泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2016年05月

国史画帖『大和桜』54.小牧山にて両雄の力比べ・・

 明智を山崎に破り、織田の武将を賤ケ嶽に亡ぼした秀吉の威名は、ますます盛んになるにつれて、織田信雄おだのぶかつ)は愈々安心が出来ず、天正十二年(1584年)徳川家康の援けを得て兵を挙げ、家康は義戦の名目で出陣したが、事実は秀吉に自分の力量を示すべき示威挑戦であった。
 
 そこで股肱の臣本田、榊原、井伊等の三河武士、何れ劣らぬ一騎当千の粒選りを集め、東海一の名将と謳われた家康が総大将となり兵数一万八千、その勢い侮りがたく、秀吉家康が兵を挙げたと聞き自ら十二万の大軍を率い尾張楽田(犬山市楽田)に陣し、ここに名将智将の対陣となり、まさに山雨到らんとして風堂に満ち、両将本陣に在り、互いに旗幟の動きを見て、容易に大軍を動かさず双方睨み合っていたが、秀吉の武将池田信輝自ら、間道より岡崎の虚を突かんとしたが早くも覚られ、家康は自ら水野、榊原、井伊等を率い、密かに小牧山(小牧市)を出で、池田の軍を途中長久手(長久手市)に散々破った。
 
 この戦いに秀吉がこの大軍を挙げて攻め立てたら、流石の家康も敗北しただろうがそこは秀吉、いたずらに兵を損ずるよりはと和睦を相談すると、家康もその大度量に敬服し、実際はこの戦に自分の力量を十分示したので、渡りに舟と芽出度く和睦が成立した。
 
 これより家康秀吉に益々重んぜられる様になった。
 

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            小牧山合戦の秀吉

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   小牧長久手の戦い  羽柴陣営対織田信雄・徳川陣営

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            長久手合戦 屏風図

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         小牧山出陣・・秀吉敗走の図
 ↑羽柴秀吉           ↑榊原康政

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         小牧山に康政は秀吉を追う
   ↑羽柴秀吉           ↑榊原康政
 

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             二雄槍戦の図
  ↑紺田貞数      ↑加藤清正       ↑羽柴秀吉公

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            小牧山戦争の図      ↑羽柴秀吉
↑徳川家康 ↑本多忠勝    ↑加藤清正  ↑木村又蔵



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            小牧山大合戦
  ↑高木原秩父太夫 ↑小田切員元  ↑福島正則  ↑羽柴秀吉公

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 小牧山対陣の時、本多忠勝上方勢の真ん中に投入、徳川勢の雄偉を示す



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            楽 田 城 址


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           小牧山全景と小牧城

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             小 牧 城


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            長久手古戦場

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安昌寺の僧が長久手の戦いの戦死者を埋葬供養した首塚


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         長久手古戦場・池田恒典の塚

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           長久手合戦 慰霊碑







国史画帖『大和桜』53.役を果たし姉川に火花を散らす 木村又蔵 ・・

木村又蔵は宇多天皇の後裔佐々木の一族で幼少より力量有り、武勇優れ孝子を以ってその聞こえが高かった。
たまたま加藤清正秀吉の命を帯び領内巡閲の折り、認められて主従の約束をしたが、故郷の老婆の病気が昂じて、命旦夕に迫ったので已む無く後日を誓って一旦帰国していた。
 
ところが元亀元年1570年)四月、織田信長は越前の朝倉義景を攻めるや近江の浅井長政、佐々木承禎(ささきよしさだ)義景を援けて相反した。
 
そこで信長徳川家康に援けを請い、近江の姉川(長浜市)浅倉、浅井の両軍と合戦することになった。
 
この戦いを聞いた木村又蔵は、主君加藤清正の軍に加わるべく単身重鎧に身を包み、鍬形打った兜を被って今しも織田軍の陣を突き崩す浅倉勢の後ろを襲い、当たるを幸いと縦横無尽に斬りまくり、豪勇を以って鳴る浅倉方の宿将島田権右衛門を初めとし、幾多の勇将を討ち取って初見参の功を立て、清正の驥下(きか=俊才)に入り、主従の役を果たした木村又蔵正勝は後年清正四天王の一人として有名を轟かせた。


