5年海軍兵学校入校。以降履歴【昭和9年卒業、「八雲」】 【10年「比叡」】 【11年少尉、中尉任官】 【14年南支方面作戦、大尉任官、「夕暮」】 【15年仏印作戦】 【16年「初雪」、マレー沖海戦】 【17年エンドウ沖海戦、バタビヤ沖海戦、サボ島沖海戦、ガダルカナル作戦、第3次ソロモン海戦、「金剛」】 【19年「大和」副砲長、少佐任官、シブヤン沖海戦、サマール沖海戦、レイテ沖海戦】 【20年、第3航空艦隊参謀、終戦。「八雲」、マニラ在留邦人救出輸送任務。10月予備役】 戦後は不動産建設業を営む。(「」内は乗組艦名)元「大和」副砲長 深井俊之助少佐。
【太平洋戦争の残影を見る】 ↓ ①~㉘
① 大阪城周辺と陸軍造兵工廠 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36279478.html
② 大阪駅周辺の爆撃廃墟 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36295578.html
③大阪ミナミの爆撃廃墟 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36305796.html
④神風特攻隊・・1 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36326083.html
⑤神風特攻隊・・2 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36339854.html
⑥神風特攻隊・・3 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36356342.html
⑦神風特攻隊・・4 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36373109.html
⑧神風特攻隊・・5 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36389248.html
⑨神風特攻隊・・6 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36406435.html
⑩神風特攻隊・・7 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36423117.html
⑪神風特攻隊・・8 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36439341.html
⑫神風特攻隊・・9 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36454544.html
⑬神風特攻隊・・10 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36471371.html
⑭松山海軍航空基地 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36487149.html
⑮坂野壽男・・満州での8月15日① https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36500298.html
⑯坂野壽男・・満州での8月15日② https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36515363.html
⑰坂野寿男・・敗戦・満州脱出行① https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36530106.html
⑱ 坂野寿男・・敗戦・満州脱出行② https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36546313.html
⑲ 真珠湾攻撃による日米開戦 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36557875.html
⑳真珠湾攻撃による戦艦「アリゾナ」の最期 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36578883.html
㉑真珠湾攻撃によるダメージ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36591114.html
㉒マレー沖海戦 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36628346.html
㉓珊瑚海海戦 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36643454.html
㉔ミッドウェー海戦 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36655630.html
㉕米西海岸奇襲とドーリットル東京空襲 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36673242.html
㉖戦艦「大和」と「武蔵」 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36699641.html
㉗戦艦「武蔵」の最期・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36713029.html
㉘戦艦「大和」の最期・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36728399.html