泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2016年12月

太平洋戦争の残影 ㉑真珠湾攻撃によるダメージ③

【大東亜戦争開戦への動き】

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          真珠湾攻撃中    村上 松次郎 画


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        真珠湾で空襲を受ける、米海軍の戦艦群

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    猛火猛煙の戦艦「ウエスト・ヴァージニア」への消火作業


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         横転した艦船の向こうで攻撃は続く・・

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                真珠湾攻撃


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      米戦艦「カリフォルニア」USS California (BB-44)


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       日本機の爆撃を脱がれた軽巡洋艦「フェニックス」

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     ドック内の戦艦「ペンシルヴェニア」も容赦なく・・


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雷撃により沈没した戦艦「ウェスト・ヴァージニア」に救助に向かうモーター・ランチ。後方は戦艦「テネシー」


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        猛煙を揚げて燃焼する、戦艦「アリゾナ」


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            被弾した戦艦「ネバダ」


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座礁した戦艦「ネバダ」艦橋下部と主砲塔が火災により黒焦げとなっている

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           引き揚げられた戦艦「ネヴァダ」


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       真珠湾で炎上した駆逐艦「シャウ」USS Shaw


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       真珠湾で炎上した駆逐艦「シャウ」USS Shaw


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              爆 弾 命 中

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         ハワイ真珠湾強襲    吉岡 堅二 筆

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             ホイラー飛行場の空爆


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             ヒッカム飛行場の空爆

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           硝煙を揚げるヒッカム飛行場?


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    日本軍の攻撃で炎上する海兵隊所属JO-2 エレクトラジュニア

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     巨大な胴体を真っ二つに破壊された、ボーイングB-17

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      日本機は参戦350機の内、29機が失われたらしい。


 ニイハウ島に不時着したが、焼却された西海地重徳一飛曹搭乗機のゼロ戦

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真珠湾の封殺をも考慮して、日本海軍は特殊潜航艇「甲標的」(甲標的甲型)を開発,量産し1941年12月の真珠湾攻撃で初めて実戦に使用した。甲標的は,直径45センチの九七式魚雷を2本搭載する二人乗り潜航艇で,航続距離は短く,操縦性も悪かった。また、電池を使い切ってしまえば動けない。出撃した甲標的5隻の搭乗員10名のうち戦死した9名は軍神として崇められ,捕虜となった士官は黙殺された。


イメージ 20   カネオヘにて、真珠湾攻撃により犠牲となった米軍戦士たちの埋葬








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太平洋戦争の残影 ⑳真珠湾攻撃による戦艦「アリゾナ」の最期②

【大東亜戦争開戦への動き】

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          1941年10月、開戦直前の真珠湾

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      ⇧湾口    真珠湾と12月8日付の停泊艦艇

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             第一波攻撃機の空襲

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            第一波攻撃機の空襲


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             第一波攻撃機の空襲


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             第一波攻撃機の空襲


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真珠湾攻撃で爆沈されるアリゾナ、その奥にテネシーとウェストバージニアが見える

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戦艦「アリゾナ」Arizona

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魚雷攻撃で燃える、戦艦「アリゾナ」と「テネシー」「ウエストバージニア」

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            戦艦「アリゾナ」Arizona

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戦艦「アリゾナ」は黒煙に包まれ、左は戦艦「ウエストヴァージニア」West Virginia(半分沈没), 戦艦「テネシー」Tennessee


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真珠湾攻撃で爆沈されるアリゾナ、その奥にテネシーとウェストバージニアが見える


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  1941年12月7日,真珠湾で前部弾薬庫が爆発した戦艦「アリゾナ」

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       午前8時10分、戦艦アリゾナの火薬庫が誘爆。


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            戦艦「アリゾナ」Arizona


イメージ 13戦艦アリゾナの最期

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            戦艦「アリゾナ」Arizona

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            戦艦「アリゾナ」Arizona

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              戦艦「アリゾナ」


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 沈没、着床した戦艦「アリゾナ」Arizona(BB-39)


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             往年の戦艦アリゾナ


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     慰霊施設「アリゾナ記念館」とその下の「アリゾナ本体」

乗組員1177名のうち1102名が死亡し、撃沈された戦艦「アリゾナ」及びその乗組員を追悼するとともに、真珠湾攻撃自体を記念する施設となっている。現在この施設は沈没した戦艦アリゾナの真上に建設されている。