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               姉川の決闘
     ↑島田権右衛門   ↑木村又蔵          ↑加藤清正


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        織田・徳川軍・・・浅井・浅倉軍



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姉川古戦場

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現在の姉川、奥には伊吹山系が、写真の右奥が信長の本陣付近である。



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       姉川古戦場 戦死者の碑

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           姉川合戦の陣没者碑



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            姉川大合戦の図
   ↑笹井久蔵     ↑紺田平八郎       ↑真原直澄

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         姉川大合戦 志村愛蔵勇戦の図



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     遠藤喜右衛門政忠(浅井家々臣)の姉川の戦い

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              浅井長政




 

国史画帖『大和桜』52.賤ケ嶽に 加藤虎之助、将監の組討ち・・


 賤ケ嶽(しずがだけ=滋賀県)に於いて「加藤虎之助一番槍」と名乗り、片鎌の大身の槍を引っ提げ、群がる敵の真っ只中に、当たるを敵と突きまくり、討たれる者数知れず、虎之助敵の首級を藤蔓に括り付け敵将を物色中、清水口にて敵の猛将山口将監(やまぐちしょうげん)を見つけ出し敵としては不足無し「将監イザ参れ」と槍を捻って繰り出せば、将監もさるもの互いに虚々実々の秘術を尽くしたが勝敗決せず、豪気な虎之助エィ面倒なりと槍を討ち捨て、将監に組付き互いに揉みあう中、虎之助の兜がつつじの大株に引っかかり、あわや将監逃げんとしたが、虎之助首が斬れるか、兜が取れるか運は試しと逃げる将監に組付けば、さしもの兜の緒が切れ、組付きながら谷間に上になり下になりつつ落ち、尚も必死の組討ちに虎之助の力勝りけん、遂に将監の首を掻き落とし功名を挙げた。

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       賤ケ嶽に於ける加藤虎之助清正と山口将監の決闘


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       賤ケ嶽に於ける加藤虎之助清正と山口将監の決闘


    
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      賤ケ嶽に於ける加藤虎之助清正と山口将監の決闘
  ↑福島石松  ↑羽伊宮小左ヱ門 ↑加藤清正
                  ↑山口将監


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      賤ケ嶽に於ける加藤虎之助清正と山口将監の決闘
  ↑加藤孫六    ↑浅井則政        ↑加藤虎之助
                        ↑山口将監

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            滋賀県 木之本町


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             加藤清正像


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           賤ケ嶽大合戦の図
 ↑荒星太郎平 ↑小城下野 ↑加藤清正↑加藤清兵衛
↑堀本義太夫           ↑長林隼人 ↑木村正又蔵
                 ↑井上大九郎↑飯田宅兵衛

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         賤ケ嶽大合戦 両雄血戦の図
          ↑毛受惣助家照      ↑志名左近朝行

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                        賤ケ嶽・・佐久間盛政  秀吉を襲う


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             賤ケ嶽の戦い
        ↑片桐助作  ↑小原新七 ↑平野権平   
  ↑糟屋助右衛門            ↑安彦弥五右衛門




国史画帖『大和桜』51.七本槍の豪勇 福島市松(正則)の奮戦・・

 賤ケ嶽(しずがだけ)の戦いは天正十一年1583年)羽柴秀吉が織田氏の宿将、柴田勝家の軍を討ち破った有名な合戦である。
 
 この戦いに秀吉配下の豪勇、加藤清正、福島正則、加藤嘉昭、平野長泰、脇坂安治、片桐且元、糟屋武則の七名は賤ヶ岳の七本槍として陣頭に立ち、各々目覚ましき奮闘を為し武勲を立てた。
 
 羽柴秀吉進んで賤ヶ岳の北に出で、金瓢の馬印を高く朝日に輝かした、これを遥かに眺めた柴田勢は「すはや筑前の守ぞ」と驚く。
 
 秀吉敵陣の旗幟の動きを見て急に弓銃手に命を下す。
 「あれを見よ、堀切の手前の敵は退くと見える、急ぎ追いつき撃ち取れ」
弓銃手は勇み立ち坂道を馳下り、敵の隊後を目がけて猛射を浴びせ、倒れる者数知れず、陣形忽ち乱れる。
 