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            ヒッカム飛行場への攻撃


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          燃焼から避難する、カタリナPBY飛行艇


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      米戦艦「カリフォルニア」USS California (BB-44)

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          猛煙の米戦艦「カリフォルニア」


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午前8時30分、離脱しようとした戦艦ネヴァダは第2波の攻撃によって沈没


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            引き揚げられた戦艦ネヴァダ


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        スクリューを見せて沈む戦艦オクラホマ

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           戦艦「オクラホマ」の引揚作業

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        転覆中の戦艦「オクラホマ」の引揚作業


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        転覆していた戦艦「オクラホマ」引揚げ作業


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ドック内で損傷した戦艦「ペンシルヴェニア」駆逐艦カッスンCASSIN(右)とダウンズ DOWNES(左)の2隻が破壊


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       ドック内で損傷した戦艦「ペンシルヴェニア」






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太平洋戦争の残影 ⑲真珠湾攻撃による日米開戦①

【大東亜戦争開戦への動き】


昭和14193991日、山本五十六中将が吉田提督に代わり、連合艦隊司令長官となった。就任式は当時、瀬戸内海柱島に停泊していた戦艦「長門」艦上で行われた。
この同日、ドイツはポーランドに侵入し、それより1年余りにして日本はドイツ(ナチ)と同盟を締結した。
当時日本は、支那事変の真っ只中であった。

        
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1941年、ヨーロッパの戦況図


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            日独伊三国同盟の調印式


 それから一週間も経たないうちに、時の首相、近衛侯爵が閣議を開き「日本は今、アメリカに経済封鎖をされているので、豊富な資源を持つ南方に進出したいのだが、真珠湾にアメリカ太平洋艦隊が頑張っているので、それが出来ない」との意見を述べた。
 それに対し陸相の東条英機は「今こそ、アメリカに攻撃を加えるべきである」と進言した。


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     近衛文麿首相・松岡洋右外相・吉田善吾海相・東条英機陸相
 
 昭和161941124日、近衛首相が官邸で重要会議を開いてから間もなく、ワシントンのアメリカ海軍情報部は「ムラサキ」と名付けた暗号解読機で日本の暗号無電を解読することに成功した。
事態容易ならずと察知したアメリカの眼は、急に極東に向けられるようになり、ルーズベルト大統領は連日閣僚会議を開いた結果、アメリカ太平洋艦隊司令長官リチャードソン提督を更迭し、後任としてキンメル提督を起用し、日本軍の真珠湾攻撃に備えようとした。
当時、真珠湾には、まだ永久的なレーダー基地は無く、建設しようとしても観光局や天然物保護協会の反対で成す術がなかった。
その間、山本提督下の連合艦隊は、福留軍参謀の構想の下に瀬戸内海で魚雷攻撃に対する猛訓練を行っていた。


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   真珠湾のアメリカ艦隊の模型を作り、検証する日本海軍参謀本部


昭和1619412山本連合艦隊司令長官は第一航空隊所属の大西参謀を呼び寄せ、真珠湾攻撃に関する意見を聞くと、大西は空母「赤城」所属の名パイロット源田中佐がその方面の優れた作戦家であると進言し、源田中佐を中心に真珠湾攻撃の作戦を完成させていった。



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       ワシントンでの野村吉三郎大使・ハル国務長官


昭和161941424日、アメリカ駐在大使野村吉三郎がハル国務長官と、緊迫した両国の関係を打開するための重要会議を行った。

19416からはアメリカ海軍側は、傍受した日本側暗号を極秘にするようになった。大統領にさえ報告する事を中止した。
一方アメリカ情報部は、日本軍がインドシナを目標として南進を開始していることを知った。
昭和161941725日、野村駐米大使は部下に「戦争が切迫している」の一言を言った。
この頃、山本連合艦隊司令長官は、吉田海相に「日本がアメリカと戦うとなれば、グァム島、フィリピン、ハワイ、サンフランシスコを手に入れるばかりでなく、敵にワシントンで城下の盟をさせなければならないが、その覚悟は有るか?」と問うた。
やがてアメリカ政府は、日本との通商条約を破棄し、スターク海軍作戦部長はハワイを非常事態勢下に置いたが、日本と事を構えることになろうとは予想すらしていなかった。キンメル提督は事態の真相を明らかにしない米政府を糾弾した。