秀吉は左右を見ながら「法度は許す、小姓どもそれ手柄を仕勝ちに致せよ」と自ら貝を吹き立てる。


福島市松(正則)馬に一鞭当て、敵の真っただ中に躍り入り、敵の豪将拝郷久盈はいごうひさみつ)を討ち取った。

この戦いで本能寺の変以来、秀吉を妬みし織田方の諸将はことごとく敗残し、秀吉は真に旭日昇天の勢いを以って四方を風靡するに至った。
 

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            賤ケ嶽(しずがだけ)の合戦で・・       
     ↑拝郷久盈           
↑福島市松(正則)

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秀吉は左右を見ながら「法度は許す、小姓どもそれ手柄を仕勝ちに致せよ」
と自ら貝を吹き立てる。


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           賤ケ嶽(しずがだけ)合戦図
           ↑片桐助作 ↑羽柴筑前守秀吉 ↑福島市松(正則)

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加藤清正、福島正則、加藤嘉昭、平野長泰、脇坂安治、片桐且元、糟屋武則の七名は賤ヶ岳の七本槍として陣頭に立ち・・・

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   秀吉は賤ヶ岳の戦いによって天下統一の主導権を握った。


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        賤ヶ岳の七本槍ほか武将図・・(当て字で記載)

↑島 忠太郎 ↑千極甚平  ↑羽柴久吉公(秀吉) 
↑津久島吉松(福島)                ↑笠喜利助作(片桐)↑秋阪新内(脇坂)      
               ↑越尾保助
     ↑佐藤正清(加藤)
↑蓮谷右衛門
糟屋)↑佐藤金之助(加藤)
          ↑佐名田昌幸(真田)  ↑日良野勘平(平野)


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         賤ヶ岳周辺・・・滋賀県木之本町

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             賤ヶ岳山頂の古戦場


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            賤ケ嶽の戦い
  拝郷五左衛門久
盈   ↑福島市松  ↑脇坂甚内↑水野助右衛門 



昭和20年5月4日●松山の丸善製油所が爆撃された日・・・


昭和19年までの松山市は、空襲警報発令によるサイレンが鳴るなどほとんど無く、時々真夜中に警戒警報のサイレンが鳴ったあと、米偵察機の気だるい爆音がして遠ざかってゆく程度のものでした。

ところが昭和20年になると、米軍機爆撃行は豊後水道を経て伊予灘に抜け、呉軍港、広島、宇部、小野田や水島、北九州工業地帯への通過点としてB29やB24、B25の爆撃飛行銀座になっていたのです。

昭和20年3月に艦載機グラマン10機ほどが松山市内に来襲し、堀の内の第22連隊辺りを機銃掃射していたのを、城山越しに見たことはありました。

【第54話・松山での空襲】参照・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9422738.html


 松山市の城北地区、私が清水国民学校(清水小学校)二年雪組になって間もなくの新学期・・・雲一つない清々しい昭和20年5月4日の朝のことでした。


いつものように琢町(みがきまち=緑町2丁目の一部)の子供等が、上級生に引率され集団登校して、授業が始まって間もない頃、城山の空襲警報サイレンが鳴り始めた。


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           戦災前の松山市・清水小学校 上=南西方向から見た正門 下=東南方向から見た全景


警戒警報ナシの、いきなり緊急速報状態の空襲警報なので一瞬で緊張が走った。
 教室に居るときに空襲警報が発令されると、直ちに椅子を机の上に置いて、机の下にもぐり、防空頭巾を被り、親指を耳に当て他の指で目を塞いで伏せるように・・・と教えられていたので、直ちに全員がその動作に入った。
 二階の教室でも隣の教室からも、同様に椅子を引く音や椅子を机上に載せる音が、ゴトゴト聞こえていたので、相当あわただしい動きに感じていた。


 机の下へ潜り込む前だったと思うが、突然
ゴゴー・・・ドドーン・・・という強烈な破裂音と地響きがした。

誰もが顔面蒼白の必死の形相になって、しどろもどろしているのが判る。
 窓ガラスがビリビリ震え続けて、地震のような、それはスゴイ震動だった。
 直感的に、超低空を飛行機が飛び・・・どこかが爆撃された!・・・と私は感じたのだ。