一方、日本の天皇は、あくまでも平和的に事態を収拾するよう政府に要望されたが、政府としては、一応10月末を期限として、万一外交的に解決出来なかったら開戦というメドを立てた。

ハワイでは、日本側のスパイ吉川猛夫少尉が、ハワイの軍事基地の探索と情報収集のため暗躍していた。
昭和16194110月、東条英機が陸相兼首相となり、政と軍の両権を掌握することとなった。

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   空母「赤城」26,900㌧     第一航空艦隊司令長官南雲忠一 
                                     

この月、旗艦「赤城」で行われた作戦会議で、精密なオアフ島と真珠湾の模型が提示され、やがて鹿児島湾で海軍航空隊の猛訓練が開始された。
昭和161941111日、ハワイに寄港した客船「大洋丸」に乗っていた喜多川総領事が、吉川少尉からその後の真珠湾に関する情報を受け取った。
1122日、山本長官は、連合艦隊を択捉島(エトロフ島)のヒトカップ湾に出動させた。


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一方、南雲司令長官下の第一航空艦隊は、ハワイに向けてすでに航行中であった。スパイの吉川少尉は、空母「エンタープライズ」がミッドウェイとウェーキ島に航空機を送るべく出港するのを目撃した。
アメリカ側の情報部は、日本軍の真珠湾攻撃は1230日に決行されると想定し、ハル国務長官もそれを認めた。
 
122日、南雲司令官は、山本司令官から『新高山登れ』と云う暗号電報を受け取った。
いよいよ真珠湾攻撃の時が来たのだ。


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     第5航空隊、空母「瑞鶴」甲板に於ける出撃前の訓示・・
      白服は飛行長・下田久夫中佐。


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         空母「瑞鶴」(ずいかく)29,800㌧


126日、ワシントンのアメリカ情報部では、日本大使館が本国からのメッセージを受け取るために待機していると云う情報をキャッチした。
やがて、ワシントンの日本大使館で野村大使は、日本からメッセージを携えて来た来栖特派大使とメッセージの検討を行い、128に、それをアメリカ政府に手交することを決め、その間、本国からの指示を受けることになった。
127日、東京ではグルー駐日アメリカ大使が、東郷外相を通じて、至急天皇に拝謁を申し出た。
大使は天皇に事態を訴えて緊迫した局面を打開する道はないかと考えたのだが、そうした余裕は既に失われていた。
 
128日未明、遂に南雲中将下の強力機動部隊は、毎時44kmの快速でオアフ島の北方に迫り、午前757分、淵田中佐を先頭とする戦隊が空から真珠湾へ突っ込んでいった。


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    海軍機を満載して航行する「蒼龍」(そうりゅう)19,500㌧


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           真珠湾へ攻撃機の侵入、攻撃図

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 1941年12月7日(現地)、日本の海軍機から撮影された攻撃当日の真珠湾


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            出 撃 体 制 完 了


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            発 進 準 備 完 了


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    空母「翔鶴」(しょうかく)から発艦する九七式艦上攻撃機。


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            眼下の真珠湾 到達・・・


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1941年12月8日、ハワイ真珠湾にて攻撃開始時のアメリカ戦艦群
(日本軍機から写す。  魚雷投入と魚雷航跡が数本見える)

((S 🅼🆄🆂🅴🆄🅼
1941年12月8日、ハワイ真珠湾にて攻撃開始時のアメリカ戦艦群
真上からの急降下爆撃・・日本軍機から写す。


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    矢印(⇩)の先に第一波の九七式艦攻が飛行する姿が見える
        
アメリカ戦艦群に魚雷攻撃を仕掛ける。


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      炎上する真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機


真珠湾奇襲は完全に成功し、やがて旗艦「赤城」から『トラ、トラ、トラ(真珠湾攻撃ニ成功セリ)』という無電が発せられた。
この頃、連合艦隊司令長官、山本五十六は瀬戸内海に停泊中の戦艦「長門」の作戦室に居た。


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             戦艦「長門」33,800㌧

                              柱島周辺に停泊中の戦艦「長門」


長官は終始沈着な面持ちを崩さなかった。やがて「真珠湾攻撃成功」のラジオニュースが聞こえて来た。それを聞き終わると長官は「我々の行動によって、眠れる獅子は目覚め、今や決然と立ち上がったに違いない・・・」


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⇧ 『国、大なりといえども、戦いを好むものは必ず亡ぶ。
天下安しといえども、戦いを忘るる者は必ず危うし』
山本五十六書


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      真珠湾攻撃で爆沈されるアリゾナ、
      その奥にテネシーとウェストバージニアが見える

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         超低空から魚雷攻撃する九七式艦攻


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         真珠湾で空襲された米海軍の戦艦群


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          燃焼と爆発の戦艦「アリゾナ」


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            着底した戦艦「アリゾナ」


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             帰投する日本海軍機

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       昭和16年12月8日(1941)「東京日日新聞」号外 


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           昭和16年12月9日 夕刊

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昭和16年12月9日 夕刊

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太平洋戦争の残影 ⑱坂野寿男・・敗戦・満州脱出行②

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 「おい、どうする」その夜、電灯もないローソクの薄暗い灯りの中で一人が話しかけて来ます。
  その晩は徹夜哨戒の当番がこの5人でした。 他の誰にも聞かれる心配はありません。
   「どうするったって、渾河の通りが一番多いって云うじゃないか、相手200人に5人ではねぇ」
「うん、そうだなぁ、一寸、数が多すぎるなぁ」 暫く沈黙が続きましたが
「俺、こんなもの持っているんだ」一人が携帯口糧の米の中から、一丁のピストルを取り出しました。
「先輩の士官から万一の時、使えと言ってそっと渡されたんだ」小型のコルト銃のようでした。
するともう一人が「それならば、俺も持っているよ」双方の軍足の米の中から出したのが2個の手榴弾でした。 私は、何だか今までの心細さがスッと消えてゆくような気がしました。
「然し、それを実際に使用するということになれば、よけい危険だな」 一人が口をはさむ。
「少々危険は有るけど、危険の度合いは奉天も同じだろ、万一の場合は、これを振りかざしたら蜘蛛の子を散らすように逃げるあいつ等さ、血みどろの闘いをするなんて気はさらさら無いよ。大丈夫だ、俺の経験から云えば、こちらが不退転の決意だぞと、相手に解からせればそれで良い」 森村伍長の言葉には説得力があった。
何れにしろ奉天で一日伸ばした日を送っている心の焦りから逃れる為には、危険を覚悟で決行するしかないのです。
 

私に覚悟が出来たのは、昼間のソ連兵の行動と主婦の必死の逃避行が、臆病な私に決断を迫った。
然し、この武器を最初から正面に押し出してゆくのは得策ではない。ソ連兵の歩哨も居ることだし「あるぞあるぞと見せかけて、万一の場合以外は決して外に出さない」と云うことで衆議一決しました。
私はこの武器が現実に使用されたら、この5人の命は捨てる時だなと覚悟しておりました。
その時ふとあの公館で「ひょっとすると、助かるかも知れない」など色気を出したのは、ちと早とちりだったなと、がっかりしたのを憶えています。

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         奉天城内、小西関辺門での人車の往来

翌日、寮で別れを告げるのが大変でした。
「俺たちを見捨てるのかよ! 兵隊さん!ここに居てくれ、頼むよ兵隊さん!」これには大弱りでした。
皆んなで、色々理由を付け、やっと納得させてホッとしましたが、どんな理由を言ったのか今となっては皆目見当が付きません。
でもあの当時、警察も軍隊も壊滅、混乱の極にあった奉天に在留の日本人が、その後どうなったかと、切ない想いが、未だに心に残っています。
 