(実際は頭上を低空で飛んだのではなかった様だが、ゴゴーの音は、そのような感じの音だった)


 それから、1~2分間、物音一つしないシーンとした静寂が続いていました。
 防空頭巾を被り、両手で耳と目をふさいで、全員が机の下で、息を殺して指示を待っていた。

しばらくして廊下の方向から「防空壕へ退避!」の声が聞こえ、受持ちの草野先生からも「地区別の防空壕へ退避してください・・・」との指示が出て、我先きに運動場へ帰宅地域別に集合し、運動場の周囲に掘られている防空壕へ、直ちに避難した。
 
 この防空壕は、深さ約1メーター、幅約2メーター、長さ約5メーター程のものだったが相当深く感じた。
 跳び下りるとき、下駄を履いた足がガクガク震える。
(当時、ズック靴は配給制で中古ゴム底+料金が必要で、体育の時間中心に使用していた)

4月から1年生になった弟の俊光も、既にそこへ来ていて伏せていた。


 
皆が西の方角を見ながら、非常に気になる素振りをさせているので目をやると、校舎の屋根越しに、こげ茶色の煙が立ち昇っているのが見えた。 

真西の方向の遥か向うの、三津浜方面だろうか。
  あの<<ドド~ン>>の震源地だろう・・・

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   清水国民学校(松山市・清水小学校)の屋根越しに、煙が上がっている・・
 

 最初のドドーンという音がしてから5~6分程経過していたと思う。     
防空壕へ避難してからも、あたりは大変静かであったが、僕らは緊張感とこれから何が始まるのかとの不安感で、自然に手足がガクガク震えがきていた。


 各地区の班が、各々駆け足で帰路に付き始めた。
 運動場にある裏門(南門)より出て、畦道を抜け松山高等商業学校北側の帰り道を、砂埃を上げて走る上級生を追って
懸命に走って行く。


松山高商(松山大学)の正門(東門)を通過する頃、かすかに飛行機の爆音(エンジン音)らしい音が聞こえてきていたが道路の砂利の音にかき消されてしまっている。


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      松山高等商業学校の正門(東門)(松山大学の前身)


防空頭巾を被ったまま、ズックや藁草履か下駄を履いて、砂埃をあげて走る上級生のあとを追って、息も絶え絶えに一生懸命走った。
 子供たちが走る足音と防空頭巾にかき消されて、爆音が聞こえ難かったのだろう。


 前方を走っていた上級生の数人が立ち止まり、後方を向いて左側の城北練兵場へ避難するように、大声と腕をブンブン回しながら身振りで指示している。


 西の方角から爆音は徐々に大きくなって、その音で敵機が近づいているのが解かる。
 既に練兵場へ跳び下りている上級生もいた。
 ばたばたと皆が跳び下りて伏せている。


 道路の方が練兵場より約1メーター高い段差なのと、道路の真下は溝になっているので畦道のような段が付いている。
 僕も反動をつけて跳び下りた。 
 前のめりになるほどで、足がズボッとめり込んだ感じだ。
 直ちに数歩小走りして、皆の伏せている付近で、耳と目に指をあてがって伏せた。

城北練兵場に並べてある、整備兵訓練用の戦闘機のすぐ横の周辺である。


((●●s城北練兵場●
 通学路から松山・城北練兵場へ跳び下りて伏せた・・
 爆音は益々大きくなってきている。子供心にも「1機や、2機ではないぞ・・・」と思いながらブーンともゴォーンとも言える、重苦しく、腹の底に響く爆音を聞きながら、気になるので何度も空を見上げて探していた。


 鈍い銀色のB29が4機、西から東へ飛んでいるのが見える。 相当な高空である。
 それも朝日に輝きながら、ゆっくりと悠々と、4機が一糸乱れぬ編隊を組んで不気味に近づいている。


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     松山・城北練兵場で、B29が4機編隊で我々の真上に差しかかってきた・・・


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               ボーイングB-29 爆撃機
 