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          奉天城内にて最も繁華なる四平街。
 

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             渾河堤防沿いの道
 
 
奉天市街地を抜けて、渾河の堤防を一直線に広い道路が2~3km続いていました。
その土提から1km程手前の路上に、沢山の群衆が見えます。 手に手に棍棒の様な物を持っています。
これが話に聞いていた暴徒の集団であることは間違いありません。
私は一瞬ドキリとしましたが、意外にも怖さで身体が震えるとか、足がガクガクすることが無かったのが何とも不思議でした。 別に糞度胸が付いた訳でも、やけくそになった訳でも無かったようです。 心の底ではハラハラの仕通しでしたから。
両者の間隔が次第に詰まって来ました。
「おい!どうする、200人は居るぞ!」
「うーん! 一寸多過ぎるな・・・」 およそ50m程に近づいた時、「助けてくれーッ!」と言う悲痛な叫びが右の舗道から聞こえて来ました。
正面の敵にばかり気を取られて気が付かなかったが、軍服姿の除隊兵がそこには倒れていたのです。
近づいてみると、私の足へしがみついて来ました。
「助けてくれ、たのむ! 一緒に連れてってくれ!」 まだ20歳そこそこの若い兵隊です。
頭を酷くやられたらしく左のこめかみと目から鮮血がしたたり落ちていました。
「これは立って歩くことも難しいぞ」 何故か直感的にそう思いました。 何とか助けてやりたいが、
「助けてくれ」と言われても、この5人がこれから生きるか、死ぬかの瀬戸際の今に立たされて居るのです。 この瀕死の重傷者を担いで、この包囲網を突破するのは全く不可能の事態です。
私は、まだ初々しい童顔の残る彼を見下ろしながら、彼の受けた暴力のやり場のない怒りに歯ぎしりしたのです。
せめて傷口に付ける薬でもと思っても、包帯はおろか口に含ませてやる一滴の水すら持ち合わせて居ないのです。

「な・・・あれが見えるだろ?」 彼の耳にささやく様に森村伍長が言うと、彼は微かに頷きました。
「あいつ等を追っ払ってから、助けにくるからな」 納得したのか私から手を放し、地面に顔を付け虚ろな眼を閉じました。 疲れも限界、昏睡したのだろうか・・・と思える程です。
この若い兵士の絶望的な運命に、5人は無言でしたが、反対に眼は怒りにギラギラ光っておりました。
 

「オイ! 道の真ん中を見ろ!」 森村伍長が言った。
「あそこが、一番手薄だ、あそこ目がけて、木刀振りかぶって突っ込め、弱みを見せたら負けだぞ!」
「俺は、手榴弾を投げる格好だけするから」
悪いとは思いながら、負傷した気の毒な除隊兵を労ってやる暇はありません。
私達は、声帯をいっぱいに広げて咆哮し、例の棍棒を大上段に振りかぶって、めくら滅法突っ込みました。
紫電一閃、鉄火散る・・・なんて格好の良いものでは決してなかった筈です。
欲張って軍足一杯に詰め込んだ腰の口糧米は、意外に重たくて、走るとこれが両の腰で前後左右に揺れ、腰はそれに引っ張られてバランスを崩す、まるで酔っ払いがツイストを踊っている様で、背中の毛布は風に煽られてパタパタする、第三者が見たら喜劇の三枚目そこのけの珍演技であったに違いないと思います。
私は多分、亭々廃止の打ち合いが始まって衆寡敵せず、急所の一撃で倒れ袋叩きに会う、そんな凄惨な場面を連想していたのですが、案に相違して群衆たちは道の両側へサッと避けて、我々5人は棍棒を振りかざしたまま渾河の堤の上の道まで一気に突っ走っておりました。


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     ⇧奉天新市街  ⇧奉天城内旧市街 ⇧市街の南部を渾河が流れる

 
振り返ると別に追いかけてくる様子もなく、輪になって何事か相談している様子でした。
「やれやれ、どうして追いかけて来ないのかな」 と一寸不思議な気もしないではなかったのですが、難関突破でホッとした途端・・・
「おい、やっぱり、歩哨が居るぞ」 この奉天からの広い道は渾河の堤防上の道に丁の字に突き当り、右折して50mほど西に渾河に懸かる橋があります。 その橋のたもとにソ連軍の歩哨が立っているのです。 先ほどの中央突破で、武器を手元に出していたかどうか、私には解からなかったが、何れにせよ身体検査をされたら万事休すです。
「俺に任せろ、多少ロシヤ語は知っているから・・・」 メンバーの一人がそう言いました。
お互いがその時持っていた煙草を出し合って、2~3箱を彼に託しました。
私達はうしろの方で、かたずを飲んで見守っておりました。
 