B29の編隊はいよいよ、我々の伏せている真上へ差しかかって来た。

「今、爆弾を落とされたらおしまいだ!」・・・と、身を硬くして、顔を引きつらせ、息を殺して歯を食いしばっていた。
 それでなくとも、城北練兵場の我々が伏せている周辺には、訓練用の旧式戦闘機が並べられており、飛行機格納庫が四棟も建っているのだ。


 上級生の誰かが叫んだ・・・「弾倉(爆弾投下口)が開いてないから大丈夫じゃ!」
 僕らは何のことか解からぬまま、また見上げる。
 B29は真上から、やや通り過ぎたが、爆音はまだ全方向から響いて来ている。

 「まだ動くなよー、後続機が来るぞー」と上級生が、伏せたまま大声で叫んでいる。


 ブーンとも、ゴーゴーともつかぬ轟音のため、後続機が来ているかどうかも判らない。

周辺にも他の編隊がいないか目を凝らしてあちこち見たが判別できなかった。
 爆音のしてくる方角があの4機なのか、後続機の音なのかすらも全く判別することが出来ない、全方向からの爆音なのだ。


 しばらく伏せて、様子見している間に、後続機もなくB29は通り過ぎて行った。
 爆音が徐々に低くなり、後続機は来ていないと判断された頃、全員が立ち上がり
「再度、来襲が有るかもしれないので・・・走って真っ直ぐ家へ帰れ!」との、班長の指示のもとに、弟らとそこから500m程の自宅へ息せき切って走り帰った。


 琢町(緑町)の自宅へ帰宅してから二階へ駆け上がり、裏の窓から爆撃で上がっていた気になるあの爆撃煙を、西方に見てみた。


 学校で見たあの茶色の煙が、なんとその時は、もくもくと真っ黒い煙となって、はるか北の方向へ南風に乗ってドンドン流れている


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6kmほどの三津浜付近から、丸善石油の黒い煙が北の方へもくもくと流れている・・・


 火災の勢いが相当強いらしく、火元付近では黒い煙がもくもくと勢いよく噴き上がっている。
 祖母浦子は
「三津浜の丸善精油所が、やられたらしいョ」と教えてくれた。
 その煙は「夜には炎に染まって真っ赤に見えていたが、一昼夜燃え続けとった・・」と、祖母は翌日になって教えてくれた。



『愛媛新聞』は5月5日付の小さい見出しで,「被害は僅少」と以下のように報じたが、最早「でっち上げ」としか言いようがない内容の記事であった。

『マリアナ基地のB29は4日朝またも松山市を盲爆した。すなわち午前8時15分ごろ松山市上空へ西南から進入したB29八機は、高度約4,000メートルの低空で軍事施設を盲爆し、そのヽち今治付近上空を経て遁走したが、10分もたヽぬ間に、こんどは別行動隊のB29九機が南西方面から同市に来襲、軍事施設を狙って投弾-----被害は僅少で付近の一部民家や田畑が猛爆されたが、軍官民一丸の防空活動はめざましく、3度目の盲爆ながら県都市民の敵愾心は、いやが上にも昂まり『この仇、きつと打つぞ』と微塵の動揺も見せなかつた』



一方(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山の歴史』281頁)の記述・・・

5月4日午前8時10分には、第1波8機のB-29が、同日午前8時25分には第2波9機のB-29が松山海軍航空隊基地を空襲し、それは基地周辺の民間人7人を含む76人にのぼる多数の死者と、3人の行方不明、169人の重軽傷者がでる惨事となった」
松山市における大悲劇の幕開けである。



あの日、祖母浦子が教えてくれた「丸善製油所がヤラレタらしいよ・・・」の言葉は、あの日松山市民がその目で見て、口伝えで一夜で広まったものだろうとは思いますが、誰が見ても「製油所の火災じゃ・・・」は一目瞭然の光景だったのです。


 子供の私らが見ても「油が燃えた真っ黒い煙」であるのは、明確でしたから「丸善石油じゃろう」と薄々感じ取っていて子供等の話題にはなっていました。


この日を境に「空襲等による危険を避けるため、1~2年生は通知あるまで通学は見合わせ・・家庭待機」と云う通達が為された。
 5月の下旬であったか、疎開先の内子町へ「清水小学校の1~2年生は、琢町々内の天理協会で補修授業が再開された」との情報が届いておりました。





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