何を喋っているのかさっぱり解かりませんが、歩哨が笑顔を見せておりましたので、多分心証は悪くなかったのでしょう。
歩哨は彼から煙草を受け取ると、「通れ」という仕草をしました。
よせば良いのに、彼はそのあと何か二言、三言冗談を云ったようでした、兵隊は急に不機嫌になりプイと横を向いてしまいました。
私達はその兵隊の脇を会釈しながら、左に曲がって橋にかかりました。
橋の中程までは後ろから「ちょっと待て!」と、言われるのではないかと、ヒヤヒヤしながら進みましたが、そこで一寸振り返ると関係ないよとばかり横を向いて立哨していたので、やれやれと胸を撫でおろしたのです。
大陸の8月は、灼熱の太陽が朝からジリジリと照り付けていた筈ですが、想い出すのは冷汗三斗の思いだけです。


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              渾 河 堤 防

渾河の橋の下の草むらにも、あちらに一つ、こちらに一つ軍服姿の除隊兵の骸が転がっていました。
先ほど、手当もしてやれなかった負傷兵のことも思い出され、場合が場合だっただけに仕方なかったというものの、心が痛みました。
この人達も思いっきり戦って名誉の戦死、負傷なら魂も浮かばれたろうに、それが負け戦では「大日本帝国の為に・・」という大義名分も無意味になり、あたら若い命が犬死同然となって可哀相なことだと、暗然とした気持ちになりました。
それにしても、200人の中に5人、無鉄砲だと言えばその通りで、臆病で体力も無い私が他の4人に引きずられたとは言え、よくも大それたことが出来たものだ、人間の運、不運と言うのは紙一重の差だなぁ・・・と、あれから42年経た今日、つくづくそう思わない訳にはいきません。


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               渾河河川敷

渾河を渡ってから先の道のりは、まずまず平穏無事だったと言えるでしょう。
それでも部落、部落の入り口では、必ず獲物を狙う狼のように、棍棒の先端を赤く血潮で染めた集団が待機していました。
当初は30人くらい居ましたが、南下するに従ってその数は少なくなっていったのが思い出されます。
彼らの持つ棒先きの赤黒い血潮の色が、今でも目先にちらついて忘れることが出来ません。
 
今、この手記を書き乍ら、人の心というより私自身の心の変化のおかしさについて、考えているところです。
先ほど、どの様に読んで下さったのか、よれよれの格好と動作で敵中突破(むこうが避けてくれたようだ)した実績が、何か目に見えない力を私達に付けたとでもいうのでしょうか?
30人くらいの敵の集団では、怖いとも恐ろしいとも感じなくなっていたのです。
「ここは何という村か?」「鞍山まで何キロあるか?」の質問に、かえって相手がオドオド返答しているのを見て、一体どうなっているのだろうと我ながら驚いていたのを思い出します。


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         鞍山の風光・・生産の響 昭和製鋼所

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           鞍山製鉄所採鉱鉄山 大孤山。


鞍山に辿りついてびっくりしたのは、平時の急行列車なら30~40分、南に下った距離しかないこの街が、略奪、婦女暴行、殺人など、まるでこの世の地獄かと思えた奉天に較べたら、ソ連軍も進駐していない状態で、それはどこの出来事だと言わんばかりに、平和に静まり返っていることでした。
私が召集を受けて出発した時のままでした。 まるで戦地から母国へ帰り着いたかと錯覚するほどでした。
もっとも、この平和も長続きせずソ連軍の進駐、蒋介石の軍隊、ほどなく中共軍と蒋介石軍(国府軍)の鞍山を中心にした攻防戦などを経て、治安も次第に悪くなり、ソ連軍の使役、中共軍が蒋介石軍攻撃の時に担架部隊として強制参加させられるなど、引揚げの日まで鞍山市民の苦難の道が始まる訳ですが、これは次の機会に書くつもりをしています。
 
以上、詰まらぬことを長々と書きましたが、若し私が少しでも勇敢に見えましたら、それは文章が不味かったせいです。 平凡な一市民が戦争、敗戦という大渦の片隅に巻き込まれ、仕方なく岸淵から転げ落ちたらうまく木の枝に引っかかって、無事着地出来たに過ぎません。
英雄的なことも、感動的なことも何一つ無い内容で甚だ残念なのですが、ただ「運が良かった」の一言に尽きると思っております。
       
昭和62822
 






